女神の魔術士 Morceau 1 #1 |
←BACK |
断章1 前触れ無き訪問者 自分の口からそう告げてもどういう訳か余り信用してくれる人間はいないのだが、カイルターク・ラフインは体内にアルコールを効率よく分解する機構を備えていないようで、葡萄酒をグラスに二杯も飲めば顔が火照り眼窩の奥に住み着いた蛇が渦を巻くような感覚を覚える体質の持ち主である。ファビュラス教会魔術学部の学生であった時分には、所属研究室などで毎週のように酒宴が繰り広げられていたものだが、カイルタークは在学中の三年間で二度しかそれに参加したことがなかった。一度目は入学してすぐの新入生歓迎会という建前の集まりだった。当時まだ十三歳というほんの子供でしかなかった年齢で学部入学を果たした親友の弟が、初日の講義が終了するや否や珍しい玩具とばかりに上級生に引きずられていこうとしていた様を、今考えれば何故そのように思ったのかが全くもって不可思議であり不本意ですらあるが看過出来ず、結局共に引きずられる羽目になったのが運の尽きであった。ファビュラスの教義では特に聖職に就く者の飲酒が禁じられている訳ではないが、それまでに全く酒精というものを体内に摂取した経験がなかったカイルタークは、その時生まれて初めて自分の体質を理解する事となったのであった。 その時の件についての詳細は今思い出しても腹立たしいの一言に尽きるので思い出さないことにするが、ともあれそれ以降カイルタークは、親友の弟を見捨てることになろうとも――もっとも彼は酒席でのからかいには辟易していた様子ではあったが、アルコールそのものには十分な耐性があったようで、身体的に苦しむことはなかったらしく、それもまたカイルタークにとっては腹立たしく思う一因ではあったのだが――酒宴への誘いは一言の元に断り続けてきた。学生であったその頃より学業とは別に神官として聖務に就いていたこともあり、それを理由にすればどのような誘いであっても大概は簡単に断る事が出来たのは、彼にとって煩わしい物以外の何でもなかったこの地位が彼にもたらしてくれた唯一の功科であったかもしれない。 ともあれ…… そんな彼がこのような場所、即ち、ファビュラス教会の下層部を占める下町の、獣油のほの暗い灯火と紫煙にくすむうら寂れたカウンターバーなどに一人で足を向けるということなど、恐らくは物心付くか付かないかというような年代からの付き合いの旧友でさえも想像だにしなかったであろう事態だった。が、今現在その彼がここにいる現実は全くの真実に相違なかった。特に誰に誘われたという訳でもない。単にここ一週間ほど持て余している時間を消費すべき場をどこかに求めたかっただけであった。彼をこの状態に陥れた相手は彼が神殿内の自室に行く事も許す気はないのか、自宅の周囲には十人以上もの魔術士が配置され、家人の出入りを監視して外出しようとすると何らかの理由をつけて遮ってくるのだった。無論、住人の外出を妨害する権限など彼らにはありはしないのだが、まさか教徒の模範たるべき大神官が往来で魔術士を殴り倒してしまうわけにもいくまい。 もっとも、相手を傷付けることなく突破する事など、するつもりさえあれば容易に出来ることではあるのだった――今こうして彼がここにいるのがその証拠である。真っ正面から押し問答などする必要など最初からないのである。誰一人に気付かれることもなく、数十人の目をかいくぐり、欠片も痕跡を残さず包囲を抜ける術を彼は心得ていた。配備されていた魔術士たちも多少の戦闘術は身につけていたようだが、専門の訓練を長期間に渡り受けた者でない事は物腰を見れば分かる。欺けぬ訳がない。 カウンターに肘を突いて組んだ指の下で、最大限の皮肉を込めて、苦笑を殺した嘆息を吐く。この状況を生み出した相手に対して。 (何を考えている? 私を、それが可能であるように育てたのは、他ならぬ貴方達ではないか……) 隔離しておきたかったのか。それはポーズで、本音は放置で構わないと判断したのか。俯く視界の丁度真ん中に置かれた、琥珀色の透明な液体が注がれたグラスに何気なく手を置きながら考えて――胸中でかぶりを振る。『彼ら』はカイルタークの能力も、性格も熟知している。神殿よりも静謐にしてひたすらに変化のない平穏が支配する、数百年前から純粋にして敬謙な神の徒しか住むことのなかったあの家に、彼がそう長々と腰を落ち着けていられるとは考えていないだろう。 少しでも氷を溶かそうと、カイルタークはグラスを持ち上げ、底で円を描くように動かした。……香りは悪くないのだが、やはり口には合わない。 ――それほどにカイルタークを理解しているなら、『彼ら』にとってカイルタークを放置する事は別段害になる事ではないことも分かっているはずだった。実際の所、家から出てどうしようという目的はなかった。公然と煩雑な職務を放棄出来るのは願ったりであるし、神殿に出向かなければならない用事もない。唯一、神殿内の自室に書きかけの論文と資料を放置してきてしまい――前の晩までこのような事態になる気配を察する事は不覚にも出来なかったのだ――、それを仕上げたい気持ちは大いにあるのだが、そもそも気が向いた時に少しずつ進めていた研究である。いくら暇とは言え特に急く必要性は感じてはいなかった。無論、この状況を作り出した張本人たちに殴り込みをかけることも、考慮のうちには入れていない。今の所は。 と―― いつの間にか、左肩の後ろに人の気配が生じていたことに気づき、カイルタークはグラスを動かす手を止めた。慣性に従って周回運動を続けていた氷が、からん、と音を立てて緩やかに静止する。 「こちら、ご一緒してもよろしいでしょうか?」 投げかけられてきたのは若い男の声だった。寂れた店内の雰囲気を壊さない程度には控えめな音量、音質の声ではあったが、その中に率直な歓喜にも似た明るさが感じられ、直感的に少年じみた印象を受けた。 答えもせず、また、振り返ることもせずに無視していたが、一分ほど待っても一向にその気配は立ち去る様子を見せないので、うんざりとして低く呟いた。 「見知らぬ男と酒を飲む趣味はない」 「あは。ずっとここで放置プレイを食らわされるのかと思いました」 男の物言いにか舐めたアルコールにか、軽い頭痛を覚えてカイルタークは眉間を親指で軽く刺激した。しかし男はそんなカイルタークの様子に特に気にすることもなく隣の席に許可なく腰を下ろし、カイルタークの知らない銘柄の酒を慣れた調子で注文して彼に微笑みを向けてきた。無論、笑顔を返すどころかそちらを向くことさえカイルタークはしなかったが。 ただ、男の頼んだ酒は、目の前をバーテンダーが通過する時に見る事は出来た。無色透明なショットグラスになみなみ注がれた無色透明な液体。男は、カイルタークから一旦視線を外して受け取るや否や、一息にそれを呷った。はぁ、と満足げな息をつく。 「仕事帰りなどに大衆酒場でエールを飲むのもいいですが、僕はこっちの方が好きですね。ちょっと強めのお酒をきゅっとやるのが。喉を通る瞬間は焼けるように熱くて、腹に落ちてもその存在感を主張して。僕の穢れきった血を全て燃やし尽くして清めてくれるような、そんな気がします」 笑みの気配で男はそんな事をうそぶく。言葉はまだ続いていた。 「あなたが慣れない酒場などにおいでになられたのはどんな理由ですか? 聖カイルターク」 何を面白がっているのか、不必要に明るい声の男に、視線だけ向けようとして――止める。カイルタークは顔ごと男の方に動かして、相手を視界内に入れた。黒髪黒目で色白の、ひょろりとした優男風の男だった。年齢は二十代のどこかだろうが、カイルタークの視線を受けてにっこりと笑う顔は声の印象通り快活な少年の無垢な笑顔にも見えたし、また、老練した者が若輩者を見下す嘲笑のようにも見えなくはなかった。服装は、白い前ボタンのシャツにダークグレーの細身のボトムスというフォーマルな装いから上着だけを取り払ったような格好で、この店のうらぶれた感のある雰囲気とはあまり調和していなかった。 「何者だ」 男の顔には見覚えはなかったが、男の所属について見当が立たなかった訳ではない。大神官は退位すると聖人として叙せられ、その名には聖という敬称が冠せられる――つまりは彼が置かれている現状を正確に把握し、尚且つその現状を作り出しカイルタークを陥れた相手方に賛同する者である。絡め手を用いる必要も感じずに簡潔に問いかけると、男は心底嬉しそうに答えてきた。 「我らが母、偉大なる全能神ミナーヴァの従順なる下僕、神官シークェル・サイレンスと申します。魔術学部にも所属しておりました。そちらでは、聖カイルターク、あなたの一年後輩に当たります。研究室では、ライアン・ウッド教授にお世話になりまして術式解析の研究をしておりました」 「その呼び名は止めてもらおうか。大神官位は正式にはまだ返上していない」 「それは失礼を。ラフイン様」 シークェルと名乗った男は、まず間違いなくそれについての指摘が入ることを予想していたとしか思えないほどあっさりと、呼称の変更に応じた。 「我ら全神官が崇敬する大神官で在らせられるラフイン様が病気のご療養中であると聞き、居ても立ってもいられずにお見舞いのご挨拶を述べようと参じた次第で御座いますが、思ったよりもお元気そうで何よりで御座いました」 が、それでも尚白々しい御託は続ける気であるようだった。病気の見舞いで酒場に来る馬鹿がどこの世界にいるというのか。嘆息を禁じ得ないがそれすらも馬鹿らしく感じられてカイルタークは最低限の言葉を発するに止めた。 「……何の用だ」 「あ、怒っちゃいました? 怒っちゃいました? いやだな、怒らないで下さいよ。ごめんなさい、冗談でした。僕が悪かったです」 「…………」 馴れ馴れしいというか、子供じみているというか――今迄扱った事のない人種の取り扱い方法を決め兼ねて、ただ目の前にある瞳を見定めるように見続ける。物怖じすることなくこちらを凝視してくる漆黒の虹彩は陰りも曇りもなく、郊外から見た星のない夜空のように酷く深く澄んでいる。 そのシークェルという男の瞳を支える頬と瞼が、ふわりと歪んだ。笑みの形だった。否……この男はずっと笑みの表情を浮かべていたはずで、今の表情もそれまでと大差ないはずであるのだが、カイルタークに改めて向けられた瞳は明確に直前までとはその様相を違えていた。 楽しそうな笑顔。もし肉食の野生生物が表情を作る筋肉を持ち合わせているのだとしたら、狩りの直前にはこのような顔を浮かべるのではないか――などと想像をする。 「お見舞いというのは嘘ですけれど、ご挨拶に来たのは本当ですよ、カイルターク・ラフイン様。僕本当に、こうやってあなたにご挨拶する機会を得られたことを嬉しく思っているんです。あなたのご活躍談をお聞きする度に、あなたへの憧れは募るばかりでしたから、いつかこうやってお話出来ればと、常々思っていたんです。例えば――」 人差し指を顎先に当てて天井を見上げ、 「――先の大戦時、アウザール帝国の本城に潜入され、かの暗黒魔導士と一騎打ちを果たされた話とか」 告げてくる。 悪意の欠片も、何かしらの決意も介在させる余地のない偽りなき黒の瞳が、硝子玉のようにカイルタークを写す。 「ご存知でしたか、ラフイン様。大神官たるべき者に伝えられる技能は、門外不出にして一子相伝とされるもの。けれども、大神官のお仕事は、常に危険が付きまとうもの。なので、折衷案として大神官は、『後継者』を一人創り上げるのと同時に、『予備』もひとつだけ、創っておくんです。あなたの師、聖ノーザンも例外ではありませんでした」 相手の瞳に映る自分の姿がそれほどまでに鮮明に見えたという訳ではないが、カイルタークはその目に己の今の表情を見る心持ちでその深く暗い穴のような瞳を凝視した。 「僕はあなたの影……ちょっと自虐的に聞こえるかもしれませんが、それが正確です。あなたと同じく聖ノーザンの技術を全て受け継いだ、あなたの唯一無二の弟弟子。……はじめまして、先輩。お会い出来て嬉しかった」 男がカイルタークに向け続けたのは、最後まで笑顔だけだった。 親愛なる弟にして誰よりも敬愛する主君がこのヴァレンディアの王宮を離れて一ヶ月。本来ならば彼の人が負うべき職務は全て、彼――リュート・サードニクスがこなさなければならない状況が続いていた。本来の自分の仕事に加え、本来なら国王が目を通すべき書類から、王直筆の署名がなければ通らない決裁も一手に引き受けなければならないというのは思った以上に過酷であったが、もっともそれは自身も納得ずくの結果というか、自業自得というか、つまり甘やかした結果というようなもので、弟に対し文句をつけるべき内容ではないことは彼自身承知してはいる。――顔を合わせれば勿論文句の一つは言ってやる所だが。 そのお陰で眠る暇すらない激務に追われる毎日を過ごしているリュートではあったのだが、しかしながら彼は睡眠時間を削ってでも趣味に勤しむタイプの人間であったので、たとえ決裁業務が明け方近くにまで及ぼうとも眠気覚ましに熱い黒胡椒茶を啜りながらの読書の日課は欠かすことがなかった。というより、欠かすわけにはいかなかった。これまで何年にも渡り、ファビュラスで日々発表されている論文に目を通す機会が無かったので、大幅に遅れた知識を最新のものに追いつかせる為には並大抵の労力では到底足りはしないのである。向こう半年程度は読むべき書物に困ることがないというのが嬉しくもあり、また辛くもある。 従ってこの日も、彼は読書時や書き物をする時のみ使用する眼鏡をかけて黙々と机上の分厚い冊子と向き合っていた。今リュートの手元にあるのは去年発表された「速生成魔法術式の一次離散における高精度再構成に関する研究」という魔術士であれば誰でも興味をそそられるであろう表題の論文で、しばらく前に既に目を通した物であったのだが今日になってその一部に疑問が湧いたので再度読み返している所だった。前回読んだ折に大変興味深く、かつ彼の弟にとっても恐らく為になる分野の研究だと判断出来たので是非一読するようにと薦めてみたのだが、彼は表紙を一瞥するなり一ページたりともめくりもせずに臭い匂いでも嗅いだような顔をして突き返して来たのだった。 「異世界の言葉は俺読めないんで」 というような事を言われた記憶がある。「現代語ですけど」「やかましい。表題の一文で眠気を催させるような言葉は人語とは認めない」そんなやり取りも追加された。……秀逸な研究成果は崇高な芸術にも匹敵すると思うのだが俗物にはその大いなる価値が理解出来ないらしい。一国の王に向かって俗物とはいかがな物かという感じではあるがこれが理解出来ない弟など俗物で十分である。 ぱらり…… ページをめくる軽くも心地よい音に意識を戻す。 七年にも及ぶブランクは簡単に埋められる物ではなく前述の通り苦労しているのだが、その代わりにこの数ヶ月は毎日が学問を学び始めた当初の頃のような何にも代え難い新発見の悦びを味わう事が出来ている。無論、彼自身もファビュラスの最新の学問に触れることが出来なかった期間にも独自に研究を進めており、他の教会魔術士のそれに匹敵する程度の成果は上げている自負はあるのだが、少しでも自身の研究内容と方向性が違えばほぼ全てが新たに吸収すべき対象の知識であったし、逆に同方向の研究においても多角的な視野で理論を再考察するには丁度良い裏付けとなる。是非とも学会そのものに出席してその場で聴講したかったものである。 (私も、もう少々手が空いたらまた論文を纏めて発表したかったのですけどねえ……) 久々に、あの程よい緊張感を楽しみたいものだが、さすがに現在起きているごたごたが片付かない以上はそれは叶うまい――と考えた所で、リュートはティーカップの縁に口をつけたまま皮肉げに唇を持ち上げた。もしかしたら、それは面白い試みであるかもしれない。いくら魔術士の統轄部と教会の執行部が実質的には別組織であると言えども、エルフィーナ姫と並び目下の大敵である人間が総本山のど真ん中の演壇で悠長に弁舌などを振るうとしたら彼らはどのような顔をするだろう。あの偉ぶった老人たちの度肝を抜かれた顔が見られるのであれば身に降りかかる危険も対価としてはまあまあ悪くはない気もしなくも無い―― (なーんて、無茶をする程子供では無いですけどね) 頭の中に思い描いた魅惑的な計画は、想像のみに止めることにする。子供じみた無茶に走りたい気持ちは満々だが、今現在弟の子供じみた無茶を兄として渋々と許容している立場としてはそうする訳にも行かない物である。 と―― 二分に一度ほどの割合で聞こえる乾いた紙の擦過音以外には全くの無音であった彼の私室に、突如、けたたましいベルの音が鳴り響いた。部屋の主は突然の大音声に驚きはしなかったものの静寂を打ち破った無粋な騒音に顔をしかめ、仕方なさそうに立ち上がった。机から数歩の距離だけ離れたテーブルの上に乗せてある、大小の箱が組み合わさったような形の黒い機械に手を伸ばす。ベルの音は、この遠隔通話装置が発する受信の呼び出し音だった。 「はいはーい。なんですかーっと」 独り言を呟きながら受信の機能をオンにして、手のひら大の通話装置をひょいと持ち上げる。 「はい、サードニクスです」 『守衛室です。あの、サードニクス魔術士長、面会を希望される方がお見えなのですが……』 「は? このような時間にですか?」 『ええ……』 問い返すと、通話装置のノイズ混じりの音声でも戸惑ったような様子がありありと分かる声が返ってくる。リュートは正確な時間を確認しようとして書架の隙間に埋もれるようにして置いてある機械仕掛けの時計を振り返った。――二十三時五十一分。何だ、まだ日付は変わっていないのかと少し拍子抜けする。そういえば今日は比較的早く仕事を終えることが出来たので、リュート基準では宵の口も同然な二十三時台から趣味の時間に回すことが出来ていたのだ。――が、どの道その時間が早いと感じるのはやはり彼の感覚であって、誰であるかは知らないが予告無しに他人の元を訪れるにはあまり常識的ではない時間だろう。 明日出直してもらうようには出来ませんか、と返しかけて、リュートは来訪者の名前だけでも尋ねておこうと考え直した。まさか現時点でこちらに来れる状況にあるとは思えないが、こういう常識外れな行動を起こしそうな大神官を一人知っている。 「で、どなたですか? カイルターク・ラフイン猊下?」 『いえ、』 と前置きをして守衛の口から返ってきた名前は、その大神官のものではなかったのだが―― それを聞いたリュートの唇からは表情が消え、通話装置を見下ろす瞳がすうっと細められる。 『……サードニクス魔術士長?』 緊張の気配が伝わってしまったのだろうか、おずおずとした声が装置から響いてくる。リュートは一旦軽く瞼を閉じて、ひとつ息を吐いてから、瞳をもう一度開いて伝えた。 「……分かりました。一階の応接室にお通しして下さい。すぐに行きます」 接続を切り、通話装置を置いてから、リュートは部屋に戻ってきた時に着替えた楽な部屋着から、勤務中に着用している宮廷魔術士の制服へと再度着替え直した。ヴァレンディアの宮廷魔術士の制服はファビュラスの教会魔術士の制服のように黒いローブではなく、厚みのある生地を使用した黒の膝丈のコートに同じく黒色のマントを羽織るという、色は違えどデザイン的には宮廷騎士団の制服と全く同じものだった。従って、通常魔術士が剣を持ち歩くことなどはないが、腰に長剣を差したとしても特別違和感のあるいでたちにはならない。 着替えを済ませてからリュートは壁にかけてある使い込んだ細身の長剣に視線を向け――瞬時黙考した後に、その剣を剣帯に止めて部屋を出た。 時刻はもう夜の零時を過ぎていると言うのに、満月に近い明るい月に照らされた街路からは人の気配が引くことはなかった。規模を言えば、かつては大陸一の大都市と呼ばれ、現在は永きに渡る帝国支配からようやく離れて復興期特有の活気に満ちている王都ヴァレンディには流石に及ばないが、夜にも眠りにつく気がないらしいことはこの地方都市も変わらないようだった。精神的な、肉体的な抑圧から解放された気楽さに、街全体が未だに酔いしれている。 中年の三人連れが酒に酔って肩を組みながら、大通りから一本入った露地を千鳥足で歩いている様子を眼下に見下ろして、女はくすりと笑みを浮かべた。男たちは何やら上機嫌そうに音程の外れた歌をがなりたてている。決して美声とは言えない声が雲の陰が映る夜空を駆け抜けてきた風に絡み合い、上空まで舞い上がって彼女の髪をたなびかせるのは別段不快な感触ではなかった。目を細めながら女は想像の羽を伸ばす。今は気分よく歩いている彼らだが、果たして帰宅した後もこのままの上機嫌を続行させる事が出来るのであろうか。家に帰った途端、玄関に腕を組んで仁王立ちをしている妻が待っていたりするのではないだろうか。――アンタ何やってんのこんな時間まで、今何時だと思ってるのさ、あぁあぁこんなに酔っ払っちゃって、この宿六が―― 微笑ましくも哀れましい彼らの近い将来に胸の中で聖印を切りながら、女は身体の両横に手をついて仰け反るようにして背筋を伸ばした。座面が少々不安定である為手をつかなければ危険と判断したのだった。仰向いた視界は一面の星空で、小さな光点にしか見えない星々が冬の空気にさやさやと瞬いている。周囲と比べても比較的高い部類に入る建物の屋根からであればあの星も地上よりは少しは手元に近くなるかと思ったのに、いざその場所に上がって見てみても地上からの眺望と別段変化はないようで少し残念だったが、天上の代わりに地表に面白いものを見る事がで来て時間を潰せただけまあいいかとも思う。 と―― 星空で埋め尽くされていた視界の中に、ぬっと大きく影が差して、女はくしゃっと顔をしかめた。 「唐突にそのむさい顔をお見せでないよ」 「むさい顔で申し訳ありませんねえ」 女の辛辣な一声に、彼女の顔を覗き込んだ男の方もごつごつした作りの顔を同じようにしかめて謝罪のような反論をする。 「にしても、なんだってこんな場所に呼び出してくだすったんですか……屋根の上なんて」 しゃがみこんで女と同じ高さに視線を合わせながら発せられた男の呆れ声に応えたのは、ふん、という鼻息だった。 「人様の目につきたくないんだからしょうがないだろ」 「……にしても他に場所なんていくらでも……」 「密談っつったら屋根の上なんだよ。覚えときな木偶の坊」 「はぁ……」 完全に諦めた調子で男が嘆息する。しかしながら、嘆息をつきたい気分は女の方も同じであったので、相手の反応にやや不快感を持った強い声で言い放った。 「全くあんたの用意した兵隊ときたら何だい。相手が相当な手練だということはあんた自身が報告してきたことじゃないか。なのに何だってよりにもよってあんな屑をぶつけようとするかね。しかもこの私特製の薬を使ってあんなもんだなんて。私ゃ恥ずかしかったよ」 「そ、そんなこと言われても……たかだか半日の準備時間でですよ、ホームタウンでもない街でですよ、それなりの兵隊を用意しろという方が無理で」 「お黙り」 「って」 ごっ、という軽い音と同時に男は篭った悲鳴を上げる。振り向きもせずに殴られた頭頂を両手で押さえる男を、殴った方の女は一睨みしてぴしゃりと告げた。 「一人前に口答えするんでないよ、ひよっ子が」 「ひでえや姐さん……。この際だから言い訳ついでに言わせて頂きやすけどね、俺は注意すべきは教会魔術士の方だけだって思ってたんですよ。……女の方もそれなりに出来るらしいことは知ってはいましたけれど、まさかあそこまでだなんて思ってもいませんでして」 「単にあんたの調査不足じゃないかい」 「だから言い訳だって自己申告したじゃないですか。……それにあの三人目、一体何なんですか。あんな仲間がいるなんて話はちいっとも聞いてなかったんですけど」 「私が知るかい。その辺もひっくるめて調べるのがあんたの役目だろ? 全く、この分じゃ相当見落としがありそうだね。先が思いやられるよ。あの方に顔向け出来やしないじゃないか」 ――途端―― 子供じみた抗弁を行っていた男が、頬のこめかみに近い辺りの筋肉をぴくりと動かしたことに横目で気付いて、女は口の外には出さずに苦笑した。男が低い声で警告の言葉を放ってくる。 「サリエ姐さん」 「分かってるよ。全くあんたは図体ばかしでかいくせに肝っ魂の小さい男だね」 「…………」 途端に寡黙になってしまった男を見やって、女は今度こそ苦笑を口中に押し止めておくことが出来ずに唇を片側だけ持ち上げた。自分とて、畏れはする――そして恐れもする――。だが、それをこの男のように態度に出すことは彼女の矜持が阻んだ。毅然としていなければならない。例え、あの方の前であっても。この男程の小心ではない自負を、それによる信頼を足がかりにして、自分はこの男を部下としているのだから。 吸い込んだ冷たい夜気を一息に吐き出して、女は不安定な屋根の上にひょいと立ち上がった。意味もなく、相手もなく、胸を張って宣言する。 「教会魔術士ウィル・サードニクス。あんたはこの私が女のプライドにかけて、絶対に手に入れてやるよ」 艶めいた女の声が皓月の下にそう宣言する。月の光に似た金色の豪奢なカーリーヘアが、眠らぬ街を抜ける風に緩やかにたなびいて今飛び立たんとする鳥の羽根のように大きく広がった。 |
←BACK |