女神の魔術士 Chapter4 #5

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「……えーと、それ、新ネタ?」
「売り出し中の芸人ですか私は」
 大分考えて、ようやくにしてひとつ考えられうる結論を導き出したウィルに通信機の奥から返されたのは呆れ果てた声音だった。
「そもそもそのように面白味もなんともない話題で笑いを取ろうなどと誰が思うのです。全くもって嫌ですねジョークというものにどれだけ高度な機知や機転を必要とするかもまるで分かっていない国王陛下はだからいつまで経ってもチェリーなわけですよ」
「ちょっ……そ、そこまで関係ないこと言うか普通、ていうか何でっ」
「そこでうろたえるからいけないんです。こういうときはこうですね、ああ、手振りを示しても見えませんね。手首のスナップを利かせて『何でやねん』と西フレドリック訛りで思い切りよく」
「なんだそりゃ!?」
「うーん、ちょっと弱いですがまあそれでもいいでしょう」
「だー! 黙れリュート少し!」
 片手でがばっと頭を抱えて天井を仰ぎ全力で叫び声を上げるとリュートは主君の願いを珍しくも聞き入れて、唾液の代わりに油が分泌しているのかと思うほどに滑らかに動く口に蓋をした。五秒か六秒、沈黙が落ちる。厳密には、機械が生み出す微かな雑音とウィルの半端に荒い呼吸音が混じっていて完全な無音ではなかったが。
 ウィルの状態が落ち着くのを待って、リュートの方から静かに声を発してきた。
「大変失礼致しました。敬愛する国王陛下との会話を長く楽しみたい余りに」
「寝言は用件が全部終わって寝床に入ってから一人寂しく天井に向かって言え」
「つれないことを」
 再度、今度は三秒ほどの沈黙。普段ならまたここから五十単語くらいは嬉々とした罵倒を聞かされる羽目になっていたのであろうが、今のリュートは先のウィルの命令を破るつもりはとりあえずはないらしかった。
 三秒の空白の後に、ウィルは小さく吐息した。ウィルも知ってはいるのだ――つまり、この兄が重大な問題が生じた際などには、気を紛らわせる為か、普段以上に饒舌になる癖があるという事くらいは。
「それで」
 緩やかに冷えてきた頭が徐々に唇を乾かして、ウィルの声のトーンを普段の高さに落ち着かせる。
「その件についてだが、もう少し詳しく、普通ーに、説明してもらえるか?」
「普通にを強調するのは何故ですか、普通にを」
「何故も何もそのまんま……」
「今回の件に関し、事の起こりは、などと特記するような前兆は特に見られませんでした」
 自分で問いかけておきながらウィルの答えを思い切り無視する形でリュートは詳細の説明を始めた。
「……お前はー」
 というウィルの呻き声も当然無視である。
「もっとも、それは相手がこちらの上を行く綿密さで事を進めていたからなのですけれどね。……罷免、と申し上げましたが、表向きにはそういう形にはなっておらず、病気療養の為の辞任として届けられております」
「病気療養?」
 胡散臭げに呟くウィルに、リュートは神妙な声で「ええ」と同意する。そのままの声で、彼はつらつらと持論を述べた。
「それこそ何のネタかという程に有り得ませんね。あの三、四回殺しても死にそうにないカイルが病気療養などとは何とも笑えます。病原体の方が嫌がって裸足で逃げ出すというものです」
 ――いやお前が言うかそれ。
 思わず遠き故郷、王都ヴァレンディアにいる兄を肉眼で眺めるような遠い目で通信機を見やり……まあよく考えれば結構この兄も、その親友であるかの大神官もどっちもどっちというかつまるところ類は友を呼ぶといったようなものなんだろうなという結論に至ってウィルは話を先に促した。
「ってことは今あいつは」
「……今何か無言の葛藤がありませんでした?」
「忘れろ。で、あいつは今どうしてるって?」
「登殿を認められずに、自宅に殆ど軟禁に近い形で押し込められているようですね。分かっているのは病気療養という教会の内々の説明くらいでして、今の所詳しい情報はまだあまり掴めていない状況です」
 その報告に、ウィルはしばし考えてから躊躇いがちに尋ねる。
「念の為に聞くけれど、本当に病気ってことはないよな?」
 確かに病気の方に嫌がられそうな人間ではあるのだが、心配な要素はある。
「……あいつ、変な病気貰ってそうだし」
「あー……」
 その言葉には少し説得力があったようで、リュートが思案げに呻いた。
「まあまだ若いですから何とか生命は大丈夫だと思いますけど多分。今度機会があれば、気をつけなくてはならないのは何も避妊だけではないことをちゃんと説明しておきます」
 遠回しなようであまり遠回しでもない言い方にウィルは思わずうわーと微妙に口元を歪めたが、リュートはそんな弟の様子を意に介することなく続けた。
「……一応ですね、その発表が偽りであると私が断定したのも根拠がありまして。発表は辞任ということなんですが、その提出書類にカイル自身のサインはないんです。空欄で受理されてるんですよ。……どうにかしてここまでは調べ上げたんですよ。帰ってきたら褒めてあげて下さいね、うちの優秀な調査員を」
 その発言が含むリュートの誘導に気がついて、ウィルは力が抜けていた口元を引き締めて眉間に皺を寄せた。
「空欄で受理された? 偽造もせずに?」
「ええ。だから罷免と言ったでしょう」
「その提出者の言葉が大神官の意思に準じるものと見なされたというわけか?」
 確かに書類の題目が何であれ、それでは辞任とは言い得ない。書類を偽造して、大神官自らの辞意の表明があったように見せかけるならまだしも、それすらもなく、尚且つそれが有効と認められるとは。差し出したヒントにきちんと気づいた弟に、リュートはどうやら満足したらしかった。
「教会最高責任者の代弁者となり得るなんて……どこがそんな無茶な権限を持っている。評議会? 執行委員会か?」
「いえ。長老会です」
「……長老会?」
 怪訝に思ってウィルはその言葉を繰り返した。長老会というのは任期を終えた元大神官に与えられる名誉職のようなもので、その名前の通り一線を退いた老人たちの集まり……だと、彼は思っていた。直接的に教会の運営に関わってくることはない部署である。
「直接運営に関わってくることはないですけれど」
 ウィルの考えていたことを正確に察し、リュートが補足する。
「影響力がないわけではありません。何と言っても元最高責任者たちですからね、ないがしろには出来ませんよ。自分もいずれその仲間入りをするとなれば大神官は尚更です。大神官個人に対してならばどこよりも一番指図できますし、場合によっては今回のように、大神官本人に取って代わることすら出来ます」
「……ふん、成る程。裏の権力者って奴だな」
「そのようにも言えますね」
 ウィルは敢えておちょくるようにそんないかにもな表現を用いたが、対するリュートの声のトーンはさほど浮上しなかった。その事にウィルは少々怪訝に思う。
「それにしても、情報が掴めてないと言った割には随分と真相まで辿りついてるじゃないか」
 労いの言葉代わりに言ったつもりのそれに、返ってきたのは少々心地の悪そうな沈黙だった。
「……いえ。長老会、というのだけは……実は推測です。先述の教会内での力関係や入手した情報、そして予測される思惑から、恐らくは断定できるとは思いますが」
「ふうん? でもまあ、お前の推測は信頼してるよ」
「ええ。前提にして頂いて結構です」
 静謐な声音の中にも揺ぎ無い自信の感じられる、ヴァレンディアが誇る比類なき知恵者の言葉にウィルは頷きを返す。彼の言う通りその推論を前提としてウィルは顎を撫でながらしばしの間黙考し、やがて唇を開いた。
「……予測される思惑、と言ったな。それは?」
「カイルをこんなタイミングで切った理由です」
 深い青――海色の、切れ長な兄の瞳の鋭く光る様子が、ウィルの脳裏に思い描かれた。
「大戦が終結して、ようやく大陸中にある程度の秩序が戻ってきました。各国の国主であらせられる方々が各地の建て直しに力を尽くされ、」
 と、非常に区切れの悪いところで一拍置き、
「このミナーヴァ大陸にも徐々に安定した平和が取り戻されつつあります」
「…………悪かったよー……」
 溜息をつくような声で続きを言ってくるリュートに、聖王国ヴァレンディアの国王は目の前の通信機からいたたまれずに目を背けた。このあまりにも有能な臣下がいるのをいいことに、国王としての義務を完全に放棄し恋人との諸国漫遊を(実質的には)楽しんでいる彼である。
 リュートとしてはその反応で一先ずの溜飲が下がったのであろう。それ以上針先のような嫌味を連ねることもウィルのか細い謝罪に対し何か言うこともなく淡々と本題を続けた。
「ですが、いまだ世情は元に戻りつつあるだけという事。元の状態には遥かに遠いものです。野畑は荒れ、街道は盗人どもが跋扈し、貧しい町や村には復興の目処の立たない所もまだあります」
 分かっている――その意味を込め、ウィルは頭を垂れた。比較的激しい戦火に見舞われなかったという国境に程近いこの鄙びた地方ですら、物的被害こそ少ないように見えたものの、狡猾な山賊どもがいまだ完全には配備されていない王国治安軍の目を掻い潜り、今が稼ぎ時とばかりにはびこっていたりする。
「つまるところ、大陸はまだ、指導者を必要としている。……というにも関わらず、大陸の何百万何千万もの民の頂点たり得るファビュラス教会の最高責任者の首をこの時期に挿げ替えるというのは何事であるのか。表向きに罷免、としなかったのは明確な罷免権が誰の元にも存在しなかった為もあるでしょうが、大きな理由としては信徒に無用の不安を感じさせない為の配慮だったのでしょう。けれどもそれは罹病による辞任にしても似たようなものです。この不安定な時期にいかなる理由であれ教会の中核に揺らぎが生ずればその微震は少しずつ膨れ上がり激震へと変じかねない。さて、そのような危険を犯してまで今というタイミングに大神官を馘首する理由がどこにあったのか。分かりますか?」
 まるで決まりきった詩を朗読するかの如く、淀むことなく言い切られた長々としたその問いに、ウィルはすぐには答えを返せなかった。……その理由に思い当たらなかった。カイルタークは不真面目であるが有能な男だ。職務は面倒臭がり文句を言いながらも完璧にこなす。何年も彼の下で教会魔術士として働いてきたウィルにはそれが良く分かっている。
 ――完璧に?
 ふと、一瞬だけ思考に影が差した。何か、忘れ物をしているようなそんな微かな気配である。
「ヒントをあげましょうか」
 冗談めいて聞こえる言葉で、けれども決して冗談らしくなくリュートが告げてくる。正答に近づくためのステップを小出しにしてくる彼のやり方は、子供の頃学問を教わっていた時と変わりがない。互いの通信室には防音設備が完備されていることを重々承知しているであろうのに、リュートは声を潜めるようにして、その一言を口にした。
「大神官のみに受け継がれる秘匿された責務とそれを実行する技術は、元大神官である長老会や当代の大神官から直接にして唯一、次代の大神官に伝授されるものです、……と言うと、答えが導き出せますか?」
 一瞬――
 顔色を変える、とまでは行かないにしろ、思わず顔を上げたウィルは自分の奥歯が自然に噛み締められたのを自覚した。
 完璧に、ではない。
 カイルタークは、過去に二度、任務に失敗していた。
 ――大神官の責務。
 それについて、ウィルが真相を知ったのは実はそう昔のことではなかった。思い起こせば気づく機会はあったにせよ、ある程度の確信が持てたのは戦争末期――今からせいぜい数ヶ月前程度の話である。現在でも正確な所を知っているわけではなかったが。
 一つ目は、長き戦いの旅を経て攻め入った敵の本拠、アウザール帝国皇帝ルドルフ・カーリアンが居城に於いてだった。故あって少数精鋭となった人員で皇帝の腹心、暗黒魔導士ラーとの対決を目前としたその場所で、先に進入を果たし暗黒魔導士との接触を成していたカイルタークと対面し、共闘することとなった。
 ……何故大神官たる彼がその場所にいたのか。その時は問い質す機会さえなかったその謎は後になって自ずと解を知らされることとなる。
 目を閉じて回想する。瞼の裏に浮かんできたのは、明らかに護身用のものなどではない大振りの短剣を無造作に下げて立つ神官服の後姿だった。場所は夜の礼拝堂。女神像の前に祈るように佇む少女の背後に彼は歩み寄る。刃のような殺気を纏って。
『エルフィーナ・ローレンシアは、七年前に死亡していたという事実に変わりがないことを、ファビュラス教会は発表することを決定した』
 剣を握り締める男の発する声だけは完璧に聖職者のそれで、抑揚の薄い韻律が冷ややかに夜気を震わせる。
 少女は振り向かず、応える。
『それは、エルフィーナの力が危険なものだから? だから教会は、その秘密を隠蔽することにした?』
 好戦的とすら思える、いかにも彼女らしい回り道のない真理への接触。
『それはその事実のみを? それとも存在ごと?』――
 大神官の責務とは、教会の意思を完璧に体現すること。教会の意思とは信徒の絶対の安寧を護り続けること。それは通常祈りにおいて。そして秘密裏に実力で以って。……それこそが恐らく、歴代の大神官がその身に秘め続けた最大の責務であり、危険分子と教会が認知した二人の許に刃を携えて彼が現れた理由だった……
 ウィルに十分に思考の時間を与えた後に、リュートはふうと溜息をついた。ウィルは彼の問いかけに対し何も答えていないのだが、その沈黙の間に求める結論を纏め上げていることは察したらしく、彼は静かに――ひどく残念そうに、ぽつりと声を漏らした。
「なーんだ。知ってたんですか。ちぇー。びっくりさせようと思ったのに」
「……あのな」
 妙な疲れを感じて肩を落とす。この状況で言うに事欠いて何を言い出すのだこの兄は。
「俺だって偶然知っただけだけどさ。直接ちゃんと聞いたわけでもないし」
「そりゃ聞いたって言わないでしょうねえ。大神官が暗殺屋さんを兼業しているなんてそんな聞こえのよろしくないこと」
 敢えて思考の中ですら曖昧にぼやかしていた部分をダイレクトに言われてウィルは思わずぎくりとした。この会話をどこかから盗聴されているということはまず有り得ないが、それは恐らく、知っていることを知られるだけで、生命に危険が生じかねない秘密のはずだった。そういうことを密室とはいえ躊躇もなく口にする兄の図太さに常々肝を冷やさずにはいられない。
 しかし、ウィルの動揺など知ったことではないという風に、リュートは先の話題にさりげなく言葉を続けている。
「結局、彼はそのどちらも達成することが出来ず、だからこそこの現況があるのですけれどね。ともあれ、彼が犯したその二つの失敗……二人の背約者の抹消に失敗したというその事実が、長老会の不興を買ったのだというのが私の推論です」
 淡々とした声の裏に潜む複雑な色合いに、ウィルは一瞬唇を開きかけ――何も言わずそのまま閉じる。
「不興を買ったというか、任務遂行能力に難があると見られたと言うのが適当ですかね。ま、似たような任務を立て続けに二回もしくじっていてはしょうがないわけですが。……もっとも、問題なのはカイルが無職になったこと自体ではなく、その後です」
 その後に、予測される思惑。
 任務遂行能力に難のある人間を切って――しかも、本来であれば切る時期でない時期にそれを行って――その後、どうするつもりであるのか。
 ウィルは厳しい視線で兄の声を伝える通信機を見つめる。
 その答えは、眩暈がするほど明白だった。
「本腰を入れて、その一旦は不成功に終わった任務の達成を目指して来ることでしょうね。暗黒魔導士と……エルフィーナ姫の、抹殺を」
 どこか他人事のようにすら聞こえる、感情を含まない事実のみを述べる声で、リュートははっきりとそれを告げた。

 来る時も息を切らして駆け抜けてきた道を、ウィルは往路と同じ全力疾走の速度で駆け戻る。吐き出す息は冬の冷えた空気に白くあえかな存在感を僅かの間主張してから、夜の色の中に跡形もなく解けて消える。裏道に入ると喧騒は遠く、どこか壁を隔てた世界の出来事のようにしか気配を感じ取れない。若しくは自分の方だけ、切り取られた世界の中に閉じ込められているかのような。
 ぼんやりと――恐らく酸素が脳にまで十分に回っていないのだろう――ウィルは兄とのやり取りを、現在自分が一路夜道をひた走る理由であるその重要事を繰り返しながら、即時の休息を強弁に主張する足や呼吸器を情のない奴隷主のように酷使した。
 ――教会が――エルフィーナを――……
 信じられないという思いはほんの僅かながらだが、あった。一旦は目の当たりにしながらも、一度目は他ならないウィル自身の目の前で立ち消えになっていたので、真実味としては薄かったのかもしれない。ファビュラス教会を信じたい気持ちもあった。ファビュラス教会は教会魔術士としての彼の、第二のではあっても紛れもなく故郷であったのだから。
 けれどもそれよりも、兄の情報への信頼の方が勝った。人を玩具の如く弄ぶのが大好きな破綻した人格の義兄だが、臣下としては何をおいても信頼してよい相手だった。情報収集能力も問題解析能力もウィルが十人いたところで彼には敵わない。何よりも彼は、臣下の誰よりも主君に敬意を表していないように見せて、その実最も真摯な忠誠心を持っている。――こちらからもういいと止めてやりたくなる程に。
 七年も昔の嵐の一夜から、つい数ヶ月前までの彼を思い起こして、荒い呼吸に別の色合いの嘆息を織り交ぜる。……今回も、彼はこちらのことばかりを気にしているように感じられたが、本当ならば人の心配をしている場合ではないはずだっただろうに。
 ――首を振って、ウィルは意識を自分の元に戻す。彼がそういう態度を取ったのは、ウィルに対する忠誠もあるだろうがむしろ、自分を心配するのは百年早いという意思表示だったのかもしれない。自分の件で手一杯である今はそれに甘えさせてもらうことにする。
 大神官を封じた今、教会は既に行動を開始していると考えてよいはずだった。つまりは、今すぐにでも……襲撃はあるかもしれない、と。
 その可能性に気づくと、ウィルはいてもたってもいられなくなった。冷静に考えればそんなこちらの理解を待ったかのようなタイミングでの襲撃などあるわけがないということは分かるのだが、それでも一旦急いた気は現状を確認しないことには収まりそうになかった。リュートとの通信を、乱暴なくらいに手早く切り上げて、すぐさま宿へと引き返していた。
(エルフィーナ……ソフィア……ソフィア……)
 息を切らして駆け戻っても、なあに、どうしたのよそんなに急いでと彼女は何事もなかったように振り向くだけだろう。きょとんとした顔で。つぶらな愛らしい瞳を開いて。
 そうであるに決まっている。そうでないはずはない。そうでありますように。並べる言葉は何でもよく、ただひたすらそれを信じることで、意識を蝕もうとしてくる怖気の走る妄想に耐える。
(ソフィア……ソフィア……ソフィア……!)
 その言葉しか知らない幼児のように彼女の名を心中で繰り返しながら、夜の漆黒に塗りつぶされた界隈をウィルは走り抜ける。



(うっ……胃に穴が開きそうです、リュート様ぁ……)
 テーブルいっぱいに並ぶ料理はどれも美味しかったが元々食が細めのブランはそうそう多く手をつけることも出来ず、経口摂取でない外的負担がかけられている胃にこれ以上物を入れて宥めることも出来なかった。むしろ仮に空腹であった所で緊張しすぎて受け付けないかもしれない。ウィルが同席していたときにはまだよかったのだが彼がいなくなると食卓は、単純にぎすぎすした、というだけでは表現しきれない異様な雰囲気に包まれた。
 ウィルがいなくなると、ブランの正面に座るリエリアは明らかに残念そうな顔をして、けれども大人の女性らしく食卓の和を乱さないようにと明るい会話を提供しはじめた。曰く、どこそこの雑貨店にあったマグカップが可愛かった、その隣のアクセサリーショップにはお洒落なネックレスがあった、きっとあなたにも似合うわ、明日見に行きましょうよ。……おおよそ一般的な女の子であれば興味を示すと思われるその内容は、ブラン自身にとってはこれまでの生活環境の違いもあってかあまり馴染みのない世界だったのだが、言われるままについていって一緒に見てみたい気もしないでもなかった。リエリアというこの女性は少々強引過ぎるきらいはあったが、人当たりもよく会話のセンスにも長けた、人付き合いの少し苦手なブランでも付き合いやすい人間であるように見えた。
 対して――ブランはちらりと視線を動かして、テーブルの角を挟んだ左側を見やる。そこに座る少女……ソフィアは食事中の会話に参加せず黙々と料理を平らげていた。ソフィアの、次々と間断なく口に食べ物を入れる癖は今だけ会話を避けるためにそうしているのかとブランは思ったのだがどうやら元からであるようで、表情を見る限り何の苦痛も怒りもなさそうに食事を続けている。彼女が発する言葉といったら先ほどからずっと、店員に向けての「ここからここまで全部」という豪快な注文のみであった。もしかしたらこれも胃のもたれる遠因だったりするのかもしれない。それにしてもここまで食べる人だとは知らなかった。体格は、ブランと変わらないくらいのように見えるのだが、そのどこに食物が収納されるスペースがあるのか不思議である。
 それはともあれ、こちらのソフィアもまた、付き合いやすさの面で言えばさほど難のある少女ではないはずだった。明るく活発で――自分と違って非常に魅力的な、好きになった男性の心を射止められる少女。ブラン自身、以前彼女に不快な思いをさせてしまったと思うようなことをしていたので、その申し訳なさが転じて自分からは近寄り難かったのだが、彼女自身は特に気にしてはいないようでブランにも普通の友人のように接してくれている。
 ……のだが、現在の彼女は前述のような有様で、全く会話に加わろうとはしない。リエリアとの会話はそれなりに興味深いのだが、さすがにそろそろ言葉に出来ない苦痛が感じられるようになってきている。ブランは人と話すのが、というか自分が喋るのが苦手で、一対一の会話で自分に話す機会が与えられると間が持たなくて非常に辛いのである。お喋りも好きそうなソフィアが加われば、自分は完全に聞き手に回れるのに……そう思ってしまう。
 しかし、彼女が加わったらそれはそれで大変なことになるのだろうとブランは分析していた。
 ブランが胃を痛めているのもリエリアとの会話が苦痛であるからというだけでなく、この無言の少女が無言のまま妙な圧力を撒き散らしているからで、それがいつ爆発するか分からない緊張に苛まれているからである。もしかしたらリエリアも、ソフィアより更に感情を隠すのが上手なだけでソフィアに対して何らかの念を抱いているのだとしたらと思うともう気の弱いブランは胃の上のあたりを片手で押さえるくらいしか出来なくなる。
 そんなことを思いながらブランがちらちらとソフィアの方を窺っていたのが分かったのか、ふとリエリアもブランと視線の方向を同じくした。
「ねっ? ソフィアさん」
 ブランに今しがた話していた、昼食で入ったというカフェテラスが中々よかったという話題についてだろう。唐突にリエリアはソフィアににこやかな笑顔で同意を求めた。ブランはひやりとして、心の中で聖印を切った。
 ようやくソフィアはゆっくりと顔を上げる。ここまでずっと、ウィルに声をかけたとき以外は一貫して無表情を保っていた彼女が、そのときと同じような笑顔をリエリアへと向ける。
「ええ。本当にそうですね、リエリアさん」
 にっこりとした顔で、回答。……しかしブランにはそれが恐るべきまでに剣呑なものに見えた。ウィルにその顔を向けたときと全く同じように。リエリアに視線を向けると彼女はその危うさに気づいているのかいないのか、自身の笑顔を崩してはいない。
 ぎすぎす。笑顔が溢れるこの食卓には本当にどうしてか、その擬態語がお似合いだった。
 確かに、ブランから見てもソフィアの感情は分からないではない。分からなくないからこそ先程はその流れを変えようと彼女なりに奮闘したのだ。自分の恋人たる男性に、女性がこうも積極的にちょっかいをかければ、それはよい気分はしないだろう。ブランは恋愛感情に鋭いわけではないがさすがにそのくらいは分かる。
 リエリアが二人の関係を本人たちの口から聞いていないという可能性もあるが、もしそうであったとしても自ずと察することは出来るのではと思うくらいこの二人の関係は分かりやすい。直接人前でべったりとしていたりすることはないし、ソフィアの性格を考えると恋人同士であることを彼女が公言することはないと思うのだが、ウィルのソフィアに対する執着は明白で、またソフィアもウィルにちょっかいを出されればこのようにあからさまに拗ねてみせる。リエリアは、この食卓で交わした機転の利いた会話から頭のよさそうな女性であることが窺えるので、疎い自分が分かるのであればリエリアに分からないわけはないとブランは感じるのだ。
「ねえソフィアさん」
 ふと、リエリアはテーブルの上に肘をついて、その上に顎を乗せた格好でソフィアを見やった。少し上目遣いになるポーズは同性の目から見てもどきりとするような艶がある。リエリアはほんの少し首を傾げ、甘みのある声でふわりと尋ねた。
「ソフィアさんとウィルさんって、どういう関係なの?」
「なっ……?」
 笑顔の仮面をぽろりと取り落とし、ソフィアは大口を開ける。ブランの方も、背筋がびくりとするのを禁じえない。リエリアの発した問いは、今更ながらという感はあったにせよそれだけ直球だった。
「ど、どういう関係って……っ、し、仕事の仲間で」
 しどろもどろに、恐らくリエリアの求めているものとは的外れな回答を述べるソフィアに、金色の巻き毛の美女は物足りなさそうな顔をした。
「仕事の仲間ってだけ? 恋人として付き合ってるんじゃなくて?」
「つ、つきあってっ……」
 いる、と言えばいいのにソフィアはそこで絶句する。ウィルがいれば即答で付き合っていると返答し、恥ずかしさに耐えかねたソフィアに殴られるなり何なりして一件落着だったはずなのだが、残念ながらこの場には彼はおらず、いるのは間違ってもそのような答えは返せなさそうな純情な少女のみだった。
 言葉を途切れさせるソフィアをまじまじと見ながら、リエリアは長い睫の並ぶまぶたをまたたかせて、尖らせ気味にした唇からぼやくように言葉を漏らす。
「……なーんか分からないのよね。お互い意識してるような感じはするんだけどぉ……付き合ってるって感じはしないのよね。ほら、前の村からここの街に来るまでにも何日か山歩きして、野宿したでしょ? でもその間も二人ともエッチするどころか何メートルも離れて寝てたりしてるんだもの」
 ぶぴ。予期せず飛び出した物凄い言葉に思わずブランは口に含んでいた冷茶を吹き出した。
 そして――部外者であるブランが受けた以上の衝撃を、本人であるソフィアはまともに食らったらしかった。やはり何かが出かけたのか手の甲で口元を押さえるようにして、椅子からかなり引き気味に立ち上がっている。
「なんっ……な、なな、なー……な!?」
 ソフィアは既に赤らんでいた顔を完璧に真っ赤に染めて解読不能の音声を断続的に発していた。……無理もない。自分まで赤らんでいる頬はとりあえずほったらかしにして、ブランは黙々と布巾でテーブルの冷茶の池を片付けた。
「なっ、何ですか!? 何てこと言うんですか!? むしろ何のことですか! はなっ離れて寝るなんて当たり前でしょう!?」
「あら、ソフィアさんって外だと気分乗らないタイプ? 私は嫌いじゃないわよ」
 さらりとしたリエリアの追撃に。
 ……今度はお茶、口にしてなくてよかった。ブランは心からそう思った。
 ソフィアの方は尚も動揺の度合いを深めて震えてすらいる。あれだけ無表情や笑顔の形をした仮面の下に剣呑さを押し込めておけた人間とはまるで思えないほどだった。
「なななにをっ何を言ってるんですかあなたは……っ!?」
「何をって? だからエッチ」
「ぎゃー!! そそそそそういうことを聞いてるんじゃないです! そんな破廉恥なことをするとかしないとかっ! しかも外で……なっ……ああっ……!」
 ソフィアの手が胸の前で幾度も聖印を切っている。彼女はさほど信仰心の強い少女ではないが、そんな彼女をして神へと縋らしめる凶悪な威力をその発言は誇っていた。
「え、じゃあ外でも中でもしてないってことなのかしら?」
「とっ……当然でしょう!? ふしだらな!」
 ソフィアのきっぱりとした声を受けて、リエリアは唐突にぷつりと黙り込んだ。そして、どこか見たことのない珍しいものを眺めるかのような、不思議そうな表情でソフィアのことを見ていた目を、不意に、含みありげに微笑ませる。
「ふぅん。そうなの」
「……なんっ……ですか……っ!?」
 その笑みの気配に不信感を持って、ソフィアは尋ね返す。興奮のあまりうっすらと潤んだ瞳で彼女は、にこにこと嬉しそうな笑顔を浮かべているリエリアを睨みつけていた。
 少女ながらにして歴戦の戦士の風格を漂わせる眼力に、しかしリエリアは全く怯む様子は見せない。にこにこと、何の悪意も感じさせずに、言う。
「ううん、別になんでもないのよ。なーんにもないような仲なんだったら、特に遠慮はいらないわよねって、思っただけ」
「…………ッ!」
「ソ、ソフィアさん!?」
 瞬間――ソフィアが急激に高まらせた殺気めいた激しい感情に気づいてしまったブランはさすがに椅子を蹴って立ち上がり、止めに入る。
(ああ、ああ! 助けてリュート様! ウィルお願い、早く帰ってきて! 私じゃもう無理!)
 半分方泣きそうになりながらあたふたとソフィアの腕を掴むブランは、その時、食堂中に響き渡った入り口の戸を激しく開け放つ音に、神の助けかとそちらを振り向いた。
 ――が、その扉から現れたのは待ち望んだウィルではなく、彼女は心底がっかりした。すぐさま関係のないそちらからは視線を外し、怒れる美少女を宥めるという難作業に戻る。
 この時ぞろぞろと店内に入ってきたのは五、六人のいかにも柄の悪そうな巨漢たちであった。彼らは店中に視線を巡らせて、程なく、何やら声を上げて戯れているこのような店では珍しい女の三人組を見つけて意味ありげににやりとしたが、一触即発の緊張状態に陥っている彼女らがその視線に気づくことはなかった。


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