女神の魔術士 Chapter4 #4

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 ウィル・サードニクス、十九歳。
 生命すらかける必要のある程に厳しい魔術訓練を幼少よりこなし、大陸全土を戦火の渦中に落とした戦役を幾度も死線を彷徨いながらもどうにかして切り抜けてきた彼にとって、多少の危難は慣れたもの――とは何だか悲しいので本人は言いたくないと思っているが、危急の事態に対処しきれず恐慌のうちに混迷の渦に呑まれるということもない程度には実用性のある処世術を身に着けてきたとひとまず彼自身も自認している青年である。この齢にしてもう既にひとまずの艱難辛苦は体験しきり後は平穏で幸福まっしぐらな余生が待っている……といいなあという人生計画を打ち出すことくらいは許される資格はもしかしたらあるんじゃないだろうかという程度の人生を送ってきたと、彼は自身を評価している。
 しかし今、そんなささやかな夢を夢見る彼をいまだかつてない危機が襲っているのだった。
 ――午前中にも似たようなことを考えたと彼は思い出したが、とりあえずそれはどうでもいい。
「ウィルさぁーん、あーんしてぇ、あーん」
 甘い花の香りの香水を食事の邪魔にならない程度に漂わせ、それに酷似した甘みのある声と共に鼻先に差し出されたスプーンに、ウィルは腹の奥底からうろたえて傍から見れば挙動不審ですらある視線で周囲を撫ぜ回した。あーんしてとか言われてもどうすればいいのか。いや、それが開口せよという催促であることは分かる、分かるがそれに従うことで起こり得るメリットとデメリットについての考察がいまだ完了していない。口を開ければその美女――リエリアが差し出しているそのスプーンの上の食物を摂取することが出来るだろう、それはバターの香り漂う具沢山のオムレツで、確か、この食堂の入り口付近の壁に「大好評、当店自慢の特製オムレツ」とかいう文字が躍っていたので多分それだろうと推測できる、ということは店側としてもかなり自信を持って薦める料理で、それ以外の料理も中々の味であることから推察してもその一口は十分に賞味に値するはずであると考えてよいだろう、しかしだからといってそれを促されるままに口に運んでしまったらその後どうなることか――
 カードゲームに便利そうな正方形の四人席で、ウィルは卓の角を挟んだ右隣からスプーンを差し出しているリエリアの方を向きながら、真向かいの席、すなわち一番彼の様子がよく見えてかつ一番彼から遠い席に座している少女の様子を盗み見た。彼女――ソフィアは彼らのやり取りなど目にも耳にも入っていない様子で、ポタージュにパンを浸しては口に運ぶというルーチンワークを先ほどからずっと不変のリズムで黙々とこなしている。助けてくれるそぶりはおろか関心を向けてくる気配すら見せない彼女であったが事態がこれ以上進行した際にもその態度は続行されるのだろうか。どちらかというと続行して欲しくないのだが、念願通り怒り狂われたとしてもそれはそれで災害級の問題である。
 と、
「あ、あの、リエリアさん」
 ウィルの狼狽を見かねてか、最後に残った席――リエリアの正面の席であり、ウィルから見ると角を挟んだ左隣から細々とした救いの手が差し出された。それはつい先刻合流した、実家の兄からの使いとしてやってきた少女のものだった。
 ブラン・シャルードというのが彼女の名前である。細く癖のない髪を肩の辺りで切り揃えた、見るからに小柄でか弱そうな外見の彼女は、ウィルとは子供の頃にとある出来事を通して知り合った知人で、現在は親しい友人と称して差し支えない間柄であった。ソフィアとも解放軍に所属していた時に知り合っているが、ウィルは彼女ら同士の関係がどのようなものかはよく知らなかった。――考え過ぎかもしれないのだが、もしかしたら色々あったかもしれない間柄なので、あまり突っ込んでは聞けないのだ。もっとも先ほどのやり取りを見る分には別段わだかまりの様な物はなさそうに見えたが。
 ともあれ、その見た目は非常におとなしそうで実際にもかなり控えめな性格の彼女は、恐らくは彼女としてはかなりの精一杯の勇気で、自分とは両極端に位置する雰囲気の女性に非常に遠慮がちに声をかけていた。
「なぁに? ブランさん?」
 ただ呼びかけに反応する形でリエリアが笑顔をブランの方に向けると、彼女はそれだけで引き腰になったが、どうにか踏みとどまり、元々あまり大きくない声で続けてくる。
「ええと、その、ウィル……が、」
「え?」
 この雑然とした大衆食堂の中ではブランの小さな地声は聞き取りにくいのだろう。全く悪意なく聞き返してくるリエリアに、ブランは萎縮して顔を赤らめる。……勝敗は既に決しているような気がする。等と、既に完璧にリエリアに対し負けを喫した状態のウィルが偉そうに言えることではないのだが。
 ともすればそのまま消え入ってしまうのではないかと思われたブランであったが、しかし彼女は持てる勇気をその細い身体から搾り出すようにして己の不利を巻き返す偉大なる一言を口にした。
「ウィルが……困っています……っ」
「……え?」
 思いも寄らぬことを言われた顔で、リエリアは長い睫の並ぶ目を見開いた。そのままの目で、彼女はウィルの顔をきょとんと見る。ここが正念場だ。そう、ウィルは確信する。ブランは頑張った。力の限り頑張った。後は俺だ。彼女の労に報いる為にも俺が頑張らねば。
 腹にぐっと力を入れて、ウィルはリエリアの瞳を見つめ返していた。脂汗すら流れ出てきそうな緊張感に見舞われる。リエリアは自分の持っているスプーンとウィルの顔を交互に見比べて、ようやくして何かに気づいたかのように「あら」と声を上げた。
「まあ、私ったら。ごめんなさいね、はずかしいわ」
 慌てたように彼女はウィルに差し出していたスプーンを引っ込める。ウィルはほっとして息を吐き出そうとしたがその直前ではたと思いとどまった。そういえば、彼女は午前中も引くと見せかけて更なる追撃を仕掛けてこなかっただろうか。油断は出来ない。油断するわけには行かない。またこちらの思惑とは別なる解釈をして安堵の息をついた瞬間に一気呵成に攻め込んで来るという恐れはまだ消えていない。
 午前中に経験したじっとりとして薄ら寒い記憶が彼の身体の中の警鐘を鳴らす。もっともその薄ら寒さを彼に直接投げ与えてきたのはリエリアではなくソフィアの方なのでそれについてリエリアを責めるのはお門違いなのかもしれないが。しかし何にせよ、世間に慣れがあってあえてこう装っているのか本気で不慣れでこうであるのか真剣に分かりにくいこの美女の挙動は油断出来ない。
 リエリアは自分の元に引き戻したスプーンをじっと見下ろして、おもむろに己の口元に持っていく。……そう、そうだ、自分で普通に食べてくれればいいんだ。警戒を解かず、ただ願うように、祈るようにウィルは半熟の黄身がつやりと光るオムレツの行く末を見守り続けていた。思わずテーブルの影で拳を握って語りかける。そうだよお前だって俺みたいな男の口に納まるよりかは彼女みたいな綺麗なおねえさんに食べられた方が幸せってもんだろう。そのままその唇の中に飛び込んでしまえ潔く。
 オムレツはスプーンの上でぷるぷると震えながら彼女の口の前に楚々と運ばれ、口付けをねだるような色っぽい形に突き出された唇が噴出す息に、ふぅ、ふぅ、と吹かれた。そして。
「はい、ウィルさぁん、あーん」
 にゅっと、再び元の位置にカムバック。
「そうですわよねぇ、ちょっとまだ熱いみたいでしたものね、やけどでもしたら大変。でも大丈夫、ちゃあんとふーふーして冷ましてあげたから」
 ――いやもぉ俺、ソフィア以外の女の人にそんな嬉しいことされたって困――
 ……と言うような声が出るくらいならば最初からとうに言っている。
 ただただやはり周囲から見れば立派な挙動不審者以外の何者でもない仕草でウィルはおろおろと周囲に縋り付くように視線を配る。しかしながら救難信号の主要送信先のつもりのソフィアは完璧に受信拒否の構えで先ほどのルーチンワークを今も一瞬たりとも中断しない。横のブランはウィルと同じようにおろおろとしながらもウィルに援軍を送る進軍経路を模索し続けてくれている――彼女が、彼女だけが唯一の拠り所だった。
 彼女は、ウィルとソフィアの微妙と言えば微妙な関係も、ウィルのこういうことに関しては特に度胸や根性に欠ける部分も、加えてソフィアのアレな部分もひっくるめて理解してくれているのでどうにかしてこの事態を回収する手助けをしようと試みてくれているのだ。何て心優しい娘だろうか。ソフィアがいなければ惚れていたかもしれないとウィルは心から思う。
 ややして、ブランがはっとした表情を浮かべた。効果的な一計を思いついたその様子にウィルは嵐を裂いて天から降り注ぐ一筋の光明を見た思いで聖女の如き姿を仰ぐ。
 その策を思いつくや否やブランは電光石火の速さで食卓からフォークを一つ取り、それで目の前のミートローフの一切れにずぶり!と突き刺した。そしてそれを……
「は、はい、ウィルっ……あ、あーん」
 ウィルの目の前に、リエリアと同じような形で差し出してくる。
「……………………え」
「むむ、ライバル出現ね? でもお姉さん負けないからぁ。はーい、ウィルさぁん、あーん。こっちの方がおいしいわよぉ?」
「ウ、ウィル! これとてもおいしかったわ! 事態の平和的収拾の為に是非あなたにも食べて欲しいのっ」
 ――ええとそれを食べると本当に事態は平和的収拾を見せるのでしょうかブランさん。
 どういう方面から状況分析してその結論に行き着いたのかがよく分かりにくい解決策を多分百パーセント善意で提示してきたブランと、何故だか対抗意識を煽られたらしくテーブルの上にたわわな巨乳を乗せてずいとまた一歩近づいてきたリエリアに両側から均等な圧力で締め付けられながら、ウィルはおろおろどころか少しがくがくしてきた。多分これさっきより倍くらい状況やばくなってるんじゃないだろうか。
 目の前に視線をやる。ソフィアはやはりそんな食卓上の攻防戦など全く意識せずにポタージュの皿との規則的なやりとりを続けている。静かに、静かに、時計のように正確に……
 ――不意に。
 その、時計が時を止めた。彼女のスープ皿からポタージュが全て消費されつくしたのだ。
 ソフィアが初めて――そんなことは実際あるわけがない気がするのだが、ウィルの覚えている限りではこの食卓について初めて、その顔を上げた。ウィルはごくりと唾を飲み、彼女の表情を伺う。
 その顔に浮かんでいたのは、ひどく柔和な微笑みだった。
 昼間に見せてくれたような、嫌ぁなまでに完璧な女神の微笑みだった。
 女神の顔も三度まで、とかいう諺が確かあったような気がする。けれども彼女は果たして三度も許してくれるだろうか。彼女という女神に限っては、その慈悲の許容回数は、「二度目はねェぞ?」な気が凄くする。それでもこの微笑み。否、だからこそのこの微笑み。
「ウィル」
 心安らぐ女神の声で、ソフィアが彼の名を優しく呼ばわる。がたり――ウィルの椅子が、逃げるように音を鳴らした。
「リュートさんと、夜、お話しするお約束、してたんじゃなかったの?」
 彼女が告げてきたのは実に理性的な指摘だった。かっちりとしたスーツを着た秘書が社長に報告するような正確な指摘。
「あ、う、うん、もうそろそろ、じ、時間」
「そろそろ? だめじゃない、夜道は危ないかもしれないんだし、ちゃんと余裕を見ておかないと」
「そっ……そうだね、それじゃもう行こうかなハハハ」
 にこにこと告げてくるソフィアにウィルはたらたらと背筋に汗を感じながら返答する。ウィルは彼女の顔から一瞬たりとも視線を逃さずに――まさに戦場で敵対した相手からそうするような仕草で十分に警戒しつつ、椅子から立ち上がった。
「それじゃウィル」
 そんなウィルの警戒など全く気づいていないかのようなごく普通のそぶりでソフィアはパンを置いて手を上げてくる。手を振る代わりに彼女は軽くその手を拳の形に握って親指だけ立て、
「いってらっしゃい」
 しゅっ、と、その親指で首を切る動作をした。
 ――もしかして俺の夜道を危なくする気満々なのは自分ですか!?
 叫び声は叫びにならず、ウィルは逃げるようにとも転がるようにともそれを表現するには足りない速度で彼女の前を退去した。

 ……いくらなんでも。
 さすがの彼女も恨みつらみや怒りのあまり人を夜道で奇襲するという卑怯技までは使ってくるわけがないわけで。むしろ人を殴りたいのであれば彼女は真正面から拳を振るう。
 そういう定理と言うか摂理と言うか、彼女に関するまあそのような感じの事に気がついたのは、宿から大分離れてそこの角を曲がればもう教会に到着する、といった地点まで到達してからだった。もっとも大分と言っても走って五分という程度の距離に過ぎないのだが。と、自分が図らずしも全力疾走する羽目になった時間を今更ながらに思い出してウィルは咳き込んだ。五分も走れば、少なくとも彼にとっては相当量の運動である。走っている間はあまりにも必死過ぎて感じもしなかったが、脇腹がしくしくと痛んでいる。食後すぐに走ったりすれば彼のような虚弱な体質でなくとも当然のことだろう。
 脇腹から手を離し、ウィルは何とはなしに臍の脇辺りもさすった。今は痛みを感じてはいないが、たまに、体調があまりよくないときに身体に無理をかけたりするとこのあたりの奥の方が痛むときがある。以前――戦時中に負った内臓にまで達する傷がその原因なのだろうが、その傷自体は恐らく完治しているはずなので、多分これはもう癖になってしまってどうしようもないことなのだろうと諦めている。――仮にどうにかなるとしたところで、冬になったり疲れたりすれば痛むようなそんな傷は身体中の至る所にあったりするので今更どうこうしたいとも思わない。疼痛に収まらない我慢が効かないような痛みが生じるのであれば、さすがに対処を考えるのだが。
 とりあえず脇腹の痛みも引いてきたので今度はゆるゆるとした歩調で教会への道を進み始めた。数分の全力疾走はこの季節の外歩きには丁度よい暖となったかもしれないと、ソフィアを真似たポジティブシンキングを発揮してみる。飲み屋の宣伝文句からすればまだ夜は始まったばかり、といった時刻の大通りはいまだ人の往来は激しく、ずらりと並ぶ店構えから漏れる輝きにも活気があって、澄んだ空に輝く星々の存在感を翳らせている。とはいえウィルもささやかな星の煌きに夢想するようなロマンチストでもないのであまりそんなことは意識せず、そうこう考えているうちに辿りついた教会の、さすがに夜間は閉められている扉を引き開けた。
 早朝から祈りの日課がある教会の夜は早く、まだ繁華街が盛況である時間帯であってももう既に建物内には闇の帳が落ちていた。とはいえ基本的に教会は二十四時間営業で、いついかなる時でも迷える子羊を暖かく迎え入れる準備ができているという建前があるので、これだけ大きな教会であれば例え深夜であっても当直の神官が何人か詰めているものであった。常夜灯のみがぽつぽつと点るエントランスホールを少し進むと皓々と明かりの点された受付台が見え、その奥でけだるそうに書物を読んでいる神官の姿が見えた。
「すみません」
「うわっと」
 声をかけると、ばたばたっと本をしまう神官。――どうやら仕事でなく内職であったらしい。神官は、ウィルの顔を見上げるとすぐに「ああ」と声を上げた。
「昼においでになられた教会魔術士殿ですね。お話は伺っております。先刻と同じく、二号室をどうぞ」
 言って、特に身分証明の提出も求めずに鍵を渡してくる。その無用心さにやや不審に思ってウィルは首をかしげた。まだしも昼に応対した係員であるなら顔で分かるだろうが、この神官はそれとは恐らく別人である。
「どうしましたか? どうぞ?」
「……あの、いいの? 俺は楽でいいんだけど」
「ああ、いえ、ご本人の確認が取れれば書類は作っときますんで。教会魔術士殿のお手を煩わせることもないですよ」
 ぱたぱたと手を振る神官。
「えーと、ご本人の確認って」
「あー、ご来訪時間と人相書きを預かっておりましたから」
「……人相書き?」
 そんな初対面の人間をも納得させる人相書きを書かれる程の特徴があっただろうか自分。あるなら詳しく聞いてみたい気がして神官の顔をじっと見たが、神官はにこやかに手を振り続けるのみだった。
「いえいえいえ。気になさらず。どうぞ奥へお進みください。全然気になさることはないですよ?」
「……いやそう力いっぱい流されると余計気になって仕方がないんだが」
「全然大丈夫ですから」
「何がッ!?」
 物凄く詳しく聞きたい所であったがまあまあまあまあと結局流されて、ウィルは鍵を握らされ昼間にも来た廊下を歩き出すことを余儀なくされた。何が書いてあるんだというかむしろどういう意味だ。特徴、特になしとか書かれていてそれで「ああ」だったのだったら全力で凹める。
 ……段々と空しくなって来たのでそれについての考察はこのあたりで中断することにして、ウィルは二号対話室というプレートのかかった部屋に鍵を開けて入った。昼間と同様に照明をつけ、靴を脱いで機械の前に進む。昼間は使わなかった椅子を机から引っ張り出してきてそれにかけ、手を伸ばしてぱちぱちとスイッチを入れた。
 ぶぅん……という低い羽虫の羽ばたきのような音に続いて始まる、ぎこぎこがりがりという駆動音を聞きながらウィルは机に頬杖をついた。
「なんだかなー」
 呟いて、かくりと肩を落とす。考えているのは今の人相書きの件とソフィアの態度についてを丁度半々の割合ずつで、つまるところどちらも同じようにどうでもいいことであった。どうでもいい、というか、それほど本気で思い悩むような内容ではない、というか。リエリアと別れるまで、ソフィアのあのひねくれようは断続的に続くことになるのだろうか。嫉妬されるのはやぶさかではないのだが、それに毎度軽く命の危険が付きまとうのは少し、いや大分困る。そういえばブランはしばらくこちらにいることになるのだろうか。繋がったらリュートに聞いてみよう……
 取り留めのない考えを頭の中にのろのろと浮かべては消している間に、予備起動時の自動チェック動作が終わった機械は起動待機の状態に入り次の入力を待っていた。それを、殆ど上の空でぼんやりと操作していく。ウィルは研究職にある専門の教会魔術士から見れば魔術装置に関してはかなり疎い方だったが、この遠隔通話装置に関しては昔から教会から離れて任務につく事が多かったので惰性で操作できる程度には使い慣れていた。
 何が楽しくてこんなに色々なスイッチを上げ下げしなければ起動できない作りにしたのかウィルには全く分からない機械の最後の起動スイッチを入れたときに、ようやくざりざりとしたノイズが通話機から流れ出した。
「……こちらヴァレンディア通信部。往信を受信しました」
 今回は初めから大分音声がクリアである。先ほどウィルが使ってから誰もこの機械を操作していないのであろうことが窺えた。……それだったらわざわざ後の時間帯に予約を取り直さないで、延長させてもらえば面倒がなかったのに。
(……いや)
 自分の考えに、ウィルはすぐさま、自分で訂正を入れる。違った。それは出来なかったのだ。
「ヴァレンディア南部教区統轄部より、本部所属教会魔術士ナーディ・レイクです。復信を受信しました」
「了解。音声クリアです。用件をどうぞ」
「宮廷魔術士長リュート・サードニクス殿との通話を願いたいのですが」
「教会魔術士……レイク様ですね。承っております。只今回線を回します」
「了解、お願いします」
 背後からの妨害がなければやり取りもスムーズである。
 すっと波が引くように雑音が途絶え、向こう側の操作手の、回線交換の指示を機械に送る手馴れた操作音だけが無機質に聞こえることしばし。かちりという音を最後に操作音も消えて静寂だけが残る。
「遅いですよ。二人の訳ありな娘さんに挟まれた食卓はそんなに離れがたいものでしたか?」
「てめーコラアホかお前呪われろ」
 その静寂を打ち破って流れ出てきた、自分の仕掛けた炸薬の暴発を予見していた予言者の暴言にウィルは遺憾なく呪詛の言葉を投げつけた。
「何ですその子供じみた罵詈雑言は。やめて下さいよ。育てた私の品性が疑われます」
「言葉遣いだけ丁寧なら何でもまかり通ると思い込んでるよりかは万倍ましだ」
「やれやれ何を怒っていらっしゃるのやら。ちょっとしたおちゃめなプレゼントのつもりだったのですけれどねえ」
 お気楽極まりない言葉に、ウィルが顔をしかめる。
「……俺はともかくとしてブランが迷惑だろ、ブランが」
「おやまあこれはびっくり。あの陛下がほんのちょーっとは女性への気遣いというものが出来るようになって来たではないですか。あの陛下が。へー」
「やかましいわ」
「でもその点はご心配なく。彼女が行きたいと言ったのですよ」
「……ならいいけど」
 唸るようにして呟く。まだ何か、顔が見えないながらも何故か続いているのが分かるにやにやとした気配から、机に肘をついて顔を逃がして、ウィルは相手がこれ以上こちらの不都合になる発言を続けてこないうちに本題を切り出すことにした。
「それで? 何か話があるんじゃないの?」
「ええ。もちろんからかい倒す為だけにお呼びしたわけではありませんからね」
 からかう為「だけ」に呼んだわけではないということはからかうことも理由の中に入っているということではないか。口の中で砂と苦虫をミックスしたものを噛み潰した顔をしてウィルはその苦さを吐き捨てようとしたが、すんでのところでそれを押しとどめる。どうせ言うだけ無駄である。
「ソフィアはいないよ。今こっちにいるのは俺だけ」
「……ほう?」
 その代わりに、聞かれてもいないことを口にするウィルに、リュートの声が不意に面白いものを見つけたような軽い明るさを帯びて返ってくる。これは、あと一言二言からかいの言葉を挟んだ後に彼が恐らく尋ねようとしていた問いの解答に当たるはずの発言だった。
「ソフィアがいたらまずかったんだろ? わざわざ話が終わってもいないのに通信まで切って」
「そう取れるようには発言しなかったつもりですけど」
「どれだけの付き合いだと思ってるんだよ。……馬鹿兄貴」
 ほんの少しだけ自分の言葉に照れながらもそう告げると、通信機の奥からどこか満足げな微かな笑い声が聞こえた。
「聡い弟を持つと話が早くて助かりますね」
「けなしたり誉めたり大変だなお前」
「誉め言葉くらい素直に聞いておいて下さいよ。そんなにひねくれているとどこぞの大神官みたいな大人になってしまいますよ?」
 それは御免被りたい。
 嫌そうなウィルの顔が見えたかのように再びリュートは軽く笑声を漏らして、それを境に声のトーンをほんの少し、切り替えた。
「……さて、何からお話しましょうか。ちなみに、そのどこぞの大神官の話は知ってます?」
「何それ」
 何が悲しくてこんな聖地から海を越えて離れた場所であんな男の噂を聞かねばならないというのだ。怪訝に思って問い返すと、リュートは大儀そうに溜息をついた。
「知りませんか。じゃあ、最初からですね。……面倒臭いですね、腐っても教会魔術士なんですから教会の情報くらい仕入れておいてくださいよ」
「教会の情報って……広報くらいは見てるけど」
 教会が月に二度の頻度で定期刊行する薄っぺらい冊子である。高位神官の有難い説法に始まり、教会内部の人事異動や誰それが何とかという論文で何々賞を受賞したとかいう自慢話が続き、どこぞの地方教会で町内の清掃活動を行ったとかいうどうでもいい話あたりが加わって、高位神官の有難い説法に終わる情報誌で、本部から各教会に配布され無料で閲覧することが出来る。また教会に行かずとも宿場や食堂などで布施代わりに購入され、置かれていることも多いので目にする機会はいくらでもある。
 しかし答えるウィルに、リュートは「いやあ、」と少し考えるような合いの手を入れて独り言のように呟いた。
「広報にはまださすがに載ってないんじゃないですかね」
「じゃあ未発表の話ってことじゃないか。無茶言うなよ」
「ははは」
「はははじゃないし」
「まあ、どうせまだそちらでご存知ないだろうと思ったからこそ、こうやってこっそりお呼びしたわけなんですけどね」
 誰かあいつを殴ってくれ頼む。――切なる願いを音声を魔力波へと変換する機械に乗せて、机の上に力なくうなだれた体勢のまま、ウィルは低く、通告した。
「切るぞ」
「やだなあもう短気ですねえ。分かりましたよ言います言いますってば」
 さも仕方なさそうに言う兄をウィルが「はいはい」とぞんざいに促すと、それが気に入らなかったのか返ってきたのは唇を少し尖らせたような声音だった。そんな冗談じみた声で、この会見の本題を告げてくる。
「我らがファビュラス教会の最高統括者であらせられる大神官カイルターク・ラフイン猊下なんですけどね、先週付けで罷免されたんですよ」
「罷免って……え?」
 あまりにもさらりと言い放った兄に、ウィルは一瞬その言葉の意味が汲み取れず――無論、単語の意味が分からなかったというわけではないが――、ぽかんと問い返していた。
 そこへ、ご丁寧にもリュートは簡易な言葉に言い換えて、ウィルの理解を促そうと試みる。
「早い話が、カイル、大神官クビになっちゃったんですよね」
「…………はぁ!?」
 さすがにその報告に対し兄のような軽口で応対する胆力はウィルにはなく、ただ彼は机の上の無機質な通話機を凝視したまま素っ頓狂な声を上げて、絶句した。


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