女神の魔術士 Chapter4 #3

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 たっぷり一分は機械からの呼びかけを受け続けてから、ウィルはよろよろと身を起こした。
 ソフィアはその間に凶悪な性犯罪者から距離を取って、部屋の入り口近くの角に膝を抱える格好で座っていた。出来ればドアの鍵も開けておきたい所ではあったが、施設の使用時には鍵を閉めなければならないとかいう規則があるのかもしれないので、それはしないでおくことにした。
 よろよろとふらついた様子でウィルは机の上に手を伸ばし、それを支えにしてようやく立ち上がる。朦朧とした視線で一番小さな機械を捜して、先程のようにそれに向かって声をかけた。
「……ヴァレンディア南部教区統轄部より、本部所属教会魔術士ナーディ・レイクです」
 ウィルが名乗ると、相手は不意をつかれたように「あっ」と声を洩らした。多分それは「あっ、繋がった」という意味での声だったのだろうが、ソフィアは別の意味で不意をつかれて少し顔を上げた。彼が唐突に偽名などを口にしたからだ。――もっとも、ウィル・サードニクスという名前も厳密には本名ではないが。
「ええと、何かありましたか?」
 当然ながら通信手は問うてくる。無論、偽名についてではない。
「あー、いえ、こちらでトラブルが発生しまして。……今は解決しています。問題ありません」
 とりあえず通信を切るまでは、とウィルは機械の向こう側に届かないように横を向いてこっそりと付け加えた。それでひとまずこの件に区切りをつけることにしたらしく、顔を正面に戻し次に発した口調はいくらかしっかりとした事務的なものに戻っていた。
「今回の用件ですが、宮廷魔術士長リュート・サードニクス殿との通話を願いたいのですが」
「アポイントメントはありますか」
「ありません」
「……少々お待ち下さい」
 ほんの少し間を置いて、通信手がそう告げる。始終、向こう側の微かな雑音を拾っていた箱が少し静かになった。音声を送る機能自体を一旦停止しているのだろう。
 しばらく待たされる間に、ウィルは後頭部を軽くさすってから、ちらりと後ろのソフィアの方を見た。が、ソフィアがつんとそっぽを向くと少々肩を落として机の方へ向き直った。
 と、その時再度、機械越しに伝わってくる雑音が聞こえ始めてきた。
「お待たせしました。回線を交換します」
「了解。お願いします」
 ウィルの応答を受けてまた雑音は途絶え、その代わりにかちゃかちゃと何か機械を操作しているような音が聞こえてくる。
 先程のように少々待つと、ぷつんと唐突にその音が切れた。ソフィアには分からなかったがそれが回線が切り替わった合図で、ウィルはそれに反応して呼びかけを行おうと小さな箱に顔を近づける。
 が、
「ようやく連絡寄越しましたねこの色ボケ放蕩国王。街ごとに伝言でいいから連絡入れなさいって言ったでしょう全く怠けるのは顔だけにしておきなさい、顔だけに」
 ウィルが何か一言でも発するよりも先に、慇懃な口調ながらも全く容赦のない説教だか罵倒だかがつらつらと流れ出てきて、ごんと重い物が落ちるような音が聞こえた。それはこちら側の音声で――つまるところ、ウィルががっくりと机に頭を落とした音だった。

「…………怠けるのは顔だけって……何でそこまで……」
 後頭部をぶつけたり額をぶつけたりと忙しいウィルは、何よりも先にそんな不平を呟いて、自分の体重を支えるように通信機の前に手をついた。何か色々疲れている様子である。
「ていうかリュートお前な、俺、ナーディって名乗ってかけたんだぞ? 本当にナーディだったらどうするんだよ」
「ナーディさんって教会の、大神官補佐役の方でしょう? 私、その方とは面識ありませんもの。アポもなしに直接かけてはこられないでしょう」
 憮然とした声で機械に向かって問いかけるウィルに、高くも低くもない音程の美声がしれっと返してくる。
 リュート・サードニクス。ウィルが偽名、というか通称として名乗っているサードニクス姓の本来の持ち主にして彼の兄同然の人物で、ソフィアにも色々と馴染みのある青年である。通信機越しの声を聞きながら、ソフィアは机に肘をついて完璧に脱力しきっている今のウィルとは対照的に椅子などに腰掛けながら泰然と長い足を組んでいたりする彼の姿を頭に思い描いた。多分実際に、向こう側にいる彼の態度は概ねそのような感じであることだろう。余談だが彼は、金髪碧眼の女性然とした美麗な容姿の保有者でウィルの凡庸といって差し支えない顔にけちをつけられるレベルは堂々とクリアしている。
 と、機械の向こうでそのリュートが独り言のような声を漏らした。
「……と言っても今ならちょっとナーディさんである可能性もあったかもしれませんでしたけれどね……」
「ん?」
 何かを含んだ色合いのある言葉にウィルは顔を上げて通信機を見やったが、微かに混じるノイズがその声に含まれる感情を少し分かりにくくしていて、彼は要領を得ない顔のまま小首を傾げた。声から思う所を読み取りにくいのには多大にこのリュートの性格上の理由も関係しているのだろうが。
「今、そちらどなたかいらっしゃいます? ソフィア様は?」
「?……ああ、いるよ。俺の他には彼女だけ」
「……それは都合がよかった。丁度ソフィア様に御連絡がありまして」
「あたし?」
 唐突に話を向けられてソフィアは膝を抱えたままきょとんと声を上げた。ウィルに手招きをして呼び寄せられて(恐らくあまり離れていては音声を拾えないのだろう)、ソフィアはとことこと彼の傍に寄る。確認するように顔を見上げると、ウィルは手振りで彼女を促してきたので、ソフィアは見よう見まねで機械に向かって声をかけた。
「こんにちは、リュートさん」
 とりあえず挨拶をして、本当に普通に喋るだけで声が届いたのだろうかとほんの少しどきどきとしながら待っていると、すぐに返事は返ってきた。
「ええ、お久しぶりです……という程でもないですね。ご機嫌麗しゅう、ソフィア様」
「えっと、あの」
 初めて使用した機材でちゃんと会話が成立したということに安心感を覚えながら、しかしソフィアはその代わり、あまり自分にかけられる事のないタイプの挨拶の文句に少しまごついて、慌てて告げる。
「ま、前からちょっと言おうと思ってたんだけど、そんな風に言わなくていいから。様とか」
「しかし」
「いいの、本当に。ほら、あたし『ソフィア』だから、あの、……普通の」
「……普通の?」
 妙なタイミングで横から声を挟んでくるウィルをソフィアが横目で睨むとウィルはさっと目を逸らした。それはそれとして、ソフィアと呼んで来ている人に対してソフィアだからという答えもそういえばおかしいかなと彼女は言ってから考えたのだが、あれこれと言い直すより先にリュートが「分かりました」と承諾してきたので、ひとまずそれでよかったことにして機械へと向き直った。
「ではソフィアさん。以前ご依頼頂いていたあれなんですが、先日ようやく発見することが出来ましたよ」
「えっ、本当!?」
 その報告にソフィアの声を高くして歓声を上げた。跳ね上がらんばかりのその様子に、ウィルが訝しげに彼女を見る。
「何のこと?」
「ええ。それで、お届けしようと思って先日、使いを送ったのですが、それが現在丁度そちらの街に到着しているんですよね。後ほどにでも受け取りに行って頂けますか? 中心街のエリシュラ・ホテルという所に泊まっているそうなので」
 慎重な調子で尋ねるウィルを遮り、機械からリュートの声がソフィアの歓声に答える形で続いてくる。
「うん、うん! すぐにでも行くよ。ありがとうリュートさん! 大好き!」
 感謝の言葉と同列な意味合いしか持たせずソフィアが口にしたその最後の一言に、ウィルはあからさまに嫌な顔をした。ソフィアは意識したわけではないがそんなウィルをまたもや無視するような形で、ふとその時感じた疑問をリュートに向けて投げかけていた。
「でもどうして、あたしたちがこの街に着くことが分かったの?」
 進む方角程度しか定めずに旅に出た人間を捕まえるには、少し準備が良すぎるような気がする。首を傾げるソフィアに、リュートは明快に答えた。
「もちろんそれは、そこに統括教会があるからですよ。陛下には、定期的にこちらに通信を入れるように言いつけていますので、それさえ忘れていなければ統括教会には必ず寄ることになるはずですから。他の教会でも、こちらに伝言を送ることは出来ますけれど、こちらからそちらへ連絡することは難しいですからね。人を経由しますから込み入った話も出来ませんし」
 通信設備のある統括教会でならば魔術士は今の彼らのように直接通信機を借りることも出来るが、通信設備のない一般の教会ではそれが出来ない。しかしその代わりに、伝言のサービスがあるのが普通だった。どこか遠方に連絡したい事項を書面で届け出ると、各教会の係員がそれを教区の統括教会に持って行き、そこからまとめて送信するという仕組みになる。これについてはソフィアも何度か利用したことがあった(そのサービスが実際どのように運用されているかは知らなかったが)。
「そっかぁ……」
 納得しかけて、ソフィアははたと気づく。この街へは、ただ単に現在の依頼主であるリエリアの旅程の都合で立ち寄る形になったのではなかっただろうか。しかも通過点の一つとして。
 問い質すようにウィルを見上げると、
「何もなくても寄るつもりではいたんだよー……」
 嘘か真か彼は少し情けない声でそう抗弁した。
「……ま、それはさておきエリシュラ・ホテル?だったわよね。後で行かなくちゃ」
「なあ、だから何の話なの、それ?」
 声を弾ませて話題を打ち切ったソフィアにウィルが先ほどと同様に尋ねる。ソフィアの笑顔が明るさを増せば増すほど、ウィルの表情はこれまでの経験則が囁くのかどんよりと曇っていく。
「何か微妙に嫌な予感がするんだけど」
「中々鋭いですよ、陛下」
 答えないソフィアの代わりにぽつりと無機質に囁いた通信機の声に、ウィルはゆっくりと顔をそちらへ向ける。縁起でもない宣告に、けれどもリュートは無責任にもそれ以上答えようとはしなかった。
「さて、時間も余りありませんでしょうからさくさく行きましょう。何かそちらでこれまでに問題や変わったこと等はありましたか?」
「いや特に……まあ何か色々今までしたことのない経験はする羽目になったこともあったような気もしなくもないけど」
 ぼそぼそとあちらに聞こえることを余り期待していないような小声で呟いているのはもしかしたら自分へのあてつけなのだろうかとソフィアは思ったが気にしないことにする。そんなことを言いながらウィルはふとあることを思い出したようで、あ、と声を上げた。
「一つだけあった。……悪い、いきなりなんだけど、ばれた」
「ばれたって……身分ですか?」
 恐らく柳眉をひそめているのだろう、そんな仕草が思い起こされる声でリュートが答える。
「うん、ちょっと前に立ち寄った街で、ご丁寧にも調べたらしくって」
 何週間か前の、宝石商のタリス・ブラウンの件についてである。
「それで、どうなったんです?」
「どうなった、ってことはないけど。ただ何か嫌味ったらしく遠まわしにそうだろって言われて、おしまい。嫌がらせでもしたかったんじゃないか?」
「……そんな馬鹿な。どこの世界に嫌がらせの為にそんな労力を払う人がいるんですか」
 気楽に告げたウィルに、リュートは疑わしげに返してくる。その自覚のない声にウィルはやや険悪に視線を細めて兄の声で喋る機械を睨み据えた。
「いや俺他にも知ってるけどなそういうつまらない嫌がらせに全力傾けそうな馬鹿。今目の前にいるけどな」
「ソフィアさんのことですか? 陛下、自分の恋人を悪し様に言うのは感心しませんね」
「お前だお前」
「失敬な」
 直接名指しされて鼻白むリュートだったが、反駁してくるかと思いきやそれは断念した調子で一旦軽く息をついた。
「しかし、調べたと言っても……まあ、解放軍側から当たれば調べられないこともないでしょうが。陛下がご自分で言ったのはサードニクスの名前と教会魔術士であることくらいですよね?」
「あと、魔術をいくつか知られたけど。呪文唱えないのとか」
「ふむ……」
 そんな呟きを置いて彼は一旦口を閉ざした。リュートも、特殊な魔術がその使用者を特定する足がかりになることは当然知っている。黙考の時間は十秒ほど続いて、彼はおそらく肩を竦めているのではないかと思われる声で呟いてきた。
「まあ、ばれてしまったものはどうしようもないですけれどね。その方のお名前は? 一応こちらも注意しておきますので」
「ブラウン商会の社長のタリス・ブラウンって人」
 かりかり、とペンを走らせている音が聞こえた。
「タリス・ブラウン……聞いたことがあるようなないような……とりあえず分かりました」
「で、そっちは何かないの? そういえばさっき何か言ってたけど」
 一段落がついて話題を切り替えたウィルに、リュートは言葉に詰まるというほどではないにしろ、一瞬だけ考慮する間をおいて返答を返してくる。
「まあ、あるといえばあります。ちょっと政治的な部分が絡んで面倒くさい上長いですけど聞きます?」
「ならいいや。やだ。聞かない」
「そんなこと言わずに聞いてくださいよ。仮にも国王でしょ」
「……じゃあ聞きますとか聞くなよな」
 選択肢を与えられたと見せかけて実はルートは一つだったというオチに微妙に諦めつつもウィルは呟いた。呟きながら、ふと思い出したように彼は、通話に使っている小さな機械ではなく、ボタンなどが色々とついている少し大きな複雑な機械に指を走らせて、かすかに顔をしかめた。
「悪い、リュート。もう時間がない。手短に話せる?」
「うーん、難しいですね。……今晩もう一度、そちらの通信機の予約が取れるように手配しておきましょう。済みませんが、その時に改めて」
「分かった」
「それでは、また後ほど」
 その声を最後に、ぶつり、と通信機から続いていたノイズは消えて、部屋に静寂が戻ってきた。
 ……ふう。
 ……はぁ。
 通信を切ったから、というわけではないのだが、ウィルとソフィアは同時に、篭っていた息を吐き出すような溜息をついた。思わず、お互いの顔を見合わせる。
「何か、凄かったねえ」
 ほんの少し、感動の色すら混ぜてそんなことを言ってくるソフィアに、ウィルはきょとんとした。
「何が」
「ウィルの苛められ具合」
「あ、そ」
「嘘よ。……仲良しね」
 それはそれで、ウィルは少し嫌そうな顔をする。機械に向き直り、無言で手を動かしてぱちぱちと各所のスイッチを切っていくウィルに、ソフィアはくすりと笑った。やっぱり血の繋がりのあるなしに関わらず兄弟は兄弟なんだなと、思う。
 ――つい何ヶ月か前までは、こんな兄弟に戻れる日が来るとは恐らく、彼らも思っていなかったのだろうと思うと、何だかソフィアまで嬉しくなってくるのだ。
「ちなみにあたし、まだちょっと怒ってるんだからね」
「え? ああ、はいはいさっきの件ね。調子に乗りまして大変悪うございました」
「このあとちょっと付き合ってくれたら許してあげないこともないわ」
「許すも許さないも、いつも付き合ってるじゃないか……」
 どこか呆れたように言うウィルに、ソフィアは素足でぺこんとウィルの足を蹴った。

「それで」
 教会を出た後、ソフィアの後に付き従って大通りを歩きながら、ウィルは彼女のぴょこぴょこと跳ねる背中に問いかけていた。
「さっきの、リュートと話してたあれって何なんだよ一体」
「これからそこに行くのー」
 要領を得ない答えが返ってくる。ウィルとて、多分向かう先がその目的地であろうことは既に予想できている。リュートからその報告を聞いたときの彼女の浮かれようを見れば、彼女の性格上すぐにでもその目的を達成しようと行動を開始するであろうことは疑う余地もなかった。今も、中心街と言われる方角に向かって人通りの多い中を進む彼女の姿は、その中でも目立つほどに浮かれきっている。軽くスキップまでしてしまう彼女に、「ちょっとソフィア」などとウィルがたしなめてみるも、彼女は全く聞く様子がない。
 十字路で一旦立ち止まり、ソフィアはきょときょとと周囲を見回し始めた。
「あのさ、そこに行くってのは分かるんだけどさ、」
「えっと、エリシュラ……あっ、あっちね。見つけた」
 視線を斜め上の方に向けて通りの各店舗の看板をウィルの倍くらいはよさそうな視力でざっと眺め、めでたく目的地を発見した彼女はスキップを再開して一直線に駆け出していく。何だかとことん無視されているような気がしながらもウィルはどうにかめげずに人ごみをかきわけて彼女のふわふわ動く亜麻色のストレートヘアを追いかけた。
「ちょっと、待ってって……」
 まあ待つわけがないだろうと半ば確信しながらも叫んだ言葉はやはり予想通り聞き入れてもらえず、ソフィアが意気揚々と駆け込んでいく先だけを見失わないように確認し続ける。彼女が一つの建物に消えていったのが見えた頃にようやくウィルは道を横断しきって、ひぃと情けない息をついた。疲れる。
 滴るほどの汗が出ているわけではないが何となく感覚で顎の下を拭って、ウィルは視線を上へと上げた。
 エリシュラ・ホテル、と先ほどのリュートとの通信で耳にした名詞が、真鍮の枠の飾り文字で綴られ、看板として掲げられていた。ざっと見てみると、先ほどの教会ほどではないがそれに近しい程度の豪勢さの建物で、それなりに格式のあるホテルでありそうなことが窺えた。……出来ればスキップで入っていっては欲しくない場所だ。というよりその横に立っているドアボーイ、そんな珍客をさらっと建物内に入れるな。
 八つ当たり気味に言いたい文句は山とあったがさすがに口には出さず、玄関ポーチを上がっていくと歩調を緩めることなく自然に入ってゆけるタイミングでその職務熱心なドアボーイはウィルも内部へと迎え入れた。
 中は大抵のホテルと変わらない作りで、まずソファーが点在する広いロビーがあり、その奥にカウンターが見て取れた。天井から垂れ下がるシャンデリアが高そうである。ソフィアの姿を探すと、彼女はやはり一目散に目標に向けて驀進しているらしく、既にカウンターの中の従業員の一人と会話に入っていた。
「ええっと、あ、ウィル、遅い」
 ほうほうの体で追いついてきたウィルに気づいたソフィアは振り返るなり酷い暴言を吐いた。
「あのねー……」
「ねーウィルどうしよう、リュートさんのお使いの人の名前、聞くの忘れちゃったよ」
「……今日は無視のオンパレードですねおぢょうさま」
 ウィルの文句を遮って訴えてきたソフィアに彼は引きつった笑顔で嫌味を投げつける。が、ソフィアは何のことやらと言わんばかりにそれをあっさりと躱し、再び「どうしよう」と呟いた。――確かに、気づいてみればすっかりとその重要事を聞くのを忘れていた。通話中に気づかなかったウィルやソフィアの失敗ではあるが、そんな大切な事を言い忘れたというのもリュートにしては珍しい。
「ウィルは名前見ればお城の人って分かるわよね」
 従業員に聞こえないようにこっそりと語りかけてくるソフィアに、ウィルは眉根を寄せた。
「多分分かるだろうけど、宿泊客名簿なんて見せてもらえないだろ」
「人を選んで渡すもの渡せば割と簡単に見せてもらえるわよ」
「うわー」
 また彼女のこれまでの所業を垣間見てしまったような気がする。畏れすら感じて身を引くウィルの前で、ソフィアは平然とした表情でカウンターに向き直ろうとして――
 その直前で、たまたま視界内に入ったらしいホールを凝視したまま停止した。
「ソフィア?」
 ぽかんとしたソフィアの顔に、問いかける。そのまま、ウィルもまた彼女の視線を辿るようにして振り向いたが、客で溢れるホールで彼女が何を注視しているのかは……
「あっ」
 唐突に、分かった。
 ホールにいくつも置かれているソファーのうちの一つ、丁度彼女の視線の真正面にあったものに座っていた一人の人影が、すくりと立ち上がったのが見えた。こちらの視線に相手も気がついたらしく、何か大きな荷物を携えて、けれども軽快に駆け寄ってくる。
 それは、ふわふわとした白い生地で作られた清楚なワンピースが良く似合う、ソフィアと同じ年頃の少女で、無論彼にもソフィアにも見覚えのある顔だった。
「やっと逢えた……ウィル、ソフィアさん」
 ホール内の暖気の所為か、ほんの少し上気させた頬にはにかんだような微笑を乗せて、少女は二人の前で足を止めた。
「ブラン……」
 その少女の名前を口にしたときに、ウィルはようやく気がついた。
 ――リュートが使者の名前を告げなかったのは、忘れていたからではなかった。……絶対わざとだ。


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