女神の魔術士 Chapter4 #1

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第4章 三対一の攻城戦


 ウィル・サードニクス、十九歳。
 生まれてからここに至るまでに重ねてきた月日は、人の一生を分母とした単純な比としてはまだ決して多い割合であるとは言えないが、同程度の日数を生きてきた若者よりは比較的中身の詰まった――充実した、とは本人は言いたくないと思っているが――人生を送ってきていると、ひとまず彼自身も自認している青年である。大規模な所では時代の趨勢と小規模な所では周辺の人間関係とにもみくちゃにされるような形の、濃度とともに起伏も割合激しかったこれまでの生涯の中で、一通りの幸福と、一通りの痛苦は経験してきて、それなりには世の中の酸いも甘いも噛み分けていると彼は自身を評価している。
 しかし今、そんな彼をいまだかつてない危機が襲っているのだった。
 それは、本来なら平穏であるべき幼年時代には体質と環境の関係上泣くほど密度の高い各種の修練(と書いて生き地獄と読む)を積まされ、心身を健全に育成すべき少年時代には戦時という異常な状況に鞭打たれ、揚々たる未来を仰ぐべき青年時代にはようやく平穏であるらしい世の中に住まう事が許されたものの自らわざわざ平穏ならざる影の部分に足を突っ込んでしまったりと、多様な危難を経験してきた彼にして、未だ感じたことのない特異な危機感であった。
 その特異さとは、湧き起こってくるこそばゆい痺れのような微妙な悦楽を伴う、けれどもぴりぴりと突き刺してくる鋭利な危うさであり、言うなればまさに背中合わせのベクトルで引っ張り合う幸福と痛苦であった。そのどちらともつかない――否、そのどちらもが高度な水準で共生するこの不可思議な感覚は、一体どう対処して良いものか彼を大いに悩ませていた。
 しかし、そんな青年の悩乱など露知らずと言った風情で、その感覚を彼に与えてくる要因その一は、ふんわりと、彼に甘い砂糖菓子のような声をかけてくる。
「ねぇ、ウィルさぁん、あっちのお店も見てみません?」
(……あああ、触ってる……)
 そうなのである。触っているのである。何がって……
 ウィルは、恐々としながら視線を目の高さよりも下に降ろした。上から顔は俯かせず視線だけを見下ろすようにして、自分の右の二の腕の辺りを眺める。そこには先程からずっと暖かく柔らかい感触が纏わりついている。
 まず目に入るのは、柔らかそうな頭髪だった。但しそれは、普段見慣れている亜麻色のストレートヘアではなく、それをもう少し退色させた色合いの豪奢なカーリーヘアである。その髪が存在する位置も、亜麻色の髪よりはいくばくか目線に近い高さで、軽やかな巻き毛の一房が歩調に合わせてふわりと跳ね上がればそれが放つ薔薇の花のような芳香と共に容易に唇に触れ、どきりとする。
 それに彼女の方も気付くのか、ふとした拍子に顔を上向かせてウィルの目を覗き込み、整った美女の顔で柔らかな微笑みを浮かべたりするのだ。
 彼女の名はリエリア。隣国フレドリックに作業場を構えているという行商の薬師の女である。年齢は、ウィルは尋ねてはいないが恐らくは彼自身よりも少し上。みずみずしい若さと大人の色香が程よく交じり合う年頃である。豪奢な髪とそれに見合う雰囲気を持つ彼女は、ソフィアと違って自身も己の魅力というものを正確に理解しているようで、旅装も機能面に支障が出ないぎりぎりのラインまで華やかに装っている。見た目は薬師というより、王都あたりで高級クラブでも経営していそうな、売るほどの色気はあれども安売りはしなさそうな雰囲気を持つこの女性は、先日、遺跡の罠にかかって倒れたソフィアへの施療をたまたま依頼した相手であり、その引き換えに今、ウィルたちは彼女の旅に護衛として同行している。
 ――そう、彼女と彼の間柄は雇い主と護衛、のはずなのだが。
 リエリアが目的としている街へ向かうには半月近くかかる長旅を経る必要があり、その途中には当然いくつもの街を通過せねばならず、今現在彼らが大通りを歩いているのもそういった街のひとつであった。女性の独り旅の危険は市街地の中にも存在するので、護衛としては最終目的地に到達するまでは都市への滞在中と言えどもその任が解かれることはない。だから、今こうして街中を歩く彼女の傍にいるという事は正当な職務の一環であるとウィルにも理解出来る。が。
 ……ちょっと、その距離が、ウィルが予め想定していたものよりも妙に近かったりするのだ。
 実はこの一つ目の滞在地に至るまでの山道でも、この程度接近して、時には抱きかかえるようにして進んだりもしてはいたのだったが、国境付近の険しい野山は、か弱い女性には歩き通すのが難しいのだろうと考えていた為意識するに至らなかったのである。
 けれどもそんな体勢のままで街中に入ってしまうと、さすがに少々第三者から見るニュアンスが違ってくるらしいことにウィルも気がつき始めた。
 腕を組み合って密着し、大通りを闊歩する若い男女の二人連れ。これが事情を知らない人間からはごく一般的にどのように見えるかなどとは、説明するまでもないだろう。実際横をすれ違う通行人の中には、冷やかすような視線をちらりと送ってくるような者も少なからずいる。自分とこの女性の今の様子を、他の誰かの目から見ているような錯覚でウィルは意識して、生唾を飲む――のは、何とか堪える。この反応はさすがにまずい。いろいろ。
 しかし、甘い匂いや髪のくすぐるような感触そのものも、この女性に対して何ら下心を持っていないと女神に誓おうとも妙に艶めかしい情動を煽って止まない訳だが、何より問題なのはもう少しポジション的に下方に位置する部位の接触なのだった。
 つまり、である。それほど至近に彼女の髪が存在するという事は、その本体――彼女の身体の方もそれだけ間近に存在しているという事で。ほっそりとした女の腕は、ウィルの右腕にしっとりと、それでいてしっかりと巻き付いて来ていて。二の腕の、肘の少しだけ上の辺り。そこに非常に何と言うか彼女の腕の付け根当たりに存在する弾力性たっぷりの暖かいかたまりが押し付けられるような格好になっている訳で……
(……ああああ、触ってる、ってか、うわー、あの、信じられないほど柔らかいんですが……)
 これがまた結構たまらない訳なのだ。正の意味でも負の意味でも。
 見た目はソフィア程ではないがそれでもかなりほっそりとした体つきの女性であるように見えていたが、中々どうしてこうやって接触してみると出るべき所は相当に豊かに出ている様子が感じ取れる。ソフィアも何の気もなくぺたっと腕などに引っ付いてくる事があり、時たま今の体勢と同等の状況になることもあるのだが、ソフィアの場合は違うのである。そのまま。ぺた、なのである。それと比べるとリエリアの感触はまさに、もふっ、と言った感じでその格差は並べて比べるべくもないといった調子である。例えるならりんごとメロン。柔らかくも暖かい特大のメロンがウィルの肘で、ぎゅむ、とばかりにその立派な形を崩しているのだ。これで何も感じずにいられるほどこの十九歳の青年は枯れてはいない。例えこの女性に何らかの感情を抱いているという訳でなくともここで、激しい血液の循環をその身に覚えてしまうのは、男として至極当然の生理だろう。
 正直に言えば心地よい。それ以外の何物でもない。けれども何の他意もなく(……であろう。まさかこんな美女が自分に……と思う程はさすがに己惚れてはいないつもりだった)コミュニケーションを取ってきてくれている女性に対してこのような下品な感情を抱いてしまう罪悪感もほんのりと感じてしまう。これが前述の「湧き起こってくるこそばゆい痺れのような微妙な悦楽を伴う、けれどもぴりぴりと突き刺してくる鋭利な危うさ」の読点よりも前の文節に当たる感触であった。
 ……と、現状況に対する考察の丁度半分を終えた所で、ウィルは意図的に忘れようとしていた上記の一文の後半部分――要因その二に対して、ようやく向き合う事を決意した。いつまでも現実逃避していても仕方がない。
 但しそれは、意識は向けるけれども、という意味で、現実に目と目を合わせて向き合う勇気はまだない。リエリアの指し示す方向に引きずられながら引き攣った愛想笑いのような笑みを貼り付け続けるウィルの顔面に、真冬の屋外であるというのに妙な汗がじっとりと滲んで来ている。背後から肩越しに、隣の女性の甘やかさに敵愾心を燃やすかのような鋭さでこれ以上なく刺々しく、ちくちくどころかぐりぐりとねじり込んでくる勢いで責め立ててくる視線を、やっぱり感じなかった事にしてしまうおうかと半ば本気で考え始める彼である。
 特に具体的に何をされているという訳ではない。後ろの少女はウィルに声を掛けすらもしない。ただ、黙って視線を投げかけているだけである。氷点下の冷たさで、硝子のような鋭さで。鍛練を積み道を極めた剣士などは、眼光や気合、あるいは殺気などで、敵の心身を斬るような真似をするという。完全無欠の戦士たる彼女ならば、そういうことも出来るかもしれない。後ろから。ウィルが気付く間もなく、ばっさりと。一息に。
 やられる。
 この瞬間とて、特別、何かしらの挙動を察知した訳ではないし、そもそも彼女も腕一つ動かしていない。が、ウィルは、唐突に強烈な悪感を伴う恐怖を覚えて、即座に後ろを振り向いた。
「そ、ソフィア」
「なあに、ウィル?」
 にこり。振り向けばきっかり五歩分後ろにいた少女は、一見した所微塵の悪意も害意も感じない完璧な笑顔を浮かべて、ウィルの呼びかけに応じた。背負い鞄の肩紐に両手を休めるようにかけた楽な体勢で、重心の取り方も、足の裏全体にまんべんなく力を分散させた、特に急制動を予定していないごく普通の立ち方を取っている。浮かべる笑顔には、ずっと背中に感じていた身を切るような視線の片鱗すらない。その姿は飾り気のない旅装ではあったが、他者に害を与え得るなどとは到底思えない、虫を殺す事すら出来そうにない深窓の令嬢のように見えた。
 けれども、ウィルの脂汗は止まる所を知らなかった。彼自身も、具体的に彼女のどこに危機感を覚えているのか全く分からない。けれども、これまでの生涯の中で培ってきた、第六感ともいうべき己の危機に対する直感。何か、そのようなものに囁かれている感じがする。
「ちょ、ちょっと、リエリアさん、いいかな」
「あん」
 ウィルは自分の腕に絡み付くリエリアを引き剥がそうと肩を揺らした。だが、彼女は腕を放そうとはせず、逆にその勢いでウィルの肩に軽くぶつかってきた。ウィルにぴっとりと寄り添うように。
「……ええと」
 薬師などを営んでいるくらいだから、聡い女性であるはずで、自分の意図を汲んでもらえると思ったのだがその当てが外れて、ウィルは困ったように呻いた。眉を寄せた彼を、リエリアは上目遣いに見つめ上げた。小犬のような、と言うのとは少し違う、甘えたな若い雌猫のような視線を受けて、さすがにウィルは頬に朱が差すのを感じる。
「お嫌だった?」
 リエリアは、ほんの少しだけしゅんとした様子で、ストレートにそう尋ねてきた。
「え、あの、嫌、っていうか」
 社会経験を重ねてきたと言っても、こと女性の扱いに関してはさほどの経験を積んでいないウィルは、女性の心の機微を慎重に汲み取らねばならない場面においてまごつく以外に取れる行動選択肢を持ち合わせていなかった。嫌だ、という訳ではない、別に。否、嫌といえば嫌な状況だ。だが、それは別に彼女のせいではなく。――それでもやんわりと嫌だという意味の返答をしておけば良いものの、ウィルはそこまで気を回す事が出来ず、動転したしどろもどろな返答を返す事が精いっぱいだった。視界から外れたソフィアからの視線の鋭度が、やにわに増してくる。
(も、もうどうしろって言うんだ……)
 もしかしたら泣き出してしまうのではないか、という程切なげなリエリアの視線と、もしかしたらそれだけで焼き殺されてしまうのではないか、という程痛烈な背後からの光線に挟撃を受けながら、ウィルは思う。泣きたいのはこっちである。ていうか泣く。泣いてやる。
 精神面も臨界地点まで差し迫り、もはや男としてのプライドもどこかに飛んでいきそうな気配がしてきたその瞬間に、唐突にリエリアは猫の目のように表情を翻した。極限に自我を置くウィルの様子からなんとなく彼の言わんとしている事を察してくれたのだろうか。大人の女性の、ゆとりある笑みに戻る。
「何だ、そうならそうとおっしゃってくれればよいのに」
(……た、助かった)
 だが、安堵の息を吐いたのも束の間。
「こちらのお店はお嫌だったのね。言って下さっていいのよ、遠慮深い方。……じゃあ、あちらのお店に行きましょ」
 リエリアはウィルの腕をしっかりと掴まえたまま、するすると通りの反対側に歩き出していくのだった。
「ああああ……」
 思わず掠れた肉声が出る。が、彼女はウィルの涙声には気付かないようだった。買い物中の女性に顕著に見られる機嫌の良さを纏い、男一人を引き回しているとは思えない軽い歩調で人通りの多い通りを突き進んでゆく。
 その代わりと言っては何だが、背後の少女の視線の方は、先程よりもぐっと強く、抉ってごりごりとちぎり取るような勢いで自分に突き刺さって来ているのが彼には分かった。


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