女神の魔術士 Chapter3 #5

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「陛、下」
 唐突に耳元で囁かれた声は、ウィルの心臓を一回だけ強く跳ねさせた。それに伴って、微かな痛みすら伴う緊張が全身に与えられる。もっともそれは一瞬の刺激にしか過ぎず、ウィルはゆっくりとそのこわばりから身体を引き剥がし、肩に顔を埋める少女の様子をそっと窺った。
「ソフィア?」
 呼びかけてみたが、答えはない。寝言だったようだ。
 息をつく。安堵のと言うには少し重い、疲れの混じった吐息を。
 いくつかの罠を回避するのに、もう幾度も魔術を行使してしまっていて、その疲労は既にかなり溜まっていた。少女を気遣いながら、背中を軽く跳ね上げて、彼女を背負う位置を調節する。やや体勢が楽になった事を確認して、ウィルは先程よりはもう少し軽く息を吐いた。
「……全く、何の夢を見てるんだよ。今更……」
 彼女が呼ぶその名は、多分彼女にとって良い思い出も多分に詰まっているものであろうとは思うが――或いはそう信じたいが、それと同等以上の辛い記憶も含んでいる。そんな夢をわざわざ、今こんな時に見なくてもいいだろうに、と彼女の恋人として思いながら、魔術士としての考察をそこに重ねる。
 魔力は人の精神力を媒介として魔術という物理力を示す源であり、元来意識との親和性の高い力であるので、その影響が夢に出るということも、もしかしたらあるのかもしれない。
 不安を感じていれば、それなりの夢を見る、という事も……
「さしずめ自動悪夢見せ装置って所か。嫌な罠だなぁ」
 本来はそれどころで済むはずの無い罠だという事は十分承知してはいたが、敢えて乾いた笑いと共に軽い口調で呟く。軽い冗談のその奥に残ったほの哀しく暖かな笑みを、ウィルは声だけで彼女に向けた。
「……大丈夫だよ、ソフィア。それは夢だから。ただの夢だから。心配しないで」
 俺は、もうどこにも行かないから――



 ――そう、これは、夢。
 あたしたちが出会った過去。
 まどろみの温もりと、柔らかな風の匂いに包まれた、
 優しい、優しい、
 悪夢。



 それから何日もの間、彼女は常にその少年と共に過ごした。
 食事の時も、遊ぶ時も、勉強をする時も、眠る時も。
 それまでの例だと、少女が来訪中であっても少年は日常の公務を休む事はなく、一緒に遊べるのは彼が仕事を終えてから――最も早くても午後のおやつの時間以降であった為、少女は午前中などは数人の目付け役と大人しく待っていなければならなかった。……実際の所、本当に大人しく待っていられたのは皆無に近かったとしても。
 だというのに今回だけはいつになく、彼は少女といる時間を多く取ってくれているのだった。二人で遊んでいる彼の私室や中庭に、何やら伝達事項の書かれた紙切れを携えた従者が訪れる事はままあったが、普段ならその招請に応じて執務室へと戻っていく彼が、一言二言言葉を交しただけで少女の元に戻ってくるのである。
 いつもと違うその様子に、しかし少女は不安よりも大きな喜びを感じていた。単純明快に、長い時間彼と遊んでいられる事を幸せと感じていた。ずっとこの時間が続けばと、純粋に願っていた。
 その望みがこの後、永きに渡って絶たれる事になるとは想像することもなく。

「あ。リュートさん」
 彼女らと同じ年頃の子供が十人ほども眠れそうな広いベッドに、少年と二人で腹ばいになりながら絵本を読んでいた少女は、ノックの返事も待たず部屋の扉を開けた金髪の青年の顔を見てその名を呼びかけた。
 少年の兄に当たる青年であった。――本当の兄ではないと少女は聞いていたが、彼女自身少年の事を兄のように思っていたので、多分そんなものなのだろうと自然に納得していた。少女らの身長との比を抜きにしても十分に背の高い青年は、部屋の入り口に立ち尽くしたまま、一言「陛下」と少年の事を呼んだ。少女の頭を撫でてから彼女の隣を離れた少年と、部屋の入り口でそのまま会話を交しはじめる。
 少女にとって彼らの仕事の話は難しすぎて、今迄このような機会があっても興味の欠片も持った事は無かったのだが、この時来たのが珍しく傍仕えの従者ではなく、この王城内でも高い地位にあるリュートであったので、彼女は彼らの会話にこっそりと聞き耳を立てていた。
 恐らくそんな少女には気付かなかったのであろう、リュートは微かな声で――けれどもか細くはない硬い緊張に満ちた声で、一言、告げた。
「ローレンシア国王陛下が、お隠れ遊ばされました」
 その一瞬。
 本当に、一瞬だけ、少年は様子を盗み見ていた少女がびくりと脅えるほどに厳しい顔つきをした。唇が何か言葉を形作ろうとしたが、すぐさまその何かを押し止めようとでもするかのように頬の奥で奥歯が強く噛み締められる。その後、小さく吐息してから、彼は低く問い掛けた。
「確かか」
「王の最後の勅命を受けた早馬が先程到着しました。王自らが近衛騎士団を率いて抗戦なされるも、多勢に押し切られる形で宮殿内への侵入を許し、白亜の間にて御首級を奪われた由に」
「そうか……」
「ねえねえ、陛下」
 二人の会話に空隙が生じたその瞬間に、そこに滑り込んできた声に、二人はぎょっとした様子で声の持ち主である幼い姫君に視線を集めた。先程の一言を告げられた時の少年のものに似たその表情に彼女は一瞬、叱られるのだろうかと躊躇したが、難しい会話の中に気になる言葉を見つけていたので、恐る恐るながらも質問を続けた。
「お父様が、隠れたって」
 少年は、そこで目を見開いたが声を出す事はなく、少女の方は、ことりと小首を傾げた。
「かくれんぼ?」
 ――彼女には、その言葉の意味が分かっていなかった。
 まばたきも出来ないほどに緊張していた少年が、ふっと目元から力を抜いた。優しく微笑んで、リュートに背を向け少女の元に戻ってくる。
(やっぱり、今日もちゃんと戻ってきてくれるんだ)
 と、少女はにこりとした。少年の兄であり、最も近しい部下でもあるリュートが持ってくるのは大切な話のはずで、だから今回ばかりは仕事に連れ出されてしまうのではと危惧していたのだが、どうやらそういう事はないらしい。
 少女がちょこんと座っているベッドの端に、少年は身体を彼女の方に向けるように腰掛けて、何も言わず笑って彼女の髪を指で梳いた。
 とても優しくて、優し過ぎて、どうしてか、ひどく哀しい笑顔で。
 少女には、彼が何故そんな顔をするのかが全く分からなかった。けれどもぱちぱちと目をしばたいているうちに、彼の腕の中に抱きしめられたので、少女はその嬉しい感触の中に疑問を置いてきてしまった。小さな彼女でも腕を回す事の出来る小さな少年の背に、ぎゅっとしがみつく。
(あったかい……お父様みたい)
 身体の大きさは全く違う彼と父だけれど、抱きしめられた時に心の中にぽっと灯る暖かさは全く同じものだった。
「……それで、いかがなさいますか」
 二人の無言の会話の中に、遠慮がちに、リュートが割り入ってきた。漠然とした問いかけに、少年は一呼吸分の時間だけ黙考し、およそ子供らしからぬ威厳ある口調で告げる。
「ノースフライト山脈側国境地帯に第一級戦闘配備。細かい指示は任せる。……城下にも、その報を流して構わない。街を発つ者に対し、移動の制限をかけることを禁じる。城の者にも他所に縁のある者には暇を出してやれ」
 リュートの、形の整った眉がぴくりと動く。
「宜しいのですか」
「万一の時の為の対処だ。極力国境で押さえろ」
「承知致しました」
 二度問う事はなく頭を下げて、彼は踵を返した。
 しかし、そのまま退室しようとする彼を、今度は少年の方が呼び止める。
「リュート」
「はい」
 ドアノブに手をかけたまま、リュートは肩越しに少年を振り返った。
「お前も、ファビュラスに戻っておくか?」
「はぁ?」
 神妙な口調で呟いた少年に、対して青年は柳眉をひそめて心底呆れ果てた声を上げた。
「何言ってるんですか? エルフィーナ様と遊び呆けて頭の中まで呆けてしまわれてるんですか? それはボケですか、色ボケですか、どっちですか? どちらであるにしろその年齢では恥ずかしい事この上ありませんし何より先が思いやられてなりませんので勘弁して下さい。……とりあえず寝言を言ってないでさっさとエルフィーナ様に絵本の続きでも読んであげてて下さい」
「……嫌味長い、お前」
「馬鹿な事を言うからです」
 呆れ声にほんの少しだけ、怒りのようなものを混ぜた複雑な声音でリュートは主に向かって遠慮なく言い放った。
「私は常にあなたと共に在ります。例え離れる事があっても。忘れないで下さい、陛下」
「私も! 私も陛下と一緒にいるよっ!」
 少女が、よく分からないながらも彼らの会話に便乗すると、リュートも少年も、揃って目を丸くしてから、おかしそうに笑った。全くの子供扱いに、少女はちょっとだけむくれてみせて、ぷう、という空気と共に呟きを洩らす。
「一緒にいるもん」
「うん。分かってるよ、エルフィーナ。……君は、」
 僕が護るから。
 少女にしか聞こえない囁きで、しかしながら強く言い切られたその言葉に、彼女は何の疑いもなく頷く。この少年は、初めて会った時からずっと、無心に信頼出来る保護者だった。
 幼い二人の愛らしいやり取りに微笑みを残してリュートは去り、彼らはまた誰にも邪魔されない楽しい遊びの時間に戻る。

 それは当たり前で、責められるべき事ではないと彼女自身現在でも自覚してはいるが、その時の彼女は全くその言葉の重みが分かっていなかった。彼女が軽々しく口にした願いはどう足掻いても不可能な言葉で、あの少年にはそれは多分薄々どころではなく分かっていて、けれどそんな思いなんておくびにも出さずに頷いていた。笑っていた。

 陽は急速に傾いてゆく。

 その境界となるべき日を過ぎても、彼女の生活は何ら変化を来たさなかった。それは、影で支払われた少年らの多大な努力の結実に相違無く、その意味では骨身を削る労苦は十分に報われたと、彼自身は言うのかも知れない。平穏な時間を密やかに突き崩してゆくそれを、彼は少女に結局最後の日まで気づかせることはなかったのだから。
 その日は朝方から強い雨が降っていて、昼時になっても尚太陽は厚い雲に覆い隠され薄暗かった。少女は嵐が来ているからと少年に言いつけられた通りに一日中部屋の鎧戸を締め切ったまま、ランプに火をつけて絵本を読んでいた。この日は少年は、今回の来訪で初めて、今日はあまり共にいてやる事は出来ないと朝に言い残して部屋を出たきりになっていた。彼と一緒にいられないのは寂しかったが、この所ずっと彼と一緒であったために、絵本を自分で読む練習をしていなかったので、彼女は比較的聞き分けよく彼の言いつけを守っていた。絵本を読み聞かせてもらうのも好きなのだが、読み聞かせる事も好きなので、人知れず行う事にしているこの練習は欠かすことが出来ないのである。
 彼が戻ってきたら聞かせてあげる予定となっている物語の準備を着々と進めるうちに、時は夕刻に差し掛かっていた。外の空気と触れる機会は部屋に食事を運んできて貰う時のみで、外界から隔絶され変化のない部屋は時間の感覚を鈍らせていたが、鎧戸の隙間から夕焼けの赤い光が糸のように差し込んできたことに彼女は気がついたのだ。
 彼女は寝そべっていたベッドから、ぴょんと仔兎のように飛び降りた。
 ――何故かこの日は、窓を開けてはいけないばかりか部屋からも決して出ないように言われていて、やるべき事はたくさんあり忙しかったものの彼女は相応に退屈していたのだった。
 彼女の足にぴったりになるよう作られた小さなスリッパを爪先に引っかけて、ぺたぺたと窓際に歩く。
 ――部屋の外ではこの静かな城においては珍しく一日中、今の少女と対照的な慌ただしさで誰かが走り回っている音が聞こえていて、外の様子は気になってはいた。
 鎧戸の重い鍵を外し、小さな若葉のような手をそっと木枠に添えて、押し開ける。
 夕焼けに似た赤く強い光が目に飛び込んで来る。
 明日は晴れる。
 明日は晴れて、陛下とお外で遊べる。
 その喜びを胸に湛えて、外光に目を慣らした少女が眼下に見たものは――

「陛下、陛下……」
 それしか縋るものが分からなくて、彼女は呪文のように繰り返しながら部屋を出た。
 焦燥を表情に湛え行き交う人々に踏み潰されそうになりながら、当ても無く彼を捜す。
 崩れて行く。
 今迄途絶えていた外界が、急速に彼女の中に入り込んでくる。
 部屋の外では怒号、若しくは泣き声に近い声が渦巻いていた。普段ならば彼女を見かければ通路の端に寄り膝を折って礼をする侍女たちは見当たらず、代わりに武装した騎士が城内を闊歩していた。
 陛下。陛下。陛下。……
 声にもならない声で、彼女は唱え続ける。
 崩壊が止まる事それだけを祈って。

 開け放たれた窓から部屋に舞い込んできたのは明日の晴天を約束する夕焼けの光ではなく。
 闇を抱く空の下街を焼いて迫り来る赤い赤い炎の色。

 実の所、それが何を意味するか、彼女には正確には分かってはいなかった。その意味も、それが何をもたらすかも全く分かってはいなかった。けれども、その赤が。希望に繋がるものと思っていたその赤が彼女を裏切っていた事だけは、気がついてしまって。
「エルフィーナ様!」
 聞き慣れた声に呼びかけられたその時も、彼女はいつもならばとうに流していたはずの涙を瞳に浮かべる事すら出来なくて。
「ご無事でよかった。……広間に参りましょう。陛下がお待ちですよ」
 抱きかかえられた青年の肩に、彼女は固く顔を伏せた。
 何も見たくない。何も聞きたくない。
 天を焼く炎の色。それの爆ぜる音。足音。声。
 喧騒の中に混じっていた言葉が、耳に響く。
 恐らくは、彼女がそこにいた事に気付いていなかったのだろう。部屋を出た彼女の耳に、投げ捨てられた言葉は第一声として届いていた。

「もっと早く王女を他国にお逃がししてさえいれば――」
「敵の目的は――」
「……である王女の御身柄――」

 崩壊は、止まらない。

 普段は浩々と灯りが灯されているはずの広間は闇に満ちていた。それでも少年は彼女を間違うことなく引き寄せて、抱きしめる。
「よかった……エルフィーナ……」
 広間には他にも人はいくらかいるようだった。人の匂いがする。人の、血の匂い。
 あの街を染め上げた色と同じ赤の匂い。
 よかった?
 よかったって、言うの?
 私がいて、よかったって、言うの?

 ――私が。

 ――あの赤を。

 暗闇に火が灯る。少年の顔を確認して安堵を得たのも束の間彼は私に背を向けた。崩れる。彼をこの場所に残して、私はここから離れる。崩れる。迫り来る足音。崩れる。炎の中に立つ古城。崩れる。あの中に残る少年。崩れる。雨の中。崩れる。私だけが、絶対なる力に包まれて。崩れる。崩れる、意識。
 私だけが安全と穏やかな幸せを得て一人、
 私が何もかも忘れてしまった後も彼だけは一人、
 斬られ焼かれ打たれ抉られ剥がされ刻まれ身体中の傷痕冷たくて動かない左腕

 ――あなたに注いだ原因なのに。



(……違う)
 己の声で、少女は己の意識を断ち切った。
 混沌と渦巻いていてもはや入口も出口も分からなかった意識が唐突に、鋏を入れられたかのようにその切り口を明確にする。ほんとうのものと、そうでないものが、区分けされる。
(違う。いや、大体は違わないんだけど……途中、凄く微妙に違う。あたし、そんな言葉、聞いてない)
 少女は確かめるように繰り返す。もう幼くはない、己の声で。
『もっと早く王女を他国にお逃がししてさえいれば――』
『敵の目的は――』
『……である王女の御身柄――』
 それは、混乱が生んだ偽の記憶だ。例え重臣であろうと、少年やリュート以外の者は、彼女自身すら含めて、その事を知ることすら無かったはずだ。
 ――それでも――
 身体の奥底から他人のように囁きかけてくる自分の声を、彼女は――ソフィアは、驚くことなく、それと真っ正面から相対するように見据えた。特に物理的な空間の概念があった訳ではないので、見据えるといっても単純に意識的なものにしか過ぎないが。
 ――それでも、真実には変わりが無い。その時は知ることが無かっただけで、それが自分の所為であった事には、変わりが無い――
(それは認めるわ。だからこそ、こんな夢を見ちゃってるんだと思うし)
 前に、ソフィアはウィルに対してその旨の発言をした事があった。
『あたし……が……』
『全部の、原因なんだね。戦争が起こったのも、リュートさんが……ああいう事になってしまったのも』
『貴方を傷つけたのも』
 彼は何か言いたげにしていたが、当人がどう言おうとその事実は変わらない。
 ……けれども。
 オマエサエイナケレバ。
 そこに帰結してもおかしくない痛苦を背負わされた彼は今でも何と言っている?
 本当に。呆れるほどに。スタイルもよくない色気も無い可愛げも多分あんまりない自分の何がそこまで良いのだか、全く分からない事ながら……
(だから、少なくとも、彼がそう言ってくれている間は、あたしは、今のままでいたい)
 そんな宣言に対して、
 ――あまりにも身勝手だ――
 湧き起こってくる当然過ぎる責めに、ソフィアは苦笑する。
(ごもっともだわ。さすが。的確。ナイスツッコミあたし)
 彼がどう思おうとも消えない。彼に刻まれた決して癒えない傷と同様にこの事実は消える事はない。
 彼の身に起きた過去と、因を同じくして起こるかもしれない未来。
 これからも、彼の傍にいる限り、その可能性はきっとなくならない。永遠に。
 忘れない。忘れてはいけない。忘れるつもりもない。
 再会して以降も、幾度も重ねてきた胸の痛み。その連鎖を断ち切らんと本意ではない決断を下そうとした人までをも拒絶して得た現在という我侭。
 彼と共に過ごすという一時の幸福は取り返しのつかない麻薬。
 本来ならば叶えられぬ定めの願い。
 あたしは――
 ――……なのだから。
(……でも、それでも……)
 ゆらゆらと揺らいでいるのは、闇か。意識か。それとも決意か。
(あたし、は)
 対峙する自分が、囁きながら薄れてゆく。
 ――――――



 ――――――
 ……目が覚めて。
 ソフィアはまず最初に、この部屋の古くて黒ずんだ天井の板に描き込まれた木目の形が、ショックを受けて大口を開けて叫んでいる人の顔のように見えるということに気がついた。少々縦に細長く伸び過ぎた感じだが、あまりの驚愕に戦いている表現と言われれば、そんな感じかもしれない、と思う。もっとも、誰かが意図して創り上げた意匠ではないわけだが……
 取り留めも意味も無い事を考えつつ、寝心地は特に悪いものではないが耳障りな軋みがほんの少し気にかかる、ふもとの村にただ一軒しかなかった宿屋に据え置かれたベッドの上で半分だけ寝返りをして、彼女は顔を、室内の側に向けた。
 と、そこでぎょっとする。
 そちらの方にウィルの姿が見られるか、または誰の姿も無いかの二つのみしか想定していなかった彼女の瞳に、思いもよらない別の回答が提示されたのだった。
 彼女の目に映ったのは、ウェーブのかかった豪奢な金髪の、見たことも無い後ろ姿だった。
「えっ!?」
 思わず声を上げて跳ね起きると、その背中の持ち主は「あら」と声を上げてソフィアに顔を見せた。彼女よりは……いや、もしかしたらウィルよりも少し上くらいかもしれない妙齢の女性で、やはり正面から見ても、見覚えは……ない。後ろ姿の印象ほど派手派手しくはないが華のある印象的な容姿だったので、比較的人の顔を記憶する事には自信のあるソフィアならば、一度でも会っていれば覚えているはずだった。
 唖然とするソフィアの顔を見て、女性はにこりと笑い、それからドアの外に向けて声を発した。
「ウィルさぁーん、起きられたわよー」
 それに応え、恐らく隣室から、だん! ばたん! だだだ! と、続けざまに何やら激しい音が聞こえてくる。
「ソフィアっ!」
 声と共に、髪やら上着やらが色々ぐちゃぐちゃになっているウィルが部屋に飛び込んできた。
「大丈夫か!?」
「えっと、あの……」
 その勢いに少々どころではなく引いていると、ウィルは、分かっているから無理するな、とでもいう感じにソフィアをベッドに再び寝かしつけつつ告げてくる。
「大丈夫、心配しなくていい。ここは村の宿屋に取った部屋だから。あの遺跡で君、意識を失ってしまって。どうにか村まで降りてきて、多分魔力の影響だとは思ったんだけど、一応薬師の人を呼んで診てもらった所で」
 ソフィアの戸惑いを、状況が理解出来ていない為の物であると考えたのだろう。ウィルが説明のついでに動かした視線をソフィアは辿った。部屋の入り口付近にいた女性はソフィアと目を合わせると、落ち着いた仕草で目礼をして退出した。
「薬師って、今の女の人?」
「ああ、後でちゃんと紹介するけど、フレドリックの薬師のリエリアさんって人。たまたまこの村に来ていたみたいで、運がよかった」
 村に住むまじない師や神官と取り引きをする為に地方を巡り歩いている薬師は珍しいものではない。彼らは基本的には商売人ではあるが、他の何者よりも薬草の扱いに長けている医療のエキスパートでもある。ソフィアはふうんと頷いて、ぽつりと呟いた。
「綺麗な人ね」
「あ、人の美醜は分かるんだ」
「? 何よ」
 何か裏に一言二言内包していそうなウィルの言葉に、ソフィアは怪訝な視線を向けたが、彼は素知らぬ振りを決め込んだ。話を逸らすように、告げてくる。
「……で、勝手に決めちゃって悪いんだけど、この報酬って事で、彼女が別の街に行くまでの護衛を引き受けたんだ。いい?」
「綺麗だから?」
 逸れた部分を引き戻すソフィアの問いにウィルは少し顔を引き攣らせる。
「報酬だってば。山越えてフレドリックのローゼリアまで行く予定だそうなんだけど、こんな村じゃ護衛一人見つけるのも大変だろ」
「だから引き受けたの? もしかしてウィルから言ったの? 宜しければ僕が護衛しますよとか調子のいいことを? ファーストネームで呼んでもらってニヤリって感じで? 綺麗だから?」
「あのねえ……。まったりとしつこく引っ張るね。違うって」
 やり取りが面倒臭くなったのか、ウィルは上掛けをソフィアの肩を通り越して口元まで来るほど引っ張って、幼い子供を寝かしつけるような仕草でぽんぽんと布団の上から叩いた。ソフィアはその布団の下で、唇を尖らせた。
「報酬だって言うならもういいも悪いも無いじゃない」
「分かってるならいちいち突っかかるなよ」
「そんな事言うならいちいちいいかどうかなんて聞かなきゃいいじゃない」
「あーはいはい。俺が悪うございましたよ。……全く、何もさせてくれない割にやきもちだけは一丁前に焼くんだから」
 そんな事をのたまうウィルに反論や反撃を行う代わりに、ソフィアはしらっと無視して目を閉じた。口で反論されるよりも微妙に効いたようで、何かぶつぶつと文句を垂れているのがしばし聞こえてきて、その最後に何故か大きなあくびの音が付随した。
 目を開けて、ウィルを眺める。そういえば、このだらしなく乱れた格好の理由を確認していなかった。
「もしかして、寝てた?」
 隣室から聞こえて来た音と統合して判断した結果を問いにすると、ウィルはしょぼしょぼと目を擦りながら頷いた。
「ん。さすがにちょっと、俺も疲れてたからね。仮眠取ってた」
「……ごめん」
 あの遺跡を人一人背負って戻って来るだなんて、彼のような身体的事情がなくともかなり困難な仕事のはずである。彼にしてみれば、相当な無理を強いられたに違いない。
 その迷惑に対する謝罪としては全く足りるものではないと彼女自身も思う、けれども彼女としては精一杯の短い言葉に、ウィルは全く不満の色など表さずに微笑んで見せた。
「別に。自分まで意識失うような下手だけは打たないように気をつけてはいたから、体調が悪いってわけじゃないし」
「そういう問題じゃないと思う。……あたしが言うのもなんだけど」
 ソフィアの言葉を冗談じみたものと取ったのだろうか、ウィルはくすりと笑声を洩らした。
 ――違うのに。
 ――笑ってる場合じゃないのに。
 目を閉じて、彼の笑顔を遮断して――若しくは瞳の奥にだけ残して、締め付けるような切なさを堪える力にする。
 思うのは、
 ――まだ……いいよね?
 一方的な甘え。
 ――ねえ、本当に、あなたは、それでいいの?
 執拗な問い。
 ――あたしは……
 ――あなたに……
「ソフィア」
 自分を呼ぶ声が。
 ひどく断定的な物に聞こえて、ソフィアは思わず瞼を開けた。目の焦点を、覗き込むように見下ろしてくるウィルの顔に合わせる。ウィルは、心配しているのか、それとも怒っているのか、まさか泣いているのか、真っ正面から直視しても全く分からない無表情でソフィアと向き合っていた。
「な、何」
 さすがにしどろもどろになって尋ねるソフィアの声を合図にしたかのように、ウィルはベッドの上に膝をつき、上体を屈めて近づいてきた。
「こら、わっ、……ん」
 意図を察した時にはもうとっくに彼の顔は息が届く至近にあって、満足に異議を唱える間もなく唇と唇が触れ合った。――と思った時には、もう既にその段階を超えた口付けになっている。息をする間すら許そうとしない、攻め立てられるようなキス。
 理性が少しだけ働いて、視線を入り口付近へ動かす。あの薬師の女性がまた戻ってくるかもしれないのに。けれども幸いな事に廊下からはまだそのような気配は感じられず、そこでほっとした瞬間をついて更に奥まで入り込まれる感覚が与えられる。
「ん、んー……って、もうっ、ウィルっ!」
 長々と唇を貪られ続けた末にようやく、ソフィアはウィルの身体を自分の上から引き剥がすことに成功した。と言うより、気を済ませたウィルが自分から身を起こしたのか。微かな笑みの浮かぶ口の端を親指で拭う様が彼らしくない妖艶さで、ソフィアは何もかもひっくるめた色々なものが我慢できずに自分の頭の下から引っこ抜いた枕で彼の顔面を殴りつけた。
「何するのよこの性犯罪者! スケベ! 変態!」
「はいはい。スケベで変態な君の恋人でございますよー、と」
 罵倒も枕の一撃も慣れたものとばかりに、嫌味なほどにさっぱりとした表情でさらりと言いのけて、ウィルはソフィアの枕を抱えたままベッドの端に彼女に背を向ける形で腰を下ろした。
 ほのぼのとした達成感がそこはかとなくにじみ出ているその背中に、ソフィアはもはや溜息しかぶつけられない。
「もー、ほんと信じられない。人が……」
「ん?」
 気楽な問いかけに、ふと、我に返る。それほど劇的な意識の転換という訳ではなかったが。
「何でもない」
「そう」
 痛みを感じる所までは深く踏み込んでこないウィルの声を心底心地よく思って、ソフィアは目を閉じる。もう既に十分眠ったのだろうが、やはり衰弱しきった直後だからだろうか、実はまだ瞼が重い。
 無意識に近い意識をすぐ近くにたゆたわせながら、ソフィアは眠りに落ちる。
 ――まだ、もうしばらく奥底に沈めさせておいて。決して忘れたりはしないから。
 忘れない。忘れてはいけない。忘れるつもりもない。
 彼が、彼といるその事があたしに幸福以外の全てを忘れさせる麻薬なら。
 あたしは、過去も未来も彼に悪夢を見せる毒薬。
(それでも……)
 あたしは。


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