さわさわと、質のよい絹のシーツのような風に前髪を撫でられて、ソフィアはぼんやりと瞼を開いた。
思ったよりも柔らかかった地面に手のひらをついて起き上がってみると、視界は一面の緑の野原と、砂糖菓子のような白い雲が浮かぶ青い空に満たされた。
「ん……あれ……?」
思いも寄らぬ蒼い眩しさに目を細めながら、ソフィアは小さく声を発する。
寝ぼけているんだろうか。
洞窟からは眠っている間に連れ出してもらえたのかもしれないが、外に出た所でそこは山中の深い森であったはず。村まで下りたとしても、この近隣にはこんな平地が広がっているような場所もなかったように思う。――それとも今日、遺跡に入った事や、ウィルに助けてもらったということ自体が夢だったのだろうか? ありえるかもしれない。そうだと言われても不思議はない程度のあやふやな記憶しか残っていない……が、それだとどこからが夢だったのか……昨日食べた夕飯も夢だったという事なのだろうか美味しかったのに……
明るさの所為でしょぼしょぼとする目をこすりながら全く纏まらない思考を頭の中で転がしていると、不意に、何の気配もないと思っていた横合いから声をかけられた。
「どうかした? ……変な夢でも見たの?」
それはとてもよく聞き慣れた声ではあったが、予期していなかった所に急に呼びかけられたことは彼女を驚かせるに十分値した。慌てて振り向くと、最初からずっとそこにいたのだろうか、くつろいだ姿勢で草原に足を投げ出し、彼女を眺めている青年の姿があった。
「よく寝てたから、起こさないでいたけど。嫌な夢を見てるんだったら起こしてあげればよかったね」
「ウィル……?」
柔らかく微笑みながら気遣いの言葉をかけてくる彼の名を、ソフィアはほんの少し、理由の分からない違和感を感じながら呼び返した。と、ウィルの方も微笑にささやかな驚きの気配を混ぜた。
「珍しいね?」
「え?」
「君が、俺のことをそう呼ぶの」
訳が分からず、ソフィアは彼の顔を見つめ返した。まさか、ウィルと呼んだことに対してだろうか。どういうことだろう。普段からそうとしか呼ぶ事はないし、それ以外の呼び名なんて――
(……あ)
瞬間、脳裏を過ぎるものがあったが、ソフィアがそれを明確な形にするより前に、ウィルが言葉を続けてきた。
「……まあ、それよりもそろそろ、城に戻ろうか。風も冷たくなってきた」
言われて周囲を見回すと、青かった空にほんのりと朱がかかり始めてきていることに気がついた。ざあ、と草原を鳴らす風も、いつの間にかぐっと冷え込んできている。
「ほら」
やんわりと急かす声と共に差し出されたウィルの手を取って立ち上がると、ソフィアの着ていた丈の長いスカートがふわりと紅い空気の中にたなびいた。同じように風は彼女の髪をも絡め取る。
「きゃっ」
ソフィアは柄にもなく小さく悲鳴を上げて、黄昏に舞い遊ぶ髪を手で押さえた。
――その手に不意に何か暖かいものが触れる。
顔を上げて見ると、大きなウィルの手がソフィアの手を包み込んでいた。
「ウィル……?」
真っ直ぐに自分を見つめるダークブラウンの瞳に問いかけると、ウィルは優しくまなじりを下げた。ソフィアの声に返答することなく、けれどもその答えと等しい暖かな両手で彼女の頬を壊れ物を扱うように慎重に包み込む。
……違和感の理由にはとうに気がついていた。というより、違和感を感じる前にまず疑問に思うべきと言わざるをえない、見れば半秒で分かるような違いを彼は身体中に纏っていたのだ。
違和感の理由。それは目の前のウィルが今迄あまり見たことのない小奇麗で上等な格好をしていたからで、さっきから平然と左腕を動かしていたからで、よく見れば髪もいつもの伸ばし放題ではなくこざっぱりと切り整えているからで、ついでに言えば自分のドレスも何だかこそばゆいほど可愛いからで。
有り得ないこの事実が示すその意味に、どこか遠い郷愁のような切なさを感じて、ソフィアは瞳を閉じる。
「エルフィーナ」
敬謙な祈りの声のように、ほんの少しだけ遠慮を混ぜて、その名前を――目の前の少女の失われた名前を彼は口にした。
――これは――
ウィルはゆっくりと顔を近づけて、そっと彼女の唇にくちづけを落とした。その感触だけはいつもと変わらなくて、少しほっとする。
ざあ、と、風が鳴いた。本来は既に無い時間を偲ぶ鎮魂歌。
理解する。
――そう、これは。
あたし達が出会うことのなかった未来。
その全てを、彼女は不思議なまでに鮮明に思い起こすことが出来た。一時期、彼女はまるっきりこのあたりの記憶を失っていたのだが、それが嘘であったように、若しくはその反作用のように、今ではウィルも覚えていないような些細な事まで脳裏に描き出す事が出来る。
「ねー、陛下ー、陛下ってばー」
遠慮会釈なくそう呼ばわりながらぬいぐるみを抱えて彼の背中を追いかけた事は、そしてその声に振り返り、どこかはにかんだような笑顔を彼が向けてくれた事は、一度や二度の話ではない。
言われてみれば確かに、彼のことをウィルとは呼んだことはなかったかもしれない。元々ウィルという名は単なる偽名ではなく、愛称として使われていたもののようだったが、彼の父も母も亡くなってしまってからは彼を愛称などで呼ぶ者もそうそういなかったはずで、かくいうソフィア自身も、彼の兄代わりであった人物が呼び習わしていたのを真似て、皆が使うのと同じ呼称を使用していた。というか、実を言うとそれが名前だとすら思っていた。一般名詞も固有名詞も代名詞もいたいけな子供に分かるわけがないのだから仕方がないと彼女は考えるのだが、まさか今更こんな真実を暴露することなど、ウィル本人にすら出来ない。
……それはそれとして、確かに彼女はかつて彼のことを「ウィル」ではなく「陛下」と呼んでいたのは事実だった。お互いそれが常態であり、人知れない誤った解釈はあったといえども外面から見ればそれは全く問題のないやり取りであったのだから多分、あのままあの生活が継続されていれば、きっと今も彼の事をそのように呼んでいたに違いない。
あのままの生活が継続されていれば。
終わりは、奇しくも始まりにこそ相応しい季節、春に満開の薄桃の花をつける木が萌える緑の色に変わって少し位の頃だった。
空は歌いながら飛んでみたくなるほどに晴れていて、摘んだ草の匂いもとても気持ちいい日が続いていたというのに、幼い彼女は少々ご機嫌を斜めにしていた。
彼女が誰よりも大好きな父が、難しい顔を続ける事が多くなっていたからだった。
それまでは城の庭内を一緒に散歩する事を欠かさない日課としてくれていた父が、ある日から、散歩の時間を削減して国の大臣たちと会議場に詰める新たな日課を作ってしまったのだ。
その会議がどれ程深刻なものであったかなど、まだ十やそこいらの子供に分かるはずもなく、他に遊び相手と言えば、足腰が弱り満足に彼女の外遊びに付き合う事の出来ない乳母代わりの老婆しかいなかった少女が機嫌を損ねるのも無理からぬことであった。父も、今考えれば無理に時間を割いて彼女と過ごそうとしてくれていたのだったが、当時の彼女はそこまで悟る事が出来るほど大人びた少女ではなかったし、逆に、彼女に対していつも通りの笑顔を見せようとしてくれている父が、気を抜いた瞬間不意に顔を陰らせるのに気付けないほどの子供でもなかったのが不幸だった。
「おひいさま、おひいさま、危のうございますよ」
庭園の高い木の上に登って足をぶらぶらさせる、ふんだんのフリルのあしらわれた桃色のドレスに身を包む少女を見上げながら、老婆はおろおろと木の根本を右往左往していた。少女としても別に老婆を心配させたくてやっている訳ではないのだが、花壇の蝶も散々追っかけ回し、庭の石も大方ひっくり返してその下を観察終えた彼女の次の娯楽は、この場所にしかなかったのだ。
(あーあ。つまんないなー。お父様か、陛下がいれば楽しいのに)
その二人のどちらかがいれば、木登りなんてする事はない。地面に足をつけて走り回っているだけで十分な楽しみを味わえるからだ。もうずっと陛下のおうちに行ってないな、と思い出して少女は一人、ほんのりとした花弁色の頬を丸く膨らませた。父と同じくらい大好きな少年。本当は父と同じくらい忙しいのであろうのに、いつも仲良く遊んでくれて、一緒に勉強したりもしてくれて(普段は面白くない算術の勉強が、彼に教えてもらうと数字が踊ってるかのように楽しいのだ)。彼は隣の国に住んでいて、彼の家に向かうには一週間船に乗り、二日も馬車に揺られなければならないのだが、そんな退屈な日々も彼に会えるのだとしたら薔薇色の十日間だ。
(…………えと、あれ? 一週間は、七日、だから、二を足して、十日。……あれ?)
何か違うような気がして、捕まっていた木の幹から手を離して折った指を開き始める。左手で五を作って右手の人差し指と中指で二。これで一週間分だからこれに後、二を足せばよい。親指で一、薬指で二……二……二だってば。
薬指を上げようとするともれなく一緒についてくる小指に、あなたは違うでしょ、と叱咤する少女の足元かなり下で、老婆の慌てようは最高潮に達した。半ば悲鳴になっている声で、危ない、危ないと繰り返しているが高度な計算に没頭している少女には全く聞こえてはいない。
が――
「ああ、ああ、国王様! 丁度良い所へお越しあそばされました!」
唯一、その金切り声だけは少女の耳にも入り、彼女はぱっと顔を上げた。
「お父様っ」
「きゃああああああああッ!?」
悲鳴を上げたのは、老婆である。地上に現れた人物を認め、嬉しそうに叫んだ少女は腰掛けていた枝の上に勢いよく、そこが平らな地面の上であるかのように躊躇なくすっくと立ち上がったのだ。今にも泡を吹いて倒れんばかりに狂乱する老婆の横で、しかし今し方現れた身なりの良い男――この幼い少女の父親にしては少し齢を重ね過ぎているが紛れも無く彼女の実父である老紳士は、陽光を避けて目の上に手を翳しながら目を細めて愛娘を仰いだ。
「おやおや、エルフィーナ。エルフィーナはお転婆さんだねえ」
「えへへ」
誉められていると思ったのか、少女が愛らしく笑う。もっとも父親が上げた声も決して揶揄などではなく、どちらかといえば賞賛に近い、感嘆の声音であったのだが。
「けれど、エルフィーナ。もうそろそろ降りておいで。危ないから……。ばあやが」
「はあい」
父親の(老婆への?)気遣いに、幼い少女は素直に答え、するすると幹を滑るがの如く実に器用に降りてくる。程無くして造作無く、ぽんと両足を地面につけたエルフィーナを見て、項垂れて大きな溜息をついた老婆の背を、老紳士は労るように軽く叩いた。
「お父様ー」
降りるや否や、少女はたかたかと走り出し、その羽根のように軽そうな体重を全てかけて父親に体当たりをぶちかました。が、彼は慣れた仕草でそれを受け止めてひょいと高く抱き上げる。
「元気なのはとてもよい事だよ、エルフィーナ。ヴァレンディア国王陛下も、そんなおまえを大層お気に召していらっしゃる」
「きゃー!」
ヴァレンディア国王陛下というのが、大好きなあの少年のことを指すということは、彼女は勿論知っていた。その彼が自分をおきにめしている。おきにめすと言うのは大好きだという事も彼女は前に尋ねたので、知っていた。それがとても嬉しかったので、彼女は父親に抱き上げられたまま、手を高々と空に掲げて率直な歓声を上げた。老紳士も、天衣無縫な愛娘に実に喜ばしげな笑顔を向けている。御子も御子だが御父上も御父上だと、老婆が深い深い溜息を付いた事など露程も気付かない親子である。
「さて、それでは今日も良い子のエルフィーナに、とても良い事を教えてあげようか」
「なあに? なあに? お父様」
「明日から、私はヴァレンディアに行く事になった。エルフィーナも連れて行ってあげるから、ばあやに支度をしてもらいなさい」
ヴァレンディア。少女が知っている数少ない地名の一つ。それは彼女をこれ以上なく喜ばせる一言だった。
「本当っ? 陛下の所に行くの!? わーいっ! やったあー!」
彼女は、この日一番の歓声を上げた。
「お父様、大好き!」
父親の首にぎゅっと抱き着いてきた娘を、彼はいとおしげにいつまでも撫で続けた。
翌日から、彼女にとっては随分長い、けれどももうとうに慣れてしまった旅行が開始された。
初めて、彼の国――ヴァレンディアに連れていってもらったのはもう何年も前。見知らぬ、白くて美しい城で、持ち前の旺盛な好奇心を遺憾無く発揮した彼女は、公務の為に彼女の元にいられない父の代わりに彼女の面倒を見ていた何人もの供の者たちの目を盗み、あてがわれた居室を飛び出して……案の定、迷子となった。
聖王国とも称される大陸随一の大国ヴァレンディアの王城は――もっともそのような事実を当時の彼女が認識していた訳はないが――同じく王国と言っても北方の古い一国である彼女の国の王宮が丸々三つも入ってしまいそうなほどの大きさで、あちこち無作為に歩き回った挙げ句大分経ってから自分が迷ったという事に気が付いた少女が元いた部屋に帰りつく事など出来ようはずがなかった。
途方に暮れて庭に面する白い柱廊から整えられた芝生に下り、歩きながら少女は人の姿を探した。それでも――その時は各国の要人が集う会議が催されており、城内の者も来訪者もそれぞれにせわしなく働いていたからという事もあり――彼女の目には開けた静かな庭が映るばかりで人一人見つける事が叶わず、彼女は心細さの余りにとうとう、その場に座り込んで泣き出してしまったのだった。
「おとうさま……おとうさまぁ……」
しくしくとしゃくりあげ続けても、しかし彼女に助けの手を差し伸べてくれる者は誰一人として現れなかった。自分の城で泣いたならば、すぐにでも誰かが飛んできてくれるというのに。そのことに、余計寂しくなる。ここには、誰もいないんじゃないだろうか。私は、ここにたった一人で置いてけぼりにされてしまったんじゃないだろうか。
――ねえ。だれか。おとうさま。めがみさま……
無人の庭に、彼女の泣き声に伴奏を添えるかのように、ざああと風が木の葉を鳴らす音が響く。そんな、ざわめきのような風が揺れる音の中に、
「どうしたの? 君」
突然に、声が聞こえて。
顔を上げた先の、涙で乱れた視界の中に映った姿は、見たことの無い、男の子の姿であったのだけれど……
彼女には、風がお空の女神様の所に助けを呼びに行って、この人を連れてきてくれたんだということが、その瞬間で分かっていたのだった――
「陛下……」
そんな、何年も前の――たった十年しか齢を重ねていない彼女の人生の中においては遥かな昔の記憶を思い起こして、彼女は笑っていた。
もう少し、あと少しだけ彼女が年齢を重ねていたのだったら、それはうら若き乙女が男性に懸想する姿と言って差し支えなかったであろうが、そのような艶のある表現を用いるには彼女はまだまだ幼すぎた。船室の椅子に腰掛けテーブルに肘をついて足をぶらぶらとしながら空想に耽るその様は楽しい遊び相手との久々の再会を待ち焦がれる子供そのものだった。
その小さな事件以降仲良くなった彼は、初めて出来た子供の友人となり、その後紹介された彼の国の、彼女の国とは反対側の隣国に当たる王国の、やはり歳の近い姫君たちと一緒になって様々な遊び――若しくは悪戯を覚えた。木登りもその一つである。それらを国に帰って養育係などに披露すると、皆は揃って仰天し、場合によっては叱られる事もあったが、肝心の父が全く非難しなかったので彼女はそれはやっても構わない事だと認識していた。
――今度はどんな事を教えてもらえるのかな。それをやったら、ばあやはどれだけびっくりするのかな。
楽しい空想で時間を潰し続けるうち、やがて船は待ち侘びた彼の国に到着し、そこから馬車であともう一日だけ我慢して、彼女はようやく、いわば想い人とも言うべき少年との再会を果たした。
「陛下、陛下ー!」
「エルフィーナ、いらっしゃ……わぷ」
他国の王族同士で取り交わす儀礼的な挨拶よりも速く、懐かしい少年の元に全力で駆け込んだ少女にまさに押し倒されるような格好で、こちらもまだ十分に幼いと言える少年は絨毯に尻餅をついた。謁見会場である王族用の広間に和やかな笑いが満ちる。他所の貴族などが見たら有り得ぬ事とばかりに驚いて目を見張りそうな勢いのやり取りではあったが、両王族の従者たちは全く動じもしない。これはいつも通りの儀式のようなものであった。
にこにこと二人の子供たちのやり取りを眺める老紳士――エルフィーナの父親に、少女よりも多少年かさで物事も彼女よりはずっと弁えている少年は、やや気恥ずかしそうにこほんと咳払いをしてから少女をそっと引き剥がし、挨拶の言葉を述べた。
「ようこそ遠路遥々おいで下さいました、女神の血を守りし清白なるローレンシアの王、フレイアス陛下。我がヴァレンディアは王のご来訪を心より歓迎し、我らが母、全能神ミナーヴァへの忠誠を示させて頂きたく存じます」
「こちらこそ、来訪のご許可を頂き誠に感謝しております、いと尊き大陸の導き手、聖王国ヴァレンディア王ウィルザード陛下。……とまあ、拙き修辞学の披露はこの辺りにさせて頂きたく」
「助かります。……三回に一回はリュートにぶん殴られるんですよ。もうちょっとましなことは言えないのかって」
「ほう、あの麗しき見目の宮廷魔術士長殿が想像以上に男らしい事をなさる」
「……って、こんなのも耳に入ったら処罰対象になるんで、他言無用でお願いしますね」
「重々心得ておりますよ」
どちらにしろ堅苦しい挨拶は早々に切り上げるのが彼らの流儀で、やはりこの時もいつもの通り会話はすぐに肩の力を抜いた雑談へと移行した。儀礼的に槍を構えて歓迎の姿勢を取っていた騎士たちも下がらせて、必要最小限の傍仕えの者のみを残す。再会の瞬間から纏わり付いて離れようとしない幼い姫君に好き放題に取りつかれたまま、しかし全く気にせずに、少年は祖父と孫ほどにも年齢の違う隣国の国王を茶会の席へと誘った。
が、ローレンシア王は遠慮がちに手を上げて、辞退の意を示す。
「いえ、大変申し訳ありませんが、私はもう本国に戻らねばなりませんゆえに」
その言葉に、少年は微かに表情を陰らせて目を伏せた。丁度視線を下に向けると、そこには幼い姫君のきょとんとした顔があって、彼は彼女に小さく笑いかけてから視線を前に戻した。
「状況は諒解しております。が、お茶の一杯程度の時間ならば、変わらないでしょう」
「ええ……まあ。……それはごもっともではあるのですが」
ローレンシア王が、若き――否、幼き王に向けた笑顔は、ひどく優しげな苦笑だった。
「あまり長居をすると、決断が鈍ってしまいそうですので」
「……このまま、このヴァレンディアにおいでになられては、いかがです」
それが非現実的な発言であると彼自身も理解するがゆえの、かなりの躊躇いを織り交ぜてその言葉を口にした少年に、老王は、微塵の躊躇いもなく首を横に振った。
「私は、ローレンシアの、王で御座います」
拒否の返答は、少年にとっても全く意外なものではなかった。
「……ええ。その通りです。大変失礼致しました」
「いいえ。御気遣い、嬉しかったです」
――その二人のやり取りについて、その場で聞いていた幼い姫君が理解出来た内容は、さほど多くはなかった。
ただ、
「お父様、帰っちゃうの?」
泣き出す直前の声で、数少ない理解出来た点を口にした少女に、彼女の父親は、白髪の割合が多い眉を緩やかに下げた。
「そうだよ。父様は、国にお仕事を残して来てしまったんだ。……エルフィーナ、お前は、父様のお仕事が終わるまで、このヴァレンディアで陛下と一緒にお留守番をしていなくてはならない。いいね?」
「えー!?」
彼女は少年の事も大好きだが、父の事も同じく大好きなのだ。少年と再会出来たのは喜ばしいが、その代わりに父が去ってしまうというのはとても辛い事だった。いつもヴァレンディアを訪れた時にそうしているように、三人で仲良く散歩が出来ると疑ってもいなかったのだ。
小さい頃からの泣き虫の癖がまだ治っておらず、ゆるゆると大きな瞳に涙を溜め込んで行く愛娘に、父親は「おやおや」と呟いた。
「エルフィーナ。泣いてはいけないだろう。陛下に笑われてしまうよ」
それに対して、少女はぶんぶんと頭を横に振った。優しい少年は、こんな事では笑わないに決まっている。そんな娘の答を受けて、父は少し困ったように白眉を寄せた。ご名答だ。
「……笑わないかもしれないが、困ってはしまうよ」
修正を加えられて告げられた言葉に、少女は、ひっくと喉の奥でしゃっくりを鳴らした。口から漏れ出でようとする鳴咽を喉元で押え込もうとしている娘の努力に、父は喜ばしげに頷く。
「そうだ。エルフィーナは、良い子だね。……エルフィーナ」
言って、ローレンシア王は小さな娘に腕を回して、抱きしめた。いつもの抱擁とはどこか違う力強い腕に、少女は少し苦しくなって顔を上げる。しかし父親はそれにすら気付いた様子はなく、ただ固く己の娘を抱きしめ続けている。
「エルフィーナ。父様がいない間の事は全て、陛下にお任せしてある。何も心配しなくてもいい。陛下と、皆の言う事をよく聞いて、良い子にしているんだよ。いいね」
「はい」
「ようし、良い子だ。さすが、私の娘だ」
鼻声混じりながらもしっかりとした返答に、老紳士はいたく満足した様子で、娘の頭をくしゃくしゃと撫でた。その時になってようやく、少女の顔にも笑顔が戻る。
「それでは」
立ち上がり様に老王は、娘を預ける幼いながらも信頼の置ける王に、優しい眼差しを向けた。短く、今回の来訪の用件の全てを、告げる。
「娘を……エルフィーナを、頼みます」
「はい」
はっきりと、一分の迷いもない真っ直ぐなダークブラウンの瞳で、彼は返答する。
「このウィルザード・アルシディアス・ラス・ヴァレンディ、命に代えても」
少女と少年は、幾人かの、一国の王を送り出すには非常にささやかな規模の従者と共に、城の城門まで出て帰途につくローレンシア王を見送った。
「ばいばーい、お父様っ」
やはり、大好きな少年とこれから遊べるということが嬉しかったか、すっかりと機嫌を直して朗らかに父に手を振る少女に、彼は心からの安堵の表情を向け、手を振り返した。
結局、迎えに来るとも、戻るとも、一言も言わないまま。
真昼の眩い光を正面に受けて、そこに解け入るようにして消えゆく後ろ姿が、少女が父の姿を見た、最後だった。