がこん。「ぎゃっ」「ああもうまたウィルは」。かちっ。「なあああ!?」「だから何やってるのよもー」。ぱちん。「うげぎゃ」「……あーあ」……
前傾して膝に手をつきぜいぜいと肩で息をする青年を見下ろしながら、ソフィアははぁと溜息をついた。
「ウィルってさ……」
胸の前で腕を組んだまま、珍しい事にその少女は何事かを言い淀んでいた。
脳天を突き刺す視線に、何と言うか、非常に哀れまれている気配をひしひしと感じたが、ウィルは相手の顔を見返したりせず、ただ慎重に息を整えていた。文章の切りの良くない部分で台詞を中断したまま、ソフィアは続けて告げるべき言葉をあれこれと悩んでいたようではあったが、しばらくして考えた時間の割にえらくストレートな言葉をぽつりと洩らす。
「……もしかして鈍い?」
彼女の、出来の悪い生徒に出来の悪いテストの答案を返さなければならない教師のような声音に、しかしウィルは疲弊しきっていながらも、即座に顔を上げて反論した。
「さっきから言ってるけど君がとんでもないの、君が! 俺は普通!」
「そうかなぁ」
どこか腑に落ちないらしい言い方で少女が呟く。その純粋に困惑した顔を見ていると、自分の方が間違っているのではないかという気すらしてくる。
……が、ここで負けたら駄目だ。ウィルは意識して、内心でそう呟いた。どれだけこの愛する少女が否定しようともどう考えた所で、動かず潜む罠の気配を察知し回避する第六感が常人の持ちうる感覚だとは思えない。騙されちゃ駄目だ。騙されちゃ駄目だ。強く意識を持って、念じる。
と、そんな時。
――ギギィッ!
唐突に耳障りな獣の鳴き声がどこからか響いてきて、ウィルは背筋をこわばらせた。また何かの罠に引っかかってしまったのか、いやしかし今は何もしていない、それよりも何が起きたかを確認しなければ。文章に直せばそのような意味合いの意識が頭の中を一瞬にして駆け抜ける。
しかし彼がその思考に基づく行動を一つでも起こすよりも早く、こちらを向いてしゃがんだままだったソフィアが無造作に腕を振っていた。
……ギギャッ!!
少女の背後で、小さくも鋭い断末魔の声が上がる。
彼女はゆっくりと、真後ろの空間を貫いた腕を自分の前に戻した。その手には、いつ抜いたかすらもウィルには分からなかったが大振りのナイフが握られていた。そしてその肉厚の刃には深々と、手のひらほどの大きさの黒い塊が串刺しになっている。
「やだ。コウモリ」
やや不快そうに眉をひそめてソフィアは、小さな黒い獣を見下ろした。心臓を正確に貫かれ、それは最早痙攣すらもしていない。
「コウモリって嫌いなのよね。どうも気味が悪くて」
「あんまり大好きだって人も聞かないものだけど」
半ば腰を浮かせていたウィルは――この一瞬において彼が実行に移せた行動はここまでが精一杯だった――決まりが悪いのをごまかすように呟きながら立ち上がった。
……だから、俺が普通なんだっての。
コウモリを嫌そうに眺めているソフィアは今度は特にウィルに対し何らかの感情の込めた視線を送ってきてはいなかったのだが、彼は言い訳がましく呟いた。この暗闇で後ろから飛んでくるコウモリを串刺しにするなどという曲芸が誰にでもそうほいほいと出来てたまるものか。
そんな情けない呟きを口の中で転がしていると、目の前の超越者は、獣が突き刺さったままのナイフをぬっと彼の方に突き出してきた。その意味を視線で問うと、彼女は心底嫌そうに顔をしかめた。
「触るのやだ。取って」
「俺だっていやだ」
「けち」
けちも何もないものだがソフィアは頬を膨らませてコウモリの死骸を剣から振るい落とし、布で刃を拭って腰の裏の鞘に戻した。
「……これは別に罠じゃないよな」
気を取り直して尋ねたウィルに、ソフィアはこくりと頷いて見せた。
「うん、多分。でもコウモリって群れで生活してるはずだから、移動した方がいいわよね」
「そうだな」
奥への進行を再開するソフィアの後に、ウィルも久々に意見を一致させ、続く。
「……にしても馬鹿に仕掛けの多い遺跡だな。しかも魔力作動するタイプじゃない、えらく原始的な奴ばっかりで。……余程昔の遺跡ってことか?」
魔法文化が最も発達していたのは今から千年程昔の時代である。その頃は今よりも自然界に満ちる魔力が濃厚で、現在よりもずっと多くの魔術士が存在し、高度な術を操る事の出来る術者も多数いたと言われている。自然界の魔力は、環境の変化かその他の要因か、原因は未だ解明されていないが緩やかに減少していき、それとともに魔法文化も衰退していったとされている。
ゆえに、古代遺跡と呼ばれる場所には現代を遥かに上回る魔法技術を駆使した仕掛けが施してあるのが通常で、こんな(仕組みだけを見れば)安直な罠というのは、補助的に仕掛けられている事はあれどもそれが主体となっている事は逆に少ないものなのである。
ウィルのぼやきにも似た発言に、専門家たる少女は手に持っていたランタンを上方に掲げながら辺りを見回した。
「んー。どうだろ。確かに、二千年とか、三千年とか昔の遺跡なら魔術の跡が全く残ってなくてもしょうがないかも知れないけど……今度はそんな昔に仕掛けられた罠が今でもきっちり作動するって方が疑問になってくるし」
「うーん……」
「あたしはそれより、前者の方が気になるけど」
「前者?」
「馬鹿に仕掛けの多い遺跡だなって方」
「ああ……」
確かにそれも、尋常ではなかった。
中には運よく回避出来ているものもあるであろう事を考えると、下手をしたら五十歩に一つ程度の割合で罠が設置されているくらいの計算になるかもしれない。これだけ仕掛けが多くては、この遺跡を作成し、利用していたはずの古代人とて把握しきれなくなりかねないのではないだろうか。
と、思いついて、ウィルは前を行くソフィアに声を投げかける。
「何か、地図っぽい物は一緒に出土されなかったのか?」
「そういう話はないわね。この遺跡が発見された経緯も、古文書とかから場所を割り出されたものじゃなく、偶然崖が崩落して一部が地表に出たからだから。あんまり詳しい情報は教会も持ってないみたい」
あくまでも軽い口調でそう告げる少女に、ウィルは露骨に顔をしかめた。
「……そんな怪しげな場所に何の躊躇もなく入るなよなー……」
「だからこそ狙い目なのよ。分かってないわねえ」
「分かりたくもないってば」
低く、言葉を零す。吐き捨てる、という程の嫌悪感はないにしろ、これまでの疲労感やらこれからの徒労感がべっとりと重たくしたその声に、ややむっとしたように、ソフィアは彼の方を振り返った。
「むー。つくづくロマンを理解しない奴」
「……だからこういうのにロマン感じるのは君だけだと」
呟きながら、ふと視界に入ったソフィアの目がいやに険悪に細められていた事に気がついて、はっと声を中断させる。が、ほんの少々、その対処は手後れであったようだった。
ソフィアは跳ねるように髪をなびかせくるりと背を向けて、唐突に闇の向こうに駆け出した。
「分かんないなら分かるよーに教育してやるぅぅぅぅ……!」
「なんだそりゃああ!?」
暗闇に謎の絶叫を撒き散らして行くソフィアを追いかけようと、ウィルも一歩足を踏み出しかけていたが、どうにか理性で反射的な己の行動を自制した。通常に進んでいてさえ罠を回避出来ない自分がここで我を忘れて走り出すなどという愚挙に出たら、この遺跡を作った古代人の思う壺になる事は疑うべくもない。
そんな躊躇を感じているうちに、さも当然の如く罠などに引っ掛かることなく暗がりの奥に姿を消していく亜麻色の髪の後ろ姿を見送るはめになる。追い縋るように腕だけを前方に突き出した体勢のまま、しばしの間固まっていたウィルだったが、ややしてから、はぁー、と疲れた吐息を垂れ流した。
「全く……ソフィアはいっつもこうだよ」
突き出した右手を自分の元に戻し、今度は苛立たしげに頭をがしがしと掻く用途に使用する。こちらの言い分など欠片も聞こうとしないくせに、勝手気侭で意味不明な主張を言い放って思うが侭に行動する。彼女の発想はあまりにも突発的で、これだけ付き合いを続けていてもまだなお、予測をつける事が難しい。
難しいが、どうにかして彼女の意図を探る事を試みる。
教育がどうの、と言っていた。という事は本気で見捨てるつもりになったという訳ではないのだろう。あえて突き放して独力で遺跡探検の訓練をさせることを通じロマン?とやらを理解させようとでもいうつもりなのだろうか。獅子の親は子供を谷に突き落として試練を与えるとかいう昔話があるが、ソフィアのこの対処はまさにそれそのものであった。訓練自体には、取り返しのつかない事になりさえしなければもしかしたらなるかもしれないが、ロマンはどうだろうか。ロマンを覚える前にトラウマとして心に刻まれそうな予感がする。
「ほんっとうに、もう」
がっくりと肩を落とし、ついでに頭も俯かせて、ぴくぴくと背筋を痙攣させる。
背筋を震わせるのは、図らずしも込み上げてくる笑いだった。
今後彼女をこれ以上の暴挙に出させない為にも笑って対処すべきではない。むしろ状況的に笑っている場合でもない。だというのにあまりといえばあんまりな彼女のやりように対し湧き起こってくる感情は怒りでも困惑でもなく、ただひたすらなおかしさであった。
重症だ。腹の底からそう思う。ここまでも自由奔放な彼女がまたいとおしいと思う自分に心底呆れ返る。
「少しは感謝しろよ」
彼女が未だこちらの呟きを聞いているとは思ってはいないが、闇に消えた少女に向かって、ウィルは負け惜しみ半分に呟いた。
「ここまでの扱いをされても君を追いかけ続けられる男なんて、俺くらいなもんだからな」
呟いた自分に苦笑してから、彼は肩からずり落ちかけていた荷物入れをやれやれと背負い直した。
結局の所彼を放置してきたのはとどのつまり、さほど心配していなかったからである訳で。あれほどまともに見事なまでに罠に引っ掛かりまくっていた彼ではあったが、例えば底にびっしりと槍ぶすまが設えられた落とし穴に落下したとしても彼ならば多分もずのはやにえになる前に空中に浮かぶ魔術で回避出来るであろうし、毒矢が飛んでくるような仕掛けでさえも、警戒してさえいれば常時張り巡らせているという防御の魔術で防ぎきるであろう。……そういえば、明かりまで持ってきてしまったけど大丈夫だろうか。ああ、魔術で自分で作れるだろうし、多分平気よね。ソフィアが背後に残してきた心配など、せいぜいがその程度だった。
そんな訳で、走り出した彼女はひとたびも後方を振り返ることなく、彼に数百メートル先んじたあたりでようやく歩調を緩めた。当然、これまでの頻度を考えればいくつかはあったであろう罠など一つも引っ掛かっていない。というか気付いてすらいない。
これから遭遇するはずの罠も、気付いてすぐ解除出来るようなら解除してやってもいいかとは思ったが特に気にすることはせず、彼女は気楽にランタンを揺らしながら先へと進み続けている。
(でも本当に、変な遺跡)
ゆったりと、それこそ街路を散歩しているような気軽さで、ソフィアは周囲を眺め回した。天然の洞穴を掘り進めたような飾り気も素っ気もない作りで、専門の研究家でなければ年代測定のしようがなさそうである。それどころか、ぱっと見では遺跡であるようにすら見えなかった。もっともソフィアはそんなカモフラージュに騙されるほどは経験も浅くなかったので探索を決意したのだし、遭遇した様々な罠の存在によってその考えは正しかったと裏付けられたわけだが。
変な遺跡、だと思うのは、ウィルがそう感じたのと同じ理由からである。
やはり彼も魔術士というだけあって、何だかんだ言って、過去の遺産について無知なわけではない。過去の遺跡の発掘によりもたらされる知識や品物の多くが、古代魔術に属するものであり、それを研究する役目は主に彼ら魔術士のものになるからである。もっとも、その点については、彼女らトレジャーハンターたちは少なからず複雑な念を抱いているのではあった。
新たに遺跡が発見されると自動的に教会に移管される決まりは、教徒の安全を守る建前の元で行われていたが、本音としての理由はそこから発掘される魔術の宝物や知識を教会が独占することにあった。ファビュラス教会が大陸で唯一の公的な魔術士の管理組織であるのならば、それは一般人の手に余る代物を下手に世間にばら撒かない為にも当然の対処であるのかもしれないが、だからと言ってそれを正当な権利だと考えるのは教会の連中の思い上がりだとソフィアは考える。魔術士にとって有用な古代の遺産は、一般人にとっても有用となり得るのだ。誰がどこで発見しても教会のものになるというのは(発見者や探索者にそれなりの金銭が支払われると言っても)やはりずるい気がする。結局の所利潤を横取りされるのが気に食わないわけではあるのだが、自分の力で見つけた物は自分の物というトレジャーハンターの倫理と相反する横暴な規則に反感を覚えるのは当然であり、今回のように教会が管轄する遺跡への進入を果たしたのは彼女達からすればそれこそ当然で正当な行為であるのだ。
が、しかし――
今回問題となるのは、そういったことではない。
魔術の痕跡が見られないこと、そして罠の多さ。教会が遺跡の独占について熱心になっていることからも分かる通り、魔術の痕跡の全く見られない遺跡はかえって珍しいものであるし、だからと言ってその代わりであるかのようにここまで呆れ返るほど執拗に罠が仕掛けられている遺跡というのもそうはない。そもそもこれだけの罠の仕掛けられている理由というのも分からない。……これに関しては、願望込みで考えるのならば、余程大層なお宝が眠っているとかいう可能性も考えられるのだが、そうであって欲しい事が常に現実に起こりうるとは限らない。
――と、そんなことを考えていた時。
「…………」
不意に、周囲の空気の流れ方が変わった事に気がついて、ソフィアは視線を前方遠くに向けた。本来大気に流れなど生じない地中深くの洞窟ではあったのだが、自分という異質な存在がこの場にいる事で、僅かながらにやはり空気は動く。その微弱な流れを感じる事で、視界外の地形の変化などをある程度、察する事が出来るのだ。……ウィルに言ったらまた異常だとか君がとんでもないだとか君だけだとか言いそうだったので、特に教えてはいないが。
ともあれ彼女はその感覚で、この先しばらく行った場所が突き当たりになっているという事を知ったのだった。
「ゴール……って訳かしら。それとも完全にハズレだったりしてね」
ここまでの苦労が全く水の泡になる可能性に対してもあくまでも気楽なのは、それが絶対にないと信じているからではなく、逆に大いにそのようなことも考えられると思ったからだった。彼女は自分自身、そこそこの腕前を持つトレジャーハンターであると自負してはいるが、全くのガセネタやろくな実入りのない遺跡に躍らされた経験も少なからずある。そういった失敗は明らかに自分の考察や調査の不足に起因する物ではあったが、彼女は特にそれを恥とは考えなかった。失敗したならしたで、何が悪かったかの見極めが出来るようになったのを儲けと思ってまたやり直せばいいだけの事だ。
突き当たりが間近に迫ったのを感じ、歩調を一段と緩め、一歩一歩確かめるように進み――
辿り着いた終着点で、彼女はぴたりと足を止めた。
「ゴール、か……」
目の前を仰ぎ見ながらささやかな感慨を胸に、呟く。目の前には明らかに自然に生じたものではない、複雑な意匠が彫刻された岩壁がそびえていた。
行き止まり、のように見える。が、一見行き止まりに見える隠し扉等というものは遺跡探索において何の気無しに通る部屋のドアと似たようなものであった。
「さてさて。この扉はどうやったら開くのかなっと……」
ソフィアは口元に笑みを佩いて、ランタンを床に置き、岩盤に全身で警戒しながらゆっくりと近づく。これまでのパターンを考えれば、ここに罠が仕掛けられていないということも考え難いだろう。
自分の影が揺らめく明かりに長く伸びて、岩に彫られた文様と重なった。その彫刻こそが怪しいと踏んだソフィアは、周囲を視線で探ってから、そっとそこに手を伸ばす。
そこに、触れた瞬間。
がこんっ!
ここまでに至るまでに何回か聞いた、重たい何かの装置の作動音が鼓膜を打って、ソフィアは反射的に、体勢を低くし斜め後方に跳び退った。真後ろに跳ばなかったのはそこへ逃げる事を予期した二重の罠が張られていることを想定してである。予め罠がある事を踏まえていた素早い挙動であったが、しかしながら彼女の身には、鋭い矢尻も無数のつぶても降りかかる事はなく、彼女が足をつける地面に大穴が開けられる事もなかった。
ただ、その代わりに、彼女の眼前の扉が、誰の手にも触れられることなく開いてゆく。
そこから漏れ来た、遺跡に入ってこれまで感じることのなかった強い光に、ソフィアは反射的に腕で目を覆った。
ゆっくりと、顔を覗かせながら目の前の光景を観察する。
開かれた扉の先は広間になっていた。作りはここまでと同様、天然の洞穴といった様子だったが、広さも天井までの高さもちょっとした教会の礼拝堂ほどもあり閉塞感は感じられない。広間の中央には、そのままそこにあった岩を切り出して作られたかのような無骨な台座がしつらえられており、その上に光の発生源があった。
ひどく寂寥感を覚えさせる青白い輝き。ソフィアは引き寄せられるがままに台座の前に歩み寄った。台座の上に鎮座していたのは、占い師が仕事道具に使うような整った球形をした宝玉だった。色こそ青いものの、透明度は良質の水晶と同じくらい高く、向こう側の岩壁が透けて見える。
「綺麗……」
至極素直な感想を口にして、彼女は宝玉に手を伸ばした。
途端。
ざわり、と、透明の球体の中で何かが蠢く。
「っ!?」
細い糸――否、蛇のようなものに見えた。宝玉に封じられた何かが、近づけられたソフィアの手を捕らえようとでもするかのようにざわりとのたうつ。
無論、ソフィアは反射的に、宝玉に触れるよりも先に手を引いた――のだが。
その蛇の一匹が宝玉を食い破って勢いよく飛び出してくる。
あぎとを開いて鋭い歯列を剥き出し飛び掛ってこようとするそれを、咄嗟に手で振り払った瞬間。眩暈がするほど強烈な脱力感が身体を包み込んだ。
――罠――
「や、ばっ……」
警戒していたはずだった、のに、この不始末。
通常の失敗には恥を感じないソフィアだが、さすがにこれは恥ずべき失敗であったかもしれないと何となく感じる。
重症の風邪に罹って高熱を出した時の倦怠感も比ではない気力の減衰に、目を見開いて、歯を食いしばったまま声を吐いて歯止めをかけようと試みる。それは、滑り落ちそうになる意識を闇の中に持っていかれないようにする為の必死の抵抗であったのだが、彼女の精一杯の努力を嘲弄するかのように瞼は勝手に重くなり、噛み締めた奥歯の力は彼女の許可なく弱まってゆく。
あ、まずい。
とりあえずそう思う。そう思っているうちに、膝が折れる。すぐに、折れた膝でも体重を支えられなくなる。
「……ウィ、ル、……」
助けて。
来ちゃ駄目。
どちらを言おうかと悠長にも迷っている間に、言葉の続きを紡ぐ事は出来なくなっていた。