第3章 ナイトメア・ポイズン
「うどあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
数百年もの長きに渡り密閉され続けてきた洞窟に、男の絶叫が響き渡る。
冷たい湿気に纏わりつかれた声はひどくもやもやと、不規則な岩盤の壁面に体当たりをぶちかましながら次第に闇に溶けていく。湯気のように立ち消えんとする反響の余韻が微かに残る中には、荒々しい呼吸音と、小石が深い穴の中に転がり落ちるような小さな硬い音が混じっていたが、しばしするとそのどちらもがなりをひそめていった。
そしてそのまま闇の中に、しばらくその暗黒に相応しい静寂が続き――
やおら、ずり、ずり、と重い麻袋を引きずるような音が聞こえてきた。
「はぁー……もう、ウィルってば、こんな単純なトラップに引っかかんないでよねー」
一仕事を終えたソフィアは大きく溜息をついて、石畳の敷かれている床にぺたりと腰を下ろした。そんな彼女の目の前には、いまだ何らかのショックから覚めやらぬ絶妙な表情をした男――ウィルが力なく這い蹲っている。動かすことの出来ない左腕は適当に投げ出され、しかし反対側の右腕はどうにかしてその分の働きをあがなおうと必死に床の僅かな突起に組み付いている。上半身はうつぶせに寝そべるような姿勢でありながら左足は足の裏を床に突き立てているという少々無茶な体勢を取っているが、残った右足の在り処に目をやれば、その無茶もむべなるかなと思わざるを得ない。
ウィルの身体から垂れ下がる右足は、今もなお虚空でぶらんぶらんとしていた。
丁度、右足が本来横たえられるような位置の床面には、真っ黒な穴が開いていた。もちろん黒いというのはペンキで黒く塗りつぶされているからとかいう妙な理由があるわけではなく、単純に光量の不足から黒色に見えるというだけのことである。が、果たして十分な光量があれば本当にこの穴の底は目視することが出来たのであろうか。落ちたが最後、永遠に辿り着くことのない底に向けて永劫さまようことになりかねないのではないか。それは、そんな疑問を覚える程に深い縦穴だった。
奈落へと続く悪魔の大口は、つい今しがた開けられたばかりのものであった。つまり、先程の絶叫が響いたのとほぼ同時くらいに生じたもので、無論もう少し正確に言えばかの絶叫が響く直前に発生したものだった。この穴が突如足元に出来た所為で彼は叫び散らさなければならなかったのだから当然である。何の変哲もない石畳の一点に足を乗せた瞬間、カチッという小さな音と共に開いたこの地獄の窯は、重力の掟に従いその真上にいたウィルを飲み込もうとしたのだったが、何とか腕が穴のほとりに触れたのと、即座に気付いて振り返ったソフィアに捕まえてもらったことで彼は九死に一生を得ていた。
「単純なって……構造自体は単純かもしれないけど……どう対処しろと言うんだ……」
ようやくぶらんぶらんしていた右足を自分の元に引き寄せて一息ついたウィルに、ソフィアは膝に肘をついた姿勢で呆れたような視線を送る。
「簡単よ。引っかからなければいいだけだもの」
「どうやったら引っかからないで済むのか是非とも教えて欲しいんだけど」
「勘」
「……うわぁ」
何とも言えない形に頬を歪めて何とも言えない呻き声をウィルは発したが、ソフィアはさほど気にした様子なくひょいと立ち上がった。
「さ、休憩は終わり。先はまだまだ長いのよ。さくさく行きましょ、さくさく」
「…………うわぁん」
先程と似たような声は、泣き声に近い雰囲気でウィルの口から漏れる。
しかしいくら泣き言を言った所でそれが聞き入れられることがないという事を重々承知している彼は、とぼとぼとソフィアの小さな背中を追い始めた。――足元に気を配りながら。
未知の遺跡の探索。
一般人が想像するトレジャーハンターの業務としては最もありふれたもので、かつ本業のトレジャーハンターにしてみれば全体の一パーセントあるかどうかという事らしいその仕事をソフィアがどこかから見つけてきたのは、その日の昼少し前のことだった。
朝、ウィルが宿で目を覚ますとソフィアの泊まっていた隣室は既にもぬけの殻で、それに気付いたウィルは冗談抜きで卒倒しかけていた。とうとう彼女に逃げられた。まさかという気持ちとやっぱりという思いが胸の内でせめぎ合い、泡を食って何の目処も立てず周辺を捜しまわり、何の手がかりもなくうな垂れて帰ってきた挙句に宿の主人から「昼に戻る」との伝言を残し出て行った旨を聞いた時には本気でその場に崩れ落ちるに至った。
その後どうにか気を取り直して宿の食堂で遅めの朝食を摂っていると、ばたばたと騒々しくソフィアが帰ってきたので、何か一言文句を言ってやろうと考えたのだが、そのとき彼女が浮かべていたこれ以上なく嬉しそうな笑顔に怒る気力を奪われて、そのままなし崩し的に彼女が朝っぱらから外出していた理由を聞かされることになったのだった。
「ねえねえ聞いてよ、遺跡遺跡。遺跡が見つかったんだって。あ、これはまだ秘密の情報だから大きな声で言っちゃダメだよ」
何よりも君の声がでかい。そんな台詞を乗せた視線でウィルはじっとりと彼女のきらきら輝く双眸を見つめてやったのだが、興奮しているらしき彼女は声の調子を落とすことなく続けた。元々食堂には彼ら二人しか客がいなかったので、別に構わないという判断を下したのかもしれない。
「昨日ね、この村の近くの山で古代遺跡が発見されたんだって。今迄誰も見つけてなかった、正真正銘の新発見の遺跡よ。そういう遺跡ってとりあえずまずは教会の管轄下に入るじゃない。だから丁度今ね、教会から隣町の冒険者の寄り合いに、発掘要員の派遣要請が行ってるらしいんだけど、到着が明後日くらいになるっていう話なのよ」
ふーん。ウィルは気のない調子でそんな呟きを発した。
実際、その事実に対して気のない調子を取り繕うというのはかなりの演技力を要した。興味があったというわけではない。猛烈に嫌な予感がしたのだ。出来ればこのまま、どうという事がない雑談であるかのようにさらっと流してしまいたい。
けれどもウィルのそんな願いなど空しく、彼女は息巻いて告げるのだった。
「ウィルも興味あるわよね。ね。そうよねやっぱり。あああ未踏の古代遺跡。まさにこれぞトレジャーハンターとしての本懐よ。心躍るわよね」
「トレジャーハンターじゃないから踊らない」
態度だけでは不足であったようなので、明確に声に出してそう呟く。
「うんうん、誰しも一度は夢見るものよね。まだ見ぬお宝を目指しての大冒険」
けれどもちゃっかりと知らん振りをして自分の思い通りに話を持っていこうとする少女がここに一人。
「夢見ない」
「という事で午後は遺跡でお散歩ね!」
「だあああ!! いやだっちゅーに!!」
あくまでも決定事項を告げるのみであったらしいソフィアに、ウィルはとうとう椅子から立ち上がって反論した。真っ向から叫ばれて、ようやくソフィアもこのまま押し切るのは無理と判断したのか、むうとむくれてみせる。
「何でよ。楽しそうじゃない。そうそうあることじゃないのよ? 未知の遺跡探索なんて」
「当たり前だ、度々なんてあってたまるかそんなもん」
このミナーヴァ大陸の歴史は古く、古代人たちが残した文明の遺跡は捜す所を捜せば至る所に見受けられる。無論そう道端の石のようにごろごろとしているわけではないが、五や十といった程度の数でもない事も確かではある。が、そういった遺跡は大抵がもう既に専門の発掘屋に掘り返されつくしており、今になって未発見の遺跡が見つかるという事は相当珍しいことだった。
だから、彼女が興奮するのもあながち分からないことではないのだ。未踏の遺跡というのは、トレジャーハンターにとってこれ以上ない最高の獲物である。古代の宝物がそっくりそのまま残っている可能性は、当たり前だが一度でも別の調査隊の手にかかった後の遺跡とは比較にならないほど高い。
そして、命さえ賭けなければならないような危険な罠が待ち受けている可能性も比較にならないほど高い。
古代人の住居跡というのならばともかく、彼らが神殿や宝物庫にしていたような遺跡には、不法な侵入者を排除する為の罠という物が大抵の場合仕掛けられている。こういう罠は暗号のようなもので、安全な解法――ルートさえ知っていれば全く問題なく通過することが出来るのだが、それを知らぬ無法者が一歩でも立ち入れば容赦なく襲い掛かって遺跡外に、場合によってはこの世から排除されるしくみとなっている。遺跡が見つかった、という情報からはまだ、罠など仕掛けられていない住居跡である可能性も残ってはいるのだが、ソフィアがここまで騒ぎ立てるのであれば、後者の、『危険も多いが宝も多い』遺跡である可能性が高いのだろう。
「しかも、教会の管轄下に入ってるって言ったよな?」
「う」
ウィルの指摘に、痛い所を突かれたかのようにソフィアは呻く。
「発掘隊が到着してないからってそんな場所に踏み入ろうって? そういうの、何て言うか知ってる? 盗掘って言うんだよ?」
「でっ、でも法的にはどこの持ち物って訳でもない山奥なのよ? いきなりしゃしゃり出てきた教会が所有権を主張するなんて認められないんじゃないの?」
「大陸法二百五十七条。ファビュラス教会は教徒の安全を守る為、立ち入りが危険と判断される地帯を一時的に差し押さえて封鎖することが出来る。……俺を誰だと思ってるんだ」
ウィルがポケットから魔術紋章が描かれたペンダント――魔術士の証をちらりと覗かせて告げると、ソフィアは悔しそうに、うー、と呻いた。驚いた顔をせず悔しがるだけという事は、彼女もまたこの法律について知識があったのだろう。席に座り直し、してやったり、とばかりにコーヒーをすするウィルを、ソフィアは恨めしげに見つめた。
「折角見つけたのに」
子供のように唇を尖らせてぶうたれる。
「教会の人が先に見つけたんだろ」
「到着は明後日よ。もたもたしてる間に他のトレジャーハンターにみんな持ってかれちゃう」
「発掘要員はいなくても、教会の人間自体はちゃんといて、しっかり見張ってるだろ」
「そんな普段部屋の中で生白い顔して本読んでたり祈ってたりしてる連中を出し抜くのなんて簡単だわ」
君はそんなことばっかりやってたのか……?
そんな事を思うが、問うまでもなくそうなんだろうと思ったのでウィルは黙っていた。そこに、ソフィアが畳み掛けるように発言を重ねてくる。
「もしかして遺跡の保守って、教会魔術士の仕事なんじゃない?」
「……どういう根拠で」
「あ。やぶへびって顔した」
「…………。」
目の前の少女から目を逸らして、ウィルはしばし熟考する。
「……教会魔術士は大神官及び上級魔術士を監督する資格を持つ高位魔術士及び神官の命令がない限り……って」
視線を戻した先の席に、ソフィアの姿はなかった。……席にいなかっただけで、すぐ傍にはいたのだが。
丁度、そっぽを向いていたウィルの死角になっていた位置にいつの間にかソフィアは立っていた。眉根を寄せて少女の顔を見上げると、彼女はにっこりと魅惑的な笑顔を返してくる。
「それじゃさ、保守しなければならない遺跡に一般人が間違って入り込んじゃったりした場合なんかは?」
「は……?」
彼女の言っている意味がさっぱり分からず、ウィルは目をしばたく。
「二百ホニャララ条で決まってるんでしょ、教徒の生命を守る為に保守するって建前なんだって」
「はぁ……」
「そしたらその遺跡の中でか弱い女の子が危険な目に遭おうとしている時に、上の命令を悠長に待ったりはしないよね魔術士って」
「……まさかちょっと」
不穏な発言に、ウィルは慌てて腰を浮かして手を伸ばす――
「あたし今からお散歩に行くけど戻って来なかったら探しに来てね! じゃ!」
「嘘だろオイ!?」
――が、ほんの少し、遅かった。
疾風の如く食堂から駆け出していったソフィアを追いかけ……ようとして、直前で宿の女将に声をかけられ足踏みしながら昼食代を払って、即座に外に出てみたが――そこには、田舎村ののどかな正午が広がっていたのみだった……
彼女はやると言ったらやる。
それはちょっと無理だろという事であろうとちょっとヤバイだろという事であろうとちょっとないんじゃないかという事であろうと問答無用でやる。意地を張っていてもしょうがない。まさか本当に彼女に生命の危険が降りかかるなどとは思いもしないが、彼女の意向を無視した結果自分に生命の危険が降りかかることは大いに考えられた。
神官と魔術士が常時一人ずつしかいないらしい村の教会を訪れ、教会に正式に登録されている魔術士の証であるペンダントを添えて身元の照会を行い、教会魔術士である旨を証明すると、魔術士はすぐさま遺跡の場所を地図に書いて教えてくれた。教会魔術士は魔術士の管理組織であるファビュラス教会内においていわば高級官吏に当たり、辺鄙な農村に派遣されるような何の役職も持たない魔術士にとってはおいそれと逆らいうる相手ではない。と言ってもいくら教会魔術士であるとはいえ正式な任務の中で動いている訳ではない以上、どうといった権限を持っているわけでもないのだが……これは、悲しいかな勤め人、といった所なのであろう。
ともあれ至極あっさり教えてもらえた重要機密事項を携えて、案外村の近隣であった山中の、当該の場所に直行する。現場で警備を行っていた神官に、同僚の魔術士からの手紙を渡してやはり同じようにあっさりと通してもらうことに成功し……
入り口から何十メートルか入った所でにこにこと手を振っていたソフィアとめでたく再会したのであった。
質問。古代遺跡に設置してある罠と言えば?
回答(例)。特定の壁に触れると槍が降ってくる。特定のドアを開くと鉄球が転がり出てくる。特定の石畳を踏むと通路に穴が開く――
……その辺りまでがいわゆるお約束という所だろうが、この遺跡はそのお約束とやらをきっちりと押さえた律儀さで侵入者を容赦なく攻め立ててきていた。
ソフィアが天性の嗅覚で回避しているそれらの罠のことごとくを後ろを歩くウィルが踏み抜き、彼女を呆れさせたが、どれだけ冷めた目つきで眺められようとも彼にはいかんともしがたい状況であった。ウィルとて好き好んで罠にはまっているわけではない。
「っていうかだな、罠があるのに気付いてるなら何で教えてくれないんだよ」
「……気付いてるわけじゃないのよ。何かやだなって思うから避けられるってだけで。ここがこう危ない、って分かるわけじゃないから口に出すのも難しいし」
「本気で嗅覚かよ……」
呻いて、ウィルは額に手を当てた。
ソフィアは、言葉通り全く罠など考慮に入れていなさそうなうきうきとした歩調で前へと進む。先はまだまだ長そうだ。