女神の魔術士 Chapter2 #3

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 ごめんなさい……
 一晩だけ……
 ほんの、一晩だけでいいんです……

「うるさぁい! いいわけないでしょうが馬鹿ぁ!!」
 身体の奥から響いてくる幻聴に答えて、ソフィアが罵声を上げている。ということは、今自分が聞いているこの声は彼女にも聞こえているということであろうと、再びベッドに彼女の身体を組み敷きながらウィルはぼんやりと考えた。おおむね先程と同じような体勢に戻っているのだったが、その時と違う点は大まかに分類して二つほどあった。ひとつ。頭の中に響いてくるこの声。最初のときは全く聞こえなかったが、先程の男の声を皮切りに、二体の霊のうちもう一体の方であろう、女の声すらも聞こえてくるようになった。状況が変化した理由は分からない。教会で、誰だかが研究していた電波受信機はよくアンテナの調子がおかしくなって通信が聞こえたり聞こえなかったりしたものだったが、それと似たようなものなのかもしれない。ともあれ、この声が聞こえているというのが相違点の一つ目だった。
 もう一つは、目の前の少女の反応だった。きゃあきゃあと罵声やら悲鳴やらを上げて全力で嫌がっている、という事自体は先程とも、ついでを言えば普段とも変わらない。が……
 ウィルはソフィアの上に覆いかぶさる体勢を取っていたが、先程のように押さえつけていたりはしていなかった。その必要がなかったからである。これだけ声を上げつつも、彼女はシーツの上でくたりと仰向けになったまま、全く抵抗らしい動作を行っていなかった。恐らくは、ウィルと同じなのだろう。耳の奥で聞こえる声の主――幽霊に取り付かれて、身体が動かないのだ。
 ……すまない……
 男の声が囁いて、ウィルの手を動かす。手のひらで、猫の仔に触れるように優しくソフィアの胸を撫でる。
「っきゃあああああああっ!! いやー! ウィルの変態ーッ!」
「変……って、俺じゃないってば……」
 思わず手を止めて――止めたのはウィルに取り付いている幽霊男だが、多分彼もウィルと同じ心境なのだろう――心底困り果ててソフィアを見下ろす。仮にも恋人の行為に、そんな痴漢にでも遭遇したかのような悲鳴はないだろう。
 何かこれといったきっかけがあったわけではないのだが、何となく、ウィルはこの幽霊――というか何と言うか――の意思のようなものが曖昧にだが分かってきていた。
「……なあ、ソフィア」
 静かな声でウィルが呼びかけると、ソフィアは縋り付くように視線だけを彼の方へと向けてくる。ウィルもそうなのだが、彼女も目と口しか自由に利かせられないようだった。先程は声もうまく出なかったが今は特に苦しみを感じることなく発声できる。助けを求める彼女の視線に、ウィルは応えて優しく微笑みかけた。
「しょうがないよ、諦めよう。一回くらい望みを叶えてあげれば成仏するんじゃないかな」
「望みって」
「多分、これだろうね」
 恐る恐る聞き返してきたソフィアに、一言告げる。
 彼らは生身の肉体が欲しいのだ。それは、生者に取り付くという行為からも、そして数多の怪談で語られる幽霊の行動原理からも簡単に推測できる。そしてこれは害意がない事からの推測に過ぎないのだが、その支配は永劫に続くものではなく、事が済めば問題無く開放されるのではないかと思えた。現に、ウィルに取り付いている幽霊男はソフィアにそれほど無茶な扱いはしていない。自分の恋人である幽霊女が取り付いているからということなのかも知れないが、相手が無抵抗であればとりあえず一通りのコトが済んでいる程度の時間が既に経過しているにもかかわらず彼女の服すら剥いでいないのは、やはり肉体の持ち主に対する遠慮があるということなのだろう。
 害意がある訳でもなく現世にとどまるのは捨て切れない望みがあるから。
 すなわち――半年も前から楽しみにしていた、スイートルームでの一夜。
 今一度肉体を得て、永遠に失われてしまったその望みを最後に完遂させたいのだ。
「いっやああああああああ」
「そんな全力で嫌がらなくてもいいじゃないか」
「ウィルに期待したあたしが馬鹿だったぁぁぁ!」
「何だよ、最良の解決法だろうが。こいつらは三年越しの願望が成就してめでたく昇天、俺らも晴れて堂々と恋人同士を名乗れる関係になってキモチよく昇天」
「一人で天国でも地獄でも勝手に好きな所に行きなさいよ!!」
「あ、そういう事言うんだ」
 剣呑に目を細めて、ウィルは呟いた。そっちがその気であれば彼にも考えはある。幸いにも状況は圧倒的に彼の方に有利なのだ。ウィルは虚空に視線をやるようにして、ぼそりと呟いた。
「おい、あー、名前は知らないけど、幽霊。やっちゃえ思う存分。俺が許す」
「はいぃぃぃ!? 何言い出しちゃってるのよトンチキはぁぁぁっ!?」
 丸い瞳を更に丸くして、ソフィアは絶叫する。が、それだけだった。動けない。
 対してウィル――ウィルに取り付いている幽霊は、しばし迷うような間を置いたものの、やがて意を決したらしく、本懐を遂げんと少女に体重をかけ始めていた。
 ぎしり……
 ソフィアの喚き声にかき消される程に小さく、ベッドが小さな悲鳴を上げた。

 ウィルがソフィアに体重を預けるようにしてのしかかると、彼女は苦しそうに眉をしかめた。圧迫された肺に息を取り込もうとして動く胸がウィルの身体を僅かに押し上げる。それはあまりにもささやかな抵抗で、余計、今自分が彼女を縛めているという事実を強く浮き彫りにしてくる。
 それは少々危険な感覚だった。いくら、彼女のことを強く求めているとはいえ、ウィルには嫌がる相手に無理強いをして欲望を押し付ける趣味はないつもりだった。けれども彼女の抵抗を受けて、興奮を感じた自分に彼はこの時、気付いていた。
「ウィルっ……」
 囁きかけたソフィアの唇を口付けで強引に塞ぎ、ただ身体が動くまま、耳朶に音を立てて唇を這わせ、首筋に軽く歯を立てる。
「痛……っ」
 ウィルの癖ではない荒い愛撫にソフィアの唇から悲鳴が漏れる。それを聞き流して、ウィルはそっと指先を動かした。上体を起こさず少しだけ身体をずらして、彼はソフィアの腹から胸をなぞり上げ、その手のひらが胸の頂に到達した時に、彼女が小さく息を飲むのが聞こえた。先程はあれだけ強く拒絶してみせたが、今の彼女には脅える市井の少女のような反応が精一杯らしかった。
 ゆっくりと、指に力を込める。
 ソフィアは顔をしかめるのが気配で知れた。苦痛の表情だろうか。それほど強く掴んでいるわけではないはずなのだが……
 身体が勝手に反応したのか、己の意志を働かせる事が出来たのかは定かではなかったが、ウィルは上体だけ起こした。そのままの体勢でやや戸惑いを感じつつ彼女の顔を見下ろしていると。
「いやだ……」
 か細い声を上げて、ソフィアはぽろりと涙を零した。
「ソフィア?」
 頬をすうと伝ってゆく涙の筋を見て、ウィルは慌てた。怒鳴られることは覚悟していたが、こんな抗議をされるとはさすがに思っていなかった。ウィルの声が引き金になってしまったらしく、ソフィアは幼子のようにしゃくりあげはじめた。
「いやだ、こんなのやだ、酷いよっ……やだよぉ」
「ソ、ソフィア、あの」
 まずい。調子に乗りすぎた。混乱しつつも、それだけは明確に悟る。彼女がこういった行為を嫌がる事は十分承知していたというのに。
 けれども彼女の涙の理由は、単純にそれだけではなかったようだった。
「ウィルじゃ、ないじゃない、こんなの、やだっ……他の人に……こんな、こと、されるのなんて……あたし、絶対……いやだ……」
 その言葉に感じたのは、頬を引っぱたかれたような錯覚だった――
「あー……」
 己の過ちを正しく理解して、ウィルは眉間に皺を寄せた。両腕を、喉を痙攣させて泣きじゃくる彼女の横について身体を支えたまま、ウィルは自分の意思で腕を動かせるのなら頭をかきむしりたい衝動に駆られた。
 彼女の言う事ももっともだ。――もとい。全面的に正しい。己の欲求に溺れかけていて、何よりも大切なその点について全く考慮から除外していた事に今更ながらに気付く。ソフィアの方は何もアクションを返してこないのでウィルはさほど違和感を感じずに済んでいたのだが、彼女から見れば、全く知らない男に襲われていると感じても無理はないかもしれない。姿形が恋人のものであったとしても、それで納得する事を繊細な彼女は許さないのだろう。
 一旦泣き出したらそれを止めるすべを知らない子供のように泣き続けるソフィアの前、というか上で、彼は今、本日一番の非難と後悔をその身に浴びていた。
「あー、悪かった。俺が悪かった。謝ります。もうしない。もうしないから泣き止んで、な?」
 それこそ幼児を宥めるような言葉で、あやす。肩を震わせながら、ソフィアは上目遣いに彼を見上げた。女の色っぽさではなく、泣かされた子供が恨めしげに相手を見上げる目つきを連想させる。
「どう……やって」
「え? ああ……」
 一瞬戸惑って、すぐにその意味を解釈する。身体に取り憑いた幽霊はこれ以上行為を続行しようとはしていなかったが、かといってその支配権が彼らの元に戻されているわけでもなかった。今もソフィアの上に覆いかぶさったまま動けないでいるウィルがもうしないと言った所で何の保証にもならないと思うのは当然だった。
 が……
「大丈夫。もう冗談はおしまいにするから」
 特に迷うことなく告げて――ウィルは口早に、呪文を唱え始めた。ソフィアは訳が分からず涙の溜まった目をしばたいたが、『幽霊』の方はウィルが何をしようとしているのか気付いたか、唐突に腕が動き、ウィルの口を塞ごうとしてくる。しかし、
「甘い」
 ウィルが冷静にそう呟くと、彼の両の腕は、自由落下するようにぱたんと動きを止める。
 そのまま彼は顔を上げて、寝室の、入り口の方を振り返り――
「返すよ、誰だか知らないけれど」
 呟くと。
 その静かな声に打ち倒されたかのようなタイミングで、居間の方でどさりと何かが倒れる音がした。



「あなた……さっきのボーイさん?」
 寝室のドアのすぐ前の床で、先程までの二人のように、言う事を聞かない身体にうんうんと唸り声を上げていたのは――先程の陰気そうな顔のボーイだった。もう終わった、とウィルに促され、その通り身体の自由を取り戻したソフィアはまずドアの外でそれを確認して目を見開いた。
「あんたか。まあここでいきなり登場人物が増えられても困るけど」
 遅れて寝室を出てきたウィルもまた、その男を見下ろして、こちらは特に驚きもせず呟いた。先程脱ぎ捨てた上着の埃を片手で払う。当然だが、『幽霊』の支配から脱してしまえば彼の左腕はもう動かない。
「登場人物?」
「推理小説だったらさ、犯人を明かす段でいきなり新しい登場人物が出てきてそいつが犯人だったりしたら、詐欺もいい所だろ」
「そりゃまあ確かに……って、犯人?」
「犯人」
 ウィルが床の男を視線で指し示すと、観念したか、彼は抵抗を諦めて声を上げるのをやめた。唯一彼自身が動かすことの出来る首から上を持ち上げる男と、ウィルは視線を合わせて苦笑した。
「ちょっと待っててな、このままじゃ寒いんでね」
 告げてから、もそもそと服を着直し始める。靴下を履くように左腕を袖に通していると、男が一瞬ならず、ウィルの体躯を見て息を止めていたのに気がついたが、それは彼にとって別段気になる反応ではなかった。驚かれることには慣れている。体型的には別段特徴のない身体だが、その表皮は――
「戦争中にちょっとね……っと」
 胸から腹から脇腹から、肌という肌を余す所がない程に埋め尽くしている、歪に引き攣れた数多の古傷を、彼は上着で覆い隠した。
 ふと、ソフィアも居間の照明の下で改めて彼の身体を凝視していたらしいことに気付いたが、ウィルは彼女の頭をぽんぽんと撫でて男の方へと向き直らせた。
「……それで、どういう事なの?」
 気を取り直したように、ソフィアが男に問いかける。が、彼は俯いたまま答えようはしなかったので、その矛先はウィルの方を向いた。寝室のドアから離れ、部屋の中央のソファーにどさりと身体を投げ出したウィルは、仰け反ってソフィアの方を見返した。
「あの幽霊騒ぎは、全部そこのボーイさんの仕業だった、って事だよ」
「だから、どうやって」
「決まってるだろ、魔術でだよ。魔術で俺たちの身体を操って、あんなことをさせたんだ」
「……ボーイさんが? 魔術?」
 驚いたように足元の男を再度見下ろすソフィアに、ウィルは右肩を竦める。
「ホテルの従業員が魔術を使っちゃいけないって法律もないだろ。まあこの程度使えるんなら、魔術士登録してなきゃ違法だけど。……でも、制御も魔力も俺から見ればまだ甘い。その気になればさっきみたいに簡単に無効化出来る」
 と言い切った辺りで、ソフィアが何やら複雑な表情を向けてきたことに気がついて、ウィルは視線を泳がせた。
「……うん、まあ、最初から対抗しようと思えば出来たって事なんだけど」
「ウィールーっ!?」
「どーどーどー落ち着け落ち着け俺が悪かったのは分かってるからお願い落ち着いて」
 ぷるぷると震えるこぶしを振りかぶるソフィアに、ウィルは寄りかかっていたソファーから身を起こし、手を振って降参の意を示す。と、その迅速な誠意をとりあえず受け入れてくれたのか、彼女はとりあえず腕を下ろして後ろの男に向き直った。
「はーもう……それにしてもどうしてこんな馬鹿な真似してくれたわけ?」
 髪が乱れるのにも構わず苛々と頭を掻くソフィアに睨まれて、ボーイはぎくりとした様子で視線を持ち上げた。ソフィアの形相はウィルの見る限りまだ静かなものだが、それでも一般的に見れば十分に殺気立っているように見える。
 刺激しない方が身の為だ、と、ウィルが男に促すべく頷いてやると、彼はようやく口を開き始めた。
「ぼ、僕は、実は……シャーマンなんです」
「シャーマン?」
「死者の霊と会話する特殊能力者だよ」
 目をぱちくりとするソフィアに、ウィルは解説を入れた。
「未開の農村なんかには今もいるって聞くね。迷信だよ。実際は、魔術を用いてそれっぽい儀式をやってるに過ぎない」
「魔術とは違います、交霊術です」
 ボーイは意外にも強い口調で反論してきたが、ウィルは首を横に振った。
「先人が編み出した秘術という形で伝わってるんだろ。それなりの魔力があれば、ある程度までの術なら一定の型を踏めば発動出来る。魔術を使うという自覚は必ずしも必要ではないんだ。何よりも俺が魔術で対抗出来たって事は、魔術以外の何物でもないだろ」
「でも」
 それは恐らく事実の通りで、反論出来る要素はなかったのだろうが、ボーイは納得しかねているようであった。田舎の人間は自分の所属するコミュニティの文化や慣習には結構意固地だ。ウィルとしても、己の専門とする学問についてであるので、誤認識を是正しないでおくのは多少抵抗があったのだが、最終的には折れて続きを促した。
「ま、この際それは何でもいいや。で?」
 言われて、男もまた不承不承ながらも話題を元に戻す。
「……先程お話した内容は、全て真実です。ただ、伏せておいた内容はありました。……あの二人は、僕の姉とその夫なんです」
 男は、そう切り出した。
「僕の家は、村に古くから伝わるシャーマンの家系だったのですが、姉にはその力がなく、普通の農家の男と一緒になりました。子供の頃は、確かに自分ばかりが辛く厳しい修行を積まねばならないことで、その義務を課せられなかった姉を恨んだりもしましたが、一人前になる頃にはそんな気持ちも消え、純粋に、貧しいながらも充実した日々を手に入れた姉の幸せを喜べるようになりました。……元々姉も義兄も、意味もなく恨み続けるには善良な人たちでしたから……」
 俯き加減のままぽつぽつと語っていた男は、そう口にした所でぼろぼろと泣き始めた。さすがに男の涙にほだされる等という事はないが、少々気まずくはなって目の前のボーイから視線を逸らすと、ウィルは、いつの間にか丁度その男の後ろ辺りに気配が生じていたことに気がついた。
 それは先程の幽霊二人組であるらしかった。外からの薄明かりのみに照らされていた寝室とは違い、この居間は繕い物も無理なく出来る光量ではあったが、そんな場所であっても半透明の白い身体は、見紛うことなく幽霊らしく見えた。二人の幽霊は男と同じく悲嘆に暮れたようにさめざめと涙していた。――芸の細かい魔術だな、とウィルは思ったが、魔術ではない旨を主張する男の手前、黙っていておいてやることにする。
「……そのように質素な暮らしを続ける中、先程もお話しましたとおり姉夫妻は少しずつ蓄えを貯めて、たまには贅沢を行っても罰は当たらぬだろうとこの街にやってきたのです。だというのに、あんなことになってしまうなんて……っ! もっと僕の力が強ければ、彼女らの未来を見通すことが出来たはずなのにと思うと、僕は、僕はあああああ!」
「そんなこと出来るの?」
 未来を見通す、という技についてだろう。男泣きに泣く交霊術士の横で問うてくるソフィアにウィルはさして気もなく答えた。
「交霊術とカテゴリとしては同じかな」
 もっとも、予言に関してならば教会に古くから残されている書物などを挙げてその能力の実在を主張する魔術士もいる。ただ、眉唾と一顧だにしない者も多いのは事実で、ウィルもどちらかというとその意見に近かった。しかし、もし仮に本当にそんな能力が存在するのだとしても、それを持たなかったと言ってこの男が自責する必要はないのだが――それは、腕があと二メートル長かったら谷底に落ちかけている人を助けられたのにとかいうのを嘆くのと同じようなものだ――、彼の心情の裏には幼い頃の負い目のようなものもあるのかもしれない。
 何にしろ、取り扱いに困って男を暫くの間放置しておくと、彼は自分でどうにか気を取り直すことに成功したらしく、ぐじゅりと鼻をすすった。
「……取り乱してすみません。……彼女らを助けてあげることの出来なかった僕に出来たのは、彼女らの霊を慰めることだけでした。葬儀の折、村のしきたりに則りその御霊を呼び起こして……そこで、僕は声を聞いたのです」
「この世の未練をか?」
 問うと、男は一つ頷いて見せた。
「彼女らは、本当に楽しみにしていたんです。その事を切々と訴えてきました。この日この場所で、愛を語り合い口づけを交し合い冬の気温に凍える手をお互いの温もりで暖めあい寝室から市内随一と言われる夜景を眺めて明かりを消して身体を寄せ合いベッドをぎしぎしと軋らせながらあんな感じやこんな感じに絡まりあって熱く迸る白濁した痛ッ」
 つかつかと歩み寄ったソフィアに警告なくどつかれ――しばし痛みに呻く男。かつては訓練された兵士をも捻り倒した彼女の腕で殴られたとあっては、さすがに哀れを感じずにはいられない。
「ソフィア……」
「自業自得でしょ」
 潔癖な少女は冷たく男を睨めつけながらきっぱりと言い捨てる。確かに、その先は少々まずそうな単語が続きそうな気はしたが。
「……と、ともあれその成し得なかった望みを果たすまでは、女神の御許へ向かうことすらままならぬ、と。僕は、姉たちの望みを叶える為に、村を出てこのホテルに就職しました」
 頭を押さえ押さえ呻くように告げた男の説明にひとまず得心が行って、ウィルは頷いてみせた。
「ふむ……で、この部屋に泊まった客に取り憑かせてセッ痛」
 今度はウィルの頭上に振ってきた衝撃に、恨めしげに彼は上を振り仰ぐ。
「何すんのさ」
「直前に起きたことくらい教訓にしなさいよ」
「別に普通の言葉だろこの程度……」
 呟いたが、ぎらりと濡れ光る刃物のような視線を受けて、慌てて言葉と己の態度を修正する。
「で、客に取り憑かせてまあなんつーかイイ感じのことさせて、気を晴らさせてやろうとしてたって訳か」
 弱々しくではあるが男が首肯するのを見て、ウィルは自分の顎を撫でた。思考を巡らしている間、手持ち無沙汰な手がどうしてもこのあたりに伸びてしまうという癖がある。
「何だかなぁ……あんたの心情的な部分は分からないでもないがね。でもだからって、まあ身体的には問題ないにしてもだな……こういうのはよくないだろ」
「俺が許すとか言ったくせに」
 諭すように呟くと、ソフィアが横合いから険悪な目つきで口を挟んできた。そそくさと目を逸らして、わざとらしく小さく咳払いする。
「それはそれとしてだな。……まあ、なんだ、こんな事を続けていたらあんただって立場がまずいだろ。立派な営業妨害だ。もしばれたら、首にされるだけじゃ済まされないぞ」
「か、覚悟の上です……それでも僕は、二人の遺志を叶えなければならなかったんです」
 はぁ……。
 馬鹿と腹を括った犯罪者につける薬はない。大きく溜息をついて、ウィルは頭を掻いた。どうしたものか、と何気なくソフィアの方を向いて――
 思わず、そこで硬直する。
 ここまでの積み重ねで彼女の機嫌がかなり斜めになっていたのは承知していた。けれども――振り返ってそこにいたのが自分の恋人でなく、自分の恋人の顔をした氷の女王だったりしたらどうすればいいのか。人形のように整った顔に浮かぶ怒りは燃えるようではなく、それを超越した冷たさ、鋭さを抱いていて――まさか実際に彼女を中心とした猛吹雪が吹き荒れていたりはしなかったが、感じずにはいられないまさにそのような錯覚にウィルは思わず本能的な危険を察知して彼女と距離を取った。
「そ、そふぃ……?」
 引き攣った笑顔を浮かべるウィルには答えず……ソフィアは再度、交霊術士の男に近寄った。
 ソフィアを真下から見上げる形になる男もまた、凍りついた表情を浮かべている。拘束の魔術は維持だけでもエネルギーを消費する為とうに解いていたのだが、男は床にへたり込んだまま逃げようとはしていなかった。己の所業を明かし始めた以上、逃げる気など最初からなかったのだろうが、今の体勢はそういう理由ではなくて、単純に、蛇に睨まれた蛙という状態に陥っているように見える。
 ――その男の眼前で、ソフィアの足が音もなく持ち上げられる。
 すらりとした細い足は膝が胸の辺りまで来る程に持ち上げられて――そしてそのまま、踵から男の腹めがけて打ち下ろされた。
「うぎゃうッ!?」
 男は悲鳴を上げて床を転げた。目を覆いこそしなかったものの、ウィルは思わず顔をしかめた。ソフィアの靴は爪先が鉄骨補強されたいわゆる安全靴というもので、しかも何に使う気なのか踵にまで同様の補強が成されているため、まともに腹に入れたら内臓を口からはみ出させかねない。しかし、勇気を出してよく状況を見てみると、断末魔の声を上げたかと思った男はいまだ生存を許されていたようだった。どうにか今の雷光の如き蹴撃を避けることに成功したらしい。若しくはソフィアが一応逸らしていたのか。
 ひはー、ひはーと男が荒く息をつく。まさにそれは、荒ぶる猛獣を目の前にし、絶対的な死の恐怖に駆られている子羊の姿であった。錯覚ではあろうが――普段はあどけないとすら言えるソフィアの瞳がぎらりと輝く。鋭い陽光を受けた樹氷のように。
 無言で再度ゆらりと足を上げるソフィアに、ウィルは慌ててしがみついた。
「ちょっとソフィア、相手は一般人なんだし人殺しとか殺人とかそういうのはとりあえずやばいから!? 落ち着こうよ、ね!?」
「落ち着いてるわ」
 振り向きもせず、足を下ろす事すらせず、さらりと何気ない声音でソフィアが言葉を返してくる。確かに声は冷静そのものだったが。
「落ち着いててその行動は更にまずいってば!?」
「何言ってるのよ。覚悟してるってこの人が自分で言ったんじゃない」
 殺害者としての道に転落しようとしている恋人をどうにかして思いとどまらせようと叫ぶウィルに、ソフィアはようやく視線を向けてきた。しかしその瞳に浮かぶ表情は何か非常に不条理な事を言われたかのような訝しげなもので、逆にウィルが唖然とする。
「人を傷付けようとすれば自分も傷付けられるかもしれない。人を殺そうとすれば自分も殺されるかもしれない。当たり前よね?」
「あ、う、うん?」
 ちょこんと無垢な小鳥のように首を傾げながらソフィアが唐突に告げてきた言葉に、ウィルはつられたように頷いた。……咄嗟に頷いたのは彼女の勢いに押されてだが、少なくとも彼女の言っている事は間違ってはいないとは思う。因果とか、運命とかいう論理を持ち出さずとも、それは彼らにとって何よりも明白な現実だった――少なくとも、しばらく前まで彼ら二人が住処としていた戦場に於いては。剣を振りかぶり切り付けるその背後から敵の刃で貫かれる。死を避けるには自分が殺すか、そもそも初めから剣など手に取らずにいるしかない。一度この渦中に身を投げてしまえば逃げる事すら許されぬ生と死の二択。戦場に立つという事は結局はそれの単純な連鎖に過ぎなかった。何の誇張もなく。
「あたしはね、一人前と半人前との違いって、行為の結果起こりうる事を予め想定しその可能性を考慮に入れる事が出来るか……つまり覚悟が出来るかどうかだって思うのよ。まあそれが出来て当たり前なんだけど、当たり前の事すら出来ないから半人前なわけでしょ。半人前ならね、あたしだって手加減くらいはしてあげようとは思うわ。でもね、一人前の相手であるなら、ちゃんとそういうふうに扱うべきだと思うの。そうじゃないと相手にも失礼でしょ」
「はぁ」
「って訳で殺すわそいつ。とめないでね」
「とめるわあああああ!? 君の手加減なしは即殺直結かあああッ!?」
「んふふふふふふふふ」
 当然の如く言い切るソフィア。それに必死に食らいつくウィル。女性とはいえ一流の戦士である彼女は、片腕の機能のないウィルが制するのは一苦労……どころかまさに命懸けである。
「あああもういい、あんたもういい、逃げろ! 地の果てまで逃げろッ!!」
 最終手段として用いた哀願に近い叫びにも男は答えずただ首を横に振るのみ。死を受け入れる潔さ、ではなくて恐らく腰が抜けているだけだ。それは彼女も分かっているのだろうが――素知らぬ風で非常に朗らかな満面の微笑みを、瞳以外に浮かべている。
「んふふふふふふふふふふふふ」
 ソフィアが唇から垂れ流す笑声に混じって――
 突如、ごきん、と、鈍くも痛そうな音が鳴り響き、ウィルは何事が起きたかと瞬時身体を強張らせた。そして、次の瞬間ふと気付く。自分の腕の中に今の今迄いた少女がいつのまにか消えていた事に。
 彼女は捜すまでもなくすぐ目の前にいた。手を伸ばせばすぐに届く距離……ではあったが、ウィルは背中を向ける彼女に気圧されたかのように身動きを取る事が全く出来なかった。
 ソフィアが、まるでウィルの左腕のようにぶらんとしている自分の腕を引っ掴み、勢いよくねじ込むような仕草で肩に押し戻す。わざわざウィルの腕から逃れる為だけに肩の関節を外して体勢を変えたのだ。関節は外すのも痛いがはめるのはウィルでも泣くほど痛い。しかしソフィアはそんな作業の間も身じろぎ一つせず、また一瞬たりとも視線を男から逸らすことはなかった。彼からは死角になって見えないが、多分あの笑顔も変わらないと思われる……
「ひッ…………」
 男の絶叫が――
 幽霊の住まうとされる一室に、響いた。



「ご迷惑を……お掛けいたしました……」
 奴隷が鞭を持つ主にそうするかのように恐々と床に伏せて謝罪の言葉を述べる男に、ソフィアは鷹揚に頷いた。
「ま、今日の所はこのくらいで勘弁してあげるわ」
「……いじめっ子か君は……」
 ウィルは思わず呟いたが、目の前の男を見下ろしてから溜息をついた。訂正する。いじめっ子だってここまではあんまりしない。
 男はまるっきり別人になっていた。否、間違いなく先程のボーイ当人ではあるのだが――その容貌は完全に別物と化していた。頬はパンパンに腫れ瞼は青く盛り上がり、唇もまた熟れ過ぎた果物のようになっていた。こうなる過程を見ていなければ、これが先程の男と同一人物であるか判別出来る自信はウィルにはなかった。さすがに本気で命に関わる傷はなかったものの、このまま騎士団の詰所に駆け込めば立派な傷害事件として扱ってくれるだろう。お尋ね者確定である。いくら彼自身も脛に傷を持つ身であると言っても、ここまで景気よくリンチを加えれば死の恐怖が罪の恐怖を凌駕しそうなものだ。
 これだけの事件が繰り広げたにもかかわらず他の従業員が駆けつけないという事はどういうことなのだろうかとウィルは少しこの宿の警備態勢について疑問を覚えざるをえなかった。このボーイが予めそれとなく人払いをしておいたのか、まさか一連の幽霊騒ぎで悲鳴という物に慣れっこになっていたりするのか。他人事ながら色々心配ではあったが、この要素は二人にとっては悪いものではなかったので、ウィルは気にしないでおくことにした。
 ソフィアは伏せる男の目の前にしゃがみこんで、先程とは打って変わった優しい声で語り掛けていた。
「あのね、あなたが亡くなったお姉さんの事を思ってこうしたっていうのは、とても優しい気持ちだとは思うわ。でもね、お姉さんは本当にこんな事を望んでいたの? 人を傷付けて、自分まで傷ついて。……あなたのそんな姿を見るのは、お姉さんもとても辛いんじゃないかなって、あたしは思うの」
 そりゃ辛いだろうナ……。
 非常に素晴らしいお題目を真顔で唱える殲滅者に突っ込むだけの気概は無論ウィルにはなく、しかしそれでも押さえ切れなかったその呟きを心の内のみで漏らして、彼は何気なく頭を動かした。先程からと同じ位置で、例の幽霊夫婦が何やら悲嘆に暮れている様子が窺える。弟の悲運を嘆いているのだろうか。
(…………あれ?)
 ちょっとした違和感を覚えて、首を傾げる。
「ほら、あなたは死者の霊を宥めるのが本当のお仕事なんでしょ? 祈りの言葉でも唱えて、彼女らを女神の御許に送ってあげなさいな」
「は、はい……」
 ソフィアに促されて、二人の幽霊たちの方へわたわたと向き直る男の様子を、感じた違和感は傍に除けておく事にして、ウィルも見守ることにした。異教の文化というのはあまり見たことがない。
 男は胡座をかいて幽霊たちの前に座し、思いの外よく通る澄んだ声で、朗々と祈祷の文句らしき言葉を唱え上げ始めた。大陸の多くの地域で信奉されているファビュラス教の聖句とは用いる言語からして違っていたが、迷いのない声音と雄大な詩を吟ずるかのような響きは共通しているとも言えなくもない。唱えている言葉の意味は分からなかったが、それは確かに真摯な信仰者の祈りであると思えた。
 やがて――
 大人しくその祈りの言葉に耳を傾けていた幽霊たちに、異変が生じはじめた。
 薄ぼんやりとした半透明の身体が、次第に強く光を放つようになってきていた。ずっと見続けたままでは分かり難いほどの緩やかな変化ではあったが、直視するのが辛くなるほどの光量にまでなれば気付かずにはいられない。ウィルは目を眇めながら、儀式を続ける男の姿を盗み見るようにして眺めた。斜め後ろからという位置関係であり、何よりもソフィアにボコボコにされた顔はどのような表情であるのか分かり難かったが、少なくとも、先程までのようなうろたえた気弱な青年の態度ではなかった。教会で聖書を読み上げる神官のように背筋をぴんと伸ばし、すぐ眼前で展開される変化を全て受け入れている。
 おもむろに、男はその場に立ち上がった。先程までは受けたダメージの為かなりおぼつかない動きをしていたのだったが、定められた儀式を執り行う洗練された挙動には遅滞はない。指先に複雑な印を形取り――これもまたファビュラス教にはない形状だった――その手を高々と掲げて言葉を唱え、すっと振り下ろす。
 幽霊たちの輝きは一層増し――そしてそれは、弾けるように余韻を残さず消滅した。
「姉たちの気配は……消えました……」
 やや疲れた声で男は告げてから、ウィルとソフィアに向かって頭を下げた。二人に対する謝罪のようであったが、去っていった姉夫妻への餞であったとしても特に驚きは感じない。
「……すごかったねえ」
 ウィルの袖の辺りをくいくいと引っ張ってソフィアが囁いてくる。が、ウィルはそれよりも今の男の言葉にまた何か引っ掛かる物を感じて、先程は放棄したその疑問の解明にしばしの間没頭していた。
「……姉たちの……」
 声に出して呟くと、ようやく投げかけるべき言葉が頭の中で完成する。
「姉たちの、気配?」
「? ……ああ、ええそうです」
 一瞬だけ男はきょとんとしたが、すぐにウィルの意図を了解した様子で頷いて見せた。
「今の今迄、その場所に姉夫婦二人がいたのですよ。霊能力のない方は見る事は出来ないのですが……と言っても僕も、実は気配を感じる事しか出来ないのですけれどね」
「……え?」
 今度はソフィアが、目を丸くして声を漏らす。彼の回答はウィルの疑問からすれば全くの的外れな物ではあったのだが、しかし図らずしも確証を深めさせるには十分であった。もっとも、ソフィアが彼と同じ事を思ったという訳では恐らくないのだろうが。ソフィアの反応を見て、交霊術士の男はひしゃげた顔を恐らく笑みであろう形に変形させた。
「ご安心下さい。二人は女神の元に帰られました。……どうやら、分かってくれたみたいです」
 彼の声は、自分にこれだけの傷害を加えた人間を目の前にしているにもかかわらず実に穏やかだった。自分の為すべき事を達成させた、その感慨が彼を満足させているのであろう。
「本当に……お世話になりました」
 最後にそう言って、彼はウィルとソフィアの部屋を後にした。

「ねえねえどういう事? しっかり見えたよね、あれ。って事はつまり、霊能力とかってあたしたちも持ってるって事なのかなあ!?」
 一騒動が去ってもまだ興奮が冷めやらぬ様子できゃっきゃと言ってくるソフィアに、ウィルは静かに告げた。
「あれは魔術だ。幽霊なんて物は存在しない。する訳がない」
「えー。……つまんないのー」
 その答えは不服であったらしく、ソフィアは唇を尖らせてぼやいた。それを宥めるというつもりがあった訳ではないのだが、魔術士の青年はぶつぶつと続けた。
「だけど、魔術で実体化したものが、人によって見えたり見えなかったりなんて、するはずがないんだ……魔術というのは形ある、もしくは力ある幻覚を創り出す技。元は無であろうとも、魔術で作り出してしまえばそこに『在る』ものなんだから……」
「え?」
 ソフィアはぽかんと口を開いて、うわごとのように呟き続けるウィルを見上げた。
 最初に感じた違和感――タコ殴りにされた男の後ろでその姿を哀れんでいる幽霊夫婦の姿をふとウィルは脳裏に思い浮かべていた。違和感の理由にようやく気付く。術者があのような状態になってなお、あれほどまでに高精度な幻を存在させる魔術を完璧に行使し続ける事など、出来る訳がない。
「それって……じゃああれは、魔術で作られたものじゃなかった、って事?」
 問われた所で答えられる言葉はない。ないのだが。
 ソフィアはウィルが返せなかったその答えを自分で拾い上げて、ぽんと手を打った。
「ってことは、やっぱり」
「うああああ!! 言うな、それ以上言うなあああああ!?」
 聖夜のイルミネーションのようなきらきらとした笑顔でソフィアが成そうとする呪われた発言を絶対に耳にすまいと、ウィルはいつまでもいつまでも頭をぶんぶんと振って絶叫し続けたのだった……


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