「何、今の」
ウィルの服の袖を掴みながら言ってくるソフィアから、彼はしぶしぶ身体を離して部屋を一周、ぐるりと見回した。部屋にある割れ物といえば、窓やらグラスやら法石照明のシェードやらと色々視界に入ったが、そのどれにも異常は見られなかった。そもそも、先程の音はそれほど至近で聞こえたようには感じなかった。激しい音ではなかったから、そう遠くでもなかっただろうが、少なくとも同室ではない。
音の感触を思い出しながら発生源を探るウィルに、ソフィアがおずおずと指を伸ばした。
「……あっち」
ソフィアのすらりとした指の示す方向を目でたどっていくと、それは、真っ直ぐに隣の寝室を指していた。――誰もいないはずの寝室を。
「あっちから聞こえた気がする」
「…………。」
思わず眉をしかめて沈黙する。そんなウィルの前から、ソフィアはおもむろに立ち上がり、すたすたと今迄指を向けていた方向へ歩いていった。
「ちょっとソフィア……」
「大丈夫よ、別に取り殺されたりはしないでしょ。ていうか信じてないんでしょ?」
「信じてないよ。おっかないもん」
「おっかないもんって……そんな可愛い言い方されても」
ソフィアは何の迷いもなくドアの前まで行き、やはり躊躇なく、ノブを捻って引いた。
幽霊の住まう部屋といっても手入れはきちんとされているのか、軋む音もなくドアは開いた。そこから、ソフィアが入り口近くにあるはずの照明のスイッチを手探りで探しつつ、中を覗き込む。
「……何もないよぉ」
何秒かして、ソフィアはがっかりしたように振り向いてきた。
スイッチが見つからなかったのか、暗いままの室内を覗くソフィアの後ろからウィルも顔を部屋に突っ込んでみる。薄暗くて細かい所まではよく分からないが、その奥にある部屋が確かに無人であること程度は確認できるだけの光量があった。窓越しのイルミネーションの幻想的な輝きに照らし出される寝室は、居間と同様に宿の一室としてはかなりの広さを持ち、その至る所に年代物でありそうな立派な調度品が鎮座しているのが見える。中でも、窓の近くに置かれたフリルの天蓋が垂れ下がるダブルサイズのベッドは大層な代物だった。上掛けをめくってみたら貴族の姫君がそこで休んでいたとしても不思議ではなさそうな、そんな作りをしている。姫君、というような連想をした通り、外からの淡い間接照明に彩られたその一室は、どちらかといえば可愛らしい部屋という雰囲気であったが、何というかある意味、非常に情欲をそそる風景でもある。ただ今はさすがに、人ならぬ何かの存在があるかもしれない、ということの方が気になって、あのベッドにソフィアを押し倒してみようなどという気にはなれなかったのだが――
更に中を確認しようと、ソフィアが一歩部屋に足を踏み入れる。その途端、
「きゃっ!?」
小さく悲鳴を上げて床に倒れ込んだ彼女に、ウィルは心底驚いて慌てて駆け寄った。
「ソフィア!?」
「大丈夫、転んだだけ」
「な、何だよ、脅かすなよ……」
本気で心臓がばくばくと鳴っている。思わず服の胸元を鷲掴みにしたウィルを、絨毯の上にしゃがみこんだままソフィアはくすくすと笑った。
「本当にだめなんだ? ちょっと意外かも。あ、魔術士ってのを除いてでもね」
「……俺は神経が繊細なんだよ」
「えー? そういう問題?」
笑いながら首を傾げるソフィアに手を貸して立たせてから、ウィルは、彼女の細い身体を抱き寄せた。
「ウィル?」
微笑みの気配はそのままに、ソフィアの淡い茶色の瞳がウィルの瞳を捕える。それに引き寄せられるようにして、ウィルは目の前の少女の唇に強く口付けた。
「ん……っ?」
急に何?――そのような意味合いの声を、塞がれた唇からソフィアが漏らす。けれどもウィルはそれには答えず、彼女のうなじを支えてキスを続けた。
「あっ……ん……」
零れ出る声に、艶めかしいものが混じってくる。噛み付くような激しいキスに意識を奪われて、ソフィアのウィルを掴む手が、無意識のうちにであろう、力を弱めてゆく。彼が執拗に繰り返す責め立てに負け、ついにはソフィアの膝がかくんと折れた。力を失った彼女の身体を腕で支えたウィルはそのままそっと抱き上げて、ベッドまで歩き、柔らかなシーツの上に横たえさせた。
「ウィル……?」
力の入っていない瞳と声を、ソフィアが返してくる。ウィルは黙したままそれを見下ろして、ハイネックのスウェットをばさりと脱ぎ捨てた。薄暗い光の中にあらわになったウィルの身体を目にするに至り、ようやく危うい雰囲気を察したのか、ソフィアは表情に意識を戻した。
「え? ちょ、ちょっと、ウィルっ!?」
甲高い悲鳴は、すぐに封じられる。彼女の唇は塞がれ、両の手首はウィルの両手に掴まれて、白いシーツに押し付けられる。
「――――両手っ!?」
ウィルの行為を嫌がって顔を背けた瞬間に、ソフィアはこの事態の異常さにようやく気付いたようだった。
「なんっ……!? ウィル、手、左手! 何で動いてっ……!?」
「抱……き上げられた時に、気付け……っ!」
ボーイの怪談話にも原因不明の物音にも全く動じなかったソフィアが泡を食ったように叫ぶ声に答えて、ウィルは彼女を組み伏せたままようやくそれだけを絞り出す事が出来た。
「何なのっ!? どういうこと!?」
「分からな……、身体、が、動かない……」
途切れ途切れに短く告げる。正確には、身体が『自分の意志では』動かせない、という状態なのだがソフィアはその程度は察してくれたようだった。元々感覚もなく動かすことも出来ない左腕はおろか、普段なら意識することもなく動かせるはずの右手さえ、ソフィアの細腕を掴んだまま動こうとしない。
ウィルは――もちろん自分の意志ではないが――両手で掴んでいたソフィアの両腕を右手に持ち替えて、空いた左手で彼女の胸のあたりをまさぐろうとした。触らせまいと、身体を捩じらせて必死に抵抗するソフィアを乱暴に押さえつけ、はだけた肩口や鎖骨に唇を落とす。
「きゃっ、ちょっと……動かないって、やだウィル、まさかっ!?」
あえぐような悲鳴の中に、ソフィアが問いを混ぜ込む。彼女が言わんとしていることの正しさは、ウィルも苦々しく認めた。心当たりと言うにも馬鹿馬鹿しい、慣例的な条件のようなものには確かに合致していると言えなくない。
「まさか、幽霊に……!?」
ソフィアが顎を上げてウィルの瞳を見ようとした瞬間。
彼女の腕の間から機を見つけたように滑り込んだウィルの手が、ソフィアの小ぶりな胸をぐいと掴む。
まったくもって当然な反応だが、その行為はソフィアを硬直させた――が、それ以上に凍りついたのは、ウィルの方である。
「いっ……いやああああッ!!」
その叫びは悲鳴か、攻撃に際する気合の声だったのか。
いずれにせよ、朱に染まった少女の顔を見つつ、ウィルがその瞬間感じたのは激しい嘔吐感だった。それと同時に、ソフィアの上にのしかかっていた身体が、後ろから襟首をいきなり引っ張られたのかというような勢いで後方に跳ねる。
ウィルには、その一瞬の中で何が起こったか全く理解出来なかったが、種を明かせばこのときソフィアの掌底突きが一発、ウィルのみぞおちに、突き抜けんばかりに深く入っていたのだった。あまりにも強烈な打撃を何の心の準備もなくどころか、認識することすら不可能なままに受けて、肉体の防御機構が条件反射を起こしたか自律出来ないはずの身体をかがめたウィルに、重しから解放されたソフィアが起き上がりざまに横から蹴りを放つ。避けるいとまもなくそれを首の辺りにもろに受けて、たまらず彼はベッドから転げ落ちた。
「げふぁ……」
肺腑に何か大きなものが詰まっているようなそんな錯覚があったが、何とかウィルは息を吐き出した。が、ここで終わりではなかったようだった。ベッドから飛び降りたソフィアが履き物も履かず、大の字に転がるウィルの両腕を足で踏み付けて動きを奪い、どこから取り出していつの間に抜いたのかすらもウィルには分からなかった大振りのナイフを、彼の額の真上に当たる位置で両手に構えた。
「……ウィル……」
「はいぃ!?」
凪いだ海のように静かな口調で彼の名を口にしたソフィアに、ウィルは、動くことさえ出来れば軍隊式の最敬礼さえしてしまいそうな勢いで即座に返事をした。その様子を見下ろす彼女の表情には怒りは見えないが、それ以外の感情も特に見ることが出来ないため、余計に恐ろしく感じられる。
「一応、聞いとくけど……演技じゃないよね……?」
薄寒いソフィアの声に、ウィルは全力で首を横に振った。――ふと気がつけば、一時的なものかどうなのかは分からないが、身体を動かせるようになっている。もっともこの状況ではあまり関係がなかったが。ソフィアはどんよりとした重い影の落ちた瞳でウィルを見据えながら、その言葉の真偽を探っているようだった。
「な、何!? 疑ってる!? 本当、本当だってば! 演技で腕動かせるわけないだろ!?」
この状況下にあって唯一の幸いだったのは、皮肉にもこの動かせない腕が存在したことだった。これさえなければ真実がどうであれ疑われる余地もなくクロ確定だっただろう。腕の機能を失って以降、彼は初めてそのことに感謝していた。
沈黙を続けて見下ろしてくる彼女の瞳のまばたきや、ごく僅かな揺らぎにすらも逐一びくつきながら、猛獣を前にした野うさぎのような心境で少女を仰ぐ。それほどまでに神経を研ぎ澄まさせていた所為だろう。ナイフを掲げるソフィアの腕の筋肉が、痙攣するような小さな動きを見せたことに気がつく。
そして次の瞬間。その手に握られるナイフが彼女の支配から離れたことにも。
すこんッ!!
「うどあぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!?」
確実に後だった。ナイフが床に刺さる音よりウィルの悲鳴の方が。
額の真上から落とされたナイフを両腕を床に縛められた体勢で、ウィルは首の動きだけで避けた。肩口で何かぐぎっというような異音が生じたが、そんなことはどうでもいい。筋を一本二本違える方が、ナイフが脳天に刺さるよりはずっとましのはずである。口を先程悲鳴を上げたその形に開いたまま、けれどもあまりのことに理性的な音声を発することも出来ずにソフィアを見上げたウィルは、その口を更に大きく、顎が外れんばかりに開いた。
彼女の背後に、白いカーテンのようなものが見えた。
薄く透き通り虚空に浮かぶそれは無論、カーテンなどであるわけはなく。やはり何を言うことも出来ないウィルの前でその白い物体……であるか気体であるかそれすらも定かでないモノは、ふわりと長い髪をたなびかせて白く細い指先でソフィアの肩に触れる。そう思ったときには何の抵抗があった様子もなく、影は雪のように白い腕をソフィアの中に埋め込んでいた。
「え……?」
どこかぼんやりとしたソフィアの声に、ようやく彼女もその白い影の存在に気付いたのかとウィルは思ったが、彼女の視線を辿ってそうではなかったことに気がつく。
彼女が気付いたのは『その』白い影ではなく、『別の』白い影であったようだった。彼女の視線が向かう先、つまりウィルの頭上に当たる位置に顔を向けると、女の形をした白いモノがソフィアにそうしているのと同じように、がっしりとした男の体格を形作る同じモノが、ウィルに丁度腕を突き立てようとしているのが見えた。
「ちょっと待――!!」
……すまない……
ウィルの悲痛な叫びに答えるかのように、聞き覚えのない男の声の幻聴が耳に響く。
先程取り付かれていたときも感じていた、自分の身体でありながらどこか遠く隔てられたところに押し込められているようなそんな錯覚を、ウィルは感じ始めていた。