女神の魔術士 Chapter1 #16

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「んなああああああ!?」
 男たちは叫んでいた。ファルナスも叫んでいた。今叫ばずいつ叫べと言うのか。いや、叫んでいる場合ではない。というより叫んだってどうしようもない。
 誰も予測していなかった。まさか、護衛として雇われた本人が人質を何ら意に介する事はなく吹っ飛ばすという手段を用いてこようとは。
「ああああ、みんな、みんなあああ!? ちょっ……、あなた何考えてるのサードニクスさんん!?」
 未だ煙をもうもうと上げる小屋を横目に、ファルナスは一目散に魔術士の青年の元に走った。戦う力などないただの会社員である彼女の事などは初めから誰も眼中に入れていなかったが、この惨劇を成した魔術士の方は、今も何人かの男たちに押さえつけられたままだった。だが、そんな男たちの腕をかいくぐるようにして、ファルナスはウィルの胸倉を掴み上げた。
「なななんてことをしてくれるのおおおッ!? あの中にはまだ皆いるっていうのに!? それを助けるのが仕事でしょ!? アリエスさんにもびっくりしたけどあなたは更に三倍速でびっくりよ!?」
「三倍速って」
 ぶるん、と顔を振って男の手を振り払い、呟くウィル。最早男たちの腕にはその程度で振り解ける程度にしか力が入っていなかった。人質があってこその優勢――それを吹き飛ばされたら立場が根本から崩壊する。今まさに決定的に、彼らの勝利の可能性は瓦解したのだ。……否、そこまで考えを及ばしてはいなかったかもしれない。きっと彼らの心中に渦巻いていたのはこの一言だろう。
 すなわち……
 ここまでやるか、フツー。
 恐れにも似た感情が今更ながらに男たちに、「こいつらには勝てねえ」という真理に気付かせたのだ。
 しかし、当のウィルは自分がもたらした勝利の兆しに喜ぶでもなく、実に複雑そうに顔を歪めた。
「人聞きの悪いことを言わないで欲しいんだけど。誰があんな無茶するか」
 ウィルが苦い口調で呟くのを、ファルナスは唖然として見つめ返す。驚愕の事実を突きつけられたような表情をする彼女に、ウィルはただひたすら疲れた声で続けた。
「やったのはソフィアだよ。俺が使ったのは防御魔術だ。あの爆発が屋根を吹き飛ばす程度で抑えられるようにね」
「で、でもあんなの、魔術じゃなきゃ……法石だってもうないって言ってたのに」
「嘘だったって事だろ。……ああもう、俺だって訳わかんないっての!」
「嘘じゃないわよ」
 と――
 ついに自制心が限界に達したらしいウィルの叫び声を遮って、鈴の音のような声が割り込んで来る。同時に振り返る二人の視線の先、半ば崩壊しかけている小屋からゆっくりと出てくるその姿は何故か、ソフィアだった。
「何で……」
 小屋から出てくるわけ? 悄然とするウィルはそこまで言葉を紡ぐ事が出来ないようだったが、小屋を差す彼の指の形から省略された文面を察したソフィアはこともなげに呟いた。
「中の敵。もう全員無力化したわ。あっちも混乱してたから良かったけど、気を抜いちゃ駄目でしょ。あれをどうするかって作戦だったんだから」
「そうだったの?」
「そうだったのって、あのねー。何も分かんないで魔術使ったの?」
「分かるか! 何も聞いてないぞ俺は!?」
 心底呆れたように言ってくるソフィアに、ウィルは噛み付くように言い返す。けれどもソフィアの声のトーンは相変わらずだった。
「それを察するのが相棒ってものでしょうが。……まぁ、ちゃんとやることはやってくれたんだからよしとしてあげるけどね」
「うわぁー……この言い方」
 何か非常にもどかしげにわきわきと指を動かすウィルから目を離し、ソフィアはその前でやはり呆然としているファルナスに、気楽に微笑んで見せた。
「大丈夫だよ。みんな無事。あとは、仲間が迎えに来てくれるまで待つだけよ。あー、これでようやくひと仕事終わりね。もう早く帰ってお風呂入りたい。何かまだこの辺にべとべとしたのが残ってるような気がするわ」
  男に触れられた脇腹辺りを不快そうに手袋で拭うソフィアを、ウィルは据わった目つきで睨む。
「って、一人で完結されても物凄い困るんだけど。せめて何をどうしたかくらいは説明してくれないか?」
 ウィルの不理解はそれ程意外だったのか、ソフィアは本気で驚いたように目を丸くした。
「えー? 本当に分かってないの? ……見たまんまの事しかやってないわよ。あの男の提げてた皮袋。あの中に盗んだ他の宝石と一緒に『天使の頬に伝わる雫』が入ってたから、奪って投げたの。ブラウンさんにお願いしてね、ネックレスの『雫』以外の宝石は、いざという時の為に全部法石と取り替えておいたのよ」
 人差し指をぴっと立てて、得意げに種明かしをするソフィアの話を聞きながら――
 見る見るうちに、ウィルとファルナス、二人の顔が蒼白になっていく。
 二人がそんな顔をする理由に気付いていないらしく、そんな二人の顔をきょとんと眺めているソフィアに、最初に口を開いたのはウィルの方だった。
「……疑問点はいくつかあるんだが順番に聞こう。まずは何で君、あの中に例の宝石が入ってることを知ってたんだ?」
「そんなの、決まってるじゃない。最初に『雫』を奴らに盗られた時、あんな感じの皮袋にしまい込むのを見たからよ」
「……ほー、そうか。で、その皮袋から別の場所に移動してたり、しまったのは実は別の似た皮袋だった可能性ってのは考えられなかったのか?」
 なるべく穏やかにウィルが尋ねると、ソフィアは「え?」と一声漏らしてから十秒ほど沈黙し、
「…………ああー」
 いたく感心したような声を上げた。
 ウィルが頭痛を堪えていられたのはこのあたりまでだった。後は任せるとばかりにファルナスの肩をぽんと叩いて、頭を抱えてうずくまる。
 バトンを受け取り、今度はファルナスが震える唇をおもむろに開いた。
「法石と取り替えたって言ったけど……そんなものと一緒に投げて爆発させて……『雫』本体は……?」
 しかしその問いには、ソフィアは自信を持って頷いて見せた。
「それは大丈夫、『雫』には厳重な耐火耐熱耐衝撃コーティングをしておいたから! あたしだってそこまで馬鹿じゃないですよぉ!」
 胸を反らせて言うソフィアに、ファルナスは頷いた。弱々しく。
「……そう……それは良かったわ…………で、あの袋に一緒に入ってた、他の宝石は?」
「…………」
 ソフィアは自信に満ちた表情で微笑んだまま。微笑んだままだが――
 その微笑の形の唇から小さく声が漏れてくる。
「……あーらら」
「あーららってねえソフィアっ!? ってうわファルナスさん倒れるしー!?」
 がばっと勢いよく立ち上がったウィルだったが、そんな彼の代わりに今度はファルナスがぷっつりと意識の糸を切り、水に湿った紙の様に力なく倒れ付す。どうにかそれを抱きかかえるようにして受け止めて、ウィルはソフィアを見上げたが、目が合いそうになると彼女はひょいとあらぬ方を向いた。
「ソーフィーアー」
「しっ」
 腹の奥底からウィルが呻く声に、ソフィアが人差し指を立ててそれを封じる。
「しって……」
 呟くと、彼女は静かに言い返してくる。
「静かに。何か近づいてくる感じがする」
「何か?」
「村の外の方から……馬だわ。それも単騎」
 眉を寄せてウィルは、一方向から目を逸らさないソフィアを見つめた。誤魔化すためにでまかせを言っているのかとも一瞬考えたが、彼女の表情を見て冗談ではなさそうであることを察する。嘘をついている可能性を除外した後には、彼女を見るウィルの眼差しに疑念は残らなかった。彼自身はまだ全くそんな気配を察知してはいないが、並ならぬ戦士である彼女の感覚の鋭敏さは、自分と比べるべくもないことを彼は知っている。
「って事は、仲間の迎えが早くもご到着したって訳じゃないか……」
 ウィルは慎重に呟いた。秘密裏な行動を要求される可能性のある作戦に馬などを引き連れてくるわけがないし、そもそも敵の本拠地にたった一頭の馬で乗り入れて来るはずがない。
「えげつない魔術は解いちゃったの?」
「えげつない魔術って……それが障壁のことなら解けてる。誰かさんが無茶な防御魔術を使わせてくれたお陰で余裕が回らなくってね」
 またソフィアはひょいと顔を別の方向へ向けた。今度のは、ウィルが最初に思った意味通りのリアクションであったようだった。
 ソフィアを人質の女たちと既に捕らえた犯人たちの方へ下がらせて、ウィルは一人で大通りを驀進してくる何者かと対峙する構えを取る。ソフィアに遅れてようやく迫り来る気配を察し、魔術の術式を思い浮かべながら暗がりを睨みつけ――
 実体を確認した時、さすがに彼は驚きを感じて目を見開いた。
「おぉーい!」
 大声を上げ、手まで振りながらやってくるその姿は、見覚えのあるものだった。
「ジフ!?」
 ここ一週間同僚であった男の名をウィルが呼び返すと、それを肯定するように馬上の男は太い腕を更に強く振った。街からの脱出の際の暴走馬車に負けるとも劣らない速度で突っ込んできていた馬は、あわやウィルを踏み潰さんというような距離でようやく前進を止めた。
「無事でしたか、サードニクスさん。……いやあ、あっちの方でもバタバタと野郎どもが倒れてたから、やってくれたんだとは思ってましたが……」
 何よりもまず確認しなければならない事項は他にあるはずなのだが、ジフは余程興奮しているのかそんな事を一気にまくし立ててきた。惜しみなく尊敬の眼差しを注いでくるジフに、実は半分以上はソフィアなんだという真実を告げるタイミングを逸して、ウィルは困惑の表情で問うべきことを問いかける。
「それよりもどうしてここまで……いや、信号弾を目印に来いとは言ったけど、たった一人で来いとは言ってないぞ。他の人はどうしたんだ」
 と、ジフもいかつい顔に心底困った表情を乗せる。
「いやあ、まあ俺としてもそうしたいのは山々だったんですが」
 その言葉が終わるか終わらないかといううちに。
 大柄なジフの背後からそれよりは小柄な人影が飛び出してきて――言葉通り、馬上から飛び降りてきたのだ――、ウィルは思わず身を引いた。
 身を引きながら、その正体を見極めて危うくつんのめりそうになる。現れたのは、金髪をきっちりと後ろに撫で付けた盛装の紳士だった。
「ブラウンさん!?」
 ウィルは思わず叫んだが、しかしブラウンは彼に一瞥もくれることなくある方向へと一目散に駆けていった。ちらりと見えたブラウンの横顔は、ウィルの背筋に悪寒を走らせた。……物凄い形相であった。常に完璧すぎて作り物にすら見える笑顔を顔に定着させていたあの顔が、今は、何やら崖っぷちまで追い詰められた表情で見る影もなく歪んでいる。
「……ミスターにせかされて……あの勢いで」
 弱々しく、ジフが告げてくる。なるほど確かにあれには逆らえない。呆然と見送りながらウィルは納得した。無謀極まりない単独行動も仕方なしと言った所だろう。
 怒涛の勢いでブラウンが駆けていった先は――ソフィアの目の前だった。犯人たちを眼力だけで牽制しながら倒れたファルナスを介抱している彼女自身も、さすがに未だかつて見たことがなかったのであろうブラウンの激情にはぎょっとしたようだった。
「よっぽど心配だったらしくって……愛してらっしゃるみてえですよ、本気で」
 しみじみと語るジフの声を聞きながら、ウィルは声もなく様子を見つめていた。ブラウンは、後ろから見てもそうと分かるほど大きく肩を震わせながら、地べたに座る己の婚約者を凝視していた。
「ああ……ああ……っ!?」
 途切れ途切れに呻いてからブラウンは、服が汚れることなどお構いなしに砂埃を立ててその場にしゃがみ込み、目の前の彼女に縋りついて絶叫した。
「し、しっかりしてください!! 私のディアナあああぁッ!!」
 ……………………。
「…………は?」
 ぽかんと開けた自分の口からそんな音が漏れたのに、ウィルは暫く気付かなかった。
 何秒かその間抜けな顔のまま経過した後、下馬して横に並んできていたジフに気付いて見上げると、彼は先程ソフィアがそうしたような感じで明後日の方に視線を向けた。
「…………誰、ディアナ…………」
「……いや、ま、俺も今初めて聞いたんすけどね……」
 呟きを漏らすと、おずおずとジフが指を指し示す。その先ではブラウンが、まだ意識の戻らないファルナスを強く抱きしめている。……つまりはそういう事なのだろう。
 まだ朝の遠い冬の夜空に、ブラウンの慟哭は未だ響き渡っていた。



 警備隊の人員を総動員しての救出隊は、翌日の日が昇るよりも早い時間に武装集団の本拠地に到達した。戦闘準備を万全に整えての突入だったが、結局の所武力の振るわれる機会は最後までなかった。拠点内の制圧は既に完了しており、犯人グループは完全に戦意を喪失していたのだった。
 かくして、人質四十九名、逮捕者六十五名にも及ぶ大誘拐劇は、犠牲者を出すことなく、一夜という奇跡的な速さで幕を閉じた。



 冬枯れた森を抜ける街道を、二人の旅行者が歩いている。
「んー! やっぱ、ドレスもいいけどいつもの格好の方がいいわねえ!」
 旅行者のうちの一人、ごくごく一般的な旅装に身を包み、荷物を纏めた鞄を肩にかけた美少女は、腕を空に掲げて伸びをしながら気持ちよさそうにそんな事を言った。彼女の横を歩くもう一人の旅行者、こちらもまた同じような丈夫なだけがとりえの簡素な服を纏った青年は、しかし特に何も言わず、ずり落ちかけた自分の鞄を黙々と肩にかけなおしている。
 少女は、淡い亜麻色の髪を風になびかせながら、くるりと後ろを振り向いた。森を切り拓いて作られた街道はそれにしては随分と真っ直ぐに作られたものだったが、振り返った所で最早彼女らが出発した街は見えなかった。それだけの距離を既に二人は歩いて来ている。
「そういえば結局お屋敷に篭ってばっかりで、観光ってしなかったねー。今度は仕事抜きで遊びに来ようね」
「…………」
 他愛のない少女の雑談に、青年が返した答えは無情な沈黙だけだった。二人の間に一時、季節通りの冷たい風が吹き――けれども彼女はめげずに再度、より明るい声を出す。
「普段はあんまり特色のある街じゃならしいんだけどね、大かぼちゃのスープが名物料理なんだってブラウンさんが言ってたよ。ざっくり大きく切ったかぼちゃを柔らかく煮てスープを作ってね、くりぬいたかぼちゃのお皿に入れる料理なんだって。それでね、年に一回、大かぼちゃ大会ってのがあって、街で取れた一番大きいかぼちゃでスープを作るんだって。十六キロくらいあるかぼちゃで作るって話だよ。凄いと思わない?」
 正直その話は青年にとっても初耳で、まあまあ凄いことのようにも思えたのだが――
「…………」
 やはり彼は、無視を続けた。
「……ウィルぅー」
 歩みを進める足を止め、少女は縋りつくような声を出す。けれども三度、彼は無言に徹する。足を止めて青年の方を向いた少女の前を、意識すら払った様子なく通過する。
 何歩か先に進んでしまったウィルの後姿を見て、彼女――ソフィアはぷうと頬を膨らませた。
「ねーウィルってば。まだ怒ってるの?」
 膨らませた頬の中に溜めた空気を吐き出しながら呟く少女を、ウィルは街を出て以降初めて意識的に振り返った。それを見て、ソフィアは猫が飼い主を見つけてしっぽをぴんと立てるような感じで顔を上げたが、彼の寄せられた眉と引き結ばれた口から、やはりまだ自分が許しを得たわけではないことを悟ったようだった。
「ウィルー、ごめんってば。今回ばっかりはあたしが悪かったわよ。ね、機嫌直して?」
 これでもかというほど媚びた表情で上目遣いに見つめてくる美少女の姿は、男であれば彼女がいかなる罪を犯したのであろうと無条件に許しを与えてしまいかねない程の絶大な攻撃力を持っていたが、ウィルはそんな彼女の上っ面だけでころっと騙されてしまうには少々彼女という生き物を知り過ぎていた。
 はふぅ、と大きな溜息をつき、ウィルは空を見上げた。



 ――三時間程前。
 タリス・ブラウンとの契約終了の手続きの為、二人は彼の社長室にいた。ブラウンは、契約を交わした時と同じ応接セットの対面に座してにこやかに、かつ滑舌よろしく二人を出迎えた。その様子は、昨夜の鬼の形相はそれこそ幻覚であったかのように、完全無欠に普段の通りであった。
 やはり契約時と同じように三人の前に、糊の効いたスーツの社長秘書――ディアナ・ファルナスが茶を置く。前と違ったのはジフがこの場にいない事と、すぐに下がろうとしたファルナスをブラウンが呼び止めた事だった。ブラウンは、呼び止めたファルナスを自分の隣に座らせてから、再度二人に視線を向けた。
「お二方のご活躍のお陰で無事に事件は解決しました。サードニクスさん、ソフィアさん、あなた方お二人と、お二人のお手を借りることが出来た幸運に、私は感謝致します」
 そう言って、ブラウンは深く頭を下げてくる。今はワックスで固めずそのまま下ろしてある金髪を見つめながら、ウィルはぽそりと呟いた。
「……でも俺らが、ていうか彼女がいなければあんな大損害はなかったと思いますけど」
 瞬間、ソフィアの顔が唐突に引き攣る。
 ソフィアが法石と共に投げ、燃やし尽くしてしまった宝石一袋。人的被害はほぼ皆無だったが――会場に男たちが侵入してきた際も、幸い警備員に死者はなかったらしい――、金銭的な損害は洒落で済む額では済まなかった。弁償しろと言われた所で彼のポケットマネーでどうにかなる規模ではない。
 それでも墓穴を掘るような発言をウィルが自らしたのは、その衝撃の結末をやらかした張本人に何かしらのダメージを与える言動をしたくてたまらなかったからだ。案の定、ソフィアは引き攣り強張った顔をどうにか乾ききった愛想笑いにランクダウンする作業に必死に取り掛からなければならなくなったようだった。よく見れば、彼女はゆったりとソファーに座っているように見せかけて実はかなりの比率で足の裏の方に体重をかけているようだった。あからさまに、危機が生じ次第即座に逐電する体勢全開である。多分ウィルを見捨てていく気も全開だろう。
 しかしながら、ブラウンが告げたそれに対するコメントは、ソフィアをそこから走り去らせる内容ではなかった。
「大丈夫ですよ、その件でしたら、保険が下りることになりましたので」
「保険って……」
 呟くウィルに、ブラウンは頭を頷かせる。
「当然、全ての品に各自、盗難などの損害に対する保険はかけております。あれは強盗たちが燃やしてしまったんですから保険金が全額下りるのは当たり前でしょう」
「……ええとあれは」
「追い詰められもはやどうすることも出来なくなった犯人たちはせめてもの道連れにと人質のいる小屋に火を放ちその中に宝石を投げ入れたのです。私たちに過失責任はありません」
「…………うわあ。」
 すらすらと言い切るブラウンに向けた呻きは賛辞であった。聞いてしまえば冗談事のように聞こえるが、実際の所これはそう容易い詐欺ではない。保険屋とてその道のプロなのだ。――やはりこの男は敵に回してはいけない人種であるらしいことを改めて思い知らされる。
「保険屋、何人か首括ったんじゃないんですか?」
 それでもそう尋ねずにはいられなかったウィルに、ブラウンは驚異的なまでに爽やかに、
「それが保険屋さんの仕事ですから」
 などと言ってのけた。多分さすがに首括るのは業務内容には入らないんじゃないかと思うウィルだが、それ以上は怖くて突っ込めない。
「何はともあれ人質は全員無事で犯人は全員めでたく逮捕……と行きたい所ですが、残念ながらそこまで上手くは終わりませんでした」
「……取り逃がした犯人、いました?」
 ウィルが眉を上げて問い返すとブラウンは首肯した。
「一人だけですが。主犯格の男を取り逃がしたようです」
「主犯格って、ボスはあたしがやっつけて捕まえたはずなのに」
 今度はソフィアが口を挟むと、ブラウンはまた律義に首を縦に振って見せる。
「あの集団の首領は捕らえ、滞りなく駐在騎士に引き渡しました。けれども、協力者……らしき男が他にもいたらしいのです。もしかしたら捜査を撹乱せんが為の虚言であるかもしれませんが、複数証言が出ているので、一概に嘘とも切り捨て難い状況です」
「へぇ……」
 他人事のような相槌を打つソフィアの声を聞きながら、ウィルはふと、自分の脳裏に一つの顔――というか瞳――が思い浮かんだことに気が付いた。
 会場で、女たちの名前を呼び、ウィルを指名した男。覆面に覆い隠され顔は分からなかったが、いやに冷酷な目をしていた事を覚えている。何の確証もないが、あの男ではなかったのだろうか。ウィルはそんな事を思ったのだ。
 しかしどうであれ、ここから先は役人の仕事。彼らには関係のない話であったのだが。
「さて」
 事後処理に関する説明をざっと終えて、ブラウンは一息、間を置いた。この青年実業家は常に微笑を絶やさない男ではあるが、今その微笑の上に乗せているのは正真正銘本物の笑顔であった。ウィルにとっては頭痛さえ感じる表情だが、それでも彼はどうにか努力して、雇用主であるブラウンにそれらしく笑顔を向けた。
「……で、説明して頂きましょーか。どういう事だったんですかこれは」
 問うているのは事件に関する事ではない。しかしブラウンは、ウィルの言外の発言を読み落としはしなかった。
「そんな言わなきゃ殺すみたいな笑顔を向けられなくとも言いますよ。……お察しの通り、ソフィアさんには私の婚約者の振り……というか、否定も肯定もしない立場を、お願いして取って頂いていたんです。たまたまそのような噂が都合よく立ちましたので、それを利用させて頂いて」
 確認の為ソフィアに視線をやると、彼女もこくこくと頷いた。足への体重移動の割合が更に高まっているように見える。
「あ、あたしもね、その噂を聞いた時にびっくりしたのよ? 何でそんな事になってるんだか訳分かんないし……でも、ブラウンさんがどうしてもって言うから……」
「……だからって何で俺にまで黙ってたんだよ」
「言おうとは思ったわよ、でも絶対ウィル怒るしっ!」
 隣のソフィアにウィルが上から見下ろす形で詰め寄ると、ブラウンがまあまあとその間に割って入ってきた。
「その点に関しては、どうせほんの数日ですし黙っていてもいいのではと私が教唆した事ですので、怒らないであげて下さい」
「ていうかそもそもどうして婚約者をさっさと公表せずにこんな紛らわしいことをしようと考えたんですか?」
 じろり、と視線を向けるとブラウンはほんの少しだけ困った顔をした。
「うーん……まあ、八割方は皆をびっくりさせたくて、なのですが」
「やっぱりそういう娯楽ですか」
「あ、でも残り二割はれっきとした正当な事情ですよ」
 慌ててぱたぱたとブラウンは手を振った。
「彼女はこの通り、私の秘書をやって頂いていますので、前々から騒がれてしまうと仕事に支障を来たしますし」
「まあ、確かに」
 とウィルは相槌を打つ。会場にブラウンとソフィアが現れたあの時を思い出せば確かに仕事にならなそうだという想像は付いた。もっとも、あの騒ぎは半分以上はそれがソフィアだったから、という理由ではあったが。ウィルの同意にブラウンも頷き、呟く。
「ええ、私も商売柄敵も少なくありませんし、危険ですので」
 ――そっちか。
 思わず呻きかけたがウィルは声に出す寸前でそれを押し止めた。しかしそれはかなり真実味のある理由である。一見人当たりの良い紳士のように見えるが……敵は多いだろう。絶対。商売などを抜きにしても。
「もっとも今後は私がこの身を盾にしてでも守っていきますけれどね」
「社長……」
 ブラウンのせりふに、横に座っていたファルナスが目を潤ませる。囁きを漏らした彼女の唇に、ブラウンはそっと人差し指を押し当てた。
「ふふ、そんな他人行儀な呼び方をしないで、ディアナ。タリスと呼んで下さい」
「ああ! タリス! 愛しているわッ!」
「私もですよ、マイスイートハニー! …………おや、サードニクスさんにソフィアさん、ご気分でも悪いのですか?」
 二人きりの桃色世界に怒涛の如く駆けていくかと思いきや案外、外界の様子も認識はしていた様子で、ブラウンはソファーの背もたれや肘掛けにぐったりともたれかかっているウィルとソフィアに不思議そうに声をかけた。
「……いやもうなんでもないです……とりあえず、あたしたちはこの辺で失礼致しますので……」
「ああ、そうでしたね。長々とお引き止めして済みませんでした。……では、約束の報酬をお渡ししましょう」
 ブラウンは(いつのまにか)膝の上に乗せていたファルナスをソファーに下ろして自ら立ち上がった。奥にある一続きの部屋ではなく、廊下の方のドアを開け、そこから足を踏み出す寸前で室内を振り返ってくる。ふと、思い出したように。
「そう言えば……」
 軽い口調に、疲れを残した顔で二人は振り返る。二人の注目を浴びるブラウンは、あくまでも気楽な口調を続けていた。
「ディアナに聞いたのですが、サードニクスさんって大変な実力をお持ちの魔術士なんだそうですね」
「…………。」
 少々返答に困って、沈黙する。
「……まあ教会魔術士ですので、それなりには」
「何でも、法石を利用してとはいえ、数百メートルに渡る障壁を展開したりとか、呪文を使わずに、魔術を行使する事が出来るとか」
 宝石会社の社長秘書であるファルナスが魔術に関する知識があるのと同様、宝石会社の社長本人にも同等の知識があってもおかしくはないのだろう。ウィルの無難な返答はあっさりと無視され、核心を突いてくる。魔術に関しては素人同然であるソフィアにはこのやり取りの意味が分からないらしく、それが何か? というような顔をしているが。
 そんな彼女に説明をしてやるつもりがあったという訳ではないだろうが――ブラウンは、清々しく微笑みながら丁寧に、『どうしてばれたらまずいのか』という部分を解き明かし始める……
「確か……かなり以前ですが教会で発表された論文で、呪文詠唱なしで魔術を構成、発動する方法について述べられているものがありましたね。本来呪文として必要な魔術構成を特殊な術式で補完し、極度に高圧の魔力によって展開することによりそれは実現可能であると」
「…………。」
「それには恐ろしく難解で緻密な術式を瞬時に構成する必要があり、発動に不可欠な量の魔力を内在する人間はごく限られているため、机上の理論とされていましたが……どうやら実際のその技を行使出来る魔術士も実在するとか」
「…………。」
「曖昧模糊な噂に過ぎないのですが、その人物とはその論文の著者自身である教会魔術士リュート・サードニクス氏に、ファビュラス教会大神官カイルターク・ラフイン氏。それと最近の所で元アウザール帝国軍の暗黒魔導士と呼ばれる術者と、現在行方の知れない黒魔術士団長ノワール・シャルード氏。戦中と言えば大陸解放軍側にも、何名かいらっしゃったのでしたね。……そして、著者のサードニクス氏が仕えていたという聖王国ヴァレンディアの国王、件の大陸解放軍にも参画しておられた、ウィルザード・アルシディアス・ラス・ヴァレンディ陛下……」
「……どこの世界の曖昧な噂がそんなキッチリ調べ上げたような明確さなんですか」
「実は調べましたから」
 ウィルの諦めきった声に応えるブラウンは正直だった。
「何がとは言いませんがいかにもあやしげなお名前はこの中に二つほど入っているのに気が付いていますし、ここに例の障壁を展開出来る程の魔力量を持つ術者という条件を加えると多分絞れる気はするんですが、とりあえず調べたのはここまでです、ウィルさん」
「…………。」
 初めてこの男に家名ではなく名前で呼ばれたウィルは、呪いの言葉を己の口の中だけで発声した。魔術士の取り扱う呪いの言葉――呪文ではなく、子供の領分である下賎な悪口だ。
 とんでもない男だ。絶対敵に回せない。――それで、だからどうするなどと考えている訳でもないらしい所が特に。
 それは、まるっきりの雑談だったようだった。ブラウンは、そのまま部屋のドアから足を踏み出しつつ告げてくる。
「それではお一人ずつ、階下の店舗までお越し頂けますか。そこで、お好みの石を選んでお持ち下さい」
 促されて、立ち上がる気力も失せたウィルに代わり、まずはソフィアが頭を振って立ち上がった……



「……もしかして、怒ってるのって、例のモロバレな件?」
 ウィルが回顧していたのと同様、ソフィアもまた館を発つ直前のやり取りを思い出していたらしい。そんな事を言ってくる彼女に、ウィルは小さく首を振った。
「それはもう別に。もちろんばらしたくないから、なるべく、あの技が普通じゃないと分かる人の前で術を使いたくなかったわけだが……実際ばれた所で実害がある訳じゃない。面倒なだけで」
 しばし逡巡して――付け加える。
「君についてならまた別の話だったけれどね」
 ソフィアは特に何も言わず、つぶらな瞳でウィルを見詰めた。
 特に、彼女の表情に変化があった訳ではなかったのだが、彼女が小さく吐息したのと同時に周囲の空気がやや緩んだのは、気の所為とばかりは言えないだろう。
「……んじゃやっぱ婚約者ごっこの件かぁ。そりゃーねー、あたしが悪かったんだけどさ。こっちの事情だってちょっとは汲んで欲しいのよね。……ただでさえウィル、ずっと怖かったし。こんな事言えないわよ」
 再び街道を歩き始めながら、ソフィアは肩から提げている鞄の中ポケットをまさぐり、その中に入っている小箱を取り出した。ブラウンの経営する宝石店のロゴが華美な飾り文字で入れられた箱の蓋をそっと開けて中身を確認する。柔らかい布に包まれるようにして鎮座ましましているのはソフィアが報酬として自ら選び、貰い受けたダイアモンドのルース(裸石)だった。『天使の頬に伝わる滴』と比べればほんの欠片のような大きさでしかないが、透明度も色合いもカットも申し分のない最高品質の石で、ソフィアがルーペ片手にそれを手に取ってにやりとした時にはさすがのブラウンも少々ショックを受けた様子で天井を仰いだのだった。選択肢の中に含ませておいたという事は、それを彼女が手に取っても良いという事だったのだろうが、本当に、用意した中で最高の物を持っていかれるとは思っていなかったのだろう。言うまでもなく、一週間の労働に対する賃金の相場よりも遥かに高額な代物だった。十倍程度の値は付くかもしれない。
 うっとりと陽光の元でその輝きを確かめて、満足を覚えたらしいソフィアはそそくさと元のポケットにしまい込んだ。
 その様子をウィルは黙って眺めていたが――ちなみに、彼はその宝石の授受についてわざわざ聞いてはいなかったが、おおむねそのようなやりとりがあったであろうと見当はつけていた――吐息がてらに呟きを発する。
「似合ってたから」
「え? 宝石?」
「……じゃなくて、ブラウンさんと、君が。似合ってたからだよ。機嫌が悪かったのは」
 ウィルが、自分でも情けないと思いながらもそう告げると、ソフィアはしばしきょとんとして、それからきらきらと目を輝かせた。
「なになにそれ誉め言葉? あたしもしかして、ブラウンさんみたいな紳士に釣り合う淑女って感じに見えた? きゃー嬉しーい」
「……そうやって自分に都合よく状況を解釈する事さえ出来りゃ、俺ももうちょっと楽だったんだろうな」
 諦めたように漏らしながら、ウィルはコートのポケットに手を突っ込んだ。そんな何気ない仕草はソフィアの気を引く事は出来なかったらしく、特にどうといった反応も示さずウィルを見上げている彼女に、彼は一言、囁いた。
「手、出して」
「?」
 応えて、にゅっ、とソフィアの手が突き出される。ウィルの鼻先に。顔面を覆うように。五本の指をぱっと開いて。
 ソフィアのそう大きくはない手のひらに、それでも顔のかなりの面積を隠されたまま、ウィルは沈痛な面持ちで瞼を閉じた。
「……手を出してと言われて手のひらを表に向けてくるのはまあありがちな反応だという気がするが、こういうリアクションは普通出てこないと思うぞ?」
「手のひら? ああ、こうすればよかったの?」
 彼の酷く落胆した声音に首を傾げながら、ソフィアは腕を引いて、今度は手のひらを上に向けた。――しかしこれも、ウィルが求めていた形とは違うものだった。表を向いている手を裏返して手の甲を向けさせて、ふとそれが右手だった事に気が付いて、一瞬悩んでから、下ろされていた反対の手を取る。
 甲を向けた左手――その薬指に、ウィルはポケットから取り出したものを嵌めた。
「……これ」
 ソフィアが、小さく息を飲む。
「報酬。……それを受け取った」
 それは、小さな薄桃色の石の付いた指輪だった。
「ウィル……」
 ソフィアはきゅっと右手で指輪に触れ、俯いた。細い肩を小刻みに震わせている。
「ソフィア」
 ウィルもまた相手の名を呼び返して、震える肩に手をかけた――
 途端。彼女は突如、がばりと顔を上げる。
「ウィルの馬鹿ッ! こんなちっちゃいピンクトパーズじゃ台座のダイヤを入れたって報酬の相場のすれっすれくらいにしかならないじゃないのよ!? もー、他にいくらでももうちょっと価値のあるものが転がってたじゃない、ていうかむしろあの中で最低ランクの商品だわよこれ、勿体無いわねえっ!?」
 一息に怒鳴られて、思わず手を離し、数歩後方によろめく。
「わ、分かるかよそんなの見ただけで……」
「分かっときなさいよトレジャーハンターとしてやってこうって言うんなら!」
「だっ、だから何度も言うようにその道は目指してないし!?」
「言い訳するんじゃないわよあーもうほんっと勿体無い、ウィルのお馬鹿っ! もー……」
 ふてくされたような表情で眉を寄せて唸ってから、ソフィアはぐいと、ウィルの動かない左腕を引き寄せた。ウィルが、おやと思う間もなくそこにぎゅっと抱き着いて、消え行くような声で、囁く。
「ありがとう」
 たった一言。
 それでも、彼には十分だった。
「……うん」
 顔を伏せたまま彼の方を見ようとしないソフィアにウィルは微笑みかけて、遥か彼方に続く街道の先に足を向ける。
 逃げたという犯人の事。結局あまり意味がなかったらしい隠し立て。気にかかる事はない訳ではないが――
 左腕から伝わってくる、感じ得ぬはずの彼女の柔らかな感触に比べれば、実に些末な事だった。


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