女神の魔術士 Chapter1 #14

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 ――後の世に――
 人々は語る。
 それはあまりにも一方的な殺戮であったと。
 突如現れた美しき少女が成したのは、かつて暴虐の限りを尽くしたアウザール帝国軍もかくやと言う程の徹底的な虐殺であった。
 集団の頭領を瞬時にして沈黙せしめた少女は、次の瞬間には手当たり次第の攻撃へと移っていた。少女は武器を携帯していなかった。その事が、たった今恐るべき手腕を見せ付けられたばかりだというのにもかかわらず男たちに判断を誤らせ、彼女に対する攻撃に転じるという愚昧なる行動を取らせた。
 向かい来る、自分よりも身長で一回り体重で三回りほども大きな男に、少女は新しい玩具を与えられた子供のような無邪気な笑顔を浮かべ、真正面から相対した。彼女の太ももよりも直径のある腕を振りかぶる敵手に対し、少女は何の躊躇もなくその懐に踏み込んでゆく――
 ずだんッ!!
 ――それが認識された次の瞬間には、既に凄烈な音は鳴り響いていた。夜闇の虚空を舞って背中から打ち落とされた男は最早ぴくりとも動かない。少女は壊れた玩具からはすぐに興味を無くし、新たなる獲物を求めて爛々と輝く瞳で周囲を撫ぜる。
 戦闘が開始されて一分が経過する頃には、彼女の背後にはそのようにして作り上げられた屍が、累々と転がっていたのだった……

「……何人聞きの悪いこと言ってるのよッ!?」
 何やら先程からぶつぶつととんでもないことを呟いていた一人の男の頭を蹴り倒し、ソフィアは足の裏を地面につけるのと同時に身体を捻った。死角から剣をぎらつかせて襲い掛かってきた男は、それだけ殺気を撒き散らしながらまさか気付かれていないとでも思っていたのか、ソフィアと目を合わせた瞬間愕然とした表情を見せる。ソフィアが硬直した男の脇腹に振り向きざまの回し蹴りを叩き込むと、その勢いで斜め前方につんのめりそうになった男の持つ刃が、直前に昏倒させた男に突き刺さりそうになったので、彼女は慌てて剣の腹を爪先で蹴り上げた。虚空をくるくると回転してゆく刃は、ざくりと地面に突き刺さってようやくその運動を止める。
「ふうっ……」
 安堵の息をついて、ソフィアは手早く視線を巡らせた。その周囲には確かに何人かの男が倒れていた。しかし、そのいずれもが呻き声を上げているか、上げていなくとも、少なくとも呼吸はしていた。彼女は一人として殺してなどいないのだ。戦場ではあっても戦争という異常状態ではない以上、こんな男どもでも殺害したら罰せられてしまうのだから当たり前である。事情が事情であるからある程度の情状酌量は望めるだろうが、全くの無罪放免というのももしかしたらないかもしれない。こんなどうでもいい男どもを殺して監獄行きだなんてまっぴらごめんである。
 ヒールで粗い地面を擦って脚を大きく開き、両腕を胸の高さに構える。手は、硬くは握り込まない。どうせ殴りかかった所で女の細腕で与えられるダメージなどたかが知れている。反射的にでも掴みかかる事が出来るように指先を軽く折り曲げた、投げ技を主体とする古武道の体勢を彼女は取った。
 ――実は彼女自身はそのような古武道にはさほど造詣が深くなく、半ばはったり交じりのポーズであったのだが、その効果はてきめんだった。どこからでもかかって来いと言わんばかりの不敵な構えに、恐れの臨界点を突破した何人かの男は、あっさりと背を向けて我先にとその場から逃げ出した。
「あっ」
 その遁走に誰よりも驚いたのは、逃げ出した男の仲間たちではなくソフィアの方だった。戦闘能力でどれほど上回っていようとも、散り散りになって逃げる敵を個別に追いかけるような真似はさすがに出来ない。タリス・ブラウンの宝石と人命さえ護り通せば彼女の任務は成功ではあるのだが、だからと言ってこれ程の犯罪集団を逃がしてやるというわけにも行かない。
 仕方なく、何人かの敵を蹴散らしながら無作為に選んだ一方に追撃をかけるも、全力で逃げる男の足が相手とあってはさすがにその差はすぐには縮まらない。最初の一人が逃げ出してから十五秒ほど経っていたか、少々焦れ始めてきたその時。
 ばちぃ!!
 丁度その時間に走り切れる距離とほぼ同じ、百メートル程先の闇の中に、激しい音と共に青白い雷のような閃光が突如浮かび上がった。それとほぼ時を同じくして、男たちが逃げていった方々の通路の奥からいくつか同じ光が炸裂する。
「ウィル!」
 その正体に対する唯一の心当たりをソフィアは歓声にして叫んだ。こんな不可思議な現象を引き起こせるのは魔術の力以外に考えられない。恐らくは小屋に入って来る前に、敵の逃走を予期して防御の魔術を周辺に張り巡らせていたのだろう。
「ナイス! 最高! いつもながらにえげつないっ!」
 ウィルが聞いたらがっくりと膝を落としそうな賛辞を心から口にして、ソフィアは嬉々として、袋小路となった通路の一つに走り込んでいった。



「へぷしっ」
 特に何をするともなく小屋の前に立っていたウィルを襲った鼻のむずがゆさは、彼に小さなくしゃみを一つ催させた。軽く鼻をすすって、ソフィアが駆けて行った中央広場の方に視線を向ける。距離的にもさほど離れているわけでもなく、あちらには煌々と炎が点っているので、その広場が阿鼻叫喚の大混乱に陥っていることは容易に知れた。ぎゃーだのがつんだのばちぃだのという痛々しい音が絶え間なく聞こえてくる凄惨な戦場に、ウィルは食事前にも切らない祈りの印を切った――ばちぃ、は自分の仕業なのだが。
 ウィルと人質の女たちのいる小屋の方面には、敵はやって来なかった。ソフィアはもう大分この通路の入り口からは離れていたが、だからと言ってわざわざ猛獣がやってきた方向を目指し逃げようとは思う者はいないらしい。未だ騒ぎの収まらない広場をもう一度だけ確認してから、ウィルはやおら、瞼を半ば下ろし、小声で詩吟のような言語を呟き始めた。古代神聖言語――魔術の呪文に用いる力に満ちた言葉である。
「舞い上がれ、星の瞬き」
 常人には理解できない言語でそのような意味の一文を呟き、手に持った玉を軽く真上に放るような仕草をすると、ウィルの手の内に生まれ出でた輝きは天高く浮かび上がった。そして、森の木々を越える高さにまで達すると、熱のない白い輝きで夜空に楔を打つ。真冬の澄んだ空の一点に留まり光を発するその球は、遥か遠くからでも見通せそうであった。
「これでよし、と」
 それは魔術士が用いる信号の術だった。タリス・ブラウンや他の会員の警備員らが現在どの程度まで敵の足取りを追えているかにもよるが、これを確認すれば早くて数時間以内にはこの廃村を発見できるだろう。
 当面やるべき仕事をひとまず全て終了させて、ウィルは軽く息を吐いた。やや疲労感ののしかかってきた肩を、軽くほぐす。
 と、その時彼は自分の様子を逐一観察している視線に気付き、背後の小屋の入り口を振り返った。
「危ないから中に入ってた方がいいよ。ファルナスさん」
「ええ……」
 タリス・ブラウンの秘書、ファルナスだった。彼女はウィルの勧告に頷くが、しかし一歩中へと戻っただけでやはり彼の姿をそっと見つめ続けている。警戒心をあらわにする小動物のような視線に、彼は気楽な微笑を浮かべて見せた。
「……何? 美人のお姉さんにずっと見つめられているってのは悪くないけど」
「あ、いえ……ごめんなさい」
 そこでようやく自分の行為に気がついたらしく、ファルナスは恥ずかしさに頬を染めて謝罪してきた。彼女は視線を外して中へ戻ろうとしたが、しかしふと思いとどまって、もう一度、小屋の外に立つウィルの方を見た。
「外周のあの物理障壁の魔術、あれもサードニクスさんが?」
「ええ、そうですけど」
 ファルナスの問いかけに、ウィルは問いの内容自体とは別の部分で少々驚きを感じて眉を上げた。驚愕の表情と共に浮かべた微笑を消し、彼はファルナスに身体ごと向き直る。
「もしかしてファルナスさん、魔術、分かる人ですか?」
 ウィルの反応と、そのような問いを返されることにだろう、ファルナスもまたいくらか驚いたらしく、目を丸くする。
「ええ、少し勉強したことがあるわ。魔術士登録が必要な程には使えないのだけれど……どうして?」
「物理障壁ってさらっと言うから。勉強してなければ普通そういう単語は出てこないだろうなと思って」
 物や人など有形のものを防ぐ防御障壁魔術を特に物理障壁と言う。それは魔術士の中ではさほど特異な単語ではないのだが、一般的にはあまり使用しない言葉だろう。推理とも呼べない簡単な推察に、ファルナスはなるほどと頷いた。
 数秒ほど、沈黙が落ちる。それを破ったのはファルナスの方だった。
「あの魔術の維持、今してるとは思えないけれど、どうしてるの?」
「屋敷で法石をいくつか支給されたんでそれ使ってます」
「そうなの……」
 再び、沈黙。少し離れた場所から響いてくる喧騒が、よりこの静けさを際立たせていた。
 寒い駄洒落を言って白けてしまった場のように、この沈黙は永劫に続くかとも思えたが、これを今度はウィルが打ち破った。小さく溜息をついてから低い呻き声を上げる。
「……あー、宝石屋だもんな……良く考えりゃ魔術関連の知識あってもおかしくないか……うぁ失敗した……」
 余裕のある微笑から一転、ウィルは苦々しく顔を歪めて右手で前髪を乱暴にかきあげた。よく考えれば宝石商は当然、魔術を蓄えることの可能な宝石である「法石」も扱う為、魔術に関する知識を持っていても全くおかしくはない。
 恐らく、魔術に関する知識に乏しい者がその様子を見ても、何故彼がこれ程までにショックを受けているかなど全く分からなかったことだろう。けれども、ファルナスには分かるはずだった。分かっているからこそあのように、恐れすら含んだ視線で遠巻きに眺めていたのだ。
 しばらく眉間に深い皺を刻み込んでいたウィルだったが、いつまでもそうしていても仕方がないことを悟り、無理矢理思い切るようにばっと手を離した。
「あー、もう今更しょうがない! ファルナスさん! 法石の使い方は分かるね!? 使えるね!?」
「え? あ、まあ……ある程度は」
 唐突に断定的な口調で尋ねられ、ファルナスはやや怯みつつも頷きを返したが、ウィルはその答えを聞くよりも先に制服の内側から手のひらに乗るサイズの小袋を取り出していた。ブラウン邸で支給された法石である。敵の退路を封じる障壁に大半は使ってしまっていたが、気休め程度にはまだ残っている。今の様子ならばこちら側に男たちがやってくる可能性もそうそうないだろうから、これでも十分であろうと思えた。護符代わりの法石をファルナスに押し付けて、ウィルは必要以上にきびきびと告げた。
「万が一誰か来たらそればら撒いて何とかして。俺はソフィアの加勢に行くけどすぐ戻れる範囲にはいるから! 宜しく! じゃ!」
「えッ!? ちょっとサードニクスさ……」
 ウィルの嫌がらせじみた要請に、戦いの心得などあるはずもないファルナスは即座に悲鳴のような声を上げたが、彼はそれを無視して戦場となっている広場に走り出していた。



「ああぁああああぁぁあッ!!?」
 幼児の悲鳴のような、意味の取れない絶叫を上げて逃げていく男たちを追いかけるソフィアは、頬ににんまりと浮かんでいた笑みを慌てて消した。この状況では誰もいちいちソフィアの表情まで確認したりはしないだろうが、もし万が一誰かにこんな顔を見られて、弱い者虐めを楽しんでいるなどと誤解されたら少々困る。これは弱い者虐めなどという愚劣な行動などでは決してなく、あれなのだ、ええと、あれ、あの、うーんと、ああそう、正義。
 熟考の果てに目的の言葉をめでたく発見し、ソフィアは一人、満足げに頷いた。皆に迷惑をかけるしか脳のない悪辣な集団を捕らえ法の裁きの下に引きずり出し報奨金なんぞをもらってホクホクすることこそ正義、即ち善良な市民の義務なのだ。絶対そうに決まっている。
 そのようなわけでソフィアは、崇高な責務を果たすべく、哀れなまでに逃げ惑う男たちを片端から捕らえ、蹴り倒してゆくのだった。
「んー、でも張り合いがないわねー、もうちょっと楽しませてくれてもいいのに」
 ……ぽろりと零れ出る台詞がまるっきり悪役なのは最早仕方がない。
 しゃにむに逃げ出そうとするその気持ちは分からないでもないが、それが彼女にとって思う壺であることにどうして気付かないのだろうかと、ソフィアは不思議でならなかった。個々の能力差は歴然であるのは否定できないが、戦いの趨勢を決する最大級の要因である人数差がここまで見事にある以上、きちんとやり方を考えて攻撃に転じれば、彼らに彼女ひとりごときを封じられないはずはない。
(……まあ、そんなことになったらあたしがまずいんだけどさー……)
 それでも、戦場に立つ者として敵であっても見苦しい戦術はやはり見たくないものなのだ。
 そろそろこの追いかけっこにも飽きてきて、ソフィアはこの事態を収拾する手段を模索し始めていた。ソフィアは女性としてはかなり俊足な方だったが、さすがに男たちにはそれを上回る者も多く、そうでない者の殆どはもう既に始末をつけてしまったので、ここにきて接敵し撃退する頻度が急激に落ち始めていたのだった。
(ま、安直だけどウィルに頼もうか)
 魔術士の彼ならば、不毛な多対一に決着をつけることも出来るだろう。
 そう決断し転進しようとしたまさにその瞬間、ソフィアは横合いから突如飛来した殺気に、頭で考えるよりも先に身体を反応させていた。走り続けていた足をぴたと止めて、飛び退るように手近な小屋の影に飛び込む。
 飛びのくソフィアの目に、寸前まで彼女がいた地面に何本もの矢羽根が突き刺さるのが映った。
「へぇ……!?」
 頭を物陰に引っ込める直前に一瞬だけ視線を動かすと、三十メートル程先でボウガンを構えている五、六名の一団の姿が見て取れた。
「……そう来なくっちゃ」
 下唇をぺろりとなめて、湿らせた唇を歪める。敵と遭遇する機会が減っていたのは、相手が反撃の準備を行っていたからでもあったらしい。飛び道具を出してきたなら遠慮はいらないと、ソフィアは幅の広い布ベルトの内側に隠し持っていた親指の爪ほどの大きさの小石をいくつか取り出した。さほど透明度の高くない赤い色をした石だが、魔術士でなくとも扱える魔術の込められた、立派な「法石」である。法石は宝石でもあるゆえ値段は張るが隠し持つ武器としては最高の物なので、万が一の為に彼女も携帯していたのだ。
 手のひらの中でそれをじゃらりと鳴らして、ソフィアは隠れていた場所から隣の建物へと一気に駆け抜けた。
 思った通り――
 彼女が姿を現した瞬間を狙い済まして、男たちは一斉に矢を放ってきた。――が、その矢は一つたりとも彼女に命中することはなかった。男たちが予測していたよりも彼女の動きの方が速かったということだろう、ほぼ全ての矢は彼女の後方の空間を貫いていく。
 もっとも男たちもこの一斉射で仕留められるとは思っていなかったようだった。手早く次の矢を装填する手つきにも動揺は見られず、ソフィアは賞賛の意味を込めた微笑を浮かべた。思いの他悪くない動きだ。倒しやすい相手から倒していった為、残敵は精鋭化されたという事だろうか。
(でも、まだまだ!)
 建物の影に入る直前、ソフィアは持っていた石を三粒ほど、男たちに向かって投げた。
 第一射を終えたばかりの男たちに反撃を行うことは不可能だった。単発ずつしか撃てない武器であり止むを得ないのだろうが、それを差し引いても敵味方が互いの姿を捕捉出来ている間に次撃の準備に入るというのは賢い行為とは言えなかった。折角の攻撃のチャンスを生かしきれていないという事だし、何より反撃の機会を相手に与えることになる――これはそれだけ隙の大きな行為だ。
 恐らくは、そのことについても彼らは気付いていなかったわけではないだろう。つい先程まで虜囚の一人だった少女に遠隔攻撃の手段はないと踏んだのだ。ボウガンならともかく投げナイフ程度の代物で標的に命中させられるような距離ではないし、それ以前に少女の細腕では何を投げた所で到達させることすら出来ないだろう。
 その判断はあながち間違ってはおらず、事実、今彼女が投げた法石も、全距離の四分の三程度を飛んだ所であえなく地に落ちた。力なく、かつんかつんと撥ねる石を、男たちはざまあ見ろと言わんばかりの笑みで見下ろす。
 しかし。
「ざまあ見ろはそっちよっ!」
 かっ――!
 実際は別にその声が引き金となったわけではないのだが、まさに魔術士が唱える呪文の声に呼応するかのようなタイミングで、転がっていた石が強烈な光を放って爆裂四散した。
「うおおッ!?」
 派手な爆発――ではあったが、実質的な攻撃力としてはお粗末なものだった。光が止んだ時、爆風に煽られ男たちは転倒していたが、重大な怪我を負った様子は見られなかった。ただ、爆発の光を直視してしまったらしく、撤退に転じることは出来ないでいるようである。
 すぐさまソフィアは男たちに駆け寄って、喘ぐ彼らを一人ずつ楽にしてやった。……昏倒させた、という意味だが。
「……これで……全部かしら……」
 最後の男を踏み抜いてからぽつりとソフィアは独りごちた。周辺の喧騒は最早収まり、閑散とした夜の廃村の風景が広がっていた。別の一団がいるとするなら、彼女が男たちを眠らせている間に攻撃を仕掛けてきてもおかしくなかったはずである。となれば、やはりこれが最後にして唯一の抵抗だったのか……
(いや……)
 ソフィアは、その楽観的な考えを打ち消した。今仕掛けてこないのは、攻撃に緩急をつけ惑わす為。そして彼女を油断させる為だ。常に死線を踏み越える位置にいる心地を忘れず精神と身体を緊張させておくことが、万事において正しい心構えであるはずだとソフィアは思っていた。
(……まあ、万事って言っても、戦士としてとかトレジャーハンターとしてとかって意味だけど……)
 矢の装填が終わっているボウガンを一つ拾い上げ、機構を簡単に確認してから、ソフィアはゆっくりとその場を離れた。静かに地面を踏みしめながら、自分の内心の囁きに、自分で小さな訂正を加える。
(本当に普段の生活までずーっと緊張してなきゃならなかったら、たまったものじゃないわよね)
 心中で呟いた時に、ふと、実はもう既に自分は普段からその「たまったものじゃない」状況にいることを思い出して、彼女は小さく顔をしかめた。
 何も考えず、心配せずまどろんでいたい時でも容赦なく襲い掛かってくるとんでもない男が、彼女の日常生活の中にいる。油断を見せたら最後、何をしでかすか分かったものではない非常に危険な男だ。今日だって、何を考えていきなり後ろから抱き付いてきたりしたのだろうか。……尋ねれば恐らく、周囲やソフィア自身にパニックを起こさせない為だったと答えるだろうが、あれでも十分以上にあせらされたのだから意味がない。
「…………」
 眉を寄せ、物思いに耽っていたソフィアだったが、不意に、素早く顔を上げた。ただの少女のものとしか見えなかった瞳が、瞬時にして戦士のそれへと戻る。
 っしゅ!!
 風を切る微かな音のみを纏ってまたも降り注いできた矢の雨を、ソフィアは地面を転がるようにして避けた。
 物陰に入り、敵の姿を確認するよりも先に、ソフィアは気付いてしまった驚愕の事実に声を上げる。
「ああっ、やだドレス汚れちゃったじゃない、もー!」
 これまでの活動で既にいくらか汚れを吸着していたドレスではあったが、今ので致命的にとどめを刺されたことにソフィアは憤慨した。敵の攻撃自体によるものではない。舗装などされている訳のない廃村の路地は、その上を転がった上等なドレスに容赦なく著しい泥汚れをこびりつけたのだ。
 そして更に最悪の事態に陥ってしまっていた事を知り、彼女は絶叫した。
「なー! 穴まで開いてるっ!? 酷いっ! もらえる約束だったのにーっ!」
 今の前転で、石か何かに引っかけてしまったのだろうか、スカートの一部に大きなかぎさきが出来ていた。しかしもちろん言うまでもなく、そのようなことは、臨戦態勢にある敵前においては限りなく優先順位の低いことではあった――普通なら。
 けれどもソフィアにとっては何よりも重大な事だったのだ。
 弓は下ろしたままだが引き金には指を掛け、ソフィアは第二撃を放ってきた襲撃者のいると思われる方向を気配で探った。雨とまで感じられただけあり、矢は高所から、しかも何方向からか降らされた物だったが、ソフィアはその「雨」がどの建物とどの建物の屋根から撃たれた物かという所までこの一瞬にして把握していた。いくつかの小屋の屋根に別れて乗り、息を潜めて少女が出てくるのをじっと待つ男たちの姿が、実際に目で見たかのように脳裏にくっきりと映し出されているのを実感する。
 それはウィルの使う魔術などでは決してなく、勘と五感と経験による予測でしかなかった。けれども、ソフィアは自分の能力を信頼していた。根拠のない過信ではなく、この能力で自分が戦場を生かされてきたのだという厳然とした事実に裏付けされた自信の顕現として、この能力を信用しきっていた。――そして何より、今すぐに攻勢に転じなければ気が済まない状態にあった。
「よくもやってくれたわねッ!!」
 あえて大きく叫んで、物陰から走り出す。予測だけでは足りない精密な把握は、実際に的を与えてやらぬ以上は成されない。標的を確認し、男たちは予想通り屋根の上に姿を現した。一斉に地表に銃口を向け、そこをひた走る小さな的に向け照準を定める。
「撃てッ!!」
 リーダー格であるらしき男の一人がそう号令をかけると、引き絞られた弓は一斉にはじける。
 同時に――
 前方に飛びながら、ソフィアは弓を横に向けて構えていた。
 小枝のような棒が一本飛び出ただけの粗末な照準機越しの男に、迷わず引き金を引く。
「うあっ!?」
 野太い悲鳴を上げて太股を貫かれた男は屋根から転げ落ちた。それは、今し方号令をかけたリーダーの男だった。この一瞬に、あれだけの運動をしながらリーダーの存在を察知し狙い撃ったというのか。恐るべき技に誰もが忘我したその間、ソフィアだけがまだ動いていた。
 彼女は自分に向けられた全ての矢を避けきり、ボウガンを投げ捨てて手を地面につき、全身に急制動をかけて頭上を振り仰いだ。反対の手には残りの法石が全て握られていた。
 矢を番える事も出来ない――出来たとしても射撃を終えたばかりで弓すら引いていないボウガンを下げる男たちに向かって、それを投げつけようとソフィアは腕を振りかぶる。
 素早く振り下ろされた小さな少女の手から――しかし赤き石は放たれる事はなかった。
 振り下ろされた腕はそのまま、一連の動きのように、彼女の真横の空間を、一文字に一薙ぎしていた。その時に初めて、彼女の手の中にあった法石のうち、たった一つが彼女の元を離れる。
「……伏兵……っ!」
 確認するように、ソフィアはその単語を声に出して呟いた。
 驚くには値しない事だった。彼らが持つのは、一旦射撃を終えればもう一度矢を装填し終えるまで全く無防備になってしまう武器である。それを、彼らは正しい用法で運用してきたというだけだった。すなわち、一部隊が攻撃を終え戦闘能力を減じている隙を補って、別の部隊が追撃をかけるという波状攻撃である。
 驚くには値しない事だった――但しその戦術をきちんと先読み出来ていたならば。
 ソフィアは、今迄感じなかった別の敵の攻撃の気配を察し、咄嗟に直前行おうとしていた攻撃を中断して法石を投げつけたのだった。つまり、予測をしていた訳ではなかったのである。
 先の部隊と同じように屋根の上に登っていた伏兵の足元に法石が炸裂するが、やはりこちらの部隊も何個所かに分散していた。たった一個の法石では動きを封じる事など出来ない。
 法石を投げつけられなかった数箇所からソフィアの身体に照準が合わせられる。
 ソフィアは動けない。無理な制動を連続してかけた身体は一瞬の硬直状態に陥っている。
「やばっ……」
 引きつって笑みにすら見える表情でソフィアが呟くのと――
 撓められた弓が空気を鋭く唸らせるのとは恐らく同時だった。
 ――突き刺さる――!
 男たちは歓喜を、ソフィアは驚愕を抱きながら同じ結果を直感していた。
 その直前までは。
 ばぢッ!!
 火花の散る音と青白い雷光のような光が、四方からソフィアに突き刺さらんとしていた矢を、その五メートルほど手前でことごとく、絡め落す。
 それは、逃げようとした男たちをこの場に足止めした魔術の輝きと全く同一のものだった。
 その場の全員の直感のベクトルが、揃って逆方向へと変わる。
「ウィルっ!」
 軽快な声を上げるソフィアの視線が向く方向、廃村の狭く薄暗い路地を、静かに一人の青年が歩いてくる。その様子を、敵対する男たちもただ――無意識のうちに敗北を悟ったか、身動き一つとらずに見守っていた。
 青年の周囲に、魔力の為す物理的な結果か、過剰の魔力が人体に覚えさせる錯覚か、判然とし難い力の風が止めど無く渦巻いている。それは、どれだけ自制しても漏れ出してくる、無理矢理押し殺そうとしているはずの彼の怒りの象徴の様にも感じられた――


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