固く閉じられていた小屋の扉が、蹴り破られたのかと思う程の勢いで開け放たれる。足音もやかましく小屋の中になだれ込んできたのは、武装した男たちの集団だった。
もっとも武装していると言っても先刻の襲撃時のような大型のボウガンを構えている訳でもなく、常日頃から携帯しているらしき腰の剣すら一人として抜いてはいなかった。これまで男たちが象徴のように着け続けていた覆面は今は外され、一様に赤らんだ顔を覗かせている。密室の中に広がってきた安酒とやにの臭気に、ソフィアは顔をしかめた。襲撃部隊が帰投してからまだ二十分と経っていないはずだが、その後すぐに宴会が始められたのだろうか、既に男たちの足取りは既におぼつかなく、ほろ酔いという段階を軽く通り越しているらしい事が窺える。
となると、彼らは「仕事」の為にここに来たという訳ではないのだろう……
女たちの中に緊張が走る。ソフィアも一度だけ、ゆっくりと深呼吸をした。
と、その時何の前触れもなく感じたスカートの裾を引っ張られる感触に、ソフィアはちらりと下を見下ろした。唐突ではあったがそれを為す人間に心当たりはあったので別段驚きはしない。ソフィアの心中のさざなみを感じ取ったらしいウィルが、彼女の感情に牽制をかけてきたのだ。自制しろ、とでも言いたいのだろうが彼女とてそのくらいは承知している。それよりも、この場にいるはずのない男の姿、しかも警備員の制服などという分かり易い服装をした人間が潜んでいる事実が敵に発覚する事の方が余程問題は大きい。そっちこそ自制しなさいという意味を込めてウィルに少し強く体重をかけると、彼は素直におとなしくなった。痛かったのかもしれない。
ファルナスがその二人のやり取りを気にして視線を向けてきたが、ソフィアは前を向いたまま小さく首を振って見せた。妙な動きをして男たちに注目されるのはまずい。小屋の最も奥まった場所にいることもあり、この暗さでは、ぱっと見た所ではウィルがどう隠れているかは分からないだろうが、近づいてじっくりと見られたら少し危ういかもしれない。
――という理由も重要なものではあるのだが――
正直な所、今自分たちがどういう体勢にあるか極力意識させて欲しくないというのがソフィアの本音だった。
という事で、ウィルの現状況について具体的に思い起こすのはとりあえず差し控える事にして、ソフィアは男たちの集団に注意を戻した。
狭い入り口からぞろぞろと入り込んできた男たちは、持ってきたカンテラで周囲を照らしながら室内を思い思いに眺め始めていた。酔いに任せた傲慢さを薄笑いで表して人を無遠慮に値踏みしてくる様は醜悪ですらあり、ソフィアはともすれば表情に浮かび上がりそうになる嫌悪感を努力して堪えた。
――つもりであったのだが。
「何だぁ？ 威勢のいい姉ちゃんがいるなぁ？」
その努力はあまり効を為していなかったようだった。髭面の男が、彼女を真っ直ぐに見てからかい交じりの声を上げた。それを見ることの出来る体勢にはなかったはずのウィルが、しかし状況を察することは出来たのか、はぁ、とわざとらしく溜息をつくのが聞こえる。
（分かってるわよっ！）
内心で怒鳴り返して、ソフィアは全体重をかけて彼を踏みつけた。無茶な非難をしないで欲しい。怒り程度なら抑えられないこともないが不快感はどうやった所で我慢できないとソフィアは思う。小柄な少女とはいえ人間一人分の体重で身体の一部分を圧迫されているウィルは、フォールされた格闘家がロープを求めるような動きをしはじめたが、接近しつつある敵の前でそんな真似をされるのはまずいように思えた。膝で右腕をごりっと踏みつけると瞬時彼は叫び出す直前のような息の吸い方をしたが、さすがに本当に声を出したりはしなかった。
そうこうしている間に、先程ソフィアに向かって声を上げた髭面が、床の女たちをかき分けてソフィアの前まで歩み寄ってきていた。まるっきり警戒心のないにやにや笑いを浮かべていた男だったが、ソフィアとの距離があと数歩に迫った所で一旦足を止めて不思議そうな表情をした。
彼女の座高が他の娘たちよりやや高い事に疑問を持ったのだろう。
「…………」
「…………」
きょとんとする髭面を、鋭く睨み返すソフィア。
思念話――テレパシーという魔術があると言うが、そのように人の思念なるものを他者に叩き付けるすべが彼女にもあったとしたら、それで殴り殺せる程の勢いでソフィアは男に対し意識を飛ばした。――あたしは足を折って座っているだけです。まさかお尻の下にウィルの頭を敷いてたりなんてしません。というかお願い考えさせないで思い出させないで。ウィルがどんな顔でにたついてるか想像するだけでああもう蹴りたくなってくる。頼むからあたしの自制心を奪い去らないで。
「…………」
その真摯な祈りが通じたのだろうか。
それとも、後にファルナスが「あれはまさに視線で刺し殺すという感じの目だったわ……」と語ることになる眼力に押し負けたのだろうか。どちらにしろ髭面は彼女の座高の件に関しては特に追究することなく、ソフィアそのものの方に興味を移していた。残りの数歩を近づいて、カンテラを彼女の顔のすぐ傍に掲げる。
男たちが各人で携えてきた明かりによって、全員の顔がぼんやりと区別出来る程度には部屋は明るくなっていたが、やはり薄暗いことには変わらず、髭面は明かりと共に自分の顔もソフィアに近づけてしげしげと彼女を観察した。むせるようなアルコール臭を放つ粗野な顔が間近に迫り、ソフィアはたまらず息を止めたが、視線は逸らさなかった。黙したまま敵手を睨み据える。
「ほぉ、こいつは上玉じゃねえか。ちっと気の強そうなのが玉に瑕だがな」
男はぼさぼさに絡まり合った髭の下からひゅうと口笛を鳴らしたが、ソフィアにしてみれば別に嬉しくとも何ともない賛辞であった。男の顔を睨み付けながら、彼女はこぶしに力を込める。先程切った腕のロープは再度手首に巻きつけて拘束が解けていないと見えるようカモフラージュしてあったがもちろん結び直してなどいないので、彼女にはそうしようと思えばいつでも目の前の男の鼻を頬と同じ高さにへこめてやる事が出来た。しかしそれをすぐにでもしなかったのは周辺の状況を確認していたからだった。開け放たれた扉の前に男が二人、室内で女たちを物色しているのは目の前の男を含めて六人。丁度彼女自身から扉までの直線状にいる人数は三人になる。
恐らく、彼女の決断の気配にウィルは気付いただろう。
けれども上に乗っている彼女がどかない以上、体勢的に彼にソフィアを止める事など出来ない。無論、彼女が動き出してからではそれは遅すぎるのだが。
何の前触れもなく少女がその場に立ち上がった――
彼女の挙動はそれ以外のどのようにも表現しようのないものであった。ふと、急に何かを思いついたかのように、ソフィアが何の気なしに――少なくともそう見える所作で――立ち上がるのに、八人の男たちの中でその瞬間に気付くことが出来たのは、彼女の目の前にいた一人のみであった。それ程ごく自然な動きだったのだ――囚われの籠の中で虜囚が行ったというのにも関わらず。
当然、気付かれたなら即座に何らかの制止があるに違いない行為だったのだが、彼女を止める者は一人としていなかった。そう、目の前にいた男でさえ。
その瞬間には、既に事は済んでいたのだった。ソフィアが半身を横にずらすと、彼女の華奢な腕に腹を、というかみぞおちを支えられていた髭面がそのまま体勢を崩し、重い音を立てて床に伏した。そこでようやく、他の男たちも突如起きた異変に気付く。
「なっ？」
驚愕の呻き、というよりはただただ状況を認識できず呆気に取られているのだろう、そんな音を口から漏らして、男たちは立ち上がった少女と彼女の足元に倒れた仲間を方々から眺めた。拘束されているはずの少女に一撃ノックアウトというしっぺ返しを受けるという想像は余程難しいものであったのか、男たちがそれを現実のものとして認識するまでには何秒かの時を要した。
数秒の思考の空白。それは重大な隙であった。
手狭ではないとは言ってもせいぜいが五、六メートル四方の室内である。戦士ならば一息に詰め寄れない距離ではない。その上男たちが彼女を戦士と認識していないとなれば、鼻先に迫った危機に彼らが気付いたその瞬間には既に勝敗は決していたとしてもさほどの不思議はなかっただろう。
この状況で、彼女にとって最大のデメリットと言えば、攻撃対象との間の床を埋める女たちの存在だったが、ソフィアは造作もなくその合間の微々たる空隙を駆け抜けて男に肉薄する。
「……ッ！？」
こちらも全く声を上げるいとまを与えられず、ソフィアの一撃を受けた男は場違いなほどゆっくりと、仰向けに倒れていった。
「や、野郎！？」
三人目――最も扉の近くにいた男が、ようやく悲鳴に近い声音で威嚇の叫びを上げる。彼は、前の二人よりは多く時間を与えられた分、この少女が敵だと認識する所までは行えたらしく、腰の剣に手を伸ばしかけていたのだが、その適正な判断を実行に移すまでが長かった。否、この場合は男が遅いと非難するのではなく、彼女の挙動が速かったのだと賞賛すべきであっただろう。どちらにしろ、剣に伸ばしかけられていた男の手は柄に触れることすら許されなかった。雷光の如き速度で豪奢なパニエで膨らませたスカートの裾から伸びた、細いハイヒールの爪先が男の顔面に鋭く抉り込まれる。前進しがてらの飛び蹴りという雰囲気の一撃にたまらず悶絶する男をひょいと乗り越えて、そのままソフィアは妨害者の誰もいなくなった扉から悠々と外に走り出していった。
「…………」
唖然。
……としたのは、残された五人の男たちばかりではなく、その場にいた全員であったのは言うまでもない。
男たちも女たちも全員揃ってぽかんと開け放たれた戸口を見ている内に、ようやく無理矢理にでもその状況を飲み込んだのか、ソフィアに一番最初に殴り倒されたのとは別の髭面が室内を振り返った。
「きっ……貴様らっ……」
ぼさぼさの髪を逆立て、酒によるものではない赤さに顔を染めて低く吠える。怒りの形相を浮かべてはいるが、感じているのは恐らく羞恥であろう。たった一人の少女に、あざ笑うかのような華麗さで脱走を成功させられてしまったのだ。男たちにしてみれば、想像を絶する屈辱であろう。ずらり、と鞘走りの音を立てて剣を抜き放つ男に応えて残りも次々と抜剣してゆく。男の一人はその足元にいた少女がひっと息を飲む音に、残虐な笑みを浮かべた。
「よくもやってくれやがったな……！ 女だと思って甘く見てやりゃあ、俺らをなめるとどういう目に遭うか分か」
「雑魚の分際で前置きが長いッ！」
――男の長口上を唐突に遮って。
一息で叫ばれた声が白光となり、室内を瞬く間に満たした。
先程、ウィルが生み出した魔術の灯火と同じ、しかしそれとは比較にならない明度の純白の球体が数十個、音もなく虚空に生み出される。出現が一瞬なれば斉射の開始にも間は置かれなかった。男たちが驚愕するいとまも有らばこそ、こぶし大のエネルギー球は標的のみをめがけて急霰の如く降り注いだ。
「んッがああぁぁぁあぁあっ！！？」
多数の騎馬が一斉に大地を駆る轟音のような、連続した打撃音の合間から絶叫が響き渡る。それは、光の殴撃が終了してもなお呻きという余韻を残していた。攻撃を終了させたウィルはそこでようやくその場に立ち上がった。片手で膝を払いながら床でぴくぴくと痙攣する五人の男を見下ろす顔は攻撃成功の感慨もなく、逆に憮然としてさえいた。
「まったくもう、何て無茶してくれるんだソフィアは。首の骨が折れるかと思ったじゃないか……」
目の前の男どもなど全く眼中にない様子で、そんなことをぶつぶつとぼやきながらウィルは自分の首筋を手のひらでさすった。彼はさも不服げに眉間に皺を寄せ唇を尖らせていたが、次第にその口許が緩んでくる。ゆっくりと滑らされた手が首から頬――ソフィアが座り込んでいたその部分への移動を完了した頃には、ウィルの浮かべた微笑はいやに根の深いものになっていた。
ひんやりとしていて奇妙に生暖かい、何とも言いがたい気配がやおら、周囲を満たす。
――うあ……絶対三日は顔洗わねぇぞこいつ――
それは、育ちの良い富裕階級の子女たちをしてそう内心で呟かせる程の、ある意味これ以上なく凄絶な表情だった。
「……さてと。今のうちにそいつら、ロープで縛ってくれるかな。あとそのカンテラ危ないから立てておいて」
頬から手を放し、囚われの女たちを確認しながらウィルがそう告げた時には、彼の表情からは先の気配は既に霧散していた。今見たものは夢幻であったのかと思える程に極めて現実的な指示を受け、茫洋たる精神の海へ船出しかけていた女たちも、はっと我に返る。ウィルはすぐ傍にいた一人の娘にソフィアが使っていたナイフを手渡してから、小屋を軽く見回した。何気なくめぐらせた視線とたまたまぶつかったファルナスに、ウィルは丁度いいや、と顔を向ける。
「とりあえず全員のロープを切って、ここに篭って増援を待とう。ファルナスさんだっけ？ あんたなら顔、利くだろ。皆がパニックに陥らないように纏めておいてくれ」
「あ、あなたは？」
不安を押し殺した声で当然の問いを投げかけるファルナスに、ウィルは開きっ放しのドアに視線を向けた。
「アリエスさんを追うの？」
ファルナスが続いて投げかけた問いに、ウィルは、いいやと首を振る。
「俺は小屋の外で迎撃する。突入されるならまだしも火でも点けられたらたまらないからね。ソフィアは……放っておけばいいさ」
「放って……って……そんなわけにも行かないでしょ？」
パートナーとしてはあまりにも無責任な言い様に、ファルナスは自分たちの唯一の護衛がいなくなってしまうことすら忘れて思わずそう呟くと、ウィルは一旦目を見開いてからおかしそうに微笑んだ。
「何かさっきも誰かに言った気がするけど、彼女はプロだから。大丈夫」
「い、いくらプロって言ったって」
「それも聞いた気がするな。……大丈夫だよ。嫌になっちゃうくらいにね」
ひらりと手を振ってその会話を打ち切る意思を示し、そのまま振り返らずに扉に歩いてゆくウィルを、ファルナスは室内で揺らめくカンテラの炎に瞳を揺らしながら見詰め続けていた。
「ありゃあ？ そういやドルクの野郎が見当たらねぇな？」
村の中央広場の焚火を車座になって囲んでいる一団の中から唐突にそんな声が上がった。声を上げたのは周囲の男たちと似たり寄ったりの格好をした――肉体労働者らしき隆々とした筋骨の、浅黒く日焼けした中年の一歩手前程度の年齢の男だったが、捲り上げた袖から垣間見える幾筋もの刀傷が、男を尋常ならざる商売に従事する者であると容易に推測させる。――無論、そのように外観から測るまでもなく、この武装集団の拠点たる村で堂々と杯を傾けている時点でその一味であろうことは疑うべくもないのではあったが。ただ、この男の前にだけ、酒や食物と共に、場違いな神々しさで煌く宝石類――今宵の戦利品が集められていることからこれが集団のリーダー格に当たるらしいことは確かに観察してみないことには分からなかった事かもしれない。
「へい、ボス。ドルクさんなら先程例の小屋の方に行かれたようですぜ。女どもの監視とのことでやした」
上位者の問いかけにすぐさま従順に答える小男に、頭目たる男は分厚い唇をにやりと歪めた。その男にとっては日常茶飯事の事件であったらしい。
「しょうがねえ奴だな、あいつも。大切な商品だとあれだけ言ったっつうのに。……まぁ、味見しとくのも悪かねえか。売り物の品質の確認も大切な仕事だあな、商売人としてはよ」
女たちが聞いていたなら卒倒してしまいそうなジョークに、待ってましたとばかりに沸き立つ一同。子分らにとっても親分がこのような判断を下すことは慣れた事であるようだ。
「おい、そこの。ドルクに、てめえのお楽しみの前に旨そうなのをいくつか見繕って持って来いと伝えて……」
小屋へと続く路地の入り口近くに座っていた手下に、指を振って命令した頭目は、丁度その時、その路地の奥の暗がりから足早に人影が近づいてくるのに気がついた。
小屋に向かった部下だろう。当然彼はそう判断し、名を呼びかけようと息を吸い込む。
――が、その吸気はすぐには吐き出されず、目を丸くする男の腹の中でしばしの時を待つことになった。
篝火の中に姿を現したのは、馴染みの部下とは似ても似つかない、風が吹けば飛んでいってしまうのではと思う程に小柄で、美しい身なりの少女であった。一度、目をしばたいてつぶさに見れば、顔立ちそのものも遠目でもそうと分かるほど見事に整っている。
「……ほおぉ」
そんな少女が唐突にこの場に現れたことに対する不審さすらも忘れて、思わず頭目は先程吸い込んだ息を用い感嘆の吐息を漏らした。異変を感じて立ち上がりかけていた手下たちもそれと全く同じ反応を示す。小走りに近づいてきていた少女は光の届く範囲に入ったあたりから徐々に歩調を緩め、焚火を囲む輪の、一番彼女よりの部分と数メートル程度を置いた所で足を止めた。
「へっ、ドルクの野郎もにくい演出をしてくれるじゃねえか」
酒に濡れた唇を舌で拭って頭目は自ら立ち上がった。中々に気の回るあの部下は、捕らえた少女をわざと逃がし、宴席に向かうように仕向けたのだろう。ただ単に引き連れてくるのが面倒だっただけかもしれないが、普段と違うシチュエーションに男はただならぬ興奮を覚えた。捕らえて首輪を繋いだ牝犬を虐げるのも面白いが、逃げ惑う子兎を追い詰めるのもまた一興。今回は特に、作戦があまりにも上手く行き過ぎて暴虐を尽くす機会に恵まれず、欲求不満を感じていたのだ。
男が立ち上がり少女の方へ歩み寄ると、少女は怯えた顔をして二、三歩今来たばかりの道を後退った……
と、彼はそのような展開を想定していたのだが、しかし実際は、倍以上も体格の違う男に接近されても少女は身じろぎひとつしなかった。もはや逃げ切れない事を悟って恐怖に竦んでいると思えば説明はつくが、その表情にさえ恐慌を来たした様子が見出せないのが不可解ではあった。が、そのいかにも野盗然とした見目の男としては上出来と言える判断も、目の前にある上等の餌に霞んでしまっていた。少女を見た目通り何の力もないか弱き者と判断した男は、それと同じ判断を下してにやにやと成り行きを見守る部下たちを背に、彼女の細い肩に不用意に手を伸ばした――
刹那。
少女は、今までこれといった感情を見せなかった顔に明らかに不快そうなものを浮かべ、男の手を払わんと腕を持ち上げた。と思いきや、触れるのも嫌とばかりにその行為を中断し、片足を一歩下げた。続けて、下げた側の半身から拳を繰り出そうと思ったか腰溜めの構えを取ったが、やはりそれも途中で気が変わったらしく、伸ばされてくる男の腕の下をくぐるように姿勢をかがめて、丁度手頃な位置にあった膝を蹴り抜こうとしてきた。
非常に纏まりのない、戦い慣れぬ素人の、粗雑極まりない動きのように男には見えた。動作の実に半分が無駄な動きで構成されている。盗賊団のかしらとして多くの修羅場を経験してきた男に対して仕掛けるべき手ではない――はずだったのだが。
「うぐあぁッ！！？」
苦悶の絶叫を上げたのは男の方だった。
ありえない。膝の皿をハイヒールのかかとで正確に蹴り込まれ、なすすべもなく倒れ行きながらも、頭目は信じられぬと言う一念で今のこの現象を幾度も反芻した。が、彼には自分の敗因を最後まで悟ることが出来なかった。膝をあらぬ方向に折り曲げられた男はつんのめるように転倒し、苦痛に脳震盪をプラスされてそのまま昏倒した。
冗談のような手並みだった。けれども、別段そこには魔法じみたトリックなど一切存在していなかった。
ひとつだけトリックがあったとすれば、ただ、少女の全ての行動が洒落にならない程高速であったというだけだった。
体勢の転換も攻撃の準備も無論最後の一撃も。そこに逡巡を含めた幾多のプロセスが、一瞬のうちに完了していた。頭目は確かにこの瞬間何が起こったか知覚していたが、それで精一杯だったのだ。彼は気付いてすらいなかったが、少女の動作に対して一度目の認識を行ったのすら、彼女の打撃を受けて以降のことだった。つまりは初めから彼女の残像を見ていたような、そんな状態だったのである。それで何らかの対応が取れるはずはない。
一人目の敵手の沈黙を見届けてから、かがめた腰を持ち上げた彼女――ソフィアは、女神の如き造作に全くもって相応しい、愛くるしい笑顔を浮かべて……男たちを睥睨した。