女神の魔術士 Chapter1 #12

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 ようやく馬車から下ろされた女たちは、そこで初めて手首をロープで縛られた。会場から離脱する際は時間がなかったからだろう、彼女たちは手足の自由を奪われることなくそのまま馬車に放り込まれていたのだった。だったらついでにそのままにしておいてくれてもいいのに。ソフィアは幼げな印象のある頬を膨らまし、その中で小さく毒づいた。髪留めの紐を腕に結んだまま忘れて一晩眠ってしまった時みたいに腕に赤い線が残ったりしたらどうしてくれるつもりなのだろう。乙女の柔肌に対する労わりも知らないなんてこれだから野蛮人は嫌だ。もし誘拐犯がブラウンのような紳士的な人間であったのなら二、三日くらいならば捕まっていてあげてもいいような気がしたが、このような下衆な男たちが相手であるとなればやはり可及的速やかな事件解決を目指さなくてはならないだろう。
 もっとも、今はまだ騒ぎを起こす時期ではないことは彼女も理解していた。何らかの行動を起こすにしてももう少し様子を見てからの方が良い。ここがどこであるか、夜会の主催者である商業組合からの加勢は期待できるか、敵の全戦力は、拠点の状況は――判明していないことが多すぎる。
 手首を縛り上げられる前に、目に付く限りのアクセサリー類は全て外させられ、男たちに奪われた。ソフィアのつけていたブルーダイア、『天使の頬に伝わる雫』のネックレスももちろん、と言うよりいの一番に没収されている。ソフィアがしぶしぶと差し出したネックレスを手に取った男はマスクの下で口笛を吹いて感嘆の意を表していた。
 金目の物を一通り取り上げてから、男たちは人質を全てを一列に並べて、手首の縄に別の長い縄を数珠繋ぎになるように通した。そのまま囚人のように連れられていかれるのは、蝶よ花よと育てられた良家の子女たちにとっては生まれてこの方受けたことのない屈辱であったろうが、その場で殺される可能性すらあったこの状況で果敢に文句を言い出すような者もいなかった。
 馬車を降り、十数分歩かされて到着した男たちの住処は、粗末な作りの小屋が立ち並ぶ集落だった。忘れ去られた廃村を手ごろな拠点として利用しているのだろうか、彼女らの他に一般人がいる様子はなく、かつては農村の子供たちがのどかに駆け回っていたかもしれない通りには、今は見張り役だろう、やはり実行犯たちと同じように顔に布を巻いた男が何人か立っていて、戦利品を引っ提げて凱旋した仲間たちを見るや野卑な歓声を上げた。夜の闇の中、ぽつりぽつりと立つ篝火の赤い炎に照り返されて吠える男の姿は、冥界の鬼の姿すら連想させ、女たちを怯えさせた。
「よくやったぜ、これだけの仕事をよ!」
 ボウガンを肩に担いで小屋の壁に寄りかかっていた男が、壁から背を離してがに股で歩み寄ってきながら、女たちを連行する男に声をかけた。
「おうよ、向こう五年は王都の高級クラブを貸切に出来らあ」
「高級クラブって柄かよてめえが。俺は旨い酒が飲めりゃ何でもいいがね」
「違いねえ」
 爆笑。
 大仕事を片付けた達成感は分からなくないが、よくもまあつまらない事で盛り上がれることだとソフィアは思った。どうせ貸し切るのなら王都の高級ペットショップをまるごと借りてふかふかのソファーに毛足の長い猫をたくさんはべらせて、羽飾りのついた扇なんかを持って寝そべって、優雅なくつろぎのひと時を満喫していた方がずっと有意義な気がする。
「おう、今回の姫様方はべっぴんさん揃いじゃねえか、なあ?」
 ふと、声をかけてきた男の方に視線を向けられて、ソフィアは頭の中からふさふさとした尻尾の猫たちを仕方なしに追い出した。代わりに彼女の意識の前に現れてきたのは、空気すらべとついてきそうな粘着質な視線で女たちを眺め回す男の姿だった。向けられる不快極まりない眼差しにソフィアは頭痛すら覚えたが、次の瞬間彼女の目の前に、その頭痛も吹き飛んでしまうような光景が展開された。
 下品な笑みをマスクの下に浮かべながら、あろうことか男は、手近にいたソフィアと同じくらいの年齢の少女に顔を近づけて匂いを嗅ぐような仕草をしたのだ。男の気色の悪い振る舞いにその少女は今にも泣きそうに表情を歪めたが、それを見ていたソフィアも耐え難い嫌悪感に思わず頬を引きつらせていた。
 腕を拘束されていなかったら、自分の立場をすっかり忘れて殴りかかっていただろう。無意識に腕を動かした時に感じたロープのむず痒さが彼女を現実に引き戻していた。限界まで理性を振り絞りながらその様子を観察し、でも多分あと十数えたら殴ってる、という所まで来たときに、もう一人の縄を引いていた方の男がたしなめるような声を挟んできた。
「やめとけや。とりあえず、さっさと片付けとかにゃボスに殴り飛ばされるぜ。……どうせ明日までたっぷりあるんだ、今夜のお楽しみにしとこうじゃねえか」
 仲間の制止に憮然とするかと思いきや、男は卑しい笑みを一層深めた。
「へへっ。面目ねえ。何せ女なんて久々でよ」
 止めた男にしても別段善意でその言葉を口にしたというわけではないであろう事は、その口調に含まれる、ちょっかいをかけてきた男の視線と同じ粘り気が雄弁に語っている。自分の後ろに連なっている女たちを舐めるように眺め、含み笑いの気配を漏らしてから男は再度、縄を引いて歩き始めた。
 彼女らが押し込まれたのは、ちょっとした広場になっていた場所から細い路地を三軒ほど入った所にある小屋だった。窓の見当たらないその小屋は、本来は倉庫であるらしく、連れられてきた五十人弱の女たちを全て詰め込んでも先程の馬車よりは窮屈でない程度の広さがあった。
 女たちが全員その部屋に入り終わると、鋼鉄の枠で補強されたいかにも頑丈そうな扉が重々しく閉められ、その外でがちゃりと掛け金が落とされる音が鳴った。彼女らを連れてきた男の気配は扉の向こうから離れようとはしなかったが、部屋の中には監視は置かれていなかった。
「ふう……」
 ソフィアは軽く息を吐いた。扉を閉め切ってしまえば光源などない室内では見ることは出来ないが、恐らく真っ白に凍り付いた息が吐き出されたはずだ。まだ危害を加えてくるつもりはなさそうだが、いつ雪が降ってもおかしくないこの季節に室内着のままで隙間風の吹き込む小屋に放置するというのは、それだけで十分に手酷い仕打ちである。女たちは恐怖と寒さからお互い寄り添って震え続けていた。手首は未だ拘束されたままであるが連行するために使われた数珠繋ぎのロープは外されていて、部屋の中を移動する分には差し支えない。ソフィアはそっと女たちの輪の中から立って、扉が閉まる前に位置を確認しておいたファルナスの傍まで歩いた。
「大丈夫ですか?」
「とりあえずの所は、ね」
 ソフィアの問いに応える言葉は気丈ながら、声は弱々しい。武装した男共に拉致されて、こんなどことも知れない山の奥に連れてこられたとなれば不安であるのは当然だろうが。
「これから……」
 小さく呟きかけて、ファルナスはそこで言葉を切った。  これからどうなるんだろう。そんな絶望的な言葉を吐くつもりには、さすがになれなかったらしい。
 どうなる、と尋ねられれば、それに対しある程度明確な答えを返してやることがソフィアには出来た。
 この人数をわざわざ生かして捕らえたのは、身代金を取って更に儲けを得ようと考えた為に他ならない。会場に他にもあった金品を根こそぎ奪取しなかったのはそれに時間がかかるからだろうが、そのタイムロスとこれだけの人数を攫うリスクを秤にかければまだ安全なのは前者の方である。敵武装集団は会場を離れてもマスクを外そうとしなかったことから、もしかしたら身代金の受け取り後、生かして返すつもりがあるのかもしれないが、ややそれは楽観的過ぎる考えであるようにも思えた。――いや、ここが国境に程近い地域であることから考えれば、隣国に足を伸ばしてまとめて売り払うつもりである可能性の方が高い。
(明日まで、って言っていたわね。今夜一晩の猶予じゃ、捜索隊もさすがに間に合うわけないか……)
 これだけの事件が起きたのだから、既に大規模な捜索隊が活動を開始しているだろうが、数に物を言わせて山狩りをした所で一晩で対象を発見するにはこの山地は広すぎる。この廃村の存在を知っていれば話は別だろうが、社長秘書のファルナスすら知らなかったのであれば、この情報をブラウンたちが掴んでいるということはないはずである。捜索隊が間に合えば、内部から混乱を起こして突入をサポートするという手段も使えたのだが今回はそれは不可能のようだ。
 何よりも、時間はそれ以上にない。
 一晩という猶予は最低限の成功条件、つまり命があるだけという場合を想定して設定した期限である。それまでの時間を、このまま無事に過ごせるということはまずあり得ない。あの男たちの視線を受けて危機感を抱かなかった者などこの中に一人としていなかっただろう。ソフィアは自分の身を抱くように、肩を小さく寄せた。想像するだけで身の毛もよだつ。あんな男共にちょっとでも肌に指紋を残されるくらいなら、密林でワニと抱き合った方がまだ脂ぎっていない分マシである。ワニ革だし。
 何はともあれ、早急に片をつけなければならない。それも、自分ひとりで。
 緊張は感じる。否定できない失敗の危険性は否応なく恐怖を与えてくる。だというのに、ともすれば笑みの形になってしまいがちな唇をソフィアは舌で湿らせて何とか宥めようとした。暗闇の中に赤い光の直線として浮かび上がっている壁板の隙間を眺めながら動き出すタイミングについて考え始める。作戦と風邪は初めが肝心だ。
 早い方がいい。勘にも近いその判断を信頼して、決断という一歩を心の中で踏み出す。
 ――その瞬間。
 唐突に、自由に身動きの取れる者など誰もいなかったはずの背後から、何かの気配が迫ってきたのを感じる。
「!?」
 振り向くのより、声を上げるのよりも先に、口元を手か何かで覆われて、ソフィアは内心だけで悲鳴を上げる――
「アリエスさんっ?」
 ソフィアが立てた気配を察して、ファルナスが声を上げた。方向的には彼女は、真っ直ぐその何者かに視線を向けていたはずだが、だからと言ってこの暗闇で、眼前で何が起きているか察することなど出来るはずがない。
 声を上げるにも上げられず、ソフィアは咄嗟に腕を振るって払いのけようとした。が、それはまたしても自分が拘束されていたことを忘れての行為だった。思ったような動きが取れなかった事に気付いた一瞬、反射的に身体を硬直させた隙に、座り込んでいた所を上からのしかかるように押さえつけられて足周りも封じられる形になる。
(なんっ……!? 誰もいなかったはずっ)
 その場に敵がいるかいないか。最も重要なそのことは何よりも先に確認した。トレジャーハンターとしての経験に誓って断言できる。絶対に予めこの部屋に誰かいたということはない。もし仮に一緒に捕らえられた女たちの中に敵のスパイが混じっていたとしてもそれは関係ない。触れてくる手のひらの感触からしてこれは間違いなく男だ。
 先程の男共の視線が、脳裏を掠める。
(嫌だっ……!)
 どうにかして逃れようと身体を捩ったが、押さえる腕の方が力が強く、それもままならない。力ずくで後方に引き倒される。そのまま床に叩きつけられるかと思ったが、背後の男の胸が彼女の身体を抱きすくめるようにして受け止めていた。瞬間、男の腕が緩んで頭が解放される。
 ソフィアは一息に上体を起こした。それを追うようにして、背後の男も身体を起き上がらせたようだったがその時には既に彼女は、腰を落としたままではあったが後ろを振り向いていた。ひゅう、と攻撃を繰り出すために細く短く息を吸う。
「ほっほまへほひあっ」
 ――どこかで聞いたことのある声が聞こえたが――
 とりあえず考察は後にして、ソフィアは男の顎の辺りにがつんと一発頭突きをくれた。

 ちょっと待てソフィア。
 床に男がくず折れる重い音を聞きながら、三秒前に放棄した、声の翻訳をソフィアは行った。その結果が以上のような文面だった。
 一、二、三、四、五。
 とりあえず言われた通り待ってみる。
「…………ウィル?」
 ついでに、小首を傾げて聞いてみる。この暗さでは多分見えないだろうが。もっとも、暗くなくても見えていないかもしれない。
 両腕で探るように床の辺りを撫で回し、確かに男が一人転がっているのが確認できた。当然周辺にも人質の女性たちはいたのだが、運良く仰向けに倒れる男の下敷きにされたりはしていないようだった。
 とりあえず、もぞもぞと腹の辺りを探る。正確にはへそと胸の中間辺り。
「えい」
「んもふッ!?」
 つまるところみぞおちに腕を振り下ろしてみると、彼は牛のような悲鳴を上げて飛び起きた。
「はひふんはお!」
「何すんだよって……それはこっちのせりふでしょ」
 何が不服なのか、小声ではあったがかなりはっきりとした憤慨が感じ取れる声で叫ぶ相手に、ソフィアは負けず、まなじりを吊り上げて応じた。何の前触れもなく、不意に部屋に白い明かりが点る。ろうそく一本程度にも満たない本当にささやかな明かりではあったが、暗闇に慣れた目には少々刺激が強く、ソフィアは目を眇めた。光はどこかから入り込んできたものではなく、虚空に唐突に生み出されたものだった。ゆらぎのない、魔術の輝きである。
「ウィル」
 目の前にへたり込んでいる男の姿を確認し、ソフィアは改めて、輝きを生み出した張本人でもある男の名を呼びかける。
「……それ、新しい趣味?」
 どういう訳か、昔誰かに見せてもらった怪しげな雑誌に図解されていたような、頑丈そうな革のベルトのついた猿ぐつわをはめているウィルを、ソフィアはその雑誌を見たときと同じ目をして見つめた。
「あたしそういう趣味の友達はちょっといらないんだけど」
「ほんなはへはふは(そんなわけあるか)」
「そんなわけなくってどんなわけがあるってのよ。変態」
「ひふんはっへふへひははへえふひゃはいは(自分だって腕縛られてるじゃないか)」
「これはしょうがないでしょ、捕まってるんだから」
「はんへほへもほへほほんはひよーひはいひゃふひはいんは(何でこれもそれと同じように解釈しないんだ)」
「あのぅ……」
 二人の口論に、遠慮がちに声を挟んできたのはファルナスだった。その声に、同時に二人は我に返る。
「そうよ、こんなことしてる場合じゃないのに。何やってるのよウィル」
「ほへかよ(俺かよ)」
 唸るように言い返してきたウィルは無視し、ソフィアはファルナスに向き直った。
「ごめんなさい、これいかにも怪しげな物体に見えるけど一応うちの相棒の」
「ええ、サードニクスさんね。それは分かる……けれど」
 ソフィアの言葉を継いで、ファルナスは頷いた。契約時に一度ではあるが会っているので、ウィルの顔を覚えていたようだった。けれども彼女は、囚われの他の女たちと同様、大きな疑問を抱えた表情で二人を見つめ続けている。視線でソフィアが真意を問うとファルナスはやや躊躇いがちにその疑問を言葉にした。
「……何で会話通じてるの?」
 心底不思議そうに眉を寄せての呟きに、思わずと言った様子で頷く女たち一同。ファルナスはともかく他の女性たちにとっては唐突なことばかりであろうというのに、申し合わせたような反応を示されて、ソフィアとウィルは顔を見合わせた。
「あいのひはら……」
 ごッ。
 何やら口を開きかけたウィルの後頭部に、ソフィアは無表情のまま薪に斧を打ち下ろすような形でこぶしを叩き付けた。ウィルがべちょりと顔面を床につけて沈黙する。
「何て言ったの……?」
「寝言です気にしないで。それよりも今はもっと大切なことがあるんですから」
 この寒さだというのに額に汗を一筋たらして呟いたファルナスにソフィアはきっぱりと告げる。どうも解せないことがあったらしく、彼女は数秒の間実に微妙な面持ちで目を伏せていたが、最終的にはソフィアの提言に賛同してくれたようだった。上げられたファルナスの視線に促されて、ソフィアは続けた。
「何であれこんなのでも戦力が増えたのは歓迎できる要素です。仕掛けるにしても待つにしてもこれで脱出の確率はかなり上がります」
「……戦力って」
「彼、魔術士ですから」
 疑わしげな声での問いかけにソフィアは一旦答えてから、ファルナスが既に知っているはずのそれを確認する為に呟いたのではないことに気付いて言い直す。
「こんな格好してるけど、別に彼までここで閉じ込められてたわけじゃないんです。最初は誰もこの部屋にはいなかったはずだから。まあ、捕まってたことには変わりないのかもしれないけど、隙を見てここまで忍び込んだんでしょう。入って来れたんだから脱出だって出来るはずです」
「忍び込んだ……って、魔術で……?」
 ファルナスのどこか呆然とした声に、ソフィアはこくりと頷く。
「はい。ある場所から別の場所に、壁とか距離とかも関係なく一瞬で移動するっていう魔術があるんですよ」
「……空間転移」
 説明を聞いて彼女が漏らした言葉に、ソフィアはおや?と眉を上げた。あまりにも驚くから知らないのかと思い、わざわざ小難しい言い回しを避けて説明したのだが、彼女はその魔術を知っていたらしい。わざわざ問い正そうと思った訳ではないが何となく聞き返そうとしたその直前、ソフィアは横のウィルに軽く袖を引かれてそちらを振り返った。
「ああ、ごめん、忘れてた」
 ウィルが自分の口を縛めるベルトを指で切る仕草をするのを見て彼の言わんとしていることを察し、ソフィアは太ももにくくりつけてきたナイフを取り出そうとスカートを捲り上げた。彼女の感覚では、この程度は乙女の身だしなみともいえる最低限の装備であると思うのだが、一般的な家庭の子女はそういうことはしないらしく、誘拐犯たちもそんな可能性には思い至らなかったようで貴重な武器は取り上げられずに持ち込むことが出来た。幅広の皮紐で留められた鞘からそれを抜き放ち、視線を戻す。もちろんソフィアとしてはそれを使って猿ぐつわを外してやるつもりしかなかったのだが、しかし戻した視界の中にいたウィルはそれとは全く違う、提供元の意図する所ではないサービスに顔をにやけさせていた。
「……♪」
 にんまりとした笑みの形に歪められた眼が、ソフィアのあらわになった腿に釘付けになっている。
「あ、こら見るな! 喜ぶなッ!」
 そこでようやく自分の格好に気付き、ソフィアは慌てて太ももにスカートを被せ直した。それでもにやにやを引っ込めないウィルのいやらしい顔に、ソフィアは抜き放ったナイフを一閃させる。
 ――ッ!!
「わぁッ!? なん……っ?」
 音もない刃の通過に瞬時遅れてウィルが声を上げ――そこで気がついたらしく、悲鳴は途中で中断されていた。ソフィアは白い眼を向けながら、はらりと床に落ちた猿ぐつわの残骸をつまみ上げ、目の前の男に向かって投げつけた。
「ていうか魔術士なんだから自分で外しなさいよ。燃やすも切るも自由自在でしょ」
「自分まで燃えるわ!」
 耳にかかっていた残りのベルトを落としながら、ウィルがいつもよりも僅かに上ずった声で返してくる。
「切るのだって呪文なしじゃいまいち怖いから頼んだってのに……何て危ないことするんだ」
「人聞きの悪いこと言わないでよね。かすってもないでしょうが」
 唇を尖らせてソフィアは抗弁した。肌に密着する革ベルトを肌を全く傷つけることなく斬り落とす。当然ミリ単位以下の精度を要する難しい作業だが――自信があったからやったに決まっている。
「全くもう。殴られるわ斬りつけられるわ人轢きそうになるわ挙句に谷底に突き落とされるわ。今日は厄日か」
「谷底?」
「そうだよ、しかも馬車ごとな。ったく、あれだけの重量の物を呪文抜きで重力制御するのがどれだけきっついか、絶対思い知らせてやる」
 気合をつけているのか、ただ単にその魔術の疲労で肩が凝っているのか、腕を軽く回すウィルにソフィアはぷうと膨れた。
「人が閉じ込められっぱなしでつまんない思いしてたってのに自分ばっかり波乱万丈な人生楽しんで。ずるーい」
「……イヤ、代われるもんなら喜んで代わるんだが……」
 力なく呟いて、ウィルはふと、気付いたように視線を動かした。たまたまファルナスと視線が合ったことで、現在の状況を思い出したようだった。傍観と諦観の中間くらいの視線で眺めてくるファルナスに同調するように、ソフィアはうんうんと頷く。
「全くすぐ脱線するんだからウィルは」
「だからそれは俺のせいなのか?」
 という反論はまたしても無視の方向で進行する。
「で、今ってどういう状況なわけ? 他の皆は?」
「見ての通り俺も捕まっただけだから。まだ増援は来ないと思っていい」
「まだっていうのは、来る目処はついてるの?」
「微妙だな。しばらく経てば来るだろうけど」
「……ふむ……」
 あまり細部を突き詰めていない簡単なやり取りではあったがソフィアはとりあえず納得し、ファルナスを始めとする囚われの女たちの方を振り返った。その場に立ち上がりながらナイフを逆手に持ち替えて未だ結わえられたままであった手首の縄を切ると、思った通りそこには赤い縄目が残っていて、彼女は眉間に皺を寄せた。せめてもの気休めに撫でてほぐしながら、ここまでタイミングを逸していた事情説明をようやく行うことにする。
「あたしたちは、ブラウン商会タリス・ブラウン氏に雇われた者です。あなたたちの安全は責任を持って護りますから、決してパニックなど起こさずに指示に従って下さい。いいですね」
 短く告げる言葉の中に、この緊迫した状況を感じ取ったか――ただ単にあっけに取られているようにも見えなくはないが――女たちはこくこくと強く頷いた。何であれとりあえず無用の混乱は起きずに済みそうである。ひとまずの安堵を感じてソフィアはウィルに視線を戻す。
「念の為に聞いとくけど、ウィル、この人数を空間転移で逃がすってのは」
「聞くまでもなく無理。五センチ移動させることすら無理」
「……オッケー、じゃあウィルはもう一回外に出て待機、あたしがここから騒ぎを起こすからそれに便乗して片っ端から敵虐殺」
「何で虐殺。作戦はそれでいいけど……」
 眉を寄せてウィルがそんなことを呟いた、その時。
 ふと気付く所があってソフィアは後方――小屋の入り口の方に目をやった。半秒ほど遅れて、ウィルもソフィアと同じことを察したようだった。小さく舌を打って、部屋全体をざっと見回す――が、目的のものが見つからず、魔術で灯した明かりを無言で消滅させる。
「な、何か?」
 二人の反応の理由に気付かないファルナスや少女たちが不安そうな声を上げたが、それには返答せず、ソフィアは口早にウィルに告げた。
「ウィル、さっきの無し。あたしが外ね」
「それは了解だけど、隠れる所……」
 べちん。
 ぼふん。
 ――暗闇の中、そのような音が響いてウィルの声が言葉半ばで中断される。
「さ、サードニクスさん?」
「しっ」
 訳が分からずその名を呼んだファルナスに鋭く囁きかけてソフィアは暗闇に沈む扉を睨み据えた。一秒、二秒が過ぎようやく事態に気付いたらしく、はっと息を飲む音が闇に響く。
 外からこちらに近づきつつある何人分もの足音と声が、誰の耳にも聞こえる音量になり始めてきていた。


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