女神の魔術士 Chapter1 #8

←BACK

NEXT→


 それから二日間は、表面上においては実に静穏のうちに過ぎて行った。
 あの夜散々突っかかってきた男も、懲りたのか興味を失ったのか、それ以上ウィルにちょっかいをかけようとはしてこなかった。それどころか、あえてウィルを避けようとしている節すら見て取れた。待機所などで鉢合わせすると、不愉快そうな舌打ちをして必ず先に席を立つようになった男の姿は、ジフには非常に痛快に映ったようだったが、ウィルにとってはこれ以上なくどうでもよいことだった。ウィルの心中は名前すら知らないごろつきとの対人関係などとは比較にならない程重要な問題に占拠されていた。
 あの日以降、彼はソフィアと一言も言葉を交わしていない。顔すら合わせていなかった。
 一度だけ、廊下の遥か遠くから横顔を見た。タリス・ブラウンと何やら楽しげに談笑しながら、練習室に入っていく姿。駆け寄って、声をかけようかとも思ったが実際にそれをしなかったのは、そこで彼女に何を言えばいいのかが全く思いつかなかったからだった。
 避けられている、というわけではないとは思う。先の件で彼女を怒らせたのだとしても、それに対し徹底無視で交戦するといったような手段を使う女性ではないはずだった。正面を向き合って話す機会さえ得れば、以前と何ら変わることなく会話をすることが出来るだろう。
 けれども、その機会に恵まれなかった。四六時中タリス・ブラウンの元にいるソフィアと遅番勤務が続くウィルとでは生活時間帯が違い過ぎた。
 ――もっとも、それが言い訳に過ぎないことなどウィル自身も分かってはいたが。
 いくら互いの都合が噛み合っていなくても、隣室の少女を訪ねることが絶対に不可能であったはずはない。話し合うチャンスがなかったのは全て、自分がその機会を作ろうとしなかったからに他ならない。
 自己嫌悪の溜息を、幾度となく繰り返す。
 問題の品評会当日までの二日間はそのように、水面下はどうであれ、表面上においては実に静穏のうちに過ぎて行った。あたかも嵐の前の静けさであったかのように。
 ウィルの心中においてのみで吹き荒れていた暴風雨は、その日、ついに現実の世界のものとなった。



 品評会会場において警備に当たることになっていたのは、ブラウン邸に務めている警備員のうちの二割ほどに当たる、二十名だった。その人員は更に半分に分割され、主人と件の宝石を警護しながら定刻に会場入りする班と、午前中から設備の点検などを兼ね配置につく班とが構成されている。ウィルはソフィアとの接触をなるべく避けようという姑息な理由から後者の班に志願し、現在、会場でのミーティングに参加しようとしていた。
 ちなみに会場となっている場所は、タリス・ブラウンの加入している商業組合の議事堂で、会員には余程金の唸っている者が多いのか、貴族の邸宅並に無駄に広大で、どこもかしこも豪奢に飾り立てられた建物だった。半ば感心し、半ば呆れながら人が横に十人も並んで歩けそうな廊下を歩いていって、警備員の控え室として用意された小部屋に入る。普段は小会議室として使用されているらしい部屋にはもう既に、屋敷で何度か見たことのある面子が揃っていた。妙に縁があるらしくここでも一緒の組になったジフが、手を上げて律儀に挨拶をしてくる。無視する理由もなかったので、まだミーティング自体は始まっていないらしく雑談を交し合っている男たちの中を抜けて、ウィルはジフの傍に歩み寄った。
 ジフが着席しているテーブルには他に二人の男が、彼と同じようにだらしなく座っていた。直接話をしたことはなかったが、屋敷の中で幾度か見た顔ではあった。
「しっかしよぉ。面倒なこったよなぁ」
 ウィルに挨拶がてらの視線を寄越してから、誰ともなしといった様子で男のうちの一人が喋り出した。
「何の話?」
「何ってこたねえよ、今日の仕事の話だよ」
 問いかけたウィルに、男は既に面倒な仕事を一つ終えたような疲れた口振りで呟く。もう一人の男も、億劫そうに肩を竦めて見せた。
「たまにな、こういうパーティーの警備って任務もあるんだけどよ……あ、俺たちは結構長いことここに雇われてんだがよ、その度にいつも思うんだよな。何が悲しくて金持ち共が気楽に飯食って遊んでやがる横で立ちんぼしてなきゃなんねえんだってよ」
「あー、まあ分かるけどね。仕事だし。しょうがないだろ」
「そうだけどよ。何つーか、理不尽だとか感じねえ? 俺らだって金さえ持ってりゃこんなつまんねえ仕事してなくてもいいってのに」
 不公平だよなあと漏らす男に、ウィルは苦笑した。自分たちだって酒場のウエイターの真横で酒を食らってくつろいでいるだろうが、などと茶々の入れようはいくらでもあったが何も口を挟まず、気の済むように愚痴を言わせておいてやる。
「まっ、だからって客として出てくれとか言われたら困るけどな。何つったっけ、あの、こないだ来たえらく綺麗な女」
 ソフィアのことだろう。彼女の目立ちすぎる容姿と、特殊すぎる今回の事情は、傭兵連中の格好の話題の種になるようだった。ジフと、今喋っている男とは別のもう一人が、ウィルに一瞬だけ意識を向けたが、彼が全く気にしていないことを確認して安堵したように、喋っている男の方に視線を戻した。
(俺を何だと思ってんだよ……こいつら……)
 内心で不平をぼやく。声に出さなかったのは、そう問いかけても乾いた笑いなどを交えて話題を逸らされておしまいにされる危惧があったからだった。
「さすがにあれ見たら、こっちのが気楽でいいやって思ったけどな。……しっかしあんな女もいるもんなんだなぁ。この世界で女っつったら、俺ぁ今迄、本当に女かよってなゴリラみてえのしか見たことなかったぜ」
 さすがにそれは余程の誇張か、運が悪かったかのどちらかであろうが、どちらにしろソフィアのような一見か弱そうに見える美少女タイプが相当珍しいということは確かだろう。恋人を褒められるのは、自分の事を褒められるのと同等以上に誇らしく思える。……例えその恋人と喧嘩中であっても。
 しかし――と、先日の騒動を思い出す。
 あれも容姿を褒められたおまけのようなものだったのだろうが、先日のように根も葉もない噂を立てられるのはやはり、気に入らない。何が情婦だ。あの怒りをにわかに再燃させて、ウィルは表情には殆ど出さず奥歯だけを噛み締めたが、何故かジフはその様子に気づいて振り向いてきた。それはいくらなんでも神経質すぎるんじゃないか、と微妙な気分になったが、そのおかげで意識が逸れて、こみ上げかけていた怒りは霧散していった。
「それにしてもよう、あの噂」
 割と話好きであるらしい男は、ソフィアの姿であろうか、何か素晴らしいものを脳裏に描き出しているかのような惚けた表情で、呟きを続けていた。その声を聞いて、聞き手であった他三人が取った行動はまさに三者三様であった。ジフは、げっ、と言わんばかりに目を剥き、もう一人の、ウィルは名前を知らない男はびくりとして身体を逸らし、そしてウィル自身は訳が分からずきょとんとする。が、二人がそのような態度を取ったことで、彼もまた次の瞬間には悟っていた。この男も、情婦だなんだと言い出すのだろう。……悪気があるようではないので殴らないでおいてやりたいが、それには男が次の句を発するまでのこの二、三秒程の間に、理性を総動員して覚悟を決めておかねばならない。
 と、ほんの刹那の間に思考を纏めて男の言葉に耳を傾けていたウィルは、
「あの噂。今日のパーティーで、あの女とブラウンさんの結婚披露宴が」
「なんぢゃそりゃああああ!!?」
 自己制御の意識も軽々飛び越えて、今度は何の意味もなく、またもや男の頬を拳で殴っていた。

「け、結婚披露宴じゃなくて、婚約、婚約パーティーだ馬鹿!」
 慌てふためき、囁き声ながらも鋭く即座にそんな訂正を加えるジフを、ウィルはぎろりと睨んだ。何の非もないはずの男の筋肉質で太い首が、街路の端で寒さに身を縮こまらせる鳩のように竦められる。ウィルとしても、八つ当たりなのは重々承知の上で目の前の男の襟首を掴まんばかりに詰め寄った。
「そう言い換えられた所で慰めになるか! 何だそれは! どこがどうなってそんな話になってるッ!?」
 怒鳴り散らすと、ジフはその筋骨隆々の巨躯を更に、この図体がこれほど縮まるものなのだといっそ感心するほどに縮こまらせた。そんな様子を見て、彼はふと気付く。これでは聞ける話も聞けないだろう。そう判断したウィルは、後ずさりしかけたジフをこれ以上怯えさせないように、今できる精一杯の笑みを浮かべてやる。
「説明してもらえるよねえ、知ってるんだもんねえ、俺に納得いくように説明できるよねえッ!?」
「な、納得させる自信がなかったから言わなかったのに……ってあああ言います言います言い訳は致しません全て申し上げますッ」
 笑顔で穏やかに諭した甲斐なのだろう。ジフは震え上がりながらも非常に素直に噂の顛末を語り始めた。
「こ、こいつはですねあくまでも屋敷の女中とか、出入りの商人なんかの間に流れてる噂に過ぎないんですがね、このパーティーの席を借りて、ブラウンさんが婚約者を発表するっていう噂があることにはあります。で、その相手がアリエスさんだって話になってて……。あ、で、でもですねこれはブラウンさんももう三十になるってのにいまだ、そんな噂のひとつもなかったものだから、急に噂が出るってことは今まで近くにいた人じゃねえだろうってことでじゃあわざわざパートナーになんて依頼したあの子だろうという理屈であり始終仲よくダンスしたり食事したりってのはあんまり関係ないんじゃないかとも俺は思っ」
「もういい」
 坂道を転がりはじめる玉の如く、言葉を紡ぎ続けるうちに徐々に口早になっていくジフの説明を、何とか内容が聞き取れる程度の速さであった間だけ聞き続けて、ウィルはそれを制した。告げられた瞬間にぴたりと口に封をしたジフから視線をはずし、顎に手を当てて考え込むウィルを見て、他の二人――殴られた男でさえもが文句のひとつも言わずに、緊張してごくりとつばを飲み込んだ。
「サ、サードニクスさ……」
 沈黙に耐え切れなくなったか、意を決した面持ちでジフが言葉を発した丁度その時、部屋のドアががちゃりと開き、警備隊のリーダーが入室してきたので彼は結局その発言を飲み込んだ。
 程なくして始まった会議中もずっと、一言も発さずに俯いているウィルを、ジフはちらちらと覗き見ていた。



 午後九時。商業会館の、様々な彫刻が施された白い柱の立つ正面玄関ポーチの前に黒塗りの馬車が止まった。艶消しされた金細工が所々を縁取る二頭立ての馬車は、贅を尽くした会館の前にあっては確かに地味と言わざるを得ないが、その控えめな造形が醸し出す気品は、見る者を会館の豪勢な細工から目を離させ、自然とその方に振り向かせるに十分な力を持っていた。
 身なりを整えた御者がまず御者台を降り、恭しく扉を開ける。馬車の側面には所有者を示すエンブレムがついていたので、その様子を見守る観衆の多くは、扉の奥から現れる顔について明確な予測を立てていた。
 静かにステップを踏んで車を降りてきたのは、絹の張られた襟が品よく光る、漆黒のディナーコートの紳士だった。ブラウン商会会主、タリス・ブラウン――観衆の立てた予測を裏切らない顔である。普段は櫛を通す程度で軽めに整えている金髪を、固めの整髪剤を用い几帳面に後ろに撫で付けるスタイルは、正式な晩餐会や規模の大きいパーティなどの限定された席のみで彼が見せるもので、それは密かに未婚既婚問わず多くの貴婦人たちの間に、機会あれば是非とも鑑賞すべきものとして知れ渡っていた。若く美しい青年実業家、タリス・ブラウンに好意を寄せる女性は多く、それは熱烈な恋慕からファンという表現の方が近いレベルまでまちまちではあったが、何にしろ常に彼は社交界の注目の的であった。
 しかし、本日この瞬間、彼に注目した人々が期待していたのは、そればかりではなかった。得てして噂話を――特に色恋の噂を何よりも好む社交界の紳士淑女たちである。果たしてかの独身貴族が選び抜いた令嬢とはどれほどのものなのか。過剰なまでの好奇と期待の視線が、美丈夫が手を差し伸べるドアの奥に注がれた。
 そして――
 もし熱の篭った視線というものに本当に温度というものがあるのならば、馬車の金の装飾すらも焼け落ちてしまうのではと思える程の視線を一身に受けながら、しかし微塵たりとも怯むことなく、車中より現れた光は凛として、夜という影を裂いてゆく。
「……女神……」
 無意識にであろう。誰かが、ぽつりとそんな言葉を呟いた。


←BACK

NEXT→


→ INDEX