女神の魔術士 Chapter1 #7

←BACK

NEXT→


「まあ、まあまあなんて細い腰なの! お顔も小さくて、本当にお人形さんみたい!」
 ふくよかな中年の女は、裁縫道具を持った手を大袈裟に手を組み合わせたりしながら、薄着になったソフィアの回りを忙しく立ち歩いていた。ソフィアは女の触れる手よりもむしろ余程その言葉の方にこそばゆさを感じつつも、出来る限り大人しく立っていることを心がけていた。あまり動いて、彼女の仕事の邪魔をする訳にもいかない。女は口もせわしなく動かしていたが、それ以上にてきぱきと手を動かして、ソフィアの身体の各所の寸法を巻尺で測っていた。
 晩餐に招かれた翌日の朝、約束通りに仕立師がソフィアの部屋を訪れた。下町のおばちゃん、といった風情の気さくそうな女性は、おべっかなどを使いながら貴族を相手にしてドレスを作っているよりも、街で気楽に一般市民の服を作ったり直したりしている方が似合いそうな雰囲気だったが、話を聞いているうちに、主たる仕事は本当に後者の方であるらしいことが分かった。元々貴族でもなんでもない庶民の出であるタリス・ブラウンの一家が以前から利用していた店の女主人で、派手な社交界とは無縁の職人だったのだが、その確かな腕は夜会を彩る花を作らせても遜色ないと見込まれて、彼が上流階級の仲間入りをした今でもこうして屋敷に出入りしているということらしい。今は評判を受けて、他にも何件かの上流の家庭の衣装も手掛けるようになったとか。
 饒舌な婦人は雑談を交わしながらソフィアのウエストに回していた巻尺から寸法を読み取って、するりと滑らせるようにしてそれをはずした。
「ほら、ごらんなさいな、たったのこれだけ。コルセットなんて付けても付けなくっても変わらないでしょうねえ」
 女は嬉々として右手と左手で巻尺を摘み上げて測った長さを見せてくれたのだが、伸ばした状態で見せられた所でそれがどれほど感嘆すべき事実なのかは分かり難く、ソフィアはリアクションの仕方に悩んだ。ウエストサイズが細いことは女性の身体的な美において重要な要素であるということ自体は無論知らない訳ではなく、自分のそのあたりのサイズが標準よりも細いことももちろん知っていた。が、それに伴って他の部位まで細かったらどうしようもない。子供服を身体のどの部位に過不足を感じることなく着る事が出来てしまえることがメリットであるとは、どうにもソフィアには思えなかった。
 眉を寄せて、ソフィアは自分の身体の中で最もコンプレックスを抱く部分、胸に触れてみた。直立している状態でなら、僅かに、ほんの僅かに、自分でも悲しくなるほど僅かに、彼女のその部分にも肉と思しきものはついているように感じられる。けれども仰向けになってしまえば完璧なる平原、完全無欠のまな板だ。
 小さく溜息をつく音を聞かれてしまったのだろうか、採寸の作業を終え、山のように持ってきたいろいろな色の布をソフィアの前に垂らしては、彼女の顔や髪の色と見比べるという仕事に移っていた仕立師は、ころころと笑い声を上げた。
「胸なんかパットでも入れればいいだけだわよ。ウエストを補正するよりも何十倍も簡単よ」
「そう……だろうけど。でも、男の人はやっぱり、ちゃんと本当に、胸の大きい女の人の方がいいって思うものなんじゃないかしら」
 呟きながら、何とはなしに目の前の、ボリュームのある胸に視線を向ける。それを察してその胸の持ち主である女は、「あらあら、これは贅肉だからねえ?」と笑ったが、もし仮に彼女がある程度痩せたとしても、まだまだそこには十分な量が残りそうだった。仮に彼女の体格が年を経てから作られたものであるとするならば、若い頃はかなり魅惑的な肢体だったのではないかとソフィアは思った。
(ウィルも、やっぱりスタイルのいいひとの方が好みなのかな……)
 ふと、そんな事を考えてしまって、ソフィアは赤面した。その考えを打ち消すように、心の中でぶんぶんと頭を振る。あんないやらしい奴! ウィルなんか、女の子なら何でもいいに決まってる。だから、自分みたいな魅力に欠ける女の子に、あんな……
 あああ。
 具体的に思い浮かべたのは失敗だった。意識してしまえば、まざまざと甦る、彼に触れられたことのある個所のひとつひとつの感触。唇に。耳に。首筋に。胸にも。優しく、大切なものを扱うように触れてくる彼の手は紛れもなく心地の良いもので――
(……って、な・に・を、考えてるのよあたしはぁッ!!)
 今度は想像の中だけでなく実際に、ソフィアは自分の頭を抱えた。何てはしたない妄想をしているんだろう。これじゃウィルと同レベルじゃないか!
 と、ウィルが聞いたら泣き出しそうな言葉を使って内心の自分を激しく叱咤しながら、彼女は何とかして平静を取り戻そうと努めた。意識を無理矢理に現実に戻す。目の前の女性が喉元で笑いを押し殺してくすくすとやっているのを見なかったことにして、彼女の持つ布を観察してみる。
 窓からの光に艶やかに映える光沢と、しっとりとした手触りは、この大陸西部で最も名高い産地であるマーヴェラの絹ではないだろうか。ソフィアはトレジャーハンターとして繊維関係の商品はあまり扱ったことがなかったので確信を持ってそう断言出来る訳ではないのだが、仮にそうでなかったとしても、それに匹敵するランクの品だということは間違いないように思えた。
(これでドレスなんて作ったら、あたしとウィル二人分のお給料よりもずっと高くつくんじゃないかしら)
 確かに、それほどの服でないとあの『天使の頬に伝わる滴』には釣り合わないのかもしれないが、それならそれでプレゼントにまでしてくれなくてもいいような気がする。貰えるものは遠慮なく貰うというのが彼女の方針だったが、いくらなんでも、一般市民の一月分以上の品を何の理由もなく貰うのは気が引ける。しかも、苦手というより殆ど未体験の世界であるパーティー会場で、雇用主の期待に見合うような仕事をこなす自信はあまりないと来れば、プロとして申し出を辞退しなければならない所かもしれない。
 物欲とプライドを天秤にかけて真剣に検討していたソフィアの耳に、ほぅ、と穏やかな溜息が聞こえた。
「やっぱりソフィアさんはピンクだわねえ。この淡い髪と真珠のようなお肌には、こんな花びらみたいな色が一番よく似合うわ」
 うっとりと目を細める仕立師の持つ反物に、ソフィアも視線を向けた。
 その目を、思わず見開く。
 目の前にあったのは、意識に鮮烈な印象を残す薄桃色だった。と言っても、色合いは決してきつくない。ごく淡く、控えめで、甘やか。それでいながら強く心に刻み込まれる印象は、今まさに開こうとしている桜の花のようなみずみずしいその発色のなせる技なのであろうか。野の花をそのまま摘み取り、布地に仕立て上げたかのようなそれでドレスを作れば、比喩で無しに舞踏会場に現われた一輪の花となる事だろう。
「うわぁ……これ、凄く素敵」
 ソフィアは素直に感想を述べた。頭の隅っこの方に押し込めてあったさっきまでの懊悩が、この瞬間、全て吹き飛んでいったがそれにすら気付かない。それほどまでに、一目でこの色に心を惹かれてしまった。
「気に入ってくれたみたいね、じゃあこれにしましょうか。これはいいわよ。ああ、私も早くこれに針を通してみたいものだわ」
 ほくほくと、心底嬉しそうに告げられた言葉に、ソフィアもこくこくと頷く。忘れたかった悩みと共に、プライドやらなにやらの辺りも飛んでいってしまっていた。普段は仕事の関係上、あまり洋服に気を使うことが出来ないが、そんな彼女もやはり年頃の女の子であり、おしゃれに関して並ならない興味を持っている。美しいドレスを着て華やかな社交界の光を浴びてダンスを踊る――そんな、どこか夢みたいと思っていた職務内容を今まさに現実のものと見せられたことで、俄然やる気が湧いてきた。
 がんばるぞ、と、胸の前で両手を握り締めるソフィアの手をそっと握って、女がにっこりと頷いて見せた。
「大丈夫よ、あなたの一生に残る大切な行事だものね、素敵なドレスを作って応援するからね」
「うん…………え?」
 頷いてから、ふと違和感に気付いて、顔を上げる。確かにこんなことは一生に一度あるかないかのことだろうが、何か彼女の言った言葉のニュアンスはそういう事とは違うような気がする。不思議そうなソフィアの視線を背に受けたまま、しかし彼女は特に何もおかしい点などなかったかのように、選んだ薄桃色の布地だけを区別して、片づけを始めている。
「えーと……大切な行事って?」
 このままでは求める解答を得られそうになかったので、ソフィアは自ら、女の背中に問い掛けた。大切そうに商品の布地をくるみ込む手を止めて、彼女はにっこりとソフィアの方を振り向いてくる。
「ああ、もちろん一番は本番の結婚式よね。出来たら是非ウエディングドレスも縫いたいって、ブラウンさんに言っといてくれる?」
「え?」
 ますます分からない。
 そんなソフィアに、仕立師の女は手を口元に当ててにんまりとした笑いを覆い隠しながら、そそくさと近づいてきて小声で告げた。
「あ、もしかしてこれは、内緒にしてたことだった? ごめんなさいね。でもどちらの奥様も皆噂してたわよ。だめねえ、皆をびっくりさせたいんだったら、もっとこっそりとしなきゃあ」
 何を?
 その問いに対する解答は、ソフィアが声に出すまでもなく、女が自動的に続けてきてくれていた。
「今度のパーティーで、あの独身貴族のブラウンさんがようやく、婚約を発表するって、ね。若奥様」
「…………!?」
 何よりも、自身がびっくりな噂の露見に、さすがに数秒では開いた口が塞がらないソフィアだった。



(何やってるんだろうな、俺……)
 昼近くになっても、ウィルはベッドから起き上がる気力を紡ぎ出す事が出来ずに、横になったままぼんやりと天井を見上げ続けていた。もっとも、遅番の勤務は明け方まで続き、床についたのはそれからだったので、普段ならばまだ眠っていてもおかしくはない時間ではあった――彼の場合は、だが。
 身体を横たえたまま、意識だけを隣の部屋に向ける。ここに来てからはずっと、隣の部屋の主は、この時間にはダンスの練習室で屋敷の主と猛特訓をしていたいたはずだったが、今日はまだ厚い壁の向こうに彼女の気配が感じられた。漏れ聞こえてくる声から察するに、他にも誰かいるらしかったが、あの、わざとそう作っているとしか思えない善良そうな笑顔がむかつく男ではないようなので、気には留めていないでおいた。別に、彼女の私生活まで拘束し制限を課すような恋人でいるつもりはない……
 腹の底から息を吐き、顔をしかめる。左頬の下の辺りが、鈍く痛んだ。昨日の騒ぎの中で一発、少々きついのを貰った記憶があったが、恐らくこれがそうだろう。指で触れてみると、明らかに分かるほどには腫れていなかったが、やや熱を持っていて、冬の室温に冷えた指先が心地よく感じられた。
(何やってるんだろう)
 睨み付けていた所で何の面白味もない天井から目を離し、隣の――ソフィアの部屋に背を向ける形で身体を横にする。手繰り寄せた毛布に包まって、今の自分の格好悪さを自覚した。拗ねた子供じゃあるまいし、何をやっているんだか。
 昨日だってそうだ。格好悪い。あんな、自分の腕力くらいしか拠り所を持たない男など、肉体などを使わずに、口先だけでぐうの音も出ないほどやり込めることくらい造作もなかったはずだ。だというのに、普段は好む好まない以前にそうそうやった事がある訳でもない殴り合いを自分から仕掛けて、怪我まで負って。すぐさま止めに入られなければもっと大怪我を負っていたか、逆に魔術の一、二発を撃ち放って相手を再起不能にしていたかのどちらかだっただろう。
 情けない。自分を制御することすら出来ないなんて、つくづく格好が悪い。
(制御出来ないのは……前から、か)
 苦々しく、思う。彼女を前にしていて、十分に自制出来ていたことなど、もしかしたらただの一度もなかったのかもしれない。彼にとっては困難と言われる魔術の制御よりも、彼女に対する感情を制御する方がずっと難しいことだった。
「格好悪ぃ……」
 呟いて、ウィルはようやく身体を起こすことを決心した。

 館の一角にある待機所――昨晩騒ぎを起こしたあの場所に行くと、カードゲームをやっていた数人の男が顔を上げてウィルを見、ヒュウ、と口笛を吹いた。ウィルが、唾棄こそしなかったものの、それを行うに限りなく近しい表情をして男たちを睨み返すと、このグループはさほど余計な悶着を好む性質ではなかったのか、相手の方から顔を逸らした。部屋を軽く見まわすと、彼らと同じようにそそくさと全員が視線を外していく。この中には、ジフも昨日の男もいなかったが、余程暇なのか、皆あの騒ぎを知っていたようだった。
 段々自分が野蛮な人間と認定される度合いが深まって行くのを確認するのは感情的につらいものがあったが、もうこの際である。面倒な人間と接触を絶つ為に、この手を使い続けようと決心した。計らずしも昨日ジフが言った通りに、示威行為で己の立場を獲得することになったという訳だ。近寄り難さの演出と、心底どうしようもない自分への苛立ちを眉間の皺として刻んだまま、ウィルは部屋にいくつかあるテーブルの空き椅子を目指して歩いた。そこには先客がいたが、別に相席になる事が気にされるような上品な場所ではない。
 そのテーブルを選んだのは、そこにいた先客たちが、部屋の中で唯一、ウィルの入室に関心を示さずに自分たちの会話に没頭していたからだった。小声で何やら話し合う声は入り口からは聞こえなかったが、近づいていくとその切れ端だけが聞こえてきた。
「タイミングは」
「……を発表するって時間があるはずだ」
「場合によっちゃ女ごと」
(……?)
 その会話には埒外のウィルには内容全てが不可解だったが、そんな中に奇妙な引っ掛かりを覚えて、彼はその一団に視線を向けた。が、意識してかしないでか、密談の声はもう一段落とされ、それ以上の話を聞き取ることは出来なかった。
(……まあいいか)
 椅子にかけたウィルは、古びた雑誌に手を伸ばし、適当にページを繰り始めた。


←BACK

NEXT→


→ INDEX