女神の魔術士 Chapter1 #6

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(信じらんない、信じらんない、あの馬鹿ウィルってば本っ当に信じらんない!)
 胸中で同じ言葉を延々と繰り返しつつ、ソフィアはビーフシチューの皿の中で丁度真ん中にいた哀れなじゃがいもに八つ当たりを敢行した。手に持ったスプーンの先をぐさりとばかりに突き刺すと、柔らかく煮えたじゃがいもは、熾烈な一撃の前にあえなく両断された。その欠片を彼女は手前から掬い上げ、ぱくんとひとのみにする。ごっくん。ああ美味しい。牛肉からとろけ出した濃厚な旨みが口中に広がっていくのをソフィアはじっくりと堪能した。何時間も、あるいは何日もかけて煮込まれたのであろう重みのある風味に高級なスパイスや何種類もの野菜を贅沢に使って生み出された絶妙な香りが彩りを添えて、街の定食屋などには逆立ちしても出せない高貴な味わいに仕立て上げられている。信じられない。じゃがいもでこれだけ美味しかったらメインのお肉はどんな味がするのだろう。きっと口に入れた途端に舌の上でとろけてその中に秘められた味わいの集大成が……
(……ん、じゃなくて……なんだっけ?)
 すっかりと至高のシチューに心奪われていた彼女だったが、はたと意識を取り戻す。しばし考えてから、ようやく怒りを思い出した。
(ああそうだった、ウィルよウィル! ウィルが信じられないの!)
 いつのまにかほころんできてしまっていた頬を無理やりに引き締めて、ソフィアはスプーンを強く握り直す――
 と。
 いつからか、控えめな笑い声が聞こえてきていたことに、そしてそれが自分に向けられていることに気がついて、彼女は慌てて顔を上げた。
「いや、失礼。ソフィアさん」
 笑い声の主、同じテーブルについて食事をしていたタリス・ブラウンと目が合う。彼女の視線を受けると、彼は感じの良い微笑を添えて謝罪して見せた。
「あまりにもその、あなたの仕草が……可愛らしかったもので」
 可愛いという言葉よりもただただ恥ずかしさで頬を染め、変な握り方をしていたスプーンを正しく持ち変える。そうやっていくらか間を置いてもまだ顔に上った熱は冷めなかったので、ソフィアはそのスプーンを皿の中に入れて軽くかき混ぜた。
「ごめんなさい、ちょっと考え事してて」
 俯き加減に小さく呟くと、ブラウンは軽く首を横に振った。
「いいえ。私も、こう言っては大変申し訳ないですが楽しんでいましたので」
 それは本当のことのようだった。口元を覆った手の下で、笑いを堪えているのが分かる。ソフィアは更に恥ずかしくなって、手早く褐色の海の中で丁度スプーンに触れていた一番大きな肉を拾い上げて口に運んだ。
 ……幸福の再来。
 想像通りの、いや、想像だにしていなかった柔らかさで、それは口の中でほどける。至福の瞬間を陳腐ながらも溜息で表すソフィアに、またもやブラウンは軽やかな笑い声を上げた。やはりソフィアは恥ずかしさを覚えたが、先程と同じブラウンの好意に満ちた笑顔に、思わずつられて彼女も微笑を漏らした。
 彼は、他人を穏やかな気持ちにさせることが何よりも上手なのよねと、この数日で認識した事柄をソフィアは頭の中に浮かべた。その認識が、ウィルがこの青年に対し抱いている感想とは対極に位置することであるなどとは、彼女は露ほども思っていない。
「ソフィアさんと一緒に食事をすると、いつもよりも数倍美味しく感じられます。今日だけとは言わず、是非これからずっとご一緒したいくらいです」
「それ、あたしも嬉しいです。あと三日もこんなお姫様な気分が味わえたら、素敵だなぁ」
 冗談半分で笑い返す。ビーフシチューに柔らかいパンとサラダというメニューは上流階級の夕食としては質素なものであったろうし、味そのものも使用人用の大食堂で提供されるものと殆ど変わらないのだが、ぞんざいに盛り付けられた皿を自分で運んできて喧騒の絶えない食卓で食べるのと、一皿一皿が芸術品の如く飾り付けられた料理を傍らに給仕の控えるテーブルで頂くのとでは、やはり気分的には全く違うものがある。前者の普段通りの夕食も気楽で、別に嫌いではないのだが、着飾った姿で丁重にもてなされながらの晩餐は女の子として心を揺さ振られるものである。
 特に何がきっかけになったというわけでもないのだが、唐突にいつも隣にある姿が今はないことを意識して、ソフィアは小さく溜息をついた。ブラウンがウィルを招待しようとしたのは社交辞令でもなんでもないことはこのメニューを見れば分かった。前もって準備させていたと言うのなら、今日のテーブルに並ぶ全てがフォークかスプーンが一つあれば食べられるものであるのは、偶然ということもないだろう。相手は客に恥をかかせないマナーをわきまえた人間だというのに、その顔をつぶすような真似をしたウィルから、心の中でもう一点、減点する。
「次の機会は是非、サードニクス君もご一緒して頂きたいと思っていますと、お伝え下さるとありがたいです」
 ……人の心を読む魔術でも、知っているのだろうか。あまりにも絶妙なタイミングでそんなことを言ってきたブラウンに、ソフィアは頭を下げた。
「すみません……ええと、いつもはそこまで社交性のない人じゃないんですけど」
「いえ、まあ、普通の反応でしょうね」
「え?」
 何となく聞き返したが、ブラウンは楽しげな笑みを浮かべるのみだった。
「それはさておき、このような席で仕事の話をするのは大変無粋なこととは承知しているのですが……」
「あ、はい」
 どうも目的を忘れがちになるが、現在は護衛の任務の最中なのである。ソフィアはスプーンを置いて話を聞く体勢を取ろうとしたが、それをブラウンは制した。そのまま、ソフィアの目を見て話し始める。
「重要なことをすっかり失念していました。明日は練習室でなく、自室でお待ち下さい。仕立屋を向かわせます」
「仕立屋……ですか?」
「私としたことがダンスの練習に夢中になりすぎ、ソフィアさんのドレスを作らせるのを忘れていました。明日の午前中に採寸し、明後日納品してもらう手筈にしておきます。この忙しい時期に飛び込みの仕事をさせることになりますが、まあ大丈夫でしょう」
 告げられた「仕事の話」はソフィアが想像していた内容とはあまりにも違いすぎて、彼女はどこか他人事のような感覚でそれを聞いていたのだが、さすがにみなまで聞き終わる頃には意味を認識して、思わずスプーンを持ったまま手を振った。
「いえあの、あたしはどなたかのをお借りすればいいんですけど!?」
 慌てるソフィアとは対照的に、ブラウンは涼しく微笑む。
「この屋敷には使用人以外の女性はいませんので、女性物のドレスなんてありませんよ? 仮にあったとしても、私は自分のパートナーに借り物のドレスで夜会に出席させる程甲斐性のない人間ではないつもりです」
「パートナーって言ったって仕事のっ」
「……関係に過ぎませんが、私は是非あなたにお似合いのドレスをプレゼントさせて頂きたいと思ったのです。お嫌でしょうか」
「嫌っ……て訳じゃなくてっ……」
「では、構いませんね。楽しみにしていて下さい」
 にっこりと頷いたブラウンに、ソフィアは顔を赤らめたままそれ以上、何を言うことも出来なかった。



 屋敷内の警備といっても服務時間の八時間、ずっと持ち場を歩き回っている訳でもなく、一晩に一回は守衛所に戻り、休憩がてらの待機任務につくことになる。ウィルのこの日のシフトでは二時間目が待機だったので、ソフィアがブラウンと会食をしていた丁度その頃、彼は古くて体重をかけるとぎいぎい鳴る椅子に座り、誰かが読み棄てていったものらしい古雑誌を読んでいた。
 気だるい。文字の羅列を眺めながら、ウィルは目の前の文章とは全く無関係なそんな言葉を脳裏に浮かべていた。
 二時間目や三時間目に待機時間が入るのは、誰にとっても非常に嫌なシフトであるようで、ウィルにもそれは例外ではなかった。たかだか一、二時間しか動いていないので疲れてもいないし、何よりこの休憩の後に五、六時間、暗い屋敷内のさほど広くもない担当範囲をひたすら徘徊していなければならないのが気分を沈ませるのだった。まだ六時間働いて一時間休憩、最後の一時間を何とか働くというシフトなら気持ちよく職務に取り組めそうな気がするのだが、同じ時間配分のはずなのにその順番が違うだけで苦痛が倍増するような気がするのは実に不可思議ではあった。それは気の所為とか錯覚とかいう物であるのかも知れなかったが、それを感じる者は前述の通り多いらしいので、自然と新参者である彼に、その役目が回ってくる事が多かった。……多いといってもまだ三日だが。
(あーもうかったるい……面倒くさいなー……どーせ何も起きないんだし、別に見張りなんて置かなくたっていいじゃないか……)
 警備員が大慌てをする場面などそうそうあってはたまらないが、そんな事すら思ってしまう。常時には不要と思えるほどの警備員を配置しているからこそ、この屋敷は抱え込んでいる資産量にそぐわない平穏を保ち続けており、それが結局自分たちの暇に繋がるということはウィルも理性では分かってはいるのだが、暇なものは暇で、何もないのにそこにいなければならない無意味さはそんな理屈などは簡単に超越して彼の身に降りかかってくる。日だまりやベッドの中でまどろみながらぼーっとしていていいのなら、無意味な時間というのは大歓迎なのだが、任務中は当たり前だがいくらなんでもそういうわけにもいかない。少なくとも見た目だけはしゃんとしていなければならない為に気は半分くらいしか抜いておけず、襲い来る眠気との格闘を最優先事項としなければならない訳だ。
 無意味な時間を眠らずに過ごそうとするには、何かを考えていなければいけない。
 溜息をつく。それが、気だるさの主要な原因だと、認める。
(ソフィア……)
 一言目には何とか別の言葉を捻り出せても、二言目にはどうしても呟いてしまうその名。彼女の言った通り、実に下らないと思う。子供のように執着して。呆れられるのも無理はない。
(何で、こんなことになっちゃったんだろうなあ)
 抱える悩みの根本的な部分に、問いを投げかける。こんなこと、というのは、彼女を怒らせたことではなく――どうして自分は恥ずかしげも無くあんな事が出来る人間になってしまったのだろうか。それについてだった。
 いくら考えた所で結論は、呆れるほど単純なものにしかならないような気はするが。
「……あ、旦那! 旦那も休憩ですかい?」
 ふと、聞き覚えのあるだみ声で呼びかけられて、ウィルは読んでいた(振りをしていた)雑誌から視線を上げた。守衛室の入り口をくぐってきた数人の男たちの集団からごついのが一人、挨拶代わりに手を軽く上げて近づいてくる。
「ええと、ジフ?」
「旦那もこのシフトだったんですね」
 名前を覚えていてもらえたことにだろうか、ジフは破顔して、しかしほんの少し哀れみを込めた声で言った。
「旦那なら、ちょいと力を振るって分ってものをわきまえさしちまえば、いい時間が取れたでしょうに」
「……数時間休憩時間ずらしたいが為に示威行動に出るってのもある意味潔くていいな。潔い阿呆だが」
 冗談を口の端に笑みを浮かべて返す。と、ジフは少し声をひそめて、ウィルに囁いた。
「半分くらいは本気なんですがね」
「は?」
「旦那のこと、なめてる奴多いっすよ。魔術士だって聞いていない奴はもちろん、聞いてる奴だってはったりじゃないかって思ってるみたいですぜ」
「……ふぅん」
 そういうものなのか。今迄フリーで魔術士としての仕事をしたことがなかったウィルは認識を改めた。別に、魔術士である事自体を疑われている訳ではないだろう。確かに見た目でだけでは魔術士とそうでない者を区別することなど出来ないが、魔術を見せろといわれればそれまでである。疑われているのは『戦力になる』魔術士であるか否かということなのだろう。魔術士というのはさほど多くないが、戦力になりうる魔術士となると当然更に数を減じる。もしかしたら、もっと単純に単にウィルの見た目が為した結果なのかもしれない。見た目のみを論ずれば、ここで雇われている中では、ソフィアを除けばウィルは最も、飛び抜けてと言えるほどに貧弱な体格をしている。魔術士の力量は戦士とは違い視覚では判断することは出来ないとは彼らも分かっているのだろうが、外見上は侮られても仕方がないということはウィル自身としても認める所である。
「どっかの誰かも調子コいて突っかかって来たしね」
「いやもうその件は勘弁して下せえよ。すんませんでしたって」
 頭を掻き掻き苦笑いするジフが、視界の端に映った人影を認識して、横手に顔を向けた。部屋にいた数人のうちの一人が、にやにやとした笑いと僅かな緊張感がない交ぜになった微妙な表情をしながら、近づいてくる所だった。
 ね? と、椅子に座るウィルにジフは視線を向けて、小さく肩を竦めた。
「よう、ジフ。随分と仲いいみてえじゃねえか、その兄ちゃんとよ。紹介してくれや」
 男が、ジフに声をかけてくる。そのジフから問い掛けるような視線を受けて、ウィルは椅子から立ち上がりもせず、どころか視線を相手に向けることすらせずに告げた。
「教会魔術士のウィル・サードニクス。宜しく」
「は……ん、教会魔術士ね」
 遠回しな威嚇に全く動じない相手にやや鼻白んで、視線をジフからウィルに転じる、男。やり口をより直接的なものに切り替えることにしたのか、顔を不必要に近づけてねぶるようにウィルを睨めつけた。それでもウィルは視線を返さず、相手にするつもりはないという態度を続ける。それが当たり前だが気に食わなかったのだろう、男はねちりとしたものを声に交えて、今度はウィルに言葉を放った。
「その教会魔術士様が、こんな所で何をしておいでなんですかい? 俺らのような下賎の輩とは生きる世界が違うと思うんですがねえ?」
「おい、やめねえか」
 徐々に険悪さを増してきた男の声にジフが反応して、ウィルとの間に割り入って来る。ジフに対しても似たような威嚇の視線を投げかけるも、彼もまた、不快そうに眉をひそめたのみで挑発には乗らなかった。軽く舌打ちして、低く告げる。
「下らねえ言いがかりはやめとけや。てめえがどうこう出来る相手じゃねえぜ」
「言いがかり? はっ。何言ってやがる。教会魔術士なんてフカシこく奴を全部信じてたら、そこらの魔術士は大抵教会魔術士様になっちまうのくらい、てめえだってこの世界長いんだ、分かってんだろうがよ」
 もうひとつ、ウィルは学習した。教会魔術士を騙る人間は、世間には意外と多いらしい。妙な所で一人感心するウィルを、男は顎で指し示した。
「大体、軍人ってのも怪しいもんだぜ。いくら魔術士っつったってこんなのがよ……」
「? お前なんでそれ、知ってんだ?」
 思わず聞き返すジフに、ウィルも視線を上げた。ブラウン邸での雇用契約のとき、ウィルは教会魔術士であるとは言ったが、軍に所属していたことは言っていない。別に隠していることではないが、ジフが言っていなければここで知られているはずはない。
 が、男はこともなげに種明かしをした。
「俺もあの日、あの店にいたんだよ。ジフ、てめえがすっ飛ばされる所もしっかり見たぜ」
「成る程な」
 醜態を思い出させられ、ジフは苦々しく呻いた。
「だが、あれを見てるんならサードニクスさんの実力だって分かるだろうが」
「は、あんなもん、てめえが勝手によろけて躓いただけじゃねえか。そこにちょいと勢いをつけて派手に放り投げただけだ。ちょっと護身術かじってる程度の素人の動きだぜ、ありゃあ。それが偶然に上手いこと決まっちまったってだけだ。そんなのも分かんねえほど酔っ払ってたてめえがぼけてやがるんだ」
「何をッ……」
「あー、まあまあまあまあそんな白熱しないの」
 吠え声を上げかけたジフをウィルは即座に制する。この短い休憩時間を下らない騒ぎで潰されるというのは実につまらない。
「サードニクスさんはむかつかねえんですか!? これだけの侮辱を受けといて!」
「だってそっちの言うことも、まあ君には悪いけど間違ってはないし。俺は格闘術なんて、ほんの手解き程度しか習ったことない」
 反論の余地を潰されて、ジフが眉間に縦皺を刻む。対する男の方には二人に対する嘲りの表情が見て取れた。ウィルがいざこざをなるべく避けたがっているのを感じて、男は絶対的な自身の有利を悟ったようだった。
「こんな根性のねえガキが軍人とは笑わせてくれるぜ、まったくよぉ! おい、ジフもよぉ、買いかぶりすぎはよくねえぜ。てめえの目の節穴加減をそう喜んで暴露することもねえだろうが」
「……ぐっ」
 かなり腹に据え兼ねたようだが、ウィルの忠告を守ってか、ジフは身体の横で拳を固く握り締めるに止めた。案外、義理堅い所があるようだが、そろそろ限界が近そうだ。あと一押しされれば、ぷっつりと堪忍袋の緒を切ってしまうだろう。殴り合いではジフとこの男のどちらに分があるのかは分からないが、今のうちに離れておいた方が賢明かもしれない。
 調子付いている男は、よせばいいのに気分よく喋り続ける。そこまでして無意味な喧嘩に持ち込みたいのだろうか。ウィルには、どうしてもこの手の人種の行動原理というものは理解しがたい。
「大体、女を貢いで取り入って、何企んでやがるんだか。まあ確かにあれだけの女をあてがってやりゃあ、誰だって気もよくするだろうがよ」
 椅子から立って、後ろ歩きに二人から距離を置こうとしていたウィルの足が、止まる。
「……何だって……?」
 ぽつりと、努めて冷静に、ウィルは男に尋ね返した。何故か、怒りに顔を紅潮させて男を睨み付けていたジフが突然顔を青くして振り向いてきていたが、ウィルはそちらの方は見ず、目の前の男にだけ意識を絞っていた。
 話から外れようとしていた青年の唐突な反応に男は瞬時きょとんとして、しかし、すぐにそれまでの気勢を取り戻して、顎をしゃくった。
「ああん? おめえの連れだろうがよ、ブラウンさんの新しい情婦……」
 男の言葉はそこで中断された。
 無言で、ウィルは男の顔面に拳を埋めていた。


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