女神の魔術士 Chapter1 #5

←BACK

NEXT→


 タリス・ブラウンに雇われて三日。意識して足を運ばないようにしていたダンスの練習室に赴かなければならなくなったのは全くの偶然と不運の産物だった。夕餉の準備が整った旨を館の主に知らせに行くのは恐らく通常であれば侍従の役割であるはずなのだが、たまたま特に用事もなくぶらついていた姿を気の強そうな中年の女中に発見され、ウィルはその役目を押し付けられる羽目になった。特に人より押しが弱いとか気が弱いとかそういうことはないのだが、俗に言うオバちゃんパワーに対抗しうるほどの胆力も持ち合わせていなかった彼自身にも非がないとは言えないだろう。が、それを自覚しつつ彼は主張したい気持ちでいっぱいだった。これは不可抗力である。オバちゃんに勝てるか。
 練習場に足を向けたくなかった理由は説明するまでもなく、二人の練習風景を見たくなかったからである。ダンスフロアで舞うソフィア自体は、是非一度見てみたいとは思う。きっと、花から花へと移る蝶のような可憐な踊りを披露してくれるだろう。それはいい。が、いくらダンスとはいえ自分の恋人が他の男の腕に身体を預けている姿など、誰が進んで見たいと願うだろう。しかも相手はあの男である。ウィルと彼女の間柄を察しておきながら臆面もなくあんな暴言を吐いた、あの男。
「……ッ」
 苛立ち紛れに廊下の壁を爪先で軽く小突いたら、たまたま通りがかった別のオバちゃん女中に見つかって、叱られた。
 ……何か、嫌な予感がする。へこへこ謝りながらウィルはそう思った。

 案の定と言うべきか――その予感は当たってしまった。昨日のタリス・ブラウンの予言と共に。
 弦楽の舞曲のリズムを折り目正しく刻むブラウンに付き従い、ソフィアもまた十分優雅と言って差し支えない足取りでダンスフロアを軽やかに駆けていた。流れる音楽は楽団による生演奏ではなく、教会でかなり前に発明された法石式蓄音機によるもので、他に練習している者がいるわけでもないその部屋は、ウィルが扉を開けて中を覗いても未だ、二人きりのムードが続行していた。
「ええ、そうです……いいですよ、ソフィアさん。とてもいい」
 年代物のワインのように深く、しかし妙に色艶のある声でブラウンはソフィアの耳元に囁いた。その声に応えるように、ソフィアは間近にあるブラウンの顔を見上げてほんのりと微笑む。まさにそのやり取りの様子は、『素晴らしいパートナー』同士であるように見えた。その中でも、彼らが見せたやり取りの特定の一部分は、ウィルにただならぬ衝撃を与えた。
(名前、名前ですか!? 名前で呼びますか!?)
 ともすれば表面上に現われようとする身体の奥底の震えをウィルは全力で堪えながら、胸中で咆哮した。
 契約を結んだ三日前はあの時は確かにソフィアの事をアリエスさんと家名で呼んでいたはずだった。だというのにいつのまにこんな仲になったと言うんだろう。
 機械が流す楽曲の音量がにわかに高まり、華やかなフィナーレを迎える。盛大にクライマックスを歌い、やがて余韻を残して消え行く音楽は、踊りを終えた二人が手を離すその瞬間を名残惜しんでいるかのようだった。
「あれ、ウィル」
 ようやくソフィアがこちらに気がついたのは、上がっていた息が落ち着きかけてからの事だった。いまだうっすらと赤身の差す頬に満面の笑顔を浮かべてこちらに走り寄ってくる様を見て、ウィルもぎこちなくではあるが笑顔を向けた。
「見た? 見た? 結構上手くなったかも、あたし」
「うん」
 頷いて、ブラウンの視線がこちらに向いている事をちらりと確認してから、ソフィアの耳の近くに唇を寄せる。
「綺麗だったよ」
「や……もう、何馬鹿な事言ってるのよ」
 ぐいとウィルの肩を押しのけて、ソフィアが怒ったような声で言った。ウィルから視線を背けた彼女の顔が、先程よりも紅くなっている事に満足して、くすりと笑う。が、何とか取り戻せた余裕も、ここまでだった。
「何か御用ですか、サードニクス君」
 ソフィアとウィルの会話の邪魔をするという風ではなく、限りなく正確に会話の間隙を縫うタイミングでブラウンが声をかけてきた。会話をしている相手方を不快にさせることなく割り込む高等話術だが、この男の仕業というだけでウィルには幾千もの悪意を向けられるような心境だった。しかし最も問題なのはそんな敵愾心ではなく、経験上こう入ってこられると大抵話の主導権を相手に奪われるという事実である。
 それを危惧して、伝えるべき言葉があったのを幸いに即座にウィルは口を開こうとしたが、それよりもほんの半秒ほど早く、尋ねてきたブラウンの方が言いたい事は察したとばかりににっこりと頷いて見せた。
「ああ、晩餐の準備が出来たと知らせに来て下さったのですね。ありがとうございます」
 台詞を完璧に奪われて、ウィルは一瞬絶句する。その隙を逃すほど、相手は間抜けではないようだった。人好きのするその笑みをソフィアにも向けて、小さく首を傾げて見せる。大の男がやって様になる仕草ではないのだが、聡明でありながらどこかぼんやりした雰囲気のこの男には不思議と違和感がなかった。
「宜しければ、ソフィアさんもいかがですか。親交を深める為にも是非一席ご一緒したく思っていました」
 上流階級の食事というものに興味があったか瞬間、ソフィアの顔が輝いたが、自分の立場を一応はわきまえて遠慮がちに尋ね返す。
「いいんですか? そんな、急に。ご迷惑では」
「大丈夫ですよ。実は、最初からお誘いするつもりでして、準備させておいたのです。……サードニクス君も、是非」
 ブラウンが向けてきた視線に意地の悪いものが含まれていたという訳ではない。が――
「……いえ。俺は今日の警備に遅番で入っているので。では」
 ぼそりと答えて、ウィルは踵を返した。視界の外で、さすがに声に出したりはしなかったがソフィアが慌てたような仕草をしたことに気がついた。
「すみません、ブラウンさん。あたしも、支度したらすぐ行きますから」
 ウィルが締めかけたドアに手を滑り込ませて、ぱたぱたとソフィアは彼の後に続いて部屋を出た。

「もう、ウィル! ちょっと失礼よ! 相手は雇い主なんだから、もうちょっと丁寧な言い方してよ」
 かなり早足で歩いたつもりだったがさすがに走られてはすぐに追いつかれ、仕方なくウィルは振り返った。ふんわりと膨らみを持った練習着のスカートは、それはそれで優雅ではあったが、汗を存分に吸ったその格好では食卓にはつけないだろう。着替えるんだろうなという簡単な認識を済ませて、ウィルは前に向き直る。
「遅番ってのは嘘じゃないし」
「それにしてもよ。ブラウンさんはいい人だから良かったけど……わざわざあんな事を言ってもらえたんだったら、仕事を誰かに代わってもらってでも出るのが礼儀でしょ」
 ソフィアに背を向けて歩いていこうとするウィルの、更にその前にとてとてとやってきて、彼女は彼の顔を睨み上げた。少し反論に困って、ウィルは前髪を掻き上げる。
「ソフィアが出とけば十分だろ。それにやだよ、そんな席で食事するの。まともにナイフも使えないのに。恥かいてまで心証よくしたくない」
 そう言われると、さすがにそれでも出なさいとは返せずに、ソフィアは不服さを口の中に溜め込んで、頬を丸く膨らませた。

「ね、ウィル……」
 部屋の前につき、別れてから二十分後。こんこんと壁を叩く音の後に、ぎりぎりで聞こえるか聞こえないかという音量で、ソフィアの声が壁越しに聞こえて、ウィルは読んでいた本から顔を上げた。
「何?」
「ああ良かった、まだいた。ねえウィル、お願いがあるんだけど」
「……?」
 怪訝な視線を壁に向ける。と、まさかその視線を察したのではないだろうが、ソフィアが言葉を続けてきた。
「ごめん、ちょっとあたしの部屋に来てくれない?」
「いいけど……」
 ベッドに転がって休んではいたが、あと十分もしたら勤務につかなくてはならないので、服も着崩していなかった。すぐに靴をつっかけて、隣の部屋に向かう。入室の許可はもらってはいたが一応ドアをノックすると、開いているから、と先程からのようにひそめた声が返ってきた。
「ソフィアこそ、まだ行ってなかったのか……っておい!?」
 ドアを開けて部屋の奥を覗き込んだ瞬間、ウィルは思わず叫んでいた。
「やだやだ早くドア、閉めて」
 慌てて叫ぶソフィアの声に従ってこちらも十分に慌ててドアを閉め、再度――恐る恐る、彼女の方を見る。
 彼女は着替えの真っ最中らしかった。後ろボタンがウエストあたりまで全開のワンピースを身につけて、部屋の隅から入り口のウィルを恥ずかしげにじっと見ていた。――彼女の背面を見た訳ではないのだが、ずり落ちかけている袖とそのまま垂れ下がっている腰の後ろで結ぶリボンで、おそらくはそういう状況なのであろうという事が知れる。
「ええと……」
 目を逸らせるなどという行為は思いつきもせず、ウィルは呻いた。あられもない姿の彼女を凝視したまま、動作停止寸前の脳でようやく思いついた言葉を呟く。
「……これは罠?」
「は?」
 つぶらな瞳を点にして、ソフィアが聞き返してくる。
「目の前の餌に思わず食いついた瞬間、上からカゴとか降ってきて捕獲される類の」
「いや……罠じゃないし餌でもないから……食いつかないでねお願い」
 珍しく怯えたような表情をソフィアは見せる。ウィルは黙ったままドアから離れ、部屋に入っていった。当然だが、ソフィアとの距離が狭まってゆく。
「え、やだなに?」
 ウィルが進むのと同じだけソフィアが後退した。背中を壁にこすり付けるようにして壁際をするすると這う彼女に、ウィルは忠告してやる。
「そのまま窓まで行くと、外から丸見えになるよ。背中」
「うそっ?」
 彼女は思わずくるりと反転して、窓から背中を隠した。代わりに、ウィルの方にそれがさらけ出されたのは言うまでもない。最初の予想通り、彼女の背中はこの寒い季節にご苦労なまでにがら空きだった。すぐにソフィアはウィルの視線の気がついて、再度身体を翻し、最初そうしていたように壁際に寄った。
「ていうか、何って、君に呼ばれてきたんだけど俺」
 何やら唸り声でも上げてきそうな彼女に、ウィルは頬をぽりぽりと掻いて、言う。
「そ、そうだけど何かそうやって裏で色々考えてるような顔で近づかれると怖いもの」
「人聞きの悪い」
 もっとも、裏で色々考えていると言うのはあながち言いがかりではなかったので、それについてはあえて否定も肯定もしないでおく。彼女はまだなお真っ直ぐな視線を彼に向けてきていた。それは、最愛の恋人の姿を見るというよりは、いつ飛び掛ってくるか分からない獣を視線で牽制するような目つきではあったが。
「……で、何なんだよ。こうやってこのまま追いかけっこしたくて呼んだんじゃないんだろ? ……まぁ、何となく想像はつくけど」
 確かにボタンは気持ちいいほど開ききっているが、彼女の豊かな髪が背中の大半を隠すうえ、下に薄いキャミソールを着ているので実際に露出している部分の面積はたいしたことはない。しかし、動いているうちに更に乱れてきた衣服は、彼女は気付いていないようだが、えもいわれぬ色香を醸し出してウィルの動物的本能に近い部分ををちくちくと刺すように刺激してくる。
 危うい衝動を覚えるが、それをウィルは無理矢理内心に押し込んだ。その代わりに、理知的に状況判断を行った結果の発言をする。
「背中に手が届かないからボタン留めて欲しいんだろ?」
「……そう」
 こくりと頷くと、彼女は最後の最後まで躊躇うようにゆっくりと、背をウィルの方へと向けた。背中に落ちる髪を指で纏め上げ、肩から胸へ流すと、そこから白い羽根が生えていないことの方が不思議なほどに滑らかな素肌があらわになった。
「まったく、一人で着れないような服なら着ようとするなよな」
 意識して、何気ない口調で呟きながら近寄ると、彼女も今度は逃げ出したりしようとはしなかった。ソフィアの身体に触れないように気をつけて、服のボタンをつまみ上げる。
「あ……ウィル、ボタンって……」
「平気。はめられる」
 が、それは自分の服においてであったことに、ウィルは三秒ほどしてから気がついた。自分のボタンを留めるのならさほど苦はないが、さすがに人のだと少し勝手が違うようである。しかもそこについていたのは球体を半分に割ったような形の飾りボタンで、なおさらやりにくい。
 少しもたついていたウィルを、ソフィアが肩越しに振り返った。
「大丈夫? ごめんね」
「いや、いいよ。今後のための訓練になるし」
 ひとつふたつつけるうちに何とかコツを飲み込んで、十個以上もある小さなボタンの行列に本格的に取り掛かり始めた。
「片手で他人のボタンつけはずしは男の必須技能だからね……」
「……何か今、えらく余計な言葉を聴いた気がするわ」
「俺のジョークが少しは分かるようになったじゃないか。成長の証だよそれは」
 他愛もない会話を交わしながら着々と作業を続けて、残り三個。僅かにはだけた形で一旦手を止めて、少し顔を離し、ウィルは目の前の襟足を鑑賞した。全部曝け出されているのもいいが、こういうのもなかなか良い。
「……ウィル……」
 何故か深い深い溜息をつかれたが、このぐらいの役得は許されてしかるべきだとウィルは思う。
「そういやソフィア、こんな服持ってたんだ」
 彼女は何を着ても似合いそうな少女ではあったが、実際着ている物となると、いつでも簡素なシャツに地味で丈夫なスカートといったいかにも実用主義な服ばかりで、ウィルはそれが彼女の好みなのかとも思っていた。しかし本当の所は趣味より仕事を優先していたということらしい。こんなつけにくいボタンがたっぷりのふわふわとしたリボンまであしらわれたワンピースは実用的とは対極に位置する。
「あ、うん、ヴァレンディアにいたときに買ったの。今まで着る機会もなくて」
「……いつでも着てくれてよかったのに」
 それまで比較的機嫌の良かったウィルの声に急に憮然としたものが混じり始めたことに気付いて、ソフィアは不思議そうに頭を傾けた。
「どうしたの?」
「別に。……はい、終わり」
 背中をぽんと軽く叩いて終了を告げる。が、彼女はすぐにはそこから動こうとしなかった。顎をしゃくって、退室を促す。
「早く行きなよ。もうかなり待たせてるよ、雇い主様を」
「何いきなり不機嫌になってるの」
 本気で訳が分からない顔をして、ソフィアはウィルの目を見上げてきた。その視線の交錯を、ウィルの方から先に断絶させる。それが不服だったのか、彼女は唇を突き出して見せた。
「感じ悪いわね。何よ」
「別にって言ってるだろ」
「別にじゃないでしょ。文句があるならはっきり言いなさいよ」
「言ったってしょうがないじゃないか」
「やっぱり文句あるんじゃない!」
 ソフィアが出て行かないならと先に部屋を出ようとしたウィルを、彼女は後ろから捕らえた。咄嗟に掴んだのは左腕で、それに気付いた瞬間彼女は一瞬躊躇する気配を見せたが、今は自分の目的の方を優先することにしたようだった。ウィルにしても、身体ごと動かしてしまえば振り払えないわけではないのだがそうせず、けれども彼女の顔を見る気にもなれなくて、そのまま、小声で告げた。
「その服を着て初めてデートする権利を俺に与えてくれなかったことが物凄く不服だね」
「…………はぁ!?」
 よほど意外な答えだったのか、数拍沈黙を挟んでから彼女は甲高い声を上げた。思わずだろう、彼女の指の力が緩む。その拍子にウィルは腕を彼女の手から引き抜き、再び歩き始める。
 立ち去ろうとする背中に、ソフィアが同じトーンで叫びつけてきた。
「くっだらない! そのくらいでいちいち怒らないでよ!」
「だから言わないでいたのに、君が言えって言ったんだろ」
 間髪入れず返すと、ソフィアは瞬間的に言葉を詰まらせたが、すぐさま言い返して来る。
「別にわざわざブラウンさんのために取っておいたわけじゃないわよ!」
「当たり前だろ。そんなことは、許さない」
 一言だけ。それだけはしっかりと振り返ってそう告げると――
 何か言おうとして口を開いていた彼女が、今度こそそのまま何も声を出せずにいる姿を見ることが出来、ウィルは暗澹とした気持ちの中にささやかな勝利感を得て、唇の端だけに笑みを浮かべる。
 予感なんてのは、嫌なものばかり当たる。くそ。笑いながら彼は小さく吐き捨てた。


←BACK

NEXT→


→ INDEX