女神の魔術士 Chapter1 #3

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 宝石商、タリス・ブラウン。
 話によると、その男は裕福とはいえない一職人の家庭に生まれながら、神業的な経営手腕によって一代で財を成した――いわゆる成金と言う類の人種であるらしい。
 そういった説明の後にその人物の屋敷を訪れたウィルは、自分が成金という言葉に対してかなりの偏見を持っていた事に気づくことになった。
「へぇ……悪くないな」
 大陸文化で後期ヴェロニカ式と呼ばれる、今から百五十年程昔の建築様式の館に、その当時の作であろう調度品が揃えられている。その頃は古代神聖美術の復興が唱えられていた時代で、特徴は精緻にして謹厳。真摯な神への祈りをいかにして音楽や美術で表現するかが、芸術家達の課題であり到達目標であった頃である。
 百五十年前と言ったらブラウン氏の一族はやはり先代までと同じく、町工場の一介の従業員であったはずだから、これらは当代になって揃え上げられた物であるのだろう。豪奢とは対極にあるヴェロニカ芸術は、散じた財に匹敵するような華やかさは望めないのだが、慎ましやかで荘厳なその美は、信仰に篤い上流階級を中心に長きに渡り愛好されている。
 ジフに連れられてワインレッドの絨毯が敷かれた廊下を歩きながら、ウィルは落ちついた心地を感じていた。悪くない。色褪せたような空気。彼が生まれ育った家に似た空気がここには流れていた。隣を歩くソフィアは、高いアーチ状の天井に描かれる天使の画をぽかんと口をあけて見上げ続けていた。廊下の端から端まで緻密に描かれている大作は確かに壮観だ。
「すごいねぇ、ウィル。地味だけど、綺麗。……ね、あれ、あそこの部分は何の絵? 木にひざまずいてる天使がいる」
「授けの儀式じゃないかな。新しく生まれた若い天使に、神が、化身である神聖樹を通して名前と使命と愛を授けるっていう」
「売ったら高いかな?」
「またそういうことを。……俺も金銭的な価値はよくわかんないけど、本物のヴェロニカ期の作品であの出来なら、相当なものだろうな。下手したらここの廊下の分だけでこの規模の屋敷が建つかも」
「そんなに!」
 ソフィアの歓声が、高い天井にこだまする。
「へぇー、今度から美術品関連のお仕事も出来るように勉強しとこっと。教えてね?」
「いや俺もそんなに詳しいわけじゃないんだけど」
 芸術そのものにか金銭的な価値にか、夢中になって見入り足を止めるソフィアを、ウィルも数歩先に進んだ所で止まって待った。一見した所は実に無邪気に周囲を見まわす彼女を、苦笑しながら手招きする。
 ソフィアは毛足の長い絨毯の上を、ふわふわとした足取りで駆けて来て、ウィルの動かない左腕にくるりと腕を回した。触覚も痛覚もない腕に、錯覚ではあろうが押しつけられた彼女のささやかな胸の柔らかさを感じて、我知らず頬が緩む。その微笑みは運のよいことに、彼女には、『パートナーを見守る優しげな笑み』に見えてくれたようで、にっこりと笑顔を返してきてくれた。

「こちらです」
 屋敷の奥まった一室の前で、ジフは初めてウィルとソフィアを振り返った。
 もっとも、ここに到着する迄にも彼が幾度かはちらちらとこちらを盗み見ていたことにウィルは気がついてはいた。あからさまに腕を組んでいる二人の様子を目に入れて、慌てて前に向き直った瞬間を丁度見てしまったのだ。無論、彼としては全くもって問題のないことなのだが、彼女が知ったらまた何か騒ぎ出しそうなので黙っておいている。
 つくづく難儀な恋人関係である。自分の事ながら、彼は深々と嘆息した。と、きょとんとソフィアが彼の顔を見上げてくる。
「どうしたの?」
 ウィルの苦悩などいつだって露知らずといった調子のソフィアではあるが、すぐ隣であからさまに態度に出されてはさすがに気になったのだろう。心底不思議そうに見上げてくるこの少女を、殴るか髪をくしゃくしゃにするかディープキスでもしてやるかのいずれかの刑に処してしまいたかったが、どれを選択しても後が怖いのは疑うべくもなかったので、ウィルは黙ってジフの方を向いた。
 視線の先の大男は、屋敷の作りに調和した重厚な黒樫の扉に、ごついこぶしで意外と軽やかにノックしている所だった。
「失礼しやす、ミスター。フライヤーです。今朝言った二人を連れて来やした」
「どうぞ」
 答えてきた声は、ウィルが想像していたよりは少し若い、男の物だった。入室の許可を得て、ジフは真鍮のノブを回して手前に引いた。扉の先の部屋は、南側に窓がある採光のよい一室で、廊下の暗さに慣れていた目にはその光は少し強く、ウィルは眉間にしわを寄せて窓を背にする奥の男に焦点を合わせた。
「我が館へようこそ、お二方」
 愛想のよい声でジフを含めた三人を迎え入れた男は、やはり実際にも声の印象通り、それほど年齢を重ねてはいないようだった。行っても三十代そこそこという、成功を収めた商人としては、十分に若い部類に入る年代の男である。その印象に金髪碧眼の優男然とした風貌も合わせると、にわかにはやり手の商人とは思えない。そんな男が、これが営業用の顔ということなのか、にこやかな笑みを湛えてわざわざ椅子から立って来客を出迎えてきた。
(営業用、ってこともないか)
 考え直してみる。こちらは雇われる側である。雇い主がわざわざ慇懃に迎える必要もない。元来こうなのか、長い顧客相手の商売で染み付いてしまったものなのかは分からないが、基本的に物腰の低い性格だと見て間違いはないだろう。
 ブラウンの差し出してきた右手を軽く握り返してそう結論付けると、その評価対象当人の瞳がさりげなくウィルの目を映し、そこに浮かぶ笑みの色の上にもうひとつ微笑を付け加えた。
(……なるほど)
 決してあからさまではないはずだったウィルの値踏みの視線に、気づいていたらしい。
(やり手ってのもあながちホラではないわけね)
 ウィルの手を離し、男の視線は隣のソフィアの方へと移る。
 その瞬間、青い瞳は大仰に――わざとらしいまでに見開かれた。
「なんと。うら若き娘さんとは聞いていましたが、これほど美しいお嬢さんであったとは。驚きました」
「まあ、美しいだなんて」
 惜しまれることのないリップサービスに、気を良くしてソフィアが破顔する。対してウィルの表情に、ほんの僅かながらひびが入った。
 大輪の花が開くかのような彼女の笑顔は、贔屓目を抜きにして本当に綺麗だった。この笑顔を見るためならば、ウィルは喉が枯れるまでむずがゆい台詞を吐き続けてもいいとさえ思っている。が、実際に――全くやったことがないわけではないのだが――殆どそれを実行しないのは、例によって彼女が暴れ出すからである。
 その笑顔を。何の躊躇もなくこんな見ず知らずの男に向けるなんて。
 憮然と、という程には表面に感情を出したりはしないが、それでも内心では十分に憮然として、ウィルは笑顔で社交辞令を交し合う二人を眺めていた。

「改めまして。私はタリス・ブラウン。この街で宝石商を営んでいます」
 ウィルとソフィアを客人をもてなすかのように丁重にソファーに促して、再度名を口にした。秘書らしき、ぱりっと糊を効かせた服の女性が、紅茶のカップを三つ運んできて応接テーブルを囲む三人の前に置いた。
 部屋にはもう一人、ジフが残っていたが、彼は昨日のウィルのようにブラウンの後ろに立って主と客とのやりとりを見ていた。一応護衛の為なのだろうが、とりたてて警戒しているという様子はなく、形式的にか彼自身の興味の為にかそこで様子を見守っているだけの様だった。
「ソフィア・アリエスです」
 特筆すべき社会的身分のないソフィアは、簡潔に自分の氏名だけを述べる。どこのギルドにも属していないフリーの傭兵であれば、こんな名乗りも珍しいものではない。ウィルの方は一応、公式に名乗る立場とその証拠を所持していたので、上着の内ポケットからそれを取り出し手のひらの上に乗せ、相手に向けた。
「教会魔術士、ウィル・サードニクスです」
「ほう」
 ブラウンが、形良く弧を描く眉を上げて呟いた。
 ウィルが提示したのは手のひらほどの大きさもあるメダルに鎖のついたペンダントだった。メダルには古代神聖文字で描いた魔術紋章が刻印されており、中心に緑色の小さな石が嵌め込まれている。この石には魔術によってペンダントの所有者の情報が書き込まれており、個別に設定されているパスワードを添えて教会に照会すれば、氏名や年齢はもちろん国籍から階級、職歴に至るまで詳細に調べることができる。現代の魔法技術の粋を集めたこの品は偽造も困難で、大陸中で最も信頼性の高い身分証であると言われている。
 それを交付される対象が、ウィルのような、魔術士という立場の者だった。
 魔術士というのはその名の通り魔術を扱う能力を持つ人間のことで、魔術とは体内に内在する魔力を用いて大気中に充満する『自然界の魔力』を呼び、古代神聖言語の韻律が抱える魔力によって――とかそのような説明から開始するのが正しいわけなのだが、一般的には「普通の人にはわけのわからん理屈でゴニョゴニョ呪文を唱えるだけで炎や氷を生み出したり遠くにいる人を殴ったり出来てしまう便利な体質の人」という認識が有力のようである。時には生命の危険すらある訓練をこなし、多岐に渡る学問を修め、努力に努力を重ねてこの類稀な力を体得した魔術士にとっては微妙に物悲しくもある説明なのだが、概ねそれで間違ってはいない。ウィルとしてはそれよりも「追記。何か小難しい勉強をネチネチやってるようなちょっと根暗なタイプが多い」という一般論の方ががっかりするのだが、これもまあ、八割くらいの魔術士には当てはまるのでいまいち反論がしにくいのであった。
 ――それはさておき。
「……教会魔術士と言うと、聖都ファビュラスで正式に修練を積んだ、中でも優秀な魔術士の称号。なるほど、ならばフライヤー君が手も足も出なかったというのも頷けますね」
 にっこりと笑って頷くブラウンの後ろから、やはり教会魔術士という名乗りにさすがに目を丸くしてペンダントを凝視していたジフが、何やらいたく感心したように吐息した。実を言うと、じっくり見てもらった所でこのペンダント自体は『教会魔術士』の証明ではなく『魔術士』の証明でしかないのだが(石のデータを引き出せば書いてはあるが)、盛り上がりの腰を折るだけなのでウィルは黙っていた。
「いやはや、話を疑っていたわけではありませんが、これならば不足などあるはずもありません。是非とも正式に依頼をお引き受け願いたい」
 女性であるソフィアにはその美貌を誉めちぎり、男のウィルは地位と能力を賞賛する。さすがに人をのぼせ上がらせるツボを心得ている。と、冷めた感想を頭の中に浮かべながらも、ウィルは先程までの憮然たる思いを半分以上は消滅させて依頼人の顔を見返した。相手の思惑通りに引っかかってしまったなという自覚はあるが、まあ、悪い気はしない。
「宝石の警備、というお話でしたね?」
 微笑みを浮かべたソフィアが、会話を先へと促した。放っておけばあとひとつやふたつ、普段はあまり言われることのない誉め言葉を貰えそうだったので少し残念に思ったが、ウィルもまた真面目に話を聞く体勢に戻る。
 ソフィアの言葉に、ええ、とブラウンは頷いて、部屋の隅で控えていた先程の女性秘書に目配せをした。
「ファルナス君」
「はい、社長」
 一旦、隣の部屋に彼女は引っ込んだが、数秒もしないうちに戻ってきた。両手で恭しくビロード張りの箱を持って、三人のテーブルへとやってくる。
「……それって……」
 箱を食い入るように見つめながら、ソフィアがうわごとのような呟きを洩らす。彼女が口にしなかった言葉尻を察し、ブラウンはにこりとした。
「警備をお願いするのですから、その物自体を見てもらわない事には始まらないでしょう。これが『天使の頬に伝わる雫』です」
 秘書がゆっくりと小箱の蓋を開ける。
 純白のサテンの上に鎮座していたのは、その存在を知っていたはずのトレジャーハンターの少女をして瞠目させるほどの宝石だった。人差し指と親指で作る輪よりも一回りは大きい、淡い青に色づいた石が、控えめな装飾の施されたプラチナの台に、他の小粒の石と一緒にあしらわれている。……小粒の、とは言ってもよくよく見ればそれは比較対象が悪すぎるだけで、それら単体でも一つ石の指輪に作り替えられてもおかしくない程の品であるようだった。細く複雑に編まれたプラチナの鎖が、優雅な銀の弧をサテンの光沢に描いている。ネックレスに加工されているらしい。
「うわぁ。重そう……」
 何だかよく分からない感想を漏らすソフィアに若き実業家は、瞳にやや悪戯めいたものを混ぜ、見やる。
「つけて確かめてみますか?」
「えっ」
 思わず目を輝かせて彼女は顔を上げ、しかしすぐにそれは冗談なのだろうと考え直して、手を振った。
「是非そうさせて欲しい所ですけど、まさかそういうわけにも……」
「いえ、慣れておいて頂かないと」
 しかし彼女の台詞をそんな言葉で遮って、ブラウンはネックレスを手に取って立ち上がった。すたすたと背後に回ってくる男を、ソフィアは慌てて振り返る。
「あ、あの、ちょっと? それってどういう」
「いわくの全くない品ではありませんが、別に呪いがかかっているわけでも悪魔が憑いているわけでもありませんのでご安心下さい。さ、前を向いていて」
 ソフィアが問い返した内容とは別の回答で、穏やかながらも強引に反論を封じる。しぶしぶではなく、むしろいそいそと、ソフィアは前に向き直った。
「失礼させて頂きます」
 断ってから、ブラウンはそっと、ソフィアの細い首筋に手を回した。不意に彼の指がソフィアの白珠の肌の表面を軽く撫でたのは、恐らく全くもって他意のない所作であったのだろうが、そのくすぐったさに反応して、微かに彼女の肩が震えたのを見た瞬間、ウィルはもう少しで叫び出してしまう所であった。
 細い指先で小さな留め具を器用にかけ、ブラウンは、ソフィアの胸元に落ち着いた自分の青い宝石を目を細めて鑑賞した。
「よくお似合いです」
 ごくありきたりな社交辞令に、しかしソフィアはぽっと頬を赤らめる。
「一週間後の品評会の折に、会に同席して頂き、この宝石を警備する……それが仕事の内容です。ご同意頂ければ、こちらの契約書にサインをお願いします」
 ソフィアは心ここにあらずと言った様子だったが、さすがに抜け目なく、書面は端から端まで熟読していた。ウィルも、ざっとではあるが全てに目を通した。重要項目である任務内容も労働期間も報酬も、ジフや依頼人当人が言った内容と変わりない。品評会の催される一晩、警備対象と同室で監視。加えて依頼者タリス・ブラウンの警護。報酬は普通の労働者なら半月分の稼ぎになる金額で、これはこの商売では高くも安くもない額と言うが、内容を考えれば悪くないと思えた。しかしやはりここはソフィアの判断を仰ごうと視線を向けると、もう既に彼女は紙にペンを走らせていたので、ウィルもそれに従った。
 自分の名前を書き終えた瞬間、ソフィアは少しずれ落ちてきた胸元のネックレスに無意識に指を触れようとして、はたと気づいて慌てて手を引っ込めた。
 その様子を見てブラウンがくすりとした笑声を上げる。
「お気になさらずどうぞ。装飾品というものは身体の一部であるとでも思って意識せずにつけている方が、人を美しく飾ってくれるものなのですよ。当日の宴席では、一日中あなたの胸元に置いて頂くのですから、自然に扱って貰えなくては困ります」
「……え?」
 唐突な物言いに、ソフィアは用の済んだペンをテーブルに戻すのを忘れ、ぽかんと口を空けた。が、すぐさま先程しれっと流された話題に舞い戻ってきたのだと気づき、彼女は今度こそ機を逃さないとばかりに声を上げる。
「ってそれ、どういうことですか!?」
 その追及に、分かってやっているのかそうでないのか、のんびりとした様子でブラウンは首を傾げた。
「フライヤー君は言いませんでしたか? 件の品評会というのは金持ちの自慢パーティーみたいなものであると」
「聞きましたけど」
「パーティーと言ったらそりゃあ、皆で着飾って食事したり踊ったりするあれですよね?」
「……そうやって言われれば、そうですけど」
「そんな場で宝石を、人を飾らせることなくガラスケースの中にでも置いておけと?」
「あたしはそういうものだとばっかり思っていました」
 最後の問いにだけは同意の返答を貰う事が出来ず、ブラウンは口をつぐむ。
 やや何かを考えてから、ブラウンはにっこりとした笑みを――先程から何回も安売りしているその笑みを、ソフィアへと向けた。
「そんなわけないじゃないですか」
 至極あっさりと、かつ爽やかに告げる男に、ソフィアは思わずテーブルに手をついて身を乗り出した。今度はかなり激しくネックレスが揺れるが、さすがにかまってはいられないようだった。
「そ、それじゃああたしもそのパーティーに出るって事ですか!? お客の振りしてドレス着て!? それで護衛しろって!?」
「今の会話で違う結論を導き出す方が難しいですよね。アリエスさんも、ケースの中に入っている物よりも、自分で身につけている物の方が護り易いでしょう? そもそも会場側でも警備の兵は配置されておりますし、私の正式な紹介客として入って頂きますから、あなたは普通にパーティーを楽しんで下さるくらいの気分で宜しいのですよ」
 なので安心して下さいねとでも言いたげな口調だが、ソフィアの悩みはそういうことではなく、むしろ後者の、パーティーを楽しむ、の方にあるのだ。
「そんなの無理ですよ! あたしマナーもわかんないしダンスすらやったことないのに!?」
「ああ……」
 絶叫に近いソフィアの声を聞いて、ようやくこのとぼけた青年実業家は彼女の掲げる問題点に思い至ったようである。納得顔で頷いて、その問題を解決する、彼の信じる最良策を口にした。
「じゃあ特訓ですね。一週間もみっちり頑張れば、何とかなるでしょう。大丈夫です、特訓期間中も報酬はお出ししますから」
「うそおぉぉぉッ!?」
 最早トレジャーハンターの仕事という建前が影も形も感じられないその任務を法的に有効なものにする薄っぺらい書面が、ソフィアが頭を抱えるのと同時にテーブルから零れ落ち、木枯らしに舞う寂しい木の葉のようにはらりと空中を踊った。


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