Crusade Other Story -In Wonderland-(2)

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「ふー。一時はどうなることかと思ったわー!」
 湯を浴びて、身も心もさっぱりさせてご満悦なソフィアは、スプリングの甘いベッドに軽やかに飛び乗った。古ぼけた民家の古ぼけたベッドはソフィアの重くはない体重にも耐えかねてぎしりと悲鳴を上げたが、彼女は全くお構いなしに、その上で後、三回ほど身体を跳ねさせた。
 その子供じみた仕草に対し、普段ならばウィルは諌めるか苦笑を浮かべて眺めるかのどちらかの反応を示していたはずなのだが、この日の彼はそのどちらのリアクションも実行することなく、彼女のいるベッドから少し離れた、部屋の中央にある二人掛けのソファで俯いたまま沈黙を続けていた。
 彼の沈痛な様子に、ソフィアははしゃぐのをやめ、彼の顔を覗き込むように首を傾げた。
「ウィル? どうしたの? もしかして何か困ってる?」
 その口ぶりからは彼を心から心配している事が窺えたが、しかしながら当のウィルは、愛する少女の心優しい気遣いに感動するでもなく、突如立ち上がってソフィアに対し無遠慮に指を突きつけた。そして、それまでの沈黙の反動のように絶叫する。
「何か困ってる!? そう聞いたのか君は!? ああご明察だ、確かに困ってる! 困ってるよもう俺は今君に何より困ってる! 一時はどうなることかと思ったわってそういうせりふは直面してる問題が全部解決してから言うべき言葉なんだって分かってる!? 今はまだそんな問題がひとっつも解決してないばかりかその問題の全容すらも見えてない状態だって理解出来てる!?」
 ソフィアにしてみれば全く予想外に叩き付けられた激昂に、彼女は困惑した様子で目をぱちぱちとしばたいた。
「ええ? ご飯とお風呂とベッドの問題は、ひとまず解決したじゃない。悪く考えすぎよウィルは」
「根本的解決なっとらんだろんなもんはーッ!? 現実を見ろッ! 見てくれ頼むからーッ!!」
 片腕で頭を抱え天井に向かって吠えるウィルを、ソフィアは変わった動物を発見したような目で眺めていた……



 砂丘を越えるとやはり眼下に広がるのは一面見渡す限りの砂、砂、砂――
 ――という悪夢は幸運にも避けられ、丘の頂に立つ二人の眼前には、ぽつぽつと建物の明かりの見える小さな集落が現れていた。先程、海岸に人の姿があったのだから近隣に人家がある可能性は高かったのだが、それでもこれだけ訳の分からない状況下で起こりうる事象を一般常識に当てはめてみてもよいものかというのは大分疑問であった為、実際にそれを目にした時にはウィルは確かに幸運に巡り合ったような錯覚を覚えた。が、無論の事だがその直後、彼を激しい敗北感が襲ったのは言うまでもない。――幸運って何だ、幸運って。これは更に不幸でなかっただけで決して幸運とは言えないような気がするぞ俺。どれだけ幸薄いんだ俺。
 自分の思考にがっくりするウィルの横腹を、ソフィアは彼の背中にしがみついたまま、足で叩いた。犬の次は馬ですかという文句は最早呟く気力もなく、ウィルは騎乗者の指示通りにとぼとぼと街に歩み寄り、砂地が街路の石畳に変わった所で彼女を下馬させた。
 数百メートル離れた位置から見て小さい集落だと思った街――いや、村は、やはり近づいてみても小さくて、入り口からざっと眺めてみる限りでは王都の数百分の一程度の規模もないのでは、と思えた。日が丁度沈みきった所という時間の所為もあるのだろうが目抜き通りにも人影はなく、街路を照らすのは通りに面する家々の窓から油紙越しに漏れる明かり程度だった。村の入り口近くであるというのに、街灯も、魔術の明かりや炎でライトアップされた酒場などの看板も見えないということは、わざわざ夜更けに外に出歩く必要もない、ごく一般的な農村もしくは漁村であるということなのだろう。となると、旅人向けの施設があるとも思えない。余所者である自分たちがここで宿を取ることは難しいのではないだろうか……
 と、ウィルは周辺の様子を観察しながら考えを巡らせていたのだが、そのすぐ隣で靴を履き直していたソフィアは作業を終えるとすぐ、何の迷いもなく通りを歩き出していた。
「お、おいソフィア」
 慌てて、小声で名を呼ぶ。閉鎖的な田舎の村であれば、余所者を見たら泥棒と思え、というような排他的な風習を持っている地域も全く珍しくない。だからと言って別に捕らえられたり石を投げられたりする事を心配している訳ではないが、少しは慎重になっても良いもののような気がする。しかし、名を呼ばれた少女は平然としたもので、気楽な足取りで歩いていく。
「大丈夫よ。あたしみたいな美少女を警戒するような野蛮人もそうそういるもんじゃないでしょ」
「美少女って」
「冗談よ」
「……いや、別に嘘ではないからいいんだけどさ……」
「誉めても何も出ないよぉ?」
 けらけらと笑いながら、ソフィアはあまり考えて選んだのではなさそうな、他と比べて特に何か変わった特徴のある訳でもない民家の戸口の前に立った。
「すみませーん」
 粗末な作りの木のドアを、こんこんと叩きながら声を上げる。
 ここは、ソフィアに任せた方がいいだろうとウィルは判断し、やや後ろに下がった。彼女の言う通り、少女が応対した方が、相手に与える警戒心は少なくて済むだろう。それも彼女ほどの美少女であれば尚更である。あまり歓迎出来ないが、彼女が相手となれば、若い男ならば反射的に迎え入れてしまうかもしれない――例えそれが華々しく盛装して戸口に立つ不審極まりない美少女であったとしても。
 彼女の声に応え、ドアをほんの少しだけ開けたのは、中年の男だった。やはり警戒しているのだろう、隙間からおどおどとした眼差しを乗せた顔を半分だけ出した男は、ソフィアの格好を見て眉根を寄せた。まあ当たり前である。
「誰だい、あんたは」
 誰何の声に、ソフィアは男に可愛らしく会釈して、小首を傾げながら相手を上目遣いに見上げるポーズをとった。いろいろとツボを心得ている。
「すみません。あたしたち、旅の者なんですが、今夜の宿を捜しているんです。この村に宿屋はありませんか?」
 その格好で旅の者と言うか。
 思わず吹き出してしまいそうになったのをウィルは何とか堪えた。彼も、中年の男の視野の中に立っているのだ。案の定、男もソフィアの言葉に明らかな困惑の表情を浮かべている。それはそうだろう。家族の団欒の時間に唐突に割り込まれる形で珍妙な謎に直面してしまった男に同情さえ覚えながらウィルは成り行きを見守った。
「……残念だが、見ての通り小さな村でね。街道からも外れていて旅人が来るような場所じゃないから宿屋なんてないんだよ」
「そうですか……」
 何とか気を持ち直して告げてきた男の言葉に、ソフィアは細い肩を落として心底落胆したように俯いた。彼女の様子に、当の男はややうろたえた様子を見せる。見た目だけなら紛れもなく儚げな美少女である彼女のそんな挙動は、十分異性を動揺させるに足るのだ。
 そこが付け目である。すかさず、ソフィアは祈るように胸の前で両手を組んで男を見上げた。
「あの……大変図々しいお願いなんですけれど、一晩だけ、宿を貸してもらえないでしょうか? 近くには他に街はないようですし、とても困っているんです」
 男は、ソフィアとウィルをかなり長い時間をかけて交互に眺めてから、少し待っているようにと言い残して扉を閉めた。何やら中で会話が交わされているらしい気配は伝わってきたが、その内容までは聞こえてこなかった。
「言っちゃ悪いけど、よっぽどの辺境なのね、ここ。すっごい警戒」
「いや、この格好じゃ無理もないと思うんだけど」
 ソフィアのひそひそとした囁きに眉を寄せたウィルが答えた時、再度、目の前の扉が開かれた。今度は、顔半分が覗ける程度ではなく、人一人が通れる程度の隙間が作られる。
「そういうことなら、どうぞ……大したおもてなしは出来ませんが」
 やはりどこか警戒心を抜かないまま、男は二人を家の中に迎え入れた。

 その家には、中年の男とその妻、娘の三人が暮らしているようで、ウィルは、これは警戒されても仕方がないな、と思った。もう少し男手があればまた違っただろうが、女二人を一人で護らなければならないとなれば、安易な親切心で迂闊な行動に出たくないと考えるのは当然であろう。それでも今、二人を招き入れたのは、もしかしたらソフィアが家の娘とさほど歳の変わらない少女であったからかもしれない。
「旅をしていらっしゃるとのことですが、どちらからおいでで?」
 客間はないらしく、二人をダイニングに通すと、家の主人である男はまずそう尋ねてきた。他愛のない雑談を装ってこちらの素性を探ろうとしているらしいが、そういう努力には不慣れであるらしく、明らかに探りという意図が窺える。
 世間ずれをしていない素朴な男に好感すら覚えて、ウィルはなるべく穏やかに微笑み、主人の顔を真っ直ぐに見た。
「ヴァレンディです」
 ――と、正面の男の顔に、素直な疑問の表情が浮かぶ。
「ヴァレンディというのはどちらの……ですかな?」
 問い返され、ウィルはきょとんとした。少なくとも知る限り、ヴァレンディという街が二つも三つもあったりはしなかったはずだったのだが。 「聖王国……ヴァレンディアの王都ヴァレンディ、ですけど」
 改めて言い直したが、男の顔に浮かんだ疑問符は消えなかった。彼は同じ卓に着く妻の顔を見たが、その妻も頬に手を当てて首を横に振った。
「聞いておいて申し訳ないが、田舎暮らしなもので、遠い街のことは分からんのだよ」
 少し照れたように告げてきた主人の言葉に、今度はウィルとソフィアが視線を合わせた。
 有数の大都市であるヴァレンディを知らない者は大陸中捜してもそうはいないだろう。それがたとえヴァレンディア国外であっても、である。普通は、自国の王都と並び称して憧れの対象となっているものである。百歩譲ってヴァレンディを知らなくても、聖王国の名を知らない者はレムルスの山奥にすらいない。子供に語り聞かせる物語にさえ聖王国の名が登場するものは少なくはない。
 ……もしかして実はそれって凄く恥ずかしい自惚れだったんだろーか。
 そんなことも思わないでもなかったが、ウィルは夫婦に同じ問いを返してみた。
「こちらは、何と言う国なんですか? ええと、いろいろな場所を渡り歩いているもので……」
 言い訳としてはやや苦しい気はしたが、主人は気にせず答えてきた。
「虹色王国の黄緑地方、黄色に限りなく近い緑村です」
「はっ?」
「まあ小さな村ですからね。旅の方がご存じなくても仕方ないでしょう」
 先程の照れ笑いの続きで笑ってみせる主人を呆然と眺めながら、ウィルは乾いた笑顔を浮かべていた。
 ――そんな素っ頓狂な国の名前も村の名前も、全く聞いたことがなかった。



「念の為に聞いとくけどさ、君のその腹立つ程の落ち着きっぷりは、この国の場所が分かってこれならすぐに帰れるわよかった、っていう理由によるもの?」
「場所なんてわかんないわよ。聞いたことないし虹色王国なんて。ウィルこそ知らないの?」
「知ってたら苦労はないんだけどな……」
 あの後――
 丁度夕食時であったこともあり、ソフィアとウィルは家族と同じ食卓について食事をした。元来素直で善良であるらしい一家とは割とすぐに打ち解ける事が出来たが、それでもやはり最後まで、何とも表現しがたい一歩距離を置こうとするかのような態度は抜ける事はなかった――もっともこれは仕方のない事だろう。
 供された食事は魚介類の塩スープに、海草のサラダ、それとパンという、いかにも素朴な漁村の家庭料理だった。素材は格別に素晴らしいというものではなかったが、その代わり鮮度と婦人の腕前は確かなもので、望外の満足を得られた。……もしかしたらソフィアは夕餉のにおいか何かでこの家を選んだのではないかともウィルは思ったのだが、さすがに怖くてそれは聞けなかった。
 夕食後にはわざわざ一部屋空けてもらえた上、湯浴み用の湯まで用意してくれ、まさに至れり尽くせりであった。湯を借りた二人は家族に丁重に礼を言い、用意された部屋に上がっているのだったが……
「……もしかしてこの身なりで、金のある人間だって思い込んでるのかな。この状況で凄い謝礼要求されたりしても困るんだけどな」
 湯を浴びる際に脱いだ自分の服を色々と探ってみたが、服そのものを除いては特に金目の物は所持していないようだった。誰がこんな格好に着替えさせてくれたかは知らないが、どうせだったらついでに、ポケットに金貨の詰まった財布を忍ばせてくれるくらいの気を利かせてくれても良かったものである。
 ウィルの愚痴に似た呟きに、しかしソフィアは、そのことなら、と、サイドテーブルの上に外して置いてあったティアラをウィルに放り投げた。
「それで十分でしょ。見てみたけどそれ、本物よ。この家の二、三軒は余裕で買えてお釣を貰えるわよ」
「いっ?」
 さらっと告げられたせりふに、思わず取り落としたティアラを、ウィルは慌てて指先で追いかけた。何とか細いフレームが床と激突する前にキャッチする。
「それって、本物にしてもかなりのものじゃないか?」
「まぁ、かなりといえばかなりだし、まだ上があるといえばいくらでもあるってクラスだけど。……にしても、冗談で人の頭に乗っけてそのまま放置する程度の物ではない事は確かね」
「…………」
 しげしげと、手のひらに乗る程度の大きさのティアラを見下ろす。確かに、ほんの冗談、で済む話ではない。全部ひっくるめて。どこをどうやれば全く気付かれることなく人をこんな衣装に着替えさせてこれほど訳の分からない場所に放置出来るというのだ。こんな真似を冗談で出来る奴がいたら怒りを通り越して尊敬する。
「……何なのかなぁ……」
 言うまい言うまいと思っていた漠然とした疑問をついに口にする。そんな事があってはたまらないのだが――これは本当に、考えても無駄な事なのかも知れない。この不可解さは常識という概念の中にあっては解決出来るように思えなかった。
 常識、というものを捨て去らなければいけないのかもしれない。――そう――
「考えたってしょうがないよ。もう夜だし、おなかいっぱいだし」
 ――彼女のように。
 ウィルの先程の怒鳴り声など意識の片隅にもない様子で、ソフィアはにこにことしながらベッドを叩いていた。長く使っていなかったと見え、少々埃っぽいのだが、仕事柄野宿すらする事もある彼女にとってはさほどの悪環境ではないらしい。
「とりあえず、今日はさっさと寝ちゃってさ、明日ゆっくり考えよ?」
 言って、ソフィアはベッドから一枚毛布を剥がし、ウィルに差し出してくる。
 前述したが、部屋は一部屋しか貰っていないのだ。恋人か夫婦かと思われたのだろうが、この小さな民家には余剰の部屋は他にはないらしい事が第一の理由だ。
 丸まった毛布をじいっと見て、ウィルは不服そうに唇を尖らせて呟く。
「一緒のベッドで寝るんじゃないの?」
「冗談も休み休み言わないと色々残念な事が起こるかもしれないから気を付けてね?」
 ありえない程爽やかな微笑みでそんな事を言ってくるソフィアをウィルはしばらく恨めし気に睨み付けていたが、やがて、ひぅー、と細く長い溜息を吐き出す。
「脅された……」
「何を今更……ぢゃなくって、脅してなんかナイワヨ?」
「建前をあからさまに建前っぽくくっつけるよーな半端な気遣いいらんわーっ!!」
 静閑な漁村に今宵最大の嘆きの慟哭が響き渡る――
 ――今更といえば今更だけれど。どうせこんなまともではない状況に陥ってしまっているのだから、そんなどうでもいい所ばかりいつも通りにしなくたっていいじゃないか。
 若き青年が哀訴したそんなご都合がこの少女に通るはずもなく、僅かたりとも崩れない笑顔のまま、彼女は恐ろしく鋭い蹴撃をウィルにお見舞いしたりする。
 それはまさに苛烈な一撃ではあったのだが……まあ概ねいつも通りの事であり、何だかんだ言って、この時点まではまだ平和と言うべき状況ではあったのだ。
 本当の衝撃の展開は次の朝から始まる。

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