Crusade Other Story -In Wonderland-(1)

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 -In Wonderland-



 さあ、ゲームを始めようじゃないか。

「うるさいな……どっかの犯罪者みたいなせりふ吐いて……」

 …………犯罪者?

「犯罪者。……いなかったっけ、そんなこと言って連続殺人を始めた奴……あー、推理小説か何かだったっけ……よく覚えてないんだけど」

 まあいいけど。
 ともあれ、今からゲームを始めるよ。
 ルールは簡単。ただのかくれんぼだよ。キミはどこかにいるボクを見つけてくれさえすればいいんだ。
 ボクは隠れているけど、逃げはしないから。
 キミが来るのを、ここで待っているから。

「何……? 何だって……?」

 頑張って、早く見つけてね。
 早く見つけないと、たーいへんなことになっちゃうかもね?

「は? いや、あの」

 さあ、ゲームを始めよう。
 ボクはここで待っているよ。
 キミたちにまた会えるときを、楽しみに待っているよ……




「ちょっと……ていうかあんた誰」
 目を開けて――
 まず始めに視界に入ったのは、桃色がかった雲の浮かぶ青い空と、それを掴み取らんばかりに真っ直ぐに伸ばされた自分の腕だった。
「…………」
 見慣れた手をしげしげと――否、しげしげとと言うにはあまりにも気の抜けた感情で眺めて、ウィルはとりあえず、まばたきを一度した。あまり期待していたわけではないが、瞬間的な視界の断絶を経ても目に映る光景はさほど変わることなく、唯一少しずつ、風に吹かれた雲が腕との相対位置を変じていく。
 雲を淡い桃色に染めるのは穏やかな夕日の色で、空自体も青いと前述したが正確を期せばやや赤みがかった青から紫へのグラデーションであると表現出来る。夕暮れの優しい薄暗さは先程から感じている眠気ともあいまって、ウィルを惰眠の世界へとかなり強力にいざなってはいたが、彼は自分でも賞賛したくなる理性で意識を現実に繋ぎ止めた。
 遥か彼方に意識をすっ飛ばしている場合ではない。何はなくとも、まず考えなければならない事はすぐに思いつく。
 何で自分はこんな所に寝ていたのか、だ。
 どういう事か、今この場で目を覚ますより前の記憶が、彼の中にはなかった。と言っても別に記憶喪失になった、とかいうオチではない。ウィル・サードニクスという名前も十九という年齢ももう一年近い付き合いになる恋人の顔も何の問題もなく浮かび上がる。幼い頃兄に虐待された記憶もつい最近恋人に虐待された記憶も、曖昧な所はいつものように曖昧に、はっきりとした所は勘弁して下さいと謝り倒したくなるほどはっきりと思い起こす事が出来た。
 記憶に欠落はない。
 ……ないはずなのだが。
 ただ一つだけ。自分が何故今こんな所で眠っていたのかという、その経緯だけがどうしても思い出せなかった。体質的に酒には酔わないたちなのでよく分からないのだが、或いは前後不覚になるほど酩酊すればこんなことも起こり得るかもしれない。だが例えそうであったとしても、それほどまでアルコールを摂取する羽目になった経緯くらいは覚えているものだろう。それすらも全く記憶の片隅に引っかかる感さえありはしない。
「なん……?」
 一言だけ声を絞り出して、けれどもそれ以上言う言葉など何一つ思い浮かばず、ウィルは地面に何気なく手を付いた。と、外界との接点らしき接点を持った事でようやくその場の状況を確認しようと思うに至り、野外にしては存外寝心地の良かった寝床から、身体を起こす。
 起き上がって……彼は、再び絶句した。
 ウィルの目線の真ん前には――太陽があった。そして、水平線があった。二つを素直に掛け合わせて、水平線に沈み行く夕暮れの大きな太陽があった。その太陽から端を発する天頂のグラデーションは先に告げた通り。その空を受け止めんとするかのように、太陽の半円を映す雄大な海面が目の前には広がっていた。海面は薄暗い空よりも沈んだ色をしていて、向かい合う空の数分先の姿をせっかちに映している鏡の様にも思えた。ならば波間に漂う白波は夜空に浮かぶべき星々か。絶え間なく揺らめきながら、潮騒の音を老雄の栄誉を称える拍手のように響かせて、沈み行く太陽を見送っている。
 沈み行く陽と同じほどに穏やかに、白い砂浜に波が打ち寄せられる。
 ウィルが寝そべっていたのは、この砂浜だった。粒子の細かい、程よい温度に熱せられた乾いた砂は、安宿の固い寝具よりは余程健やかな眠りを与えてくれたようだった。
 ざざーん……ざざーん……
 寄せては返す波が、ささやかながらも粘り強く己の存在を主張する。
 安眠の理由はこの音にあったのかもしれない。延々と周期的に繰り返される潮騒は覚醒したつもりであっても容赦なく、ウィルの瞼を重くさせてきている。
 聞こえるのはただそれだけであったのがなお眠気を……
「あはは、私を捕まえてごらんなさい」
「まてまて、こいつぅ〜」
 ……眠気を誘う、等と心中で呟こうとした矢先、脳天をつんざくような浮かれた声にその眠気を持っていかれた。何の前振りもなく彼方から現れた二人の男女が、何やら非常に幸福そうに波打ち際を駆け抜けていく。
「…………」
 理解しがたい唐突さに、さすがに目が釘付けになる。
 ウィルの目の前を通り過ぎた二人の姿が豆粒になり、砂粒になるまで、彼は慎重にその姿を視線で追っていたが、黙視が不可能になった所で当該現象を脳内から削除する事に決定した。既に処理能力がフローしているというのにこれ以上余計な負荷をかけないで欲しい。普段考え事をする時は瞼を下ろしがちなのだが今日はあえて目を気合いを入れて見開き、思考を意識的に現在直面する問題へと向き合わせる。
 と、またもや彼の気を殺ぐ声が、今度は後ろからかかってきた。
「やだ、何怒ってんのよ」
 その声に、ウィルは慌てて後ろを振り返った。今更何に驚く事があろうという状況ではあったのだが、その声が誰よりも聞き覚えのある少女の声であったとすればさすがに驚愕を禁じ得ない。
 振り向いた先で、普段であれば声を聞いた所で別段特殊な反応をすべき相手ではない彼女は、小さく小首を傾げてウィルをきょとんとした眼差しで見下ろしていた。
「ソ、ソフィア?」
「そんな不思議そうに確認しなくたってあたしよ」
 おどおどとしてすらいたウィルの口振りにやや驚いたように、ソフィアは目を丸くして呟いた。腰に手を当てて座り込むウィルを見下ろす彼女は、何故かこんな海岸などにありながら、舞踏会場と勘違いしているのではないかというような丈の長い豪奢なドレスを僅かな乱れも無しに着込んでいた。いつも通りの亜麻色の絹糸のようなロングヘアの上には、ちょこんと小さなティアラまで乗っかっている。
「な……どうしたの、その格好は……」
「格好? ……そんなの、ウィルもじゃない」
 言われて、初めてウィルは自分の身体を見下ろした。見下ろして、反射的にうっと顔をしかめる。自分が着ていたのは、何やらえらく複雑な文様を金糸の刺繍であしらった白いロングコートだった。コートの中の衣服もまた、まさに一言で表現するなら豪華絢爛と言うべきものだった。やはりコートと同じような縫い取りの施された、刺繍以外はひたすら純白の上下である。
 何かの寸劇の舞台衣装のようだ。少なくとも、着用者は大分厳選しなければならない類の服装である。……となると、本来ならば選考会が開始される以前の書類審査なんぞで落選されて然るべき類の容姿である自分がこれを着用している姿は……
 脳裏に浮かんできた仮装大会とかいう文字の描かれた横断幕は隅の方に追いやる事にして、ウィルは自分よりは(当人の持ち得る容姿と比して)違和感の格段に少ないソフィアの方へと視線を戻した。
「何で君まで……」
 何で君までこんな所に。何で君までそんな格好をして。その二つを同時に声にするために共通する部分までで発言を止めておくと、ソフィアは愕然とした口調のウィルとは対照的に、ごく気楽な調子で、さあ、と首を傾げて見せた。髪が肩からさらりと滑り落ちるがティアラはしっかりと留めてあるらしく少しもずれなかった。
「わかんないわよ。気がついたらこんな格好してこんな所にいたの。何が何だか全然思い出せないし。困ったわね」
 あまり困っているようには聞こえない口調で彼女は呟く。彼女も自分と同じ状況であったことに、ウィルはほっと息をついた。状況は全く好転しないが自分の記憶だけが訳も分からず欠落しているというよりは何故だか安心できる。
 視線を、最初に見ていた水平線の方向へ移動する。真っ直ぐに見つめてもまぶしさを感じない赤い太陽は顔を出す面積を先程よりも随分と減らしていて、その代わりに広がってきたグラデーションの濃紺の部分に今にも飲み込まれてしまいそうに思えた。
 街明かりも見えないこんな場所で日没を迎えたら行動に支障が出るかもしれない――
「ねえ、よく分かんないけどさ、早めに移動した方がよくない?」
 丁度同じことを考えていたらしく、柳眉を寄せて告げてきたソフィアに、砂を払いながら立ち上がりつつウィルもそれと似た表情を作る。
「移動って言ってもな。ここがどこだかもよく分からんし……そもそもヴァレンディアか、ここ? 国内にこんな所あったかなぁ……」
 遮蔽物のない、見渡す限りの真っ白な砂浜。澄み渡った海。遠く遥かな海岸線に沈み行く太陽。これ以上なく、「絵に描いたような海の風景」であるが、風景画と思える程風光明媚な場所であれば、これがどこであるか特定できてもよさそうなものである。だが、ウィルがいくつか名勝と名高い海岸の風景と目の前の景色を照合してみても、しっくりと重なり合う場所はひとつとしてなかった。彼と同じように海を眺めるソフィアの横顔に視線をやると、彼女はウィルへと視線を転じて小さく首を振った。
「とりあえず歩きながら考えようよ。このままここで考えていてもしょうがなさそうだわ」
「そうだな」
 ソフィアの言葉に同意して、ウィルは二、三歩先を進み始めた彼女の後を追った。視界を陸側に広げてみるとなだらかな上りの斜面になっていて、少なくともここでじっとしているよりはそれを越えてみる方が価値がありそうに感じられた。これを越えた先も見渡す限りの砂浜だったりした日には笑うに笑えないが。
 さくさくと砂を踏みながら歩いて――
 不意に、目の前のソフィアの姿が掻き消えて、ウィルは思わず足を止めた。
「なッ……!?」
 悲鳴を上げかける――が、こちらのからくりはすぐに理解できた。
 彼女は消えたわけではなかった。ただ単にその場で転んだ為にそのように見えただけだった。日が落ちかけて周囲が見えにくくなってきているのと、常識を超越した現象に毒されていた為に、つい消えたと突拍子もない錯覚を起こしてしまったようだった。
「うー」
 柔らかい砂に完全に腹ばいになる状態で転倒したソフィアは、不満げに呻きながら腕で身体を突き上げた。彼女にしては珍しく随分と派手に転んだものである。膝辺りまでめくれ上がったスカートの中からはみ出している両足を見下ろすと、小さな足を包んでいるのはドレスと共布が張られたヒールの高い靴で、ああこれならば砂浜で足を取られても無理はないとウィルはじっとそれを眺めながら一人で頷いていた。
 そこに、何故か陰険な声が降りかかってくる。
「何見てるのよ」
 険悪なソフィアの呟きに、ウィルはまばたきをして、四つんばいのままこちらを振り返っていた彼女の顔に焦点を合わせた。
「何って、足」
「やらしいわね! 人の素足じっと見るなんて!」
「んな? ち、違うって! そういうんじゃなくてだな!?」
 普段の少女然とした声を精一杯低くした唸り声に、ウィルは思わず後ずさる。ソフィアがこんな声を出す時は要注意だ。警戒してふーっと喉を鳴らす猫のようなもので、いつ爪が飛んでくるか分からない。ゆっくりと起き上がりながらソフィアはハイヒールを両方とも脱いで、片方ずつ分けて手に持った。明らかに、砂浜を歩くには適さないから脱いだ、というよりは敵を掻っ捌く為の爪を用意した、という感じである。ヒールの部分は簡易的な武器になりえる程度には硬い。
 じりじりと間合いを詰めてくる彼女に大きく手を振って他意はなかったと必死にアピールするウィルだったが、彼女の顔色が残り僅かな夕日の所為ではない赤さに染まっているのに気がついて、説得の方策を変えた。
 これは……本気でウィルがいやらしいことを考えていたと思っているのではなく――多分、ただ転んだ恥ずかしさを怒ることでカバーしようとしているという顔だ。
「あーはいはい。悪かったよ、俺が悪かった」
 にやりとしそうになる頬を懸命に引き締めて告げたはずの言葉は、けれども当のソフィアには隠し切れない程度に笑みの気配を滲ませてしまっていたらしく、彼女はすうっと目を細めてハイヒールを握ったままの右手をゆっくりと持ち上げた。冗談では済まされない事態に一歩足を踏み入れてしまっていることに気がついたウィルは、表情から真剣にからかいの気配を消した。――もとい、命を懸けて消さざるをえなかった。
「すみませんすみません、お嬢様、お姫様! 俺が悪う御座いましたあなたに不埒な思いを抱いたこの償いは何なりと致しますのでこの下僕に何なりとお申し付け下さい!」
「犬」
 目を刃のように細めたままぽそりと彼女が呟いた謎の単語のその意味を、即座にウィルは解析して頭をたれる。
 本日の姫様は下僕より犬な気分らしい。
「犬とお呼び下さい」
「よし、犬。そのまま後ろを向きなさい」
 平伏するウィルの後頭部に浴びせかけられた声は普段のトーンを戻しつつあったが、彼は恐怖を拭い去ることは出来ずあからさまに肩をびくつかせた。
「後ろから頭蹴っ飛ばして斬首刑……?」
「それは蹴ればいいの斬ればいいの、どっちなの」
 むしろウィルとしては彼女の蹴りは斬首も出来るほどの切れ味だとかいうようなイメージによる発言だったのだがあえてそれは口にせず、彼は砂浜にかがみこみ頭を下げた体勢のまま黙って身体を百八十度反転させた。
 内心本気で恐々としつつ、続いて襲い掛かってくるはずの衝撃に身を硬くする。
 が、後背部から与えられた感触は思っていたよりも大分鈍い重量感だった。
「……?」
 肩越しに振り返ると、ソフィアの顔が間近にあって、一瞬ウィルはたじろいだ。しかしソフィアは特に気にすることなく、真顔で一言、告げてくる。
「おんぶ」
 命令はまた単語だったが、行動も共に示してくれている分先程よりは分かりやすいものだった。あー、と意味なく唸りつつ、どうこの場を切り抜けようかとウィルは考えたが――結局の所、逆らう手段などあるわけないという真理に辿り着く。
「……ちゃんと自分でしがみついてろよ、えーと、飼い主様」
 犬的な主への敬称は何だろうと少々考えてからの呼びかけに、機嫌を戻したらしい飼い主様は、犬の背中にぎゅうと小ぶりな胸を押し付けることで応えた。

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