なんで、姉さん、人が死んで浮いていて、騎士様、煙、妹、爆発音、誰もいなくて、苦しい、帰らなきゃ、走れない、怖い、けだもの……
順番も、何もかも、ぐしゃぐしゃに、言葉だけが頭の中で足踏みをしている。足踏みをしているだけだから考えなど全く前に進まなくてそもそも考え事をするというのは姉の役割で私は頭が良くなんてなかったからそれについて行くだけで姉のいない方角に逃げる事それこそが足踏みをしているのと大差ない無意味なことなのではないかとすら思うくらいで。
唐突に、後ろ髪をぐいと引っ張られて私の身体が後ろに傾ぐ。何だか酷くゆっくりと空が回転していく様が見えた。真上にあった空を真っ正面に見る形になった瞬間、まずいと思って背中を丸くすると、まず最初に打ちつけるはめになった背骨が折れるくらいに痛んだ。
その痛みと乱れた呼吸の為に私は目の前に火花が散るくらいに咳き込んだ。苦しい。目も開けられない。が、腕や足に群がる何かべたべたとしたもの――汗ばんだけだものの手だった――の感触に、私はどうにかこじ開けるようにして瞼を開いた。
目の前に覆い被さるようにして、けだものの血走った目が見える。
――おい、本当にやんのかよ、そんなんで。
その声は別のけだものが目の前のけだものにかけた声であったようだった。
――ああ、他のドブネズミどもがさっさと逃げやがった所為で何も旨い汁啜れなかったしなあ。
――街の方は突入部隊にまるまるかっさらわれちまったし。やってらんねえよ。この際何でもいい。
――そうそう、間に合わせ間に合わせ。
――ってもそんな小汚ねえ餓鬼でよくやんぜ、お前らも。
――あ、お前やんねえの? 餓鬼おもしれえよ。締まるし。
――呆れた好き者だぜ。ま、たまにはこんなんでもいいか。
――バーカ。お前も人の事言えてねえじゃねえか……
人を地べたに縛めながら、けだものどもは何気ない雑談の口調でそんな会話を交していた。声も耳障り極まりなかったが、更に不快だったのはその音に被って聞こえるがちゃがちゃとした金属音だった。鎧の止め具を外すその音に得体の知れない恐怖心を煽られ首を強く振ったが相手は誰もそれを意に介することなく、心ばかりとはいえ私が纏っていたぼろのシャツを一人が無理矢理に剥ぎ取った。破れた穴に袖を通しているような形だった衣服ともいえない衣服はなすがままに一息に毟り取られ、雑巾にすら出来ない繊維屑となり地に放られた。あまりの事に悲鳴を上げそうになったが口元を強く押さえつけられていた為出来ず、ただとにかく全裸であるという羞恥に身体を丸めようとしたが、それすらもけだものは許そうとはせず、私の両足を掴んで強引に押し開くようにしながら持ち上げて――
――その足が、唐突に手放されて地面に落ちた。
固い路地の表面に踵を強く打ち付けて、私は骨を突き抜ける痛みに一瞬涙ぐんだ。けれども、視界を閉ざしてはいけないという先程からの私自身が発する命令に無理矢理従って、瞼で目を擦り合わせてから、目の前の状況を見た。
そこには、つい何秒か前まであったけだものの顔はなかった。
但し、けだものの鎧の身体はそこに残されたままだった。
騎士のような立派な鎧をつけたけだものの身体だけがそこには在った。つい一瞬前まであった首は、鎖骨のあたりから上をごっそりとどこかに落してしまったような形の……
私くらいに……否、私以上に、無様な姿。
抉られるように消失した首から、広場の噴水のような勢いで真っ赤な血が吹き上がる。
けだもの――けだものであったモノの真下でその生暖かい血液を浴びながら、後ろに向かって倒れ行くそれに私が向けたのは。
多分、間違いなく、笑顔だった。
後二匹残っていたけだものどもは、半ば呆然とした表情で、倒れ行く仲間であった物の姿を見送っていた。その物体がどさりと重く、力なく地に背をつけたその音で、はっと我に返った様子を見せた。
私を取り囲むそのままの位置で立ち上がり、けだものどもは通路に仰向けになっている私の頭上に当たる方向を凝視した。立ち上がるのと一連の動作で無言で腰の剣を抜いている。すらりという鞘走りの音だけは、何故かこれまでの聞くに堪えない騒音と違って耳に心地よく感じられた。
――野郎、何をしやがった……!?
しかしけだものは、その爽やかな音の余韻をぶち壊すようにからからに掠れたそんな吠え声をがなり立てた。彼らの見つめる奥に(一応はそちらの方角の方が表通りには近いのだが、所詮路地裏に入り過ぎてどっちを向いても奥には違いない)、全てのけだものからの視線と拘束から解放された私はのろのろと起き上がりながら視線を向けた。その先は暗がりに慣れた私の目にもただの闇としか見えなかったが……
違う。
そこには、あった。闇ならぬものが。
闇ならぬものなれど、何よりも闇に近しい色に身を包む人影がその場に静かに佇立していた。
「……戦に猛る感情は理解出来ない訳ではないですが……だからと言って、そのような低劣な真似を許した覚えはありませんよ」
高くも低くもない、真綿のように穏やかで水流のように涼やかな、先程の鞘走りの音さえも凌駕する心地よさを覚える声音が、けだものどもにそう告げた。
ゆっくりと、ほんの数歩、人影がけだものと私の方に進み出る。けれどもそうしても、彼の纏う闇が薄らぐ事はなかった。その人物を影と見せるのは裏路地の暗がりではなかった。裏路地の濁った闇などいとも簡単に切り裂きそうな深い暗黒、夜そのものを織り上げたような装束がその姿を闇と感じさせていたのだった。
これといった攻撃のそぶりも見せぬまま僅かばかり接近した相手に威圧された自分に腹立たしさを感じたのだろうか。けだものは、吠えた。
何だと、とか、何者だ、とか言ったような台詞だったに思う。が、私はあまり真剣にけだもの風情の声などに耳を傾けてはいなかった。聴覚がおろそかになるほどに、私は目の前の異質な存在に見入っていたのだった。通路を塞ぐように展開した喚くけだものを前にして、闇に似た人物は嘆くように頭を左右に振った。
「と言っても、一兵卒と対面する機会などありませんからね。ご存じないのも無理はない。それを咎めるつもりはありませんけれども……ただこちらは、ちょっと看過出来ませんね」
その言葉に、けだものどもは不可解な表情をした。相手の発言の意味を測りかねているらしい。けれども、けだものの困惑など一顧だにする気はないらしく、彼は何事もないかのように再度こちらへ向けて歩を進めてきていた。ゆったりとした歩調に合わせた緩やかな言葉で、誰に語り掛けているものなのか――声を紡ぐ。
「分かってはいるんです。偶然に自分の目に留まった事象のみを阻止しようとした所でそれは単なる一握りで、悲劇のほんの一欠片に過ぎない事など。ただの個人的な自己満足に過ぎない事も……いえ、自己満足という事すらおこがましい。濯ぎきれぬ自らの罪垢に耐え切れず無駄な抗いを続けているだけだという事も」
剣を構えるけだものどもから何歩か置いた程度の位置で彼は歩みを止めた。頭上から足先までを闇の色のローブで全て覆い隠す中、ただ唯一大きなフードの下から覗く硬く引き締められた口元が白く透き通っていた。
けだものは、静かに佇む彼に対し、剣を突き出すようにして走り出した。ほんの数歩。走れば一瞬の距離をまさに飛び掛かるようにして埋め、肉薄した二つのけだものに、彼は黒色のローブをはためかせ、腕を軽く掲げる。そこから発せられた目の眩む白光は一瞬にして細い路地全体を嘗め尽くした。
――彼が腕を下ろした時には。
けだものは、どこにもいなくなっていた。
「…………」
小さな、気配のようなものが彼から漏れた。溜息だったかもしれない。
静寂を取り戻した路地の真ん中にへたり込んだまま、私は一言も発する事が出来ないまま彼の顔を見上げ続けていた。周囲の暗さと、深いフードの所為で彼の表情を見て取る事は出来なかったのだが――何故か、その奥に沈む瞳の深い輝きが、私には見えたような気がしていた。
が、しかし、数瞬の視線の交錯の果て、彼は私から顔を逸らした。その瞬間、私はどういう訳か、少なからず悲しみに似た感情を覚え、あ、と声を上げた。その声は、自分の耳にも泣き声のように響いた。私の声を聞いてか、一瞬、彼の肩がぴくりと反応を見せたが、敢えて振り切るようにしてそのまま路地の向こうに背を向けて去ろうとする。
待って……
からからになった喉から私は起き上がりながら精一杯、その言葉を紡いだ。砂埃と擦り傷だらけの足を一歩進めて、薄ら汚れて真っ黒な手を前に突き出す。突き出した手のひらの人差し指と中指の間あたりで彼のあの黒いローブを捕まえられそうに見えたのだが、それは錯覚だったようだった。実際、私の身長の何倍か位は離れた距離にいた彼は、私の汚い指先をその衣に触れさせる事はなく、結局再び後ろを振り返る事無しに、闇の中に解けて……消えた。