Crusade Other Story 裏路地に差す闇色の光(4)

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 先程剥ぎ取られ、地面に投げ捨てられた服を拾って溜息をつく。どうやって着よう。穴は既にもういくつも開いていて腕を通すのには事欠かなさそうではあったがそれは多分喜ぶべき事ではないと思われた。いかにしてよりましな着こなしをしようかと私はしばし試行錯誤したが考えるまでもなくそれは無駄な行為で、すぐに諦めて適当な位置に開いている二つの穴に腕を通した。袖か、破けた裾の一部か、丁度よい具合に細い紐状になった部分があったので、そこを帯にして身体に巻き付けると、皮肉にも以前よりも着心地が安定するようになった。以前は前身ごろがすぐはだけて、歩く際は手で押さえなければならなかったのだ。
 今逃げてきた道を、姉たちの待つ袋小路へと戻りながら私は、普段歩く時は足元からあまり離さない視線を珍しくも路地の奥の暗がりへと向けた。私の向かっている方向は、あのひとの消えた方向でもあった。
 と言っても私は彼を追いかけようとしていた訳ではなかった。追いかけたいと思わなかった訳ではないが――どれほど目を凝らしてももう視界内には人影は見当たらなかったし、いくら自分の庭という程にこの界隈に慣れた私でも、迷宮のように通路が入り組んでいる貧民街で、どこに行ったかとも知れぬ誰かを探し当てるというのは至難だった。それよりも、今はそんな所で油を売っている暇はないはずである……
 ――そうだった。
 ようやく、自分の、そして姉たちの危機がもう過ぎ去ったという訳ではない事を思い出して、私は歩調を速めた。あのひとは先のけだものを掃討してくれたが、他にもまだけだものは残っているかもしれなかった。もしあの鎧のけだものどもが街に火を放ち川を死体の海と化したものの一味であるのなら、もっと多くの仲間がいるはずであった。急ぎつつもなるべく周囲に意識を配る事を心がける。意識さえしていれば先程のような危険は回避出来るはずだった。気が急き過ぎていなければ、物陰に隠れながら生きてきた所為で人の気配というものに敏感な性質を持っている私ならば恐らくあちらが気付くよりも先に察知し逃げる事が出来る。
 急ぎ足で姉たちの待つ目立たない袋小路に辿り着いた私は、真っ先に奥に立っている妹の姿を見て安堵の吐息を洩らした。妹の元に駆け寄ると、妹は私の姿を確認してにっこりと笑顔を浮かべた。元気にしていたか、大人しく待っていたか、他に誰もここには訪れなかったかを確認すると、いずれの問いにも妹は首肯して答えたので、私はようやく人心地がついて妹にただいまと告げ抱きしめた。
 そしていつもの通り、奥の壁際で横になって休んでいる姉にも帰宅の挨拶をしようとそっと歩み寄った。これは、姉がこの日のように睡眠を取っていたとしても変えることのないいつもの日課だった。途中で声はかけずにそっと近づく。眠っている相手への配慮だが、どれだけ気を使っても大抵姉は私に気がついて瞼を持ち上げてくるのだった。けれどもこの時は、余程深く眠っているのだろうか、全く動きを見せる気配はなかった。
 今戻りました、と、私は囁きかける声で告げた。姉はやはり、目を覚まさなかった。起こすつもりがないからこそそうしたのであったが、私はそれを少し怪訝に思い、その隣に膝をついて、姉さん、と、姉の頬に何気なく手を触れた。
 ……途端。
 私は背中の真ん中を鞭で叩かれたかのような衝撃を受けて、即座にその手を離した。
 ――熱い――!
 思わず離した手を反対の手で握り締めながら、私は喉の奥で呻いた。姉の頬は荒野の熱砂のような温度だった。思わずよろめいた私の背が、背後に立ってこちらを覗き込んでいた妹に当たる。何も分かっていないらしい幼い妹が不思議そうに目をしばたくのが見えた。この時の私は、余程蒼白な顔をしていたのだろう。妹の顔の中の感情が事象に対し理解を得ていないだけのものから不安げなものへと変化する。
 妹が、何かを言おうとして唇を開きかけた。が、私はそれを遮るようにその場に立ち上がった。物言いたげな妹に、震えを無理矢理押し殺した穏やかな声でその場で待っているよう命じて、私は来た道を走って戻りはじめていた。
 熱い……熱い、熱い、熱い、熱い。
 肌の奥から焼け爛れてしまったかのように、その熱はずっと私の手に残っていた。その手を硬く握り込み爪を突き立てて、私は街に向かってひた走った。引き返した先に恐ろしい危険が待っているかもしれない事などこの時の私には考える余地も無かったし、関係すら無かった。誰か呼ばなければ。私を突き動かしていたのはただその一念だった。誰か呼ばなければ。呼ばなければ。
 ――誰を。
 荒い呼吸の間で思う私のまたその間からそううそぶく己の声が聞こえたが、私は足を止めなかった。誰が呼べるというのか。頼れる者など、誰一人いはしない。そんなことは、分かっているのだ。誰を呼ぶという。日々、私たちが黴の生えたパンを齧ってどうにか生き長らえるこの街で一体誰が助けてくれる。誰も助けてくれない。誰も救わない。救えない。誰かが助けてくれるというのならば私たちがこうして小さな身をたった三つ寄せ合って震えながら生きている現実などそもそもあるはずが無かった。ここにあるのは泥沼の生だけで未来などありはしない。誰も救われることのない。この貧民街はそういう場所だった。一日に一つはどこかで誰かが死んでいるようなそんな街。救いを求める事それ自体が、この街では誤っている。
 ――あのひと。
 無意識に、私は長身の黒影を思い浮かべていた。あのひと。あのひとは、この街の一部ではない。スラムの闇よりも尚暗く、研ぎ澄まされた清廉な闇。あれに縋ることは、それだけは、誤りには当てはまらないのではないか。
 あのひとの……一瞬にしてあのけだものを消滅せしめたその力はとてつもなく恐ろしいものだった。人々を焼き、建物を微塵に破壊する事も可能かもしれない。そう。焼け焦げた街の住民の死体。空に舞い登る黒煙。かの現実を作り出したのはけだものたちではなく、あの手であったかもしれない。
 けれども私は、けだものに感じた恐怖の念をこの真の暗黒に見出す事は出来ないでいた。否、力の恐ろしさならば、きっとあんなけだものなどとは比較にならないのであろうことは理解出来ていた。事実、無造作な腕の一振りだけで彼はあれらを消して見せたのだから。私は、けだものとはいえ、人の――そういえばあれは一応人だったのだ――死を目の当たりにしても、私は川で死体を発見した時のような恐怖を感じる事はなかった。もしかしたら最初のけだものが倒された瞬間のあの視界を埋め尽くした生ぬるい血の雨に、私の正常な感性は全て洗い流されてしまっていたのかもしれない。
 でも、それでよかった。そう私は思った。あれは私にとって恐怖の体験ではなく、祝福ですらあったのだ。血飛沫の向こうに仰いだ姿は、本で読んだ騎士様とは全く似ても似つかなかったが、私にとってはあの闇が輝く鎧に劣らぬ限りなく美しいものに見えて――唯一の光明と思わせた。
 錯覚でも幻でも構わない。私には、これしかなかった。かの人をこの街から今一度探し出し、助けを請う。この危険溢れる広い街からどこにいるかとも知れぬ唯ひとりを探し出すという非現実的なまでの困難は問題の解決に当たって何ら関係のない事だった。また、惨めな生活を送っていても姉は高潔で誇り高い人だから、他人に無理矢理縋り付くことを良しとは決して思わなかっただろう。誰よりも尊敬し、愛している姉に軽蔑されるのはとても怖かったが、そんなものは姉がいなくなってしまう恐怖に比べれば全くたいしたことではない。
 かの人が消えた路地を駆けて、私は市街の方へと一路向かった。
 黒煙の揺らめく街は、遠目に見てもただ事ではないことが起きているであろうことは明白で、そこに足を踏み入れるのは自殺行為であるようにも思えた。市街地を襲った謎の危機は既にその魔手を貧民街まで伸ばしているくらいだったから、街中にはそれ以上の恐怖が雲霞の如く跋扈しているに違いない。足を踏み入れたが最後、今度こそ私は人の形をした化け物に頭からぼりぼりと貪り食われてしまうかもしれない。けれども、その事に対する危機感とか恐怖感といったものは、私の胸には湧き起こらなかった。ただ、私の頭にあったのはあの絶対的な黒い闇の姿だけだった。
 転がるように道を走り続けた私はやがて見上げるような高い建物が立ち並ぶ街路に足を踏み入れた。街の中でも私が普段物乞いに行く、路地商人や冒険者や町工場で働く労働者が集まるダウンタウンではなく、いつもなら足を踏み入れようとも思わない、そもそも、私のような身形をしたものなど見つかればすぐに街の警備隊につまみ出されてしまうアップタウンに私は入り込んでいた。猥雑としたダウンタウンとは違い、白い壁や、形の揃った煉瓦が積み重ねられた家々が整然と、まるで威圧するかのように立ち並ぶ静かな町並みが、その地区の常の姿ではあったが、しかし、町全体を被う異変には例外はないようであった。火炎と油脂の焼けこげた匂いの襲来は、ここすらも免れる事は出来てはいなかった。中に火を放たれているのか、強固な石造りの建物の高い所にある窓からは、煙突のように黒い煙が吐き出され、折り倒された街路樹にも火が移り、生木が焼けて目にしみる煙を充満させている。そして街路には黒焦げの、あるいは生焼けの人の形をしたものがいくつも散らばっていた。
 苦悶にのたうつように背を丸まらせてうずくまる大きな炭を、私は見た。炭の腕の中に抱き留められる小さな炭も、私は見た。けれどもそれらは私の感情を揺さぶるには至らず、私は周囲に転がるそれらの間を抜けて、時にはそれを踏み越えて街路を進んだ。
 やがて、その街路は街一番の大通りと交差した。眩しさに瞼を半分下ろしながら首を巡らせると、たゆたう炎熱の向こう側にいくつかの人影が見て取れた。それは、先程遭遇したものに似たけだものだった。けだものたちは揃って何らかの行為を行っている様子だった。けだものたちは隠れもせずに近づいていく私に気づく事もなく、下品な笑声を上げながら数人で取り囲む輪の中央に興味を向け続けていた。その足の隙間に視線を通してその中の様子を見ると、その奥には何やら赤黒いものが転がっているのが見えた。
 その赤黒さは血液であるように見えたのだが、あと二歩程近づいて、そうではない事に気がついた。否、血液からなる赤さも多少は混じっているかもしれなかったが、けだものたちの固い靴で小突き回されていたのは、くすんだ赤毛の――妹と酷似した髪色の子供だった。
 それはよく見れば私の妹とは全くの別人であったのだが、私は妹がそのような暴行を受けている錯覚に陥り、忘れていた背筋の震えを思い出してその場に立ち竦んだ。その時になりようやく、けだもののうちの一人が私に気づいた。ずたぼろに蹴りまわされもはやぴくりともしない玩具に飽きたかのように、一人が気づくと全員が私の方を向いた。
 ――逃げなければ。
 本能的に、私はそう思った。逃げなければ、逃げなければ、私はここで今度こそ死んでしまう。このおぞましきけだものたちに全てを奪い尽くされて、身を切り裂かれて、臓腑を喰い散らかされて。己の命が尽きる事自体は何ということのない些事だ。私はそれにより成される恐ろしい結果の方に戦慄していた。私がここで死んでしまったら、姉を救う事が叶わなくなる。妹を護る事が叶わなくなる。
 その恐るべき想像に突き動かされて私は即座に踵を返したが、しかし走り出す事が出来なかった。前にいるのと同じ鎧のけだものは、後ろからも迫りつつあったのだった。
 単純に鎧の重みでか、追い詰める者の余裕でか酷く緩慢な動作で迫り来るけだものの集団は、亡者の群れを思わせた。全身から腐臭を発する忌まわしき化物。そこらに転がるぼろくずのような死体の数々よりも遥かに穢れた呪われし魔物。それらに行く手を前も後ろも塞がれた私に逃げるすべは残されていなかった。
 ――たすけて――
 噛み締めた奥歯の向こうで呟いた自分に気づいたそのときだった。私のこの恐怖と絶望で埋め尽くされた脳裏に、ひとつの考えが雷鳴の如く閃いた。私はあたかも私は頭上から己が事態を俯瞰するように、他人事のようにそれに気がついた。
 これは危機ではない。好機なのだということに気がついたのだ。

 私はその場に立ち尽くし、前後から迫るけだものが私の至近にまで近づくのを待った。ぞろりぞろりと近づいてきたけだものどもの群れは、私が恐怖で足を竦ませ逃げることも出来ない哀れな子供と思ったに違いない。事実数瞬前にはそのような状態であったし、考えに思い至ってから挙動を変えたわけではないので、私の考えの変遷にけだものどもが気づかなかった所で何ら不思議はない。ともあれそうして私の周りを取り囲んだけだものどもは一様に嗜虐的な笑みを見せた。
 けだものどもは、先程遭遇したけだものと同様の目で私を見て互いに何かを喋りあい笑いあっている。周囲全ての一挙一動を把握する気力で意識を巡らせていた為それらがそうしていること自体は分かったが、しかし私の耳にその声は入ってこなかった。聴覚より視覚。私はそちらに全意識を払っていた。
けだもののうちの一人が、顔を仲間の方へ向け、私からわずかの間、完全に意識を外す。
 その瞬間、私はそのけだものに飛び掛っていた。目指すは、それが腰に下げている剣。
 けだものからしてみれば、私のような痩せた子供の突進など、羽虫が一匹たかってきたかの如きであったことだろう。手で軽く振り払われればまさに虫けらのように叩き落とされることもまた必定であった。しかし私はけだものが私の接近に気づきそのような行動に出るよりも先に目指す剣を掠め取ることに成功していた。鞘からずらりと引き抜いた生まれて初めて握った剣の重みは私が初めて体感するものであった筈だったが、しかし私はその事実に何かしらの感情を覚えることもなく、手に馴染んだ玩具の様に易々と上へと振り上げていた。そして続けて刃と柄を通して私の手に伝わってきた、ずぐりという感触もまた慣れ親しんだものであるかのように、私に何の感慨も抱かせはしなかった。
 絶叫。
 この時に至って漸く私の耳に音声が戻ってきた。目の前のけだものが耳障りな大声を喚きたてながら左耳を抑えて地に膝をつき蹲っていた。耳を押さえる手指の間からどくどくと流れ出でている鮮血が、周囲を燃やす炎に赤々と照らされている。私はけだものの分際で色だけは一人前に赤いそれを目を細めて睥睨し、尚も騒音を上げ続ける喧しい喉をかき切らんと無言のままに再度それへと剣を振り上げた。
 そのまま振り下ろす。
 ――ことは、出来なかった。
 私を止めたのはけだものの一味ではなく、華奢であれども力強い、漆黒の衣に包まれた腕だった。安寧の闇が背後から強くではあるが苦痛を伴わせない力で私を抱き止め、縛めていた。
「何……を」
 背後から耳元に囁かれた声には、深甚なる闇の湖に狼狽と安堵の細波が立てられていた。けだものを斬り捨てても何ら罪悪感を感じなかった私の心の内にしかしそのことに対しては申し訳なさが芽生えたが、私は謝罪の意を表明するよりも先に己の目的を告げた。
 もういちど、会う為に、と。
 ――私の掴んだ好機とはこの瞬間だったのだ。
 私があのまま街を彷徨いけだものたちの群れに襲われ喰らわれても、このひとは二度は助けてはくれなかっただろう。私はそのように思っていた。私が二度も救ってもらえるのならば、街に転がる人の形をした炭たちは、炭になることなく救ってもらえたに違いない。一度降ってきた幸運が二度も己が身に降りかかるなどという奇跡は、私にとってとてもではないが想像の範疇にある事象ではなかった。
 しかし――喰われるのではなく、私が喰わんとしているのならば?
 私はまだ罰を与えられていないから、一度は罰を与えに来てくれるのではないか。私を先のけだものと同様に圧倒的な力で殺す為に現れてくれるのではないか。殺されるというのは、私にとっては救われるということもずっと容易く想像出来る未来だった。
 今思えばそれは全く以って根拠のない考えでしかなく、そのように思い至ったこと自体が不可思議で仕方がない程ではあるが、その時の私は心からその可能性を信じていたのだった。
 姉さんを、たすけて。
 私は彼のひとに小さくそう告げた。私のすべきことはひとつだった。殺される前に何としても姉の救助を嘆願しそれを成さねばならない。いかなる手段を以ってしても。無理であろうとも不可能であろうとも。しかしそのような困難にして重大な任務に今まさに当たろうとしている重要な場面であったのに、私はそんなか細い掠れた声を出すのが精一杯でそれを非常にもどかしく思った。このような言葉では、私が何を求めているのかなど全く伝わらないだろう。残された私の時間の中で懇願でも哀願でも一言でも多く言葉を発しなければいけないというのに気ばかりが急いて上手く言葉に表せない。
 しかし彼のひとは私の内心の焦燥とは真逆の、酷く静かな、或いは疲れたような声で囁いた。
「人を救えと言うのですか、この私に」
 その当時の私にはその言葉の意味する所を理解することは出来なかった。唯一私に分かったのは、私を抱きしめる彼のひとの腕の力が緩んでいくことだけで、私は咄嗟に離れ行かんとする黒衣の袖を握り締めた。
 しかし彼のひとは私の手を振り払うことはしないながらも言葉によって私を端的に拒絶した。
「無理です。私に、誰かを救うことなんて、出来るわけがない」
 その声は私に、母や姉の言葉のように抗い難いものを感じさせたが、しかし私は頑としてローブを放そうとはしなかった。
 たすけて。見捨てないで。姉さんを、救って。
 無理だなんて言わないで。
 無理だと思える事は、私の狭い世界の中にさえ溢れているくらいだけれど。けれどもそれは限りなく無理なようものに見えるだけで無理であることは確定などしていない。大人に取られた最後の食べ物を奪い返す事とか、野犬を追い払う事とか、無理なように思えるけれど、もしかしたら何かの間違いで食べ物を掠め取れるかもしれないし野犬が当たった小石に驚いて逃げていくかもしれない。無理な事が本当に無理だったと分かるのは取られた食べ物が相手の胃袋の中に落ちて私たちが飢える時で追い払えなかった野犬に私たちが食われる時で姉が死んでしまう時だ。
 だけど――
 姉さんは、まだ生きている――!!
 私はローブの袖に食い込ませた指が真っ白になるほどに力を込めた。長く伸びた垢の詰まった爪がきしむ。絶対に離さない。殴られようとも蹴られようとも腕を切り落とされようとも私の命が尽きる最期の瞬間までこの手は離さない。私は歯を食いしばって背後の姿に向き直った。高い位置にある、フードに隠された彼のひとの目を真っ直ぐに見上げる。深く美しく輝く海色の瞳。その中に、白波のような揺らぎが見えた。
 周囲のけだものどもがこのときどうなっていたかというのは、今考えても一向に思い出せない。私と彼のひとが会話をしている間に何らかの横槍を入れてきたという記憶がないので、状況的に考えると彼のひとが現れるのと同時に始末していたというのが妥当だったように考えられるが、単に連中が起こしていた何らかの行動に私が気づいていなかっただけかもしれないとすら思える。あのときの私は背後から剣で心臓を貫かれていたとしてもそれにすら気づかず彼のひとの目を見続けていたに違いない。
 彼のひとは、私の目をしばしの間じっと見つめ返してからその瞳を閉じて、ゆっくりと息を吐いた。
「私が手を差し伸べることは、あなたとあなたの大切な人に更なる悲しみと苦痛を齎すでしょう。それでも構いませんか?」
 しんと冷えた、闇夜のような声。嘘偽りの感じられない酷く純粋な色をした、全てを塗りつぶし覆い隠すその果て無き闇は、しかし見えざる恐怖を齎すものでは決してなく――先が見えないからこその希望を抱かせる、――闇色の光。
 私が信じたのはこの方の神がかった力ではなく、恐らくは、この声、なのだ。
 預言者の如き黒衣の姿から告げられた言葉は怖気の走る不吉な真実味に満ちていたが、しかし私には一縷の躊躇もなかった。
 この方は、騎士様なのだから。
 例え彼の正体が悪魔であったとしても、私にとっては私の求める道をくれるこのひとこそが、私の騎士様。示される道が私の望みの――姉と妹と共に生きるというその望みと同じ方角を向いているならば、例えそれが闇の淵に続く茨の道であろうとも、私は裸足でその上を歩いて見せる。

 私は、差し伸べられた手にそっと手を乗せた。



- FIN -

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