Crusade Other Story 裏路地に差す闇色の光(2)

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 その日はとても暑い日だった。前の晩から酷く蒸し暑く身体がだるかったのだが、朝になって日が昇るとそれは更にきつくなってきた。日陰にいても容赦のない、刺すような、そして纏わりつくような酷暑。私たちが一週間ほど居着いている、三方を高い建物に囲まれた路地の行き止まりにも熱が渦巻いていた。
 喉が乾く。口の中を湿らそうと思って、水瓶に使っている茶色い硝子の瓶を持ち上げたのだが、中には一滴も水は入っていなかった。諦めて瓶を置く。その時、隣に座っていた妹が私の服をつんつんと引っ張って、喉が渇いたと訴えてきた。少し困って、私は姉の方を見た。姉は目を閉じて、通路の一番奥で横になっていた。どきりとして、私は慌てて立ち上がって、姉の口元に手を翳した。息をしていることを確認して、ほっと胸を撫で下ろす。今日のように気温が高すぎたり低すぎたりする日は、姉の体調は極端に悪くなる。妹に、姉と一緒に留守番をしていられるかどうか尋ねると、妹は小さく頷いたので私は硝子瓶を持って通路から抜け出した。
 日が照っている場所は、当たり前のことだったが更に過酷な暑さだった。そのせいなのだろうか、普段ならば人で溢れているはずの通りには、人の姿は一つも見られなかった。本来ならば決してあるわけのない事だったのだが、水を汲んでこなくてはと一心に考えながら歩んでいた私が、その時街に起きていた異常に気付くことは出来なかった。
 気付いたのは、市内を流れる川に辿り着いたときだった。貧民街の民が生活用水に利用している川の水は、見た目はとても濁っていて飲めたものではなさそうに思えた。下水こそ流されていないものの、家を持ち井戸を使える市民は決してここで飲料水を汲もうなどとは考えないような川だが、それでも上澄みだけ丁寧にすくえば飲めない水ではないという事を、私は路上での生活を始めてから一番最初に覚えた。
 いつものように、石橋のすぐ傍にある石段から川のほとりに降りた時、私はようやくそれに気付いた。まず、最初におかしいと思ったのは、においだった。熱せられた川が放つ腐臭に近いにおいは嗅ぎ慣れていたのだが、この日のにおいの中に、嗅ぎ慣れない別のものが混じっていた。川の中まで続いている石段の、水に浸らない最後の段に立ちながら、私は眉間に皺を寄せて川を見渡した。普段日の強い昼間には出歩かないから、視界がよく利かない。それでも、いつも何かしらごみの浮いている川に、今日は異常な程に大きなごみが多い事に気がついた。
 目を凝らしてよく見ると――それが何であるかようやく分かって、私は悲鳴を上げた。
 それは、人間だった。人間が川の中に落ちていた。川面に顔を半ばほど浸してももがく事もせずに、男の人や女の人や老人や子供が川をゆっくりと流れていた。見れば、真っ黒で一目では人間だとは分からないものも多かった。私の身体のように垢で真っ黒になっている訳ではなく、焼け焦げて炭になっているのだ。慌てて石段を駆け上がって、川の上流――市内の中心部の方に目をやると、嫌味なほどに蒼い空に、幾筋もの黒煙が上がっていることに気付いた。
 中心街の、住宅や店舗等の建物が密集している辺りから火の手が上がっているようだった。火事、なのであろうが、あれはおかしいのではないだろうかと私はぼうっとしながら考えた。一体どういった事があると一度にあれほどの火事が発生するのだろう。川を流れている炭と化した死体と何か関係があるのだろうか……
 はたと、背後を振り返った。特に、何か気付く事があったという訳ではなく、振り返った先に見えたのも、誰もいない、静寂の市道が川に沿って伸びている様子のみだった。
 誰もいない。取り残されたかのような。閉じ込められたかのような。白昼夢のような光景。
 肝が冷えた。私は、転がるようにして来た道を戻った。怖い。ようやくその当然の感覚が言葉となって脳裏に描き出された。その瞬間、私の背後――少々遠くから、どおんと港の巨大な積荷が崩れ落ちるかのような鈍くも激しい音が聞こえ、思わず振り返った私はゆらゆらと空へと伸びはじめる黒煙を目にした。よく確認した訳ではなかったが、今度増えた黒煙は、市街の外れの方――この貧民街の中から発生したように見えた。
 こっちに来る――?
 迫り来る何かを感じた訳ではなかったが、私はそう直感した。何か、何か分からないが、恐ろしい物がこちらへ来る。周囲に誰もいないのは『あれ』が市街地を襲っている間にみんな逃げ出してしまったからで――そうだ。そう考えれば説明がつく。奥まった場所に朦朧としつつ篭っていた私たちは気がつかなかったが、あれは相当な騒ぎになっていなければおかしい。
 逃げなきゃ……
 私は、黒煙たなびく街に背を向け元来た道を戻り始めた。枯れ木のように細くなっていた足を必死に動かして、久方ぶりに全力で走る。方角を定めたのは全くの無意識下の行動だったが、『あれ』から遠ざかろうという意志が働いた、というよりは、その方向しか逃げる場所を知らなかったからであったからだとは思う。
 姉と、妹のいる裏路地。
 無論その我が家ともいうべき場所に無事に辿り着けたとしても、体調の優れぬ姉と幼い妹を連れて更に逃げる事など出来ようはずもなかった。そんなことは私にも分かっていた。逃げ切れない。逃げる場所などない。動く事など出来ない。どこにも。どこにも。どこにも。――明確に言語化していたわけでは無かったが常に心中に巣食っている漠然とした不安とぬらぬらと混ざり合って腹の奥を鈍く殴り付けてきていた。けれども逃げる場所などない私にも、帰る場所はあった。家などなくとも、姉と妹のいるそこが私の唯一の終着点だったのだから。
 強い日差しに熱く焼けた石畳の上で裸足の足を急がせて、ようやく見慣れた一区画に爪先を入り込ませた。あとはあの路地を抜けて角を二つ曲がれば二人の元へ戻れる。固く強張っていた自分の口元に、私はようやく、引き攣った物であったとはいえ笑みを作る事が出来た。
 もうすこし。路地に入って息を吐く。ひい、という悲鳴のような細い音が喉から漏れた。元々は身体を動かす事は嫌いではなかったのだが、ここしばらくは体力の浪費を避けて激しい運動など全くして来なかったのでたった数分走っただけでももう頭はぐらぐらとしていて視界は真っ白に近かった。それでも、あとすこし。そう考えて、とにかく前へ前へと意識を送る。この次の角、あれを。
 曲がるよりも先に、目印以上に意識に止めていなかった手前の角から、ぬっと大きな人影が現れた。私は野犬に出くわしたかのように声を上げず驚いて、即座に足を止めた。相手も予測しない出会いに多少驚きを感じたらしく、軽く眉を上げていた。
 それは見知らぬ大人の男だった。やせっぽちの私など首根っこを掴まれて軽々と放り投げられそうな大柄な男が――十字路の角から次々と三人。ここ貧民街では見知らぬ人間はとりあえず敵だった。皆生きる事に必死なので自分の生活を脅かすものという確証はなくともその恐れがありさえすれば排除に躊躇はしない。ふとした隙に自分が獲得するはずだった残飯などを掠め取られる恐れがある以上、大人であっても私たちのような子供を十分に邪魔な存在と見て取るものだ。
 だがしかし、目の前の男たちは――
 揃って、鉄を沢山使って作った立派な鎧を身につけていた。それは、こんな場所で目にするはずのない格好だった。鎧を着た人間というくらいならば、よくごみをあさりに行く裏町のバーに冒険者らしき人たちがたむろしているので見たことはあるが、そういうのとは何か違うように感じられた。目の前の男たちは皆でお揃いの、錆びも浮いていなく革で見える場所を不器用に括り合わせてもいない綺麗な――こびりつく血の斑点すら薔薇の花弁を模した模様のように綺麗な――磨かれた鎧を着ていた。
 ……騎士様……?
 ふと、私の頭に一冊の本の存在が過ぎった。姉の蔵書の中の一冊で私の大のお気に入りだった本。大の、と言っても私はろくに字も読めなかったので、他に気に入りがあった訳ではなかったのだが。読めないくせにたまたま姉が机の上に置いていたのを手に取って、その中に載っていた美しい森の木々と美しい城、美しい姫と美しい騎士の挿画に目を奪われたのだった。興奮して姉にその内容を聞くと、継母の策略で森に捨てられた一国の姫が妖精たちの助力を得て生活し、姫の生存を知り刺客を差し向けられるも偶然通りがかった騎士に命を救われ、最後はその騎士と結ばれて幸せになるという内容の物語であった。挿画と同様に、なんと美しい話だろう。姉は何とも御都合主義的で安直な子供しか騙せぬつまらない物語と鼻で笑ったが、私は、普段なら無条件で納得すべき姉の言葉ながらもそれだけには全く意識もかけなかった。その日から、ただただ暇さえあればその本を開き挿画を眺め、悪し様に言う割には一緒に本を眺めてくれる姉にぽつぽつと文章の意味を教えてもらい、唯一通読出来るようになった本だった。
 その本は、家財を処分する折に、一緒に売ってしまったが――姉は手元に置いても良いと言ってくれたのだが、私だけが自分の愛書を抱えている訳にも行かなかったので――、この時目の前に現れた男の鎧は、まさに挿画にあった通りの、また私がそこから想起したような見事な作りのものであったのだった。
 騎士様。騎士様なら。助けてくれるに違いない。私は姫などではないけれど、それでも心優しき騎士様が、困っている者を捨て置くなどするはずがない。
 縋るように私はそう考えたのだが、けれども私の足は意に反し、その騎士様たちの方へ向かおうとは決してしなかった。走り続けた疲労もあってかがくがくと膝が笑い、足の裏を地面から放す事が出来なかった。
 そんな私を、三人の騎士様は指差しながら眺めて、互いに顔を見合わせ笑った。
 その瞬間、私の足はようやく、たった少しだけであったが硬直から解き放たれ、ほんの一歩、右足を後ろに下げる事が出来た。
 その顔は。みすぼらしい私の姿を笑った顔ではなかった。そのような嘲笑を受ける事は、慣れているとは言いたくはないがいつものことではあった。けれども騎士様――男たちが私に向けたのは、そんな顔ですらなく――
 獰猛な、獲物に食らいつく肉食獣の顔。
 けだもの。
 かつて――母を襲い貪り食っていた、あのけだものの恐ろしい顔。
 私は、恐怖のあまり姉たちの待つ路地にすらためらいなく背を向けて走り出した。
 後ろから、吠え声のような笑い声が追いかけてきていた。

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