裏路地に差す闇色の光
高い塀と腐臭漂うごみに囲まれた袋小路で見上げる空は目を突き刺すほどに青くて、それは決して手を触れられるものではないのだと傷口にじわじわとしみる水のように実感していた。
空を彩る光もあんなにも豊かではあったが日陰に潜む私たちにとっては忌避すべきものですらあって、もう少し余剰の活力さえあったのならばきっと陽光の下にまどろむ全てを恨んでいたに違いない。
けれども私たちはとても疲れていたのでそのような無為な活動に労力を注ぐ事はなく、ただただ三人肩を寄せ合って壁に背中をつけて頭の上を仰ぎ見ているばかりだった。
変わらない終わらない日常。
光届かぬ袋小路で。
けれども私はその日、
光を、見た。
母は死に、住むべき家もなく、裏路地の袋小路や今にも倒れてきそうな建物の軒下を病んだ姉と幼い妹との三人で転々としていた。食事は、一日の間にひとつ、虫のわいた固パンでも口に出来ればいい方で、大抵は夜が明けてから日が暮れるまで日の当たらない壁際に姉妹で寄り添って過ごしていた。私たちの住んでいた街の昼の日差しは強くて、あの太陽の下で動く気力は私にはなかったし、何よりも、あの光の下に自分のみすぼらしい姿を晒すのがたまらなく苦痛だった。
その頃の私が持っていた服は、ごみ捨て場で見つけた片方の袖が取れた男性物のシャツ一枚で、他には下着すら持っておらず、一月以上ずっと着続けていた服は変な匂いを放つようになっていた。多分これは街の誰かが捨てていったものを私たちのような浮浪者が拾って、そこでもまた着るに耐えなくなって捨てて行った物であったのだと思う。弱い子供は、私たちのような乞食すら見向きもしなくなったものにしかありつけない。世界中の誰からも見放された私たちは、世界中の誰からも見放されたものしか手に入れる事ができないというのはきっと真理なのだろう。
垢で真っ黒な身体に着るというよりも何とか巻きつけたという感じで身につけた腐った色のぼろ布でも私にとっては全裸でいるよりはずっとましだったのだが、それはまだましだったというだけで、とても惨めで恥ずかしいものには違いなかった。
太陽が落ちて街にあまり人気がなくなってきた頃に、私はその日のねぐらを一人で這い出して、食べ物を探しに出た。病に倒れた姉はもう立って歩くことも出来なくなっていたが意識がないわけでもなく、妹を見ていてもらうことくらいは出来た。そんな姉に妹を頼んで、街の、光が見える方に歩いていきながら、私はもし姉さんが妹を見ていることも出来なくなったらどうしよう、などと考えたりした。
妹も、一人で留守番が出来ないほど小さな子供ではなかったのだが、一日に一人は誰かが道端で血を流して死んでいるのを見かけるような貧民街で、一晩中一人で待たせておくのは少し危険であろうと思えた。もっとも、姉も身動きが取れないのだからいざ何か起こったら同じことではあったのだけど、私にとって姉は、母がいなくなって以降何よりも強い支えだったので、何とかしてもらえるんじゃないだろうかという錯覚を持っていたのだった。
けれど――
ふらふらと、街をさまよいながら、思った。
そんな姉が、立つことも出来なくなった姉が、今度は身体を起こすことも出来なくなったらどうしよう。身体を起こすことも出来なくなった姉が、声を出すことも出来なくなったらどうしよう。声を出すことも出来なくなった姉が、目を開けることすら出来なくなったらどうしよう……
そんなことを考えていると胃の辺りが気持ち悪くなってきて、道路の隅っこで嘔吐する羽目になった。吐き出せる食べ物なんてお腹には何も入っていないから、出てくるのは喉を焼く胃液だけで、もっと苦しくなった。あたりは暗くて誰もいなくて、でもこんな時間に誰かいるとしたら誰もいないよりももっと怖いことになるような相手のはずで、誰の気配もないことに安心しながらとても恐ろしくなった私は、あんまり難しいことは考えないようにした。
母が生きていた一年位前は貧しかったけれどここまで苦しい生活もしていなかった。屋根のある家にみんなで住んでいられたし、仕事のある母の代わりに私がみんなの分の食事を作っていた台所には腐っていない食材も一応はあった。母が死んでから一月ばかりは、家にあった家財や姉が買い集めていた本を売ったりして暮らしていけたのだけれど、次の月の家賃を払おうとしたらもう、その分のお金を作るだけのものは何もなくなっていたことに気がついた。
それからしばらくは、姉が稼いだお金で何とか生活していた。文字の読み書きが出来る姉は以前からたまに手紙の代筆などの仕事をしていて、家を出てからはその仕事を請ける量を増やしていたようだったのだけれど、それはそんなに需要のある仕事ではないらしく、三人が食べていくには全く足りなかった。
私は姉とは違って何のとりえがあるわけでもないので働こうにも働けず、街に溢れている似たような境遇の子供たちと同じように、路上で物乞いをした。
私たちの住む路地には妹よりも小さな子供がたくさんいた。私はいけないと思いながらも、自分が貰ったパンを、半分は妹に、もう半分は知らない子供に分け与えてしまったことがあった。自分の分はいいとして、姉の分までなくなってしまったのはとても困ることだった。どう謝ろうかと悩んで、中々ねぐらに帰れなかった私を、まだ歩けた頃の姉は、珍しく路地まで迎えに来てくれた。物乞いに出たはずの私が何も食べ物を持っていなかったことに姉は気付いたが、特に何も言うことなく、手を繋いで一緒に帰ってくれた。
私にも、お金を稼げるはずの方法があることには、私も気付いていた。私には、最後の財産があった。自分の身体だった。
女の身体は売り物になるということを、私は知っていた。なぜならそれは、私の母の商売道具であったものだったからだ。母はどこか、街の明るい方にある店で働いていたようだったのだが、ごく稀に、男の人が私たちの家まで来ることがあった。だから、身体を売るということがどのようなことなのか、どのようにすればよいのかというのは分かっていた。
そうすれば前みたいに、雨の入ってこない家で眠ることが出来る。砂まみれでないパンを食べることが出来る。姉さんを医者に診せる事だって出来るかもしれない。
それはとても魅力的な考えだった。当時の私は身体を売ることに嫌悪感はなかった。ただ少し、恐怖はあった。私にこの知識があったのも、その様を見たことがあったからだった。けだもののような男の人に、母が貪り食われているその様を、私は見たことがあった。母はけだものの下で苦しそうな顔をしていて、ドアの隙間から覗いていた私に気がつくと、ほんの一瞬だけ悲しそうな顔をした。
だから、少し怖かった。きっとそれはとても痛くて悲しいことなのだ。痛くて悲しいことは怖い。けれどまさか、今よりも痛くて悲しいということはないだろうと、私は思った。だからそれは素敵な考えだったのだ。
それをいざ実行しようとしたときに、私はふと気がついた。身体を売るという行為自体は知っていたけれど、ではどうやって売りに行けばよいのかということを、私は知らなかった。どこかに市場が出ているのだろうか。その辺の道端で、物乞いをする時のように人に駆け寄って売りつければ良いものなのだろうか。それを聞くために姉にこの考えを話したら、パンをよその子供にあげても怒らなかった姉はこれを聞いた途端激しく怒り出し、私の頭をげんこつで殴った。
どうして怒られたのだかその時私は全く分からなかったのだが、姉がそうも怒るのだから止めておくべきことなのだろうと考えて渋々諦めた。