Crusade Other Story いずれ闇夜を超えて

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 20

 泥沼の触手。
 目の前で揺らめいているのは、夢の中でしつこく彼を引きずり込もうとしていた、憎たらしい冷たい泥の腕だった。多分、そうなのだろうと思う――丁度明かりが逆光になっていて、肝心の敵の姿は確認出来なかった。
 夢の中だけでは飽き足らず、現実にも現れたか。
 ウィルは目の前の空間をなぎ払うように腕を動かした。指先の炎が、敵と自分とを隔てる空間に振り撒かれる。
「小さきものよ、我が道を拓く灯火となれ」
 意識はどこか頼りなかったが、魔術の行使には何ら支障はなかった。目を閉じればいくらでも浮かぶ単純な魔術の術式を、適当に拾い上げて、解き放つ。
 広がる。言葉にすればひどく漠然としたそんな実感を伴って具現化した炎の舌が、崩れ去りつつある廊下を貪欲に舐めた。
 ――ふと意識の中にほんの小さな影が差す。今作り上げたのは、小さな火炎の弾丸をいくつか打ち付けるもののはずだった。思い描いていた効果と実際に発現した魔術が全く違っていたことは、してはいけないことを意図せずしてしまった時のような気持ちの悪さを彼に与えた。が、それよりも、強大な魔術を押さえ込むことなく放つ快感の方が勝った。転倒の危険性も顧みず、全力で急な坂道を駆け下りる――そんな無謀に似た恍惚。今一度、彼は力を振るう。
「消えてしまえっ!」
 自分が弾き飛ばされる程の衝撃が、敵に向けて伸ばした腕を突き破る錯覚を持って開放される。拡散した波紋が半ば以上瓦礫と化した壁面を叩き、更に崩壊を進行させる。
「馬鹿野郎ッ!!」
 岩を砕く音とそんな怒声が、こだまとなって返ってきた。耳に入っただけで、意識には入ってはいなかったが、声は、なおも続く。
「いい加減にしやがれよ! いくらなんでもガキのおいたじゃ済まねえぜ!? 鬱憤を晴らしたいなら中で暴れるんでなく外から壊せ、外から!」
「壊さないで……欲しいのだが……」
「煩いっ!」
 質の違う二つの雑音に、我慢ならず術を打ち付ける。二つの音は音程は違えども揃って悲鳴のような高音に跳ね上がり、ウィルを余計苛立たせる結果になった。
 煩い。煩い。全てが煩い。
 何もかも。埋め尽くすように光弾の嵐を放つ。
「のやろ、気持ちいいくらい遠慮なくやりやがって……っ」
 爆音と地鳴りのような重い音が響く中、再度返ってきた声は僅かに掠れていた。敵にダメージを与えた手ごたえに愉悦を感じて口角を吊り上げる。
 消せる。
 あの、闇の沼を、消せる。
 そうだ。どうして気付かなかったのだろう。逃れられないなら、壊せばいい。滅ぼせばいい。飲み込まれた自分もろとも、無へと帰せばいい。
 全て。何もかもを、すべて。この世界ごと全て。自分ごと全て。
 そうすれば――
「そうすればっ……僕は苦しむ事なんてなかった!」
 夜さえなければ闇に脅える事もなく――
 自分さえいなければ恐怖という感情を持つ事すらなく。
 そして、彼女さえいなければ。
「ねえ、エルフィーナ! 君だって恨んでいるだろう!? いつまでたっても君を見つけられない僕ならいない方がましだろう!? 僕だってそうだ! 最初から君なんかこの世界に存在しなければよかったんだ!」
 彼女さえいなければ。
 こうやって、泣く事だってなかったのに。
 こうやって、世界すらをも憎む必要などなかったのに。
 荒れ狂う炎の渦の中で、叫びが聞こえる。
 敵対者の声か。自分のものだったのか。分からないまま、けれどもそのどちらであっても消してしまいたいものには変わりなく、ウィルは立て続けに魔術を射出した。肉が焦げる臭いが鼻を突く。それは、自身の肉体から放たれたものだった。魔力を発現させるポイントの設定も発動時に自身を防護する補助術式もでたらめな、魔術などとは到底言えないただの破壊の力が、腕の表皮を灼いていた。皮が捲れ肉から体液が滴り落ち、ひどい部分は表皮が炭化してすらいる。
 それでも――苦痛などなかった。
 この憎しみに優る苦痛などある訳がなかった!
「全て――」
 吸う息も吐く息も全て音と力に変換して、放つ。
「消えてしまえばいい、僕ごと! この憎らしい世界ごと!」
「……わけねえだろッ!!」
 初めて――
 ウィルは敵の姿を見た気がした。
 意識が飛ぶ程の力を込めて作り上げた焔の壁の真ん中に、丸い穴が開く。
 のたうつ炎に照り返されて、黒い毛並みが紅く輝いている獣が穴の向こうで口を大きく開いていた。
 そして、その焔の門を剣を突き出して駆け抜けてくる男の姿。
「――あっ――?」
 その男には見覚えがある気がしたが、記憶がうまく繋がらない。
 一瞬の空白に、男はウィルに肉薄していた。脇腹を掠める刺突から逃れて咄嗟に半身を退く――が、相手の深い踏み込みは、それを予期していた結果だったのだろう。即座に翻された男の腕刀がウィルの胸を痛打した。
「……ッ……!」
 瞬間、息が詰まる。跳ね飛ばされるようにウィルは男から距離を取った。致命の一撃には程遠かったが、集中力は相応に削がれ、魔術発動に数秒の遅れを強いられる。
 しかしその相手にとっては格好の勝機に、男が追撃をしてくる事はなかった。それどころか、剣の構えすら解き、彼は声を張り上げてきた。
「違うだろうがよッ!」
 何が。
 意味の分からない言葉に思わず心中で問いを投げかける。
 けれども、そのウィルの口を衝いて出てきたのは古代神聖言語の呪文だった。思考が纏まらない。攻撃。敵対者。呪文。剣。遺跡。崩壊。憎悪。涙。苦痛。幻影。
 ――彼女。
「僕……は……っ!」
 古語ですらない金切り声の絶叫を呪文の末尾にして、それと共に魔術を現す。涙でぼやけた視界の中で撃ち放った狙いの甘い炎の矢は、微動だにしなかった男に掠ることすらなく、岩盤と衝突して消え失せた。次撃の為の集中を即座に始める――その時、男が動く影が赤い炎の中に揺れた。徐々に迫りくるそれに向かって、ウィルは力を解き放つ。
「炎よ!」
 ――同時に――
「火焔玉ッ!!」
 男の口からも、呪文が発せられていた。今度こそ直撃する狙いだった炎の矢は、男が剣閃と共に放った魔術に打ち落とされる。ウィルの魔術を全ていなして迫りくる男に、ウィルは対応しきれない。
「それは、憎しみじゃねえだろうが!」
 疾りながら、男は怒号した。
 魔術で迎撃する機を逸して、ただ呆然とその姿を見上げる。肉弾戦の間合いまで、男は迫ってきていた。
「壊したいと思うのなら、それでも構わねえ! でも、自分の思いを見誤るな!」
 思い。
 その言葉に瞬時囚われながらも、男が振るってきた拳を――剣ではなく、拳だった――すんでの所で躱す。直後、間髪入れずに放たれた追撃の中段蹴りも接近戦には慣れていないながらもどうにか防御したが、強烈な威力が肘を突き抜ける痛みに、ウィルは思わず喉から呻き声を漏らした。
 閉じかけてしまった目を、開く。
 間近には、怒りに猛る男の顔があった。
 何に対する怒りだかは――分からない。けれども、彼は叫ぶ。
「その子がいないだけでっ……世界を消してしまえる程の思いが、クソ下らねえ憎しみ程度なもんかよ!?」
「――――ッ」
 息を、大きく肺に吸い込んだのは。
 反駁しようとしてのことだったからかもしれない。
 けれども、自分でも分からない言葉は音になることはなく。

 ――大切だから。
 大切だったから。失って――見つからなくて――苦しんで。
 だから、憎んで。
 ――違う――?
 暗い闇の沼の名は憎悪の深淵ではなくて?

「本当にそいつがいない方がてめえは幸せだったか三回くらい深呼吸して考えろ!」
 先程吸い込んだ息を、吐く。一回。
 庭園に彼女の笑う声。花を摘みとって喜び、一生懸命駆けてきて、得意げな笑顔でそれを見せにきてくれる少女。
 炎に熱せられ、肺を焼く程に熱せられた空気をまた吸って、やや、むせりながら吐く。二回。
 廊下を走っては転んで、泣いて。ぬいぐるみが壊れたと言っては悲しんで、泣いて。怖い夢を見たと、泣いて。
 ――僕ももっと早く、素直に泣いておけばよかったのかな? ふと、そんな事を思う。
 眼前で拳を振りかぶってくるローグの姿を見て、吸って、吐いて。三回。
 ――彼女と。
 エルフィーナと、もし、出会っていなかったら……
 横から、頬か顎を狙う形で拳が迫り来ることに、何の繋がりもなく気付く。
(は? ちょっと待っ……)
 脳震盪でも起こさせて、こちらの意識を奪う算段か。
 攻撃の真意を冷静に解釈するも、記憶と現実が交錯しているせいか、身体が咄嗟に動いてくれず対処しきれない。いや、多分この冒険者の男に真面目に仕掛けられたら、素で対処出来ないだろうが。
 左腕のガードを上げるよりも先に、白光が目を灼く。
 やられた。
 ……そう思ったが、その一秒後にもまだ自分に眩しさに顔をしかめる余裕があったことに気がついて、ウィルはたたらを踏みながらも視線を上げた。
 光――
 そこにあったのは、ただ、それそのものだった。
 ローグの殴撃からウィルを護るように、魔術の障壁に似た光の壁が展開されている。
 無意識で防御魔術を使ったのだろうか――?
 目を細めながら、呆然として眺める。観察と言う程じっくり見ていた訳ではなかったが、それでもその光壁の形状を見ていて気付くものがあり、ウィルは視線を背後に転じた。
 光の壁――いや、光の翼。
 それを背から伸ばしてウィルを包み込む、翼の持ち主。微笑むその少女の名は。
「エ……」
 始めの母音を音にした瞬間。
 無痛の強烈な打撃を全身に浴びせ掛けられ――声も意識も身体もろとも吹き飛んだ。





 ゴゴゴゴゴゴゴゴ……
 鳴動する岩の祠の入り口を、ウィルは草むらに足を折り畳んで座りながら、どこか遠いものを見る目で眺めていた。
 周囲には、座り込んでウィルと同じ物を見ているローグと、意識は一応あるようだが気分がよくないのか横になっているレイナ、それと、日光に黒光りする毛並みの豹がうずくまっている。光に吹き飛ばされたと思った次の瞬間、気付いたら、この何時間か前に準備をして突入を開始した遺跡の入り口で、こうやって座り込んでいたのだった。
 日の光に晒されて、頭の中にかかっていた霞が次第に晴れてくる。
 目の前がよく見る事が出来るようになって一番最初に認識したのは、やはり――現実、だった。
「あああああああ……」
 振動音と同調するように喉から声が漏れる。他の誰でもなく、ウィル自身の声だった。
 そして――
 ……ズゴォォォォォン……
 最後に一発、妙に破滅的な音が響いて――崩壊は終了した。
 決定的な結末に、がくん、とウィルはうな垂れた。
「壊しちゃった……貴重な古代遺跡……」
 調査対象の遺跡をぶっ壊してしまいました。研究者の端くれとして、これはどう言い訳すればいいんだろう。
 ――いや!
「これは全部上司の所為だ! この任務を僕に押し付けたあの馬鹿が悪い! こういう場合明らかに作業者の能力を超えた任務を課した上長に責任があるッ! という事ではい責任転嫁完了!」
 精神衛生上最も有効な形で自己完結し、ウィルはくるりと背後の仲間たちを振り返った。レイナや、黒豹までもが唖然とした様子で視線を集中させてきていたが、気にしない。気にしてはいけない。
「……お前、思った以上にいい性格してんなー……」
「気の所為っ!」
 ローグの呟きをきっぱりと一言で否定して、立ち上がる。まだ少々顔の青いレイナに近寄って、傍にしゃがみこみ彼女の顔を覗き込んだ。
「大丈夫? 気分悪い?」
「……ん……いいえ、もう、大丈夫よ」
「身体を直接害するような魔術ではないから、意識があれば別段心配するようなものではないよ」
 レイナの返答を補足する形で答えたのは、黒豹だった。特に彼女の方を見る様子もなく、折り重ねた前足に顎を乗せるようにして、草の上に腹ばいになっている。その無関心さに、自分の事を棚に上げつつも少々むっとして獣を睨み続けていて――不意に、あることに気がついた。
「魔術装置……壊れて、君は平気なのか?」
 ウィルの問いかけに、初めて黒豹は視線だけを彼の方に向けた。
 人為的に作り上げられた存在である改造獣は、外部に設置してある何らかの魔力装置を動力の供給源にして作動している場合が多い。ベースは通常の生物であるため生殖能力もあり、それによって生まれた子孫は血の濃さにもよるが元の生物の性質を受け継ぐ率が多くなる為装置無しでも生きられるというが、オリジナルであるこの黒豹はそうもいかないのではないだろうか。
 黒豹は、ウィルに向けた瞳をまた遺跡に戻しながら小さく呟いた。
「確かに僕の命はもう長くないだろうね。けれど、僕はこの神殿を護るその為に造られた存在。護るべきものがなくなってしまった以上、自分の個体としての生命は別に惜しくは感じないんだ」
 ――さっきまで、君が唱えていたようにね――
 それは、獣が口にした言葉ではなかったが、そう言われたような気がして、ウィルは目を伏せた。この獣とは今さっき知り合った間柄で、しかも面倒くさい攻撃を仕掛けられた小憎たらしい関係でしかなかったが、それでも、近いうちについえ去る命だと聞かされるのは気分のいいものではない。
 自分が。
 死んでもいいなどと口走るのを聞いたら――
 多分、怒る人はいることを……思い出したから。
 ゆっくりと、獣は大儀そうに瞼を閉じる。はっとして、ウィルはそちらに駆け寄った。
「ねえ、ちょっと! だめだよ! しっかりしてよ!」
 獣の大柄な身体を揺さぶろうとして、しかし下手な刺激を与える真似をするのも躊躇われ、おろおろと手を触れるか触れないかという位置に差し出したまま、叫ぶ。
 と。獣は鬱陶しそうに耳を震わせた。
「いや……だからと言ってそんないちにのさん、というように死ぬ訳ではないし」
 ――ただ単に、眠かったらしい。安心したというよりは気が抜けて、ウィルは息を吐く。
「まあ、僕も相棒みたいに、適当に子孫を残してから普通の獣のように眠りにつくさ」
「……君にはあとどのくらい時間が残ってるんだ?」
「さあ……でもまあ、君たちの寿命が尽きるよりも先に死ぬという事はないだろうけど」
「はっ?」
 ウィルは思わず眉を跳ね上げた。そうしてから、閉鎖された空間で生き続けたこの獣が何か勘違いをしているのではないかという事に思い当たっておずおずと呟く。
「人間……は寿命、長い人なら八十年くらいあるもんなんだけど……」
「知っているよ、そんな事くらい。僕はあとせいぜいが……二百年足らずじゃないかなあ。生きられるのは」
「全然長くなくないじゃないか!」
 叫んでしまったウィルに、獣が器用に片目を瞑って見せる。表情など作れないはずの顔に、悪巧みが成功したような笑顔が浮かんでいた気がするのは、あながちウィルの気の所為とばかりは言えないだろう。
「僕らには補助の魔力装置も内蔵されているしね。……もちろん本来の恒久の寿命に比べれば大分、命を消費した事には間違いないけれど。でも、君が感じた通り、永遠に独りというのは……やはり、ね。これでいいのさ」
 独り言のような声で呟いて――獣は、立ち上がった。三人の方を振り返り、告げる。
「では僕は、新しいねぐらでも捜す事にするよ。僕がこう言うのも何だが、君たちも、気をつけて。僕の相棒たちに襲われるかもしれないが、彼らもあんまり悪気がある訳ではないので許してやって欲しい」
 それじゃあ。
 最後に気楽な口調で別れの言葉を置き捨てて、獣は深い森の中に走り去っていった。もう二度と、彼が人の言葉を口にする事はないかもしれない。
「さようなら」
 既に見えなくなってしまったその姿に、ウィルは小さく別れを告げた。ローグと、レイナの方に視線を向ける――と、彼らがウィルの方を見たのも、それと殆ど同時であったようだった。
「おし。それじゃ、帰るか」
 ごく自然に告げてきたローグに、ウィルは、高々と手を振り上げた。
「帰ったら任務完了祝いに焼き肉パーティーだね! ローグのおごりで!」
「俺かよ!? てかこれ任務完了!?」
「あー聞こえなーい聞こえないなーなんにもー」
 跡形もなくなってしまった遺跡を指差してローグが何やら言ってきていたが、ウィルは耳も目も塞いでくるんと顔を背けてしまった。



 21

 休養と療養の為に街に留まる事三日。そろそろ戻らないと後が面倒だという事で、ウィルは出発を宣言した。
 負傷の程度は、レイナが壁か何かでこすったのか擦り傷がいくつか。ローグはかなりウィルの魔術を浴びたのだが、殆どは黒豹に防御して貰っていたので実はほぼ無傷。最も深刻だったのが意外と元気なように見えていたウィルで、自分の魔術でこしらえた火傷はレイナの回復魔術ではとても間に合わず、街の神殿に担ぎ込む羽目になり、おまけに魔術を無分別に使用した為衰弱も激しく、この三日間、神殿付属の施療院に強制的に入院させられることになった。ここになっていきなり出発すると言いだしたのも、単調な入院生活に飽きてきたからかも知れない。結局、焼き肉パーティーも出来なかった事だし。
「大丈夫なの?」
 と、レイナは心底心配そうに聞いていたが当人の顔色を見る限りは言葉通り、大分回復しているようにローグには見えた。もっとも、入院が必要な怪我を負ってもそれを表情からは悟らせなかった少年だから、油断はならないが。
「大丈夫だよ。どうせ帰りは船と馬車だし……この三日、ぐっすり眠ったから」
 もう、変な夢も見ないし。
 そう笑って旅装を整え始めたウィルに合わせて、ローグとレイナも宿を引き払い、同じくすぐに出発出来るような準備をしてきた。最後の遺跡の探索が終了した次点で契約は切れており、報酬もきちんと受け取ってはいたのだが、さすがにウィルを放置して旅立つのも気が引けて留まっていたのだった。
「それじゃ、今迄どうも」
 ウィルは簡単な礼を述べながら、それとは裏腹にローグとレイナの手を丁寧に握った。十五歳という年齢よりは幼く見える顔に、外見に相応しいあどけない笑顔を浮かべて、けれども瞳にだけは年齢以上に底の深い何かを湛えて、二人を見上げる。
 結局……
 自分の進む方角を見定めても、終着点を見つけ出さない限り、彼の瞳から翳りが消える事はないのだろう。
 まあ、果たす前の目的を能天気に忘れてしまうよりは多分余程良い事なのだろうと、ローグは思ったりもするのだが。
「あのさ、ひとつ聞きたいんだけど、いいか?」
「何?」
 突然のローグの言葉に素直にきょとんとして、ウィルは小さく首を傾げた。
「答えたくなければいいんだけどよ。あの……子」
「エルフィーナ?」
 案外あっさりとその名前を出されて、ローグの方が少々驚いてしまったが、まさにそのことだったので頷いて肯定する。
「あの子は……有翼種族、か?」
「違うよ。普通の人間……何の力も持っていない女の子だよ」
 大いなる純白の翼で――ウィルを護った少女。
 大陸西方の大森林地帯に翼ある民の集落が存在するという半ば伝説と化した、けれども確かな事実あり、ローグはそれを連想したのだが、ウィルはあっさりと否定してくる。――嘘ではないだろう。もし仮に本当にその少女が有翼種族であったとしても、珍しい存在ではあるが、別に隠す必要もない。
「そもそも、『御使い』種族のものとは、形質からして違うしね。御使いの翼は別にあんなふうに光り輝いたりはしない。まあ、どうせ魔術が見せた幻に過ぎないから現実をそのままトレースするわけではないんだけど……」
「術をかけられた奴のイメージだって言ってたな、そーいや。そーか、あれがウィルのイメージって訳か。結構ロマンチックな奴? お前って」
「うるさいなー」
 ほんのりと気恥ずかしげに頬を赤らめつつ、ウィルはローグを殴りつけようと腕を振ってきた。動かしたのは包帯を巻いてある左手で、下手に受け止めるわけにもいかずローグは触れないように横に避ける。
「……でも、おかしいな……無意識下のイメージまでを再現して、防御魔術すら自動的に行使させるようなことが出来るはずはないんだけどな……」
 その後、独り言のようにウィルがぽつりと呟いたのだが、ローグは魔術の理論についてはよく分からないので、適当に聞き流しておいた。

 駅馬車の停車駅に続く大通りで、彼らは別れた。
 今生の別れという可能性が大きいのだが、それでも三人とも、簡易的な別れの挨拶しか交わさなかった。街から街へ旅を続ける冒険者という生業をしていれば、大抵の別離は今生の別れになる。いつものことに過ぎないのだから、そんなに深刻に考える必要もない――レイナはこっそりと涙ぐんでいたようだったが。
「で、お前は? どうするこれから」
 ウィルの小さな背中が雑踏の中に消え行くまで見送ってから、ローグは横で少々気落ちした表情のレイナに話しかけた。涙の余韻で僅かに潤んでくる瞳を上げて、彼女は眉を寄せた。
「なにそれ。チーム解消したいわけ?」
「あーいや」
 言い方の所為で妙な誤解を与えてしまった事に少々慌てて、ローグは手を横に振った。
「じゃなくてだな。えーと、あれ。何だ。遠回しに言うと敵討ち」
「これ以上ないほどそのものズバリだと思うけどそれ」
「まあとにかくそれだ。……やりたいなら別に止めやしないし、どうしてもって言うんなら仲間のよしみで協力しないでもないけど」
「やめるわ」
 あっさりと肩を竦めて、レイナは首を振った。今度はローグがきょとんとする番だった。肩の凝りでもほぐすように気楽に首を左右させて、告げてくる。
「憎しみなんて『クソ下らねえ』んだし」
「お前、何でそれ」
 さすがに驚いてレイナの顔を見詰めると、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「自分の声の馬鹿みたいな大きさをもうちょっと自覚した方がいいわよ。いっつも迷惑してるんだから」
 くすりと、笑声を洩らして付け加える。
「人がそれだけを抱えてずっと生きてきてるってのに、あんなに思いっきりこき下ろされちゃ……怒るよりも先に本当に下らないように思えてきちゃうわよ」
「……悪ぃ」
「別に嫌味で言ってるんじゃないわよ。あんたじゃあるまいし」
「うっせぇ」
 顔を背けて、ローグは荷物を背負い直した。
 気分を新しくして、空を見上げる。また新しくスポンサーを見つけねばならないだろう。どこかの賞金首でも捕まえて、報奨金を頂くというのも悪くない。獲物にもよるが、これもまた程よいスリルが味わえる面白い仕事だ。
 何にせよ、この往来に延々と立ち止まっている意味はない。とりあえず、ギルドに行ってからその時の気分で考えようと、ローグは足を踏み出した。
「あ、待ってよ、もう」
 歩き出したローグの背中にレイナが軽い非難の声を上げる。いつもなら知らん振りして進む所だが、それをやると割としつこく文句を言われるので、立ち止まり、振り向いて待ってやる。
 と――レイナの後ろ頭が見えた。雑踏の音に混じって彼女が、歩いてきた道の向こうに呟いた言葉を聞くことが出来たのは、もしかしたら奇跡というものだったのかもしれない。
「さよなら。ハロルド……父さん」
 くるりと前に向き直ったレイナと視線が合う。と、彼女は何故か不服そうに唇を突き出した。
「何で珍しく本当に待ってるのよ」
「何で待っても行っても怒られにゃなんねーんだ」
「あ、待ちなさいってばー」
 再び歩き出したローグの後ろから、声がする。
 多分これからもまだしばらくは、毎日この声を聞き続ける事になるのだろう。それもまた良し、だ。



 22

 聖地ファビュラス――ファビュラス教会総本山に、少年は帰還した。

「教会魔術士ウィル・サードニクス只今戻りました大神官補佐役カイルターク・ラフイン猊下におかれましてはご機嫌麗しくッ」
 ばさっ。
 帰ってきて一番にウィルがやった事といえば、一抱えもある報告書の束というお互いにとって嫌がらせ以外の何者でもない物品を、上司の机に叩き付けることだった。書き物をしていた歳若い――と言ってもさすがにウィルよりは年上の、二十歳前後の青年だったが――上司が、ウィルとしては無表情というよりは無愛想だと思うその顔にうんざりとした感情を貼り付けて、それを眺める。
「何だよその顔。書類のチェックも面倒だろうけど書く方が何十倍も大変なんだからな。当たり前だけど。帰りの船でも休む間もなくずーっとこればっか。あーもー、何でこの歳で肩凝りなんかに悩まなくっちゃいけないんだ」
 その原因を押し付けた張本人に嫌味をたらたらと述べる。どうせいくら言い募った所で手当ての金額が上がる訳でもないし、早々と立ち去った方が利口なのだが、さすがに今回ばかりは何も文句を言わずに済ませるレベルの話ではなかった。
「冗談じゃないよ本当に。何あの最後の遺跡。稼働中の遺跡をそれ専門に勉強した訳でもない僕に行かせるか普通? お前だからな、お前が全部悪いんだからなカイル、本っ気で死ぬかと思ったんだからな。もー未だに身体の節々が痛くってたまったもんじゃないんだから」
 言い終えたらまた痛みを思い出てしまって、ウィルは肘をさすった。――もっとも、これはあの遺跡での負傷ではなく、それよりもしばらく前から痛んでいたものだったのだが。結局、原因はよく分からない。あの嫌な夢に関連する何かかとも半ば本気で思っていたのだが、あれを見なくなった今でもまだ痛むという事はやはり違ったということだろう。心因性のものではなかったのはよかったと言えるが、原因が分からないとなると少々不安も残る。
 席に座したまま、未だに労いの言葉の一つもかけようとしない上司は、ウィルを一瞥して、ぼそりと呟いた。
「膝。膝も痛むだろう」
「……え? うん、何で?」
 唐突に指摘されて、呆気に取られて聞き返す。確かに、同じような痛みは肘だけでなく膝にも感じている。どうしてそんな事を知っているんだろう。訝しげに見ていると、一旦止めていたペンを再び動かし始めながら、上司は普段通りの抑揚のない低い声で言った。
「三ヶ月でそうと分かるほど身長が伸びればな。痛みも感じるだろう」
「…………え?」
 再度、目を丸くして呆けた声を出す。慌てて自分の身体を見下ろしてみたが、あまり変わった所はない気がする。いや、そういえば少し前は大きめだったはずのシャツやズボンが、丁度よくなってきているような……
「えっ? え? なに? つまりあれは」
 ただの成長痛?
 それなりに悩んだというのに。――何だかもう何もかも馬鹿らしくなって、腰から力が抜けた。
 へたり込みこそしなかったもののその一歩手前辺りまでは確実に来てしまったウィルに、上司はウィルが先程持ってきたものに匹敵するほどに分厚い紙の束を差し出した。
「何? まだ書類書かせる気? 冗談でしょ?」
「書類には違いないがな」
 ぎょっとして見開いた目で見つめ返すウィルに、あっさりと頷く上司。
「学部のレポート提出。……本来ならば三ヶ月も休学すれば落第は当然の所だが、私がわざわざ頼み込んでレポート提出にまけておいてもらった。感謝しろ」
「感謝ってお前っ……!? お前が変な任務投げて寄越すから講義出れなくなってるんじゃないか!? ふざけんな! お前がやれ!」
「……しばらく会わないうちに、微妙に口汚なくなっていないか? ウィル」
「どっかの腐れ大神官補様が外界で貴重な人生経験をイヤって程積ませて下さるその成果ですよ!」
「そうか。ならばそれもついでに感謝するがいい」
「嫌味だ嫌味ッ!!」
 受け取ってしまった紙束でばしばしばしと執務机を引っぱたきながら、ウィルが頑然と抗議する。けれどもやはり、いつもの通りこの上司は涼しい顔で素知らぬ振りを続けるのだった。



 ――結局――
 何があっても。これまでと何ら変わることなく。

 ――『君が感じた通り、永遠に独りというのは……やはり、ね。これでいいのさ』――
 彼が選択したのとは逆だけれど。多分自分にとっては、少なくとも今は、こっちが正しい道だと思うから。

 これまでと何ら変わることなく。
 僕は彼女を捜し続ける。



- FIN -

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