Crusade Other Story いずれ闇夜を超えて

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 15

 まるで、絵画のように。
 身じろぎ一つすることなく、その少女はそこに立っていた。
 年齢は十歳程だろうか。年よりも幼く見えるウィルよりももう少し下のように見える。無邪気な笑顔が似合いそうな愛らしい顔は今はこれ以上ないというほどの無表情で、明るい亜麻色の長い髪もフリルとレースがふんだんにあしらわれたピンク色のドレスの裾も、一ミリたりとも動かすことなく、少女は――少女の幻影は、呆然と立ち尽くすウィルの姿を硝子玉のような瞳に映していた。
「エルフィーナ……?」
 少女の名前であろうか。震える囁きが、少年の唇から零れ落ちる。それでも幻影は陽炎のように揺らぐこともない。
 ――精巧な騙し絵。
 ウィルは引き寄せられるように、一歩を踏み出していた。
「エルフィーナ……」
 緩慢な足取りで少女に近づいていく。それを遮るとも迎え入れるともなく、少女は真っ直ぐで空虚な瞳を、ウィルに向け続けていた。
 ゆっくりと。二人の距離が狭まっていく。
 走ればものの五秒とかからない道のりを、まるで長大な旅路を行く疲れきった旅人のように進み続けて。ようやく彼は終着点に辿り着いた。
 手を伸ばせば届く、そんな位置で、彼は足を止める。
「エルフィーナ」
 もう一度、同じ囁きを発し……少年は、下ろしていた腕を上げた。
 目の前の少女に向けてそれを伸ばしかけ――触れる直前で一瞬ぴくりと震え、引き戻した手のひらで彼は自分の顔を覆った。
 何かを堪えるように、指に力が込められている。手のひらの下から見える唇が、微かに動いていた。
「……う、違う。幻影だ……ィーナがこんな所にいるはずはない……魔術の罠だ……騙されるな……」
「ほう」
 途切れ途切れの呟きを鏡越しに耳にして、ローグの隣で悠長に見物を決め込んでいた黒豹は、丸い目を更に丸くして感嘆の声を上げた。ウィルは完全には幻影に引きずられてはいなかった。ぎりぎりの所で、踏みとどまっている。
「術にかかってまで抵抗されたのは初めてだ。君の友達は、大した魔術士のようだね。だが……」
「……させるかよっ!」
 鏡に強い視線を向けた黒豹に、ローグは躍り掛かった。――剣が獣に到達する直前、黒い顔が彼の方を向く。
 ルゥオォォォ――!!
 数時間前、廊下の何処からか聞いたものと同じ、狼の遠吠えのような音が――それが為す、どこか物悲しいその響きとは似つかわしくない激しい衝撃が、ローグの腹を殴り付けた。
「……っぐっ!」
 抗う余地もなく、元いた位置よりも遠くまで吹き飛ばされる。
「のやろ……何が、戦う力はねえ……だ……」
「これが正真正銘の精一杯さ」
 実際、まともに一撃を貰っても意識すら失っていないという事は、この手の遺跡の番人が持つ力としては最弱に位置するくらいではある。けれども、立ち上がる事も出来なければ一撃で死んでいようがいまいが関係がない。ローグは何とかして起き上がろうと試みたものの、それは徒労に終わりそうな事は間違いなかった。ローグに止めを刺そうと獣が近づいてきたという訳ではなかったが、彼がもたついている間に黒豹は壁に向き直り、細い、音階のある遠吠え――呪文?――を口から紡ぎはじめていた。
 高く、切なく。声は響き渡る。
 こちらからの音声が鏡の向こうに聞こえているとは思えなかったが、あたかもこれが聞こえたかのように反応して、ウィルの肩は震え出した。
「あ……っ……くっ、う……」
 魔術に対抗する事には苦痛があるのだろうか。苦悶の表情を浮かべて喉から音を漏らすウィルに、この時初めて幻影の少女が動きを見せた。
 そっと、抱擁を求めるように両の腕を、少年に伸ばす。
「…………」
 恐らくはウィルの名でも呟いたのだろう。少女が柔らかそうな唇を小さく動かした。ウィルの手が、突如力を失ったようにがくんと下りる。
「エ、ル、フィーナ……っ」
 絞り取られるような絶叫で、少年は、少女の名を呼んだ。



 16

 夢を見ていたような気がする。
 長い。長い夢。
 誰よりも、何よりも大切だった彼女と――
 離れ離れになってしまう、とても悲しい夢。
 けれど……ようやく、その夢から覚められる。

 あんなことはただの夢でしかなかったのだと笑って……
 彼女が……目の前に、いる……

 少年は、俯いていた顔をゆっくりと上げた。彼の目の前には、柔らかな笑顔を湛えた少女が、静かに少年を見つめながら立っている。
 柔らかな。いつも通りの笑顔。
「……エルフィーナ」
 呼び慣れたその名は声に出すと安心した。
 この数年、実際に声に出す機会が減っていた名前だったが。
 ……どうしてだろう。
 霞がかかった頭で、その理由を考える。いつでも傍にいる彼女の名前を呼んであげなかっただなんて、ひどい事をしたものだ。どうして僕は、そんなことをしてしまったのだろう。
「夢を、見ていたんだ……」
 何の意識もなく呟いて、思い出す。ああ、そうだ。夢を見ていたからだ。ずっと夢を見続けていたから、彼女の名前を呼ぶ事が出来なかったんだ。
「とても悲しい夢を見た。……君が、いなくなってしまうんだ。僕は、君を捜して……捜し続けるんだけど……君はどこにもいなくて」
 長い間。
 たった一人でこの広い大陸中を、さまよい続けた。
 君を、君だけを捜して。
 どこにいるかとも知れない――本当は、生きているか、死んでいるかすら分からない――そんな君を捜して。
「……どこにもいなくて……会いたいのに……すぐに迎えに行くって、言ったのに、こんなに待たせてごめんって……会って、謝らなくちゃって、ずっと思ってて」
 それでも、会えなくて。
 ――手を、伸ばす。
 彼女の腕に絡ませるように。彼女を抱きしめるように。少女の小さな肩に、ウィルは手を伸ばした。
 震える指先で、そっと掴む。華奢な感触は……懐かしい感触は、あの頃と全然変わっていなかった。
「……本当に、辛かったんだ……」
 泣くように、囁く。
 囁きながら徐々に、少女の肩を掴むウィルの指には力が込められていった。指先が、白くなっていく。――それほどまでに力を強めても、少女の微笑みは変わらなかった。
 胸に溜め込んだ息が、声とともに漏れる。
「身体を傷つけられたって、こんなには辛くなかった……君を捜しに行く為になら僕は生きていられた……! なのに!」
 笑みを浮かべる彼女の前で、彼の瞳から涙がつうと伝っていった。
 彼の自制とも、彼女の笑顔とも、全くの無関係に。
 慟哭する。
「……なのに、どうしてなんだよっ! 捜したのに、こんなに捜したのに、どうして君はどこにもいないんだよ!? どうして見つからないんだ!? もう見つからないのか!? それくらい、教えてくれたっていいじゃないかっ! どうせならいっそのこと」
 指を、肩から上にずらしていく。少女の、白い喉を柔らかく包み込む。
「もう二度と……会えないって、分かっていればよかったのに……! そうしたら、諦めだってつくかも知れないのに……っ」
 力を、入れる。少女は表情のない笑顔のまま、ウィルの力に従って首を仰け反らせた。ぱかりと、口が開く。喘ぎ声すら漏らすことなく。
「憎いんだ……君が、心の底から憎いんだ……僕を苦しめる君が……殺してやりたいほど、憎いんだよ……」
 ――そうか。
 見開いた瞳から止めど無く涙を流しながら、心のどこかに残っていた一点で、一本の線が繋がるのを感じた。
 あのどす黒い沼の正体。夢の中で、自分を飲み込もうとしていたあの沼の正体が、今やっとはっきりと分かった。
 底のない憎悪の沼。
 その憎悪を向ける相手は、不甲斐ない自分でも、この状況に陥る原因そのものですらなく、彼女だったのだ。
 暗く苦しく締め付けるように冷たく彼を蝕んでくる――苛む――あの沼は、誰よりも愛する――愛していたはずの、少女に向ける憎悪。堕ちてしまえば、沈みきってしまえばきっと楽になれる彼女への憎悪。

 だからこそ――
 認めたくなかった。身を委ねたくなかった。
 だからこそ――
 あれほどまでに、抗った。

「あああああああああああ…………ッ!!」
 ウィルは、締め上げていた彼女の身体を強く突き飛ばした。少女の小さな身体は人形のように何の抵抗もなく後ろに倒れて――後頭部が床を打つ前に、すぅと掻き消える。
 幻影が消滅しても、ウィルの叫びは止まらなかった。今迄少女の首に食い込ませていた指を、今は自分を締め付けるように腕に巻き付けて、吠える。
 ばぢっ――
 漆黒の空間の中に、唐突に火花が散る。
 たすけて。
 ばぢっ――ばちっ――
 閃光は次第に数を増やしながら、絶え間なく続いていく。
 嫌だ。
「……あああああああああああ!!」
 叫び。
 見開いた目に痛みを覚える。それすらも、意識の外。
 ぼくは。
 僕は、君を。
 何かが、身体の中で破裂するのが分かった。
 漆黒の闇は一転して、絶望的なまばゆさに塗りつぶされた。



 17

「よお、思い通りに行ってよかったじゃねえか……」
 鈍い、遺跡全体を揺るがす崩落の音を聞きながら、ローグは呆然と突っ立っている獣に嫌味を一つくれてやった。
「てめえが望んだ通りに、壊れたぜ。あいつは。この遺跡ごと……お前も、俺も、レイナまで全部道連れにしてな……」
 攻撃の意志と。魔力というエネルギーと。精神力による制御と。それが全て揃った状態で初めて魔術士が操る力は魔術という形を成す。――逆に言えば、どれかが欠ければそれは魔術と呼べるものにはなり得ない。
 例えば、攻撃の意志と魔力が揃った状態で、精神のたがが外れてしまえば。
 収束されるべき力は無目的に四方に散り、無意味かつ無差別な破壊をもたらす。本来ならば傷つけるはずのない術者自身をも一飲みにして。
 ――魔術の暴走。時には災害とも呼べる規模になる、最悪の魔術事故。
 既に、空間には闇が戻っていた。ウィルの放った爆発に何かしらの魔術装置が破壊されたのか、両壁の映像はどちらも途切れて、真の闇が降りていた。
 ――否。
 闇の中に、それよりもなお暗い闇――漆黒の獣の姿が、今はウィルやレイナが対峙していた幻影のように浮かび上がって見えている。
「なん……てことだ……保存の魔術だって、効いているというのに……なんて力を……」
「……並みのガキじゃねえんだよ、あいつは」
 どうだまいったか、とでもいうような、ある種の爽快感すら覚えて、ローグは告げた。
 獣は、首を真上に上げて、数秒黙考した後、苦々しく――だろう、表情はないのでよくは分からないが――ローグを振り向いた。
「……崩れるな、これは」
「かもね」
 落ち着き払って、応じる。ここまで来るのに二時間もかかった場所である。今更慌てた所で最早どうしようもない。
 が、黒豹は意外な事を言った。
「戻るといい。君の仲間の女性はその先五十メートルくらいの場所にいる。そこからもう五十メートルも行けば、出口だ」
「……へっ?」
「あの少年が言っていたろう。魔術で歩かせる距離を誤魔化していたんだ。もうそいつは切ったから、普通に行けば出られる」
「何で……」
 執拗な罠を仕掛け続けていた相手の行動にしては実に信じがたい。当然ながらの疑惑の眼差しで見返すと、黒豹は苛立たしげに、追い払うように首を振った。
「ここは神殿であり、ここで人死にを出すわけにはいかないという事も言ったはずだけどね。彼女を連れてさっさと行ってもらおうか。少年は僕が何とかする」
 言い捨てて、獣はもうローグの方を振り向かず、闇の中に走り去っていった。
 雪崩のような低音が、意識の中にこだまする――
「……ちっ」
 舌打ちをして、ローグは出口と示された方向へ走り出した。



 18

 力の震源では、いまだ激しい振動が続いていた。
 安易な接近は危険と判断を改め、歩調を緩めて、近づく。黒豹の、暗闇でも全く問題無く視界を得る事の出来る目は、膝を床に力なくつけてへたり込む少年の姿を鮮明に捕えていた。
 俯いている為表情を確認する事は出来ないが、半開きの口と完全に弛緩しきっている肩から腕にかけてが、彼が完全に放心しきっている事を表している。少なくとも、黒豹はそう思った。
「少年よ」
 呼びかける。が、少年にとってはかなり唐突であったはずの声にも、彼は何ら反応を見せなかった。それに苛ついたという訳ではなかったが、焦れは感じて、ほんの一歩だけ距離を詰め再度声をかける。
「少年よ。呪縛は解けた。目を覚ませ」
 けれどもやはり、彼はぴくりとも動こうとはしなかった。ただ、己の発する魔力の風に煽られて、後ろで結わえられているダークブラウンの髪と旅装のマントが翼のように揺らめいて広がっている。
 ――ぴしっ――
 唐突に頭上から聞こえた、微かな、何かにひびが入るような音から黒豹は、その鋭敏な感覚でもってこの次に起こる出来事を予見し、一息で十メートルほどを飛び退った。
 その半秒後。丁度獣がいた場所に、この数百だか数千年だかの間、破片すら落とさなかった天井の石材が崩れ落ちてくる。
「ちぃっ……」
 崩壊が一旦落ち着いてから獣は瓦礫の山を急ぎ駆け上り、その頂から反対側を見下ろした。この質量に押しつぶされでもしたら、あんな少年など、原形すらとどめられるまい。
 確かめてみると幸運なことに少年のいるあたりにはほんの小さなかけらがいくつか転がっているのみで、彼は体勢すら変えることなくそこに座り続けていた。
 とりあえず、安堵の溜息をつく――が、状況は依然最悪のままだった。
「これほどまでの力を持つ者が、まだいようとは……」
 苦々しく黒豹は呻いた。彼が生み出されたかつての時代よりも現在の魔法文化は数段劣っているらしいことは、長いこと侵入者の監視を続けていたことでよく知っていた。ある時期で激変した訳ではなく、環境の変化なのか、数十年の単位では認識出来ないほど徐々に人間の魔術能力は減じ続け、いつしか豹と猫ほどの格差が開くようになっていた。そのはずだったが……
(この少年、潜在魔力量だけならば、我が主をも上回るやも知れん。あの方は、当時でも名高い魔術士であったのだが)
 この事実はすなわち術を力ずくで打ち破られても不思議ではなかったということであり、同時に彼ではこの少年を抑えきれない可能性も示唆している。
(どうする……か)
 噛み締めた犬歯の間から細く息を吐いて、その時、背後から別の気配が近づいてくることに気がついた。ぎょっとして、瓦礫の山を飛び降りる。
「おい、ケダモノ!」
「なっ!? 何で戻って来ているんだ君は!?」
 直線の廊下を、ランタンの炎を揺らして駆け戻ってきた、ローグとかいう人間の青年に、思わず黒豹は叫び声を上げていた。
「何でも糞もねえだろうが、こんなに近けりゃ往復だって簡単に出来んだろうが!」
「そうではなくてだな!」
「レイナは外に置いてきたけど!?」
「それでもなくてっ」
「何なんだよ、訳分かんねえな。まあ、ンな事よりウィルは……」
 勝手に会話を打ち切って、そこでようやく前方の状況に気がついたのか、ローグは慌てて手の中の灯りを高く掲げてあたりを照らした。
「何だよこれ!? まさか!?」
「向こう側にいるよ。安心するといい」
 安心できるような状況では、ないんだけれどね……
 獣が内心で漏らした、獣らしからぬ呟きの正しさを裏付けるかのように――
 直後、二人――もとい一匹と一人の目の前の瓦礫が、何の前触れもなく爆発した。



 19

 獣は咄嗟に短く吠え、口から衝撃波を放った。まさに矢のような勢いで飛んできた拳大の石のつぶては、直撃していればかすり傷では済まなかっただろうが、黒豹の術によって大半が見事に打ち落とされ、ローグは僅かに飛んできたかけらを腕で防護すればよかった。
 爆風が収まったのを確認するかしないかのうちに、覆っていた顔を腕から上げる。
 目の前のうず高く積み上がっていた瓦礫は元のように――というには周囲は凄惨な状況になりすぎていたが――、質量としては綺麗さっぱりとなくなっていた。緻密な彫刻の入った天井や壁は見事に剥がれ落ちて、その奥のむき出しの岩盤が丸見えになっている。何も無い。
 何も無い廊下の、中央に残るのは、唯一つ。
「……ウィル」
 ローグは、何をするともなくそこに立っている少年の名を口にした。
 呼びかけられても、ウィルは何も聞こえていない様子で、ただぼんやりとどこかを見つめていた。遠くを見ているのか、近くを見ているのか。何か彼にだけしか見えないものを見ているのか、やはり何も見えていないのか。それすらも判然としない瞳をして、彼はそこに立ち尽くしていた。
 今のうちに近寄って、このまま小脇に抱えて脱出しよう。
 ローグはそう考え、実際そうしようと試みていたのだったが、どういう訳かいくら念じてもそれを実行することが出来ないでいた。
 ――足が前に進まない。
 何かに押さえつけられているというわけではない。ましてや、自分までもが獣の魔術にかかってしまったと言うわけでもない。ただ、足が竦んで動かないのだ。ローグはそれを歯噛みして認めた。認めざるを得なかった。
 魔力に対する感覚の鈍い彼すらをも押しとどめる、この攻撃的で強大な魔力の存在を。
「……き……みが、いけないんだ……君が、いないから……っ……」
 呻くように呟かれたウィルの声に、怪訝さは感じなかった。――この少年は、錯乱している。そうであった方が納得がいく。正気でこんな殺気を向けられなければならない程の真似は、さすがに多分まだしていないと思う。
 だらりと身体の横に下ろしていたウィルの手に、力が込められていく。大きくはない手のひらが、硬い拳を形成する。そこに集っていく力の流れは、実際に目に見えるものであるかのようなはっきりとした存在感で感じ取ることが出来る。
 撃つ。その呼吸を意識した瞬間。
 ローグを護るようにして彼の前に立っていた獣が、ウィルに飛び掛った。たった一度の跳躍で少年の懐に入り込み、噛み付かんばかりの勢いで吠える。
 ォオオオオオォォ!!
 至近距離で黒豹は衝撃波を放った。だが。
「ッ!?」
 獣の目に、驚愕が疾る。
 少年は動かなかった。魔術が発動しなかったわけではない。現に、その一撃を叩きつけられた少年の衣服や髪は、荒れ狂う風に千切れんばかりにはためいている。けれども、少年自身は一歩たりともその位置から動かされてはいなかった。必死で堪えているという様子もなくただ平然と、そよ風が肌に触れた程の反応もせず、衝撃波よりも余程不用意に近づいてきた邪魔者の方が煩わしかったのか、獣に対し腕を持ち上げる。
 魔術を放った直後の黒豹は、動けない。
 無音の、そして無色の閃光が、獣の無防備な黒い腹を打ち抜いた。
「……っ!」
 瞬間、自分の受けた攻撃ではないどころか、立場的には敵である獣に向けられた一撃であったにもかかわらず、ローグの思考は停止した。軽々と打ち上げられる黒い身体が描く弧が、優雅とすら言えるなめらかさであったからかもしれない。
 黒豹はなすがままに、ローグを迂回するように宙を舞い――
 しかしここはさすが猫科の動物らしく、一応は四肢からの着地に成功していた。
「うっ……く……」
 しかしながらダメージは当人が考えていたよりも大きかったのか、人間のそれに似た苦痛の声を上げて、黒豹は床に足を折って倒れ込んだ。
「大丈夫かケダモノ!?」
「ケ……ダモノ言うな……」
「よっしゃその元気があれば大丈夫だ」
 アバウトに確認を終了して、再度、ローグはウィルに視線を転じた。
 強力な魔術を放った所為だろうか、それとも他に理由があるのかは分からなかったが、痛みを堪えるかのように、少年は両肘を手で抱え込んで身体を折り曲げている。廊下の端に放り出したランタンの光の中で、少年の血の気の引いた頬から顎に、汗と涙が入り交じった水滴が止めど無く滴り落ちているのを、ローグは見た。
「ウィル……」
 少年の身体が、小さく揺れる。ゆらり、と、ウィルは顔を上げた。そこに浮かんでいるのは煩悶を押さえ込むことすら放棄した色のない絶望。許される事のない幽鬼のような表情は、あまりにも哀れで直視に堪えるものではなかった。
 けれども――
 ローグは歯を噛み締め、眉間に力を入れて、少年を睨み据える。彼は魔術剣の切っ先を少年に向けた。片手剣の要領で剣を保持し、かつ、いつでも魔術を放てるようにもう一方の手を鍔の宝玉に触れさせる、特殊な――彼自身が経験の中で会得した、必殺の構えを取る。無論、助けに来たはずの仲間を殺そうなどと思っているわけではないが、それだけに、他の何者を相手にするよりも難しい戦闘になるでだろうことは、疑うべくもなかった。
「しばらく寝てな、ウィル。……嫌な夢ってのは、眠りが浅い時の方がよく見ちまうもんだぜ」
 ローグの声に応えることなく――
 ウィルは指先に、紅蓮の炎を点した。

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