Crusade Other Story いずれ闇夜を超えて

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 7

「ウィル、その遺跡にゃまだ着かねえのか?」
 うんざりとした声を上げて肩越しに振り返ってくるローグに、ウィルは明朗な口調で返した。
「もうすぐだよ。後二日も歩けばいくらなんでも着く」
「二日だァ!?」
 声のうんざり指数を六十パーセントほど増加させて、彼は呻く。森に入って三日。ローグがごねている理由は別に疲れているからという訳ではないらしかった。休憩は、メンバーの中で一番体力の劣るウィルに併せて取っているのだから、戦士の男には何ということもないだろう。彼が不満を持っているのはこのひたすらな暇にである。先日の豹の襲撃以降は一度も大きな事件もなく、平穏なキャンプと山歩きを続けていれば、そういう趣味を持つのでもない限り飽きも来る。
「ったくよぉ、こんなんだったらまだ化け物と延々戦ってる方がマシだぜ。暇つぶしにはならぁ」
 嘘である。戦闘状態が続き暇だなどとは冗談にもいえない状況になったとしても、この男は文句を言う。絶対言う。言うに決まってる。けれどもそれには言及せずに、ウィルは自分の顎を撫でた。
「でもおかしいな。もう少し、あんな歓迎があるかと思ってたんだけど」
「……そんなに危険な遺跡なの?」
 しんがりを務めるレイナが上げた少し不安そうな声に、ウィルは曖昧に頷いて見せた。
「うん……ああ、いや、僕も実際の所はよくは分からないんだけど。でも、前聖霊期の遺跡だっていうから注意した方がいいと思う。ああいう……」
 と、視線をレイナよりも遥か後方に向けて、前回、戦闘のあった場所を示す。無論、もうその場所はいくら目を凝らした所で見えるような距離にはなかったが。
「改造獣を盛んに作って、兵士代わりにしていたって時代だからね。もうあれはとっくに野生化しちゃってたみたいだったけど」
 古代遺跡の近辺では、ああいった生きた遺産を見ることがままある。先日の豹もどきもその一種で、今よりも進んだ古代魔術文明により作成された生体兵器である。何百年分も代を重ねることによって知能の程度は殆ど野生生物と大差がない程に退化してしまってはいたが、かつては人語を解する獣も作り出されていたという。仕えるべき人の言葉は忘れてしまったのに、人により植え付けられた攻撃本能だけは連綿と受け継がれ続けているというのは、何とも皮肉な話であった。



 8

 そこからたっぷり三日を経て、一行はようやく目的地らしき場所を発見した。約束だったはずの二日目が終わる夜、話が違うと不服を申し立てるローグにウィルが散々追い掛け回されたのは他愛のない余談である。
 山の中腹の何の変哲もない山道の途中に、崩れた岩が偶然積み重なって出来たような祠があった。あまりにも貧相な様子に、ローグなどは「これがぁ?」と胡散臭げに眺めていたが、ウィルは気にせず、調査を開始した。
 まず、残存する魔力濃度を正確に測定する。魔術士や、その素質がある者は場に漂う魔力を肌で感じることが出来るのだが、綿密な調査を行う場合には測定器を使って正確に測る事になっていた。手首から指先までくらいの大きさの、紋章回路にいくつかの法石が接続された石板状の機材をウィルは取り出した。それを使い、大気中の魔力の濃度を数値化する。板面に燐光で描き出された数値を見て、ウィルは眉をしかめた。
(高いな……分かってはいたけど)
 皮膚にまとわりつく魔力の感触――熱とも明るさとも湿気とも圧力とも違う、しかしそれらの強弱の感じ方に似ているとも言えなくない、どの道言葉では説明しようもない感触はもう既に嫌という程感じている。複雑な表情を浮かべるウィルの手元を、横からローグが覗き込んできた。本来は、こういった調査内容は機密扱いになるのだが、ウィルは特に気にせず(実際ただ規則でそう決まっているだけで、この値を知ることで一般人に何かしらの利益や損失があるわけでもないのだ)、祠を見つめたまま石板をローグに向けた。
「魔力の濃度? これって高いの低いの?」
「普通の場所が春の平均気温って感じなら、この中は真夏の砂漠ってくらいには高い」
「へー。高けぇんだ」
 能天気な感想を述べるローグを、ウィルはじろりと半眼で見やった。
「砂漠って場所には生命の危険が十分にあるって事、知ってる?」
 さすがに、ローグの笑みが引き攣る。
「……やばいのか?」
「やばいよ。……まともな装備を持たなかったらだけど」
 一応は、このような異常事態も考慮に入れて、強力な魔力の害から身体を保護する薬剤も持ってきてはいる。調査を行うに当たって支障はない。けれども――
(自然に起きるような状態ではないな。古代の術者が残した何かしらの魔術がまだ稼動しているとしか思えない。……何だよもう、生きてる遺跡は専門のチームを組んで処理するのが決まりじゃないか)
 少なくとも、この遺跡が発見された時点で、これがかなり危険なものであるということに探索隊が気付かなかった訳はない。その上で彼に話が回ってきたのか、それともただのミスなのか。……恐らくは前者だろう。ウィルは半ば確信を持っていた。あの上司はそういう嫌がらせを幾度となくこのいたいけな少年に行ってきた男だ。
 祠の入り口から、真っ暗な闇の中を睨むこと十秒。その後に、ウィルは深く嘆息して肩から提げた道具入れから小袋を取り出した。
「この中に入ったら、これを口に含んで。飲み込まないで口中でちょっとずつ溶かして服用するタイプだから気をつけてね」
 袋の口紐を解き、その中身を手のひらにあける。大き目の飴玉くらいの球体で、色は薄い水色。表面にはざらめのような粗い粒子がまぶしてある。これに対する知識を持っていようといるまいと、一見した所は正真正銘ただの飴玉にしか見えない。
「飴?」
 案の定聞いてきたローグに、ウィルは馬鹿にすることもなく、それを摘み上げて見せた。
「……みたいにみえるけど、れっきとした魔法薬。効瘴気剤……高濃度の魔力が身体に与える影響を押さえる薬だよ。えっと……五、六、七……丁度十個あるね。二人で五個ずつ持っていって」
「ウィルは?」
 彼の分がひとつもない事を、至極当然にレイナは疑問の声にした。
「僕は必要ない。このくらいだったら僕の魔力耐性ならなんとかなる。障壁も使うしね」
 体内の魔力総量が多ければ、外部の魔力に対する耐性も比例して高くなる。この遺跡の魔力は確かにかなりの濃度だったが、教会魔術士と呼ばれるほどに魔術に長けた者であれば、防御魔術を併用すればなんとか耐えられる程度であると彼は踏んだ。
「ローグもレイナも魔術使える人だから、多分一粒で一時間は余裕で効くと思うけど、息苦しく感じてきたら次を使っちゃっていいから。三粒目に入ったときに、状況を見て作戦を練り直そう」
 二人が承諾して頷くのを確認してから、ウィルは祠の内部に向けて歩き出した。



 9

 真の暗闇であった祠の内部に、白い光の玉が浮かび上がる。ウィルが魔術で作り上げた明かりだった。手元に生み出せば十分に読書が出来る程の光量はあったが、それでも彼らが進む通路全体を照らすには全く足りず、限られた範囲がその部分だけを描いた絵画のように照らし出された。床や壁は全て、薄くグレーがかった白い石で作られていて、ひびの一つもない。ざっと見回してから、ウィルは足を進め始めた。
「結構しっかりしてんな、ここは」
 例の丸薬を口の中で転がしている為ややくぐもった声で、ローグが後ろから呟いてきた。普段はローグが先頭を歩いているが、遺跡の内部ではウィルが前になることになっていた。
「こないだまでの遺跡は、全部ボロっちくていつ崩れんだかわかんねーよーなのばっかだったけどよ、ここはそうでもねえな。柱の彫刻とか、ちゃんと綺麗に残ってるし」
「ここはまだ生きてる遺跡みたいだからね。保存の魔術が効いてるんだよ」
「その分やべえってか」
「分かってるじゃない」
 ローグの頭の高さよりほんの少し上あたりに浮遊させていた白光に、ウィルは軽く手を振った。それを合図にするすると昇る光に付き従って、視認可能範囲が床から離れていく。天井は思ったよりも高く、光をそこに届かせるには、隣に立つ仲間の顔すら確認できないほど光源を離さなくてはならなかった。天井も同じ材質の石で作られていて、何か、文様のようなものが彫刻されている。頭の中で思いつく限りの魔術紋章のパターンと照らし合わせてみるが、ウィルの知識にはないものだった。
「魔力が淀んでる。すごく古い力を感じるな。……古くて強い力だ」
 少年の呟きに、それまで押し黙っていたレイナが頷き、口を開いた。
「そうね……何か……嫌な、って程じゃないけど、気味が悪い感じ。すぐ傍に、何かの気配があるような」
 抱え込んだ自分の腕を、落ち着かない様子でさすっている。ローグはそんな二人をきょとんと眺めながら、もう一度確かめるように周囲を見回した。
「そうか? よくわかんねえな」
「どんくさいんじゃないの」
 ぼそりと呟いたウィルに、ゆっくりとローグは顔を向ける。
「いつまでたっても口の減らねえお子ちゃまがぁーっ!」
「いつまでたっても大人気ないなこのおっさんはーっ!」
「ちょ、ちょっと二人ともこんな所で騒ぎ始めないでよっ!?」
 いつも通りのじゃれ合いを始めた二人の叫ぶ声に、レイナの高い声も重なって、光届かぬ通路の奥まで響き渡る。
 その奥から――
 ルゥオォォォ…………ン……
 冷たく遠い、獣の慟哭のような声が流れてきたのを耳にして。
 取っ組み合いをする二人とそれを止めようとするレイナは、妙な複雑さで絡まりあったまま、ぴたりとその動作を止めた。



 10

「風の音に一票」
「激しく同意したい所だけれど、それは現実逃避って奴だと思うな僕は」
 お互いの頭やら腕やらを掴み合っていた手を離し、彼らは廊下の遥か先に視線を向けた。どれだけ長い時間見つめていようとも決して見通すことの出来ない暗闇は、息を詰めて見つめてもその正体を隠し続けるのみであったが。
 聞こえてきた音はその一声で終わり、今はまた静寂が訪れている。
 空耳だったのかもしれない。薄ら寒いほどの静けさが、そう錯覚させる。粘りつくような濃い魔力の感触を拭うように、ウィルは一回だけ肩を震わせた。
「なあウィル、やっぱりここで敵が現れるとしたらよ、こないだのケダモノみたいな奴かね、やっぱ」
「どうだろうな……ここは奴らのねぐらじゃないようだし」
 魔術施設の番人として生み出された改造獣やそれが野性化してしまった動物は、当然このような魔力の濃い環境に薬や魔術などを使うことなく適応する事が出来、その施設自体に棲み付いていることが多い。けれどここまで歩いてきてもそのような痕跡は見受けられなかった。空気も獣臭くはないし、ぴかぴかに磨き上げたという程綺麗でもないが獣が棲んでいるような汚れもない。まさかあの豹が二本足で立ち箒とちりとりを器用に使って掃除していたりするということもないだろう。
「……もっと高等な改造獣が残ってるのか、じゃなけりゃ何かの魔術装置の駆動音か、って考えるのが用心深い感じでいいんじゃないかな?」
「どっちが本当でも物凄いイヤだけどな」
「言えてるわね」
 さほど面白い冗談ではなかったがなんとなく笑いあって、一向は探索を再開した。



 11

 何分か前から眉をしきりにしかめていたレイナが、とうとう我慢できなくなったかのように、腰のベルトに吊るした小袋から抗瘴気剤を取り出した。ぱくりと口に含み、少しずつ舐め溶かす彼女の表情から、次第に苦痛が薄らいでくる。
「別に、我慢しなくったっていいんだって」
 思わず苦笑して彼女を振り返るウィルを、レイナは申し訳なさそうに見返した。
「だって、これで三個目だし……」
「……うーん」
 三個目に入ったら一旦進退を考えるという計画は、初めに告げた通りである。小さく唸って少年は足を止めた。
 この遺跡に進入してから二時間以上が経った計算になる。その間中、真っ暗な廊下は緩やかな起伏を続けながらも延々と廊下のままで、白い柱と天井と壁と床、それ以外の何かを彼らはいまだ発見することが出来ていなかった。あの声の主もである。
「もっと早く気付くべきだったけど、これは変な魔術にはまっちゃったかな……」
 顎に手を当ててぽつりと呟いたウィルを、ローグとレイナが見やった。
「幻覚を見せられて、同じ所をぐるぐると歩かされていたのかもしれない。丁度森の中で迷子になっちゃうみたいにね。まさか異空間に落とされたって事まではないと思うけど」
「……異空間?」
 その言葉に恐怖を煽られたのか、眉を寄せて問うレイナに、ウィルは笑って見せた。
「そういう魔術もあるんだけどね。……でもこれは、それこそ伝説級の、とんでもなく困難な術だから……多分違うとは思う」
「見たことあるの?」
 具体的な何かを思い起こしているかのような顔を見せた少年にレイナが首を傾げると、彼ははにかんだ笑顔を浮かべた。
「実際に発動してる所までは見たことないけど、それを研究してる人が身近にいたんだ。よく付き合わされてさ、何度も危ない目、見させられたんだよね。酷いんだよ、僕の方が魔力が高いからって、僕にやらせようとするんだ」
「あら、まあ」
 ウィルの、そんな歳相応の表情に、レイナは自然と顔をほころばせた。もう百日も寝起きを共にしてきているが、この少年が自分の事を語ってくれた機会は少なかった。彼について知っているのは、ウィル・サードニクスという名前と教会魔術士という役職、遺跡探索という現在の任務、それとほんの数日前に知った十五という年齢だけでしかないということにレイナはふと気付いた。
 十五歳。これは貧しい農村やスラムにおいてなら、十分に成人として扱われる年齢である。けれども、彼女たち冒険者の間では、肉体的に未完成なその年代はまだまだ子供とみなされるものだし、一生を費やしても学問を終えることが出来ないと言われる魔術士の世界においてなら尚更のことだろう。これまでにも他の教会魔術士に出会う機会はあったが、二十歳にも満たない者など会った事はおろか話にすら聞いたこともない。
 どうしてこの少年はここにいるのだろう? ひどく根本的な疑問をレイナは胸中に浮かべた。彼の過去には何があって、何を思って、何の為にこんな過酷な仕事をしているのだろう。彼が語らない彼の過去には、安穏と暮らす選択肢はなかったのだろうか。
「言っておかなくちゃいけなかったね」
 唐突に、そんなことを言い出したウィルに、レイナは心の底から驚いて目を見開いた。
「……?」
 きょとんとした眼差しが返ってくる。レイナの表情に彼の方が逆に驚いてしまったようだ。少々戸惑った様子で、ウィルは言葉を続けてきた。
「ええと、これからどうするか。考えてたんだけど、言ってなかったから」
「あ、そういうことか……そうよね」
 照れ隠しに自分の頬を撫でながらレイナは笑って見せたが、ウィルは彼女が何を誤解していたのか気付いていないようだった。……当たり前ではあるが。
「薬を半分まで使っても目処が立ってこないようだったら、今回は探索を諦めて戻ろうと思ってたんだ。戻るのにも同じくらいの時間がかかるはずだからね。ただ、二度目のアタックは僕一人でやるつもりでいる」
 その言葉に、ローグは無言で顔だけをウィルの方に向けたが、光の加減でその表情はレイナからはよく見えなかった。が、ウィルの方からはよく見えたらしく、ぎょっとした表情を作ってから慌ててぱたぱたと手を振って見せた。
「あっ、いや、別に君たちが邪魔って訳じゃないんだけど。ただ、新しい薬を取り寄せるのもちょっと時間がかかるから……」
「アホ。んなこと言いたいんじゃねえよ。お前だけで大丈夫かって言ってんだ。お前だって障壁の魔術を使い続けている以上時間制限が全くないわけじゃねえんだし、あの変な声のこともある。いくら専門家だってな、一人じゃ危険だろ。だからお前だって俺らを雇ったんじゃねえか」
 呆れた顔も同じように見ることは出来なかったが、声から察することは出来る。
「何が何だかわかんないまま踏み込んだからこんなことになったってのもあるんだろ。一旦戻って注文が届くまでの間じっくり再検討して対魔術装備仕入れて、もう一回全員でスタートの方が安全性は高いと思うがね」
 ローグとて全くの素人ではない。それどころか、状況判断についてならば十以上も若いウィルよりは余程経験を積んでいる。その彼に痛い所を的確に突かれて、ウィルはショックを受けたようによろめいた。多少芝居がかった仕草ではあったが。
「ロ、ローグがまともな事言ってる……さすが古代遺跡、常識が通用しない空間だ」
「このガキャ……」
 犬が威嚇するように犬歯を剥き出して、ローグは呻いた。
 と、さすがにそんなにふざけている場合ではないということは心得ているのだろう、あっさりとウィルはショック状態(の演技)から立ち直って言った。
「まあ、僕としても一人じゃ心もとないんだけど、今回は直接的な攻撃を受ける可能性も高くないみたいだから」
 何気ない様子で進行方向に顔を向ける。
「まあどちらにしろ、ここまで来といて勿体無いけど、一旦出直して……」
 唐突に、不自然な部分で言葉を切って硬直したウィルを、ローグとレイナは不思議に思って、見つめた。
「?」
 視線を、ウィルと同じ方向へと向ける。けれども先には変わらぬ漆黒がたゆたうのみで、他には何もない。だというのに、ウィルは確かにそこに何かを見つけた様子で前方を凝視していた。睨むのではなく、ただひたすらに他の感情の抜け落ちた、純粋な驚愕の瞳で。
 そして。
 彼が闇の奥に向かって走り出したのもやはり唐突な出来事で、ローグにもレイナにも、止めるという行動を咄嗟に取ることは出来なかった。
「ウィルっ!?」
 闇の中に消えていく少年の背中に、ローグは叫ぶ。が、ウィルは聞こえたそぶりもなく疾走を続け、ついには闇の中に見失ってしまった。少年の足は意外にも早かったが、さすがにローグにすら追いつけない程ではなかった。追跡を断念せざるを得なかったのは、彼にはそこに浮いている魔術の光源を動かすことも新たに作り出すことも出来なかったからだった。
「何だってんだ、あいつ……!?」
 伸ばした腕の先も見えないような場所ではそれ以上どうする事も出来ず、それでも二十メートル程は追いかけた道のりを収穫なしに戻りながら、ローグは再度、絶叫しなければならないことに気がついた。
 ウィルが消えていったのとは全く逆の方向――彼らがここまで歩いてきた道を、ウィルと同じような猛ダッシュで走り去っていく、レイナの後ろ姿を彼は見たのだった。



 12

 許さない、許さない、あいつ――
 こんな所に隠れていたなんて。もう逃がしはしないわ。
 ……絶対に……殺してやる!

「待ちなさい、ハロルドォォ――ッ!!」
 レイナの絶叫に、廊下を一目散に駆けていた男の背中が、ようやく遠ざかる事を止めた。数瞬遅れて、レイナも速度を緩める。五メートルほどの距離を置いて男と対峙した時には、レイナは既に、腰に差していた大振りのナイフを抜き放っていた。
「こちらを、向きなさいよ、ハロルド。あなたでしょう、わかっているのよ」
 全力疾走の直後の為に声を出すのも苦痛だったが、レイナは構わず、男にそう告げた。野宿をしても毎朝きちんと櫛を入れる髪が、惨めなまでに乱れて顔に垂れ下がってきていたが、そんな事は彼女にとってはどうでもよかった。
 まばたきする瞬間すら惜しみ見開いた目で、彼女は男を見つめ続けていた。
 ――追いつめられ、観念したのだろうか。男は徐にレイナの方を振り返ってきた。貧相なこけた頬。白髪混じりの髪。むさ苦しい無精髭。十年前に見たきりの、彼女が追い続けていた男の姿に間違いはなかった。
 見つけた。
 彼女の中に沸き上がるそれは、紛れもなく歓喜だった。正真正銘の喜びに、レイナは口の端を引き上げた。
「見つけたわ……見つけた。ようやくこの日が来たのね。嬉しいわ。ようやく……弟の仇を討てる日が、やってきたのね!」
 がくがくと震える腕が辛うじてナイフを保持する。恐怖などではない。決してない。武者震いだ。レイナはそう信じて疑わなかった。何よりも憎むべきあの男を、この手で、このナイフで突き刺して、血潮を噴水のように飛び散らせて殺してやる事が出来る、最上の喜悦の前に立った事で私は興奮している。いや、この男が弟にそうしたように首を絞めて殺してやるのが良いか。口からよだれを垂れ流し哀れにもがき苦しむ様は、きっと爽快な光景だろう。
 すっと震えが引く。剣を手にして昂ぶるなんて、素人のやる事だ。過度の興奮状態にあっては完璧な仕事は望めない。肩から余分な力を抜き、ナイフを持った腕を下げ、上体を起こし、彼女は男を――標的を睨み据えた。
「殺す……殺すわ、あなたを殺すの……殺すの……」
 凄絶な笑みを浮かべたその唇から呪いの言葉を延々と呟きながら、彼女は再度、男に向かって走り出した。



 13

「な……ん……?」
 あまりの驚きに言葉を紡ぐ事すらままならず、ローグは硝子の奥に映るレイナの姿を凝視していた。

 通路を引き返して走り去った彼女の事も彼は無論追ってはみたのだが、ウィルの時と同様に明かりの一つもない廊下では自分の安全を護る事すら不可能で、彼は大きく舌打ちをして足を止めた。仲間を護る事は当然すべきことだが、それは自分の安全が前提にあってのことだ。そうでなければお互いが足を引っ張り合う結果になって、余計に危険が増大する可能性すらある。これは冒険者として当然の心得だった。
「くそったれ……」
 悪態を吐き棄てて、元の場所に一人、戻る。ウィルが残していった魔術の明かりがぽつんと浮いているその地点は、これまで歩いてきた廊下と特に違いがある場所ではなかったのだが、丁度一旦話し合いを始めようとしていた為、全員分の荷物が放置されていた。ローグは躊躇せずレイナの鞄をあさり、彼女が管理している道具袋を取り出した。その中から、火石とランタンを拾い上げ、手早く点火する。燃料の燃える癖の強い臭いに眉をしかめてから、彼は特に重要な道具が入った袋ひとつだけを持ち、他の荷物は放棄してレイナが走り去った方に戻り始めた。
 レイナも冒険者としての経験は何年も積んでいるが、魔術の効果範囲内においてなら、対処能力はウィルの方が上であろう。子供を見捨てる事になるかも知れないという事はあえて考慮から捨て去って、ローグはレイナの救出を優先した。それは冒険者としては適正な判断と言えるかもしれないが、だからと言ってこの不快感が帳消しになる訳でもない。彼女やウィルの身の心配は元より、この魔術の罠の訳のわからなさ、それにまんまとはまってしまった自分の不甲斐無さ、その他諸々の苛立ちをそのまま怒声にして、彼は喉から迸らせた。
「レイナッ! いるなら返事をしろっ!」
 ――その瞬間だった。
 まるでローグの呼び声への返答のようなタイミングで、横合いの壁面が目の眩むほどの強い輝きを発したのは。
「!!」
 慌てて飛びのく――が、それは何らかの攻撃の前触れではないようだった。
 強烈な光はまばたきひとつ分の時間で収まり、後には魔術の灯のような、ランプよりは明るいが直視に耐えられないほどではないという光量に落ち着いていた。ローグは戦士の性で剣の柄に手をかけながら、その光源である壁を目を眇めて窺った。
 だがしかし、すぐさま細められたその目は見開かれる結果となる。
 光を発する石壁はいつのまにか鏡面か、硝子のような滑らかな平面になっており、そこには、今ローグがいるのと全く同じ廊下が、もうひとつそのまま向こう側に並走しているかのような風景が映っていた。
 その中央には――
「レイナ!」
 全力で走り続ける彼女の映像に向かって、ローグは声を上げた。が、彼女には彼の声は聞こえていないらしい。
『待ちなさい、ハロルドォォ――ッ!!』
 彼女は突如、絶叫した。そのあまりの音量に、思わずローグは耳を塞ぐ。それほどの声だった。レイナは特に物静かな女ではないが、それでも彼女がこのような声を上げるのは、ローグはいまだかつて聞いた事がなかった。
 レイナの声に驚いたのではないだろうが、彼女がこれまで追いかけていたそれが、ようやく足を止めた――この時、初めてローグはその存在を意識の中に入れた。それに続いてレイナも足を止める。見た目は中年の男のようであるらしいそれに向かって、抜き放った剣を手に提げて、レイナは呼びかけた。
『こちらを、向きなさいよ、ハロルド。あなたでしょう、わかっているのよ』
 息も切れ切れに、けれどもそんな事は全く意識にない様子で、言う。――長年の仲間に向かってこんなことを思うのは気が引けたが、彼女の形相は、まるで悪鬼のようだった。振り乱れた髪の隙間から血走って見開かれた目が覗く。元々、顔の作りは整っている女であるだけに、それは余計に恐ろしげに思えた。
 レイナの気迫に負けてか、ハロルドと呼ばれた男は彼女の方を振り向いた。その姿はどこにでもいる、中年のように見える。男の顔を認めて、レイナは唇が裂けるような深い笑みを浮かべた。
『見つけたわ……見つけた。ようやくこの日が来たのね。嬉しいわ。ようやく……弟の仇を討てる日が、やってきたのね!』
 歓喜に震えるレイナの姿を見つめながら、ローグは随分昔に彼女に聞いた話を思い出していた……

「私の弟はね、殺されたの」
 ――彼女がそんなことを語り出したのは、チームを組んで二年も経ってからのことだった。
 本来は、料理や子供の世話が好きだという彼女が、冒険者などという殺伐とした職を選択したその理由。
「兄弟はたくさんいたんだけれど、一番末のその子がね、ちょっと身体が弱くて。私がいつも面倒を見てたの。だからあの子も私に一番なついてて……」
 その弟が、ある日、突然殺されてしまったのだという。
「もし殺されなかったのだとしても、二十までは生きられなかったって……その年は不作で、もしかしたらその冬すら越えられなかったかもしれないって……」
 それから毎日泣き暮れて過ごしていた彼女を、母親や兄弟たちはそう言って慰めた。けれども。
「私は許せなかったの。あの男を。だから、あの男を探す足を手に入れるために、殺す力を手に入れるために、私は冒険者になったの。弟と同じように、苦しめて……苦しめて殺してあげるの……絶対に……絶対に……」
 確かそれを聞いたのは昨晩のように、野宿をしていた夜だったと思う。
 焚火の炎が彼女の瞳に照り返されて、揺らめいていたのを覚えている。

『殺す……殺すわ、あなたを殺すの……殺すの……』
「レイナ……」
 声を届かせられないやるせなさに奥歯を噛み締めて、その名を囁く。自分を戒める呪いの言葉を口にして、あの時と同じような不安定な火を瞳に宿す彼女の狂気に満ちた笑みは――泣き顔にも似ていた。



 14

「どういうつもりだよ、畜生ッ!」
 魔術装置に不用意に衝撃を与えることは非常に危険であるとかいった、普段ならば言われるまでもないような常識も、ローグの自制を促す事は出来なかった。レイナが映る鏡面に、思い切り拳を叩きつける。どの道、その程度では鏡はびくともしなかったが。
 怒りは、傍観者に向けてだった。必ずどこかにいる、この胸糞悪い罠を仕掛けた張本人に。
「あいつにあんな幻覚を見せて何が面白れえんだッ! ふざけてんじゃねえ! このチキン野郎が、いつまでも隠れてねえで出てきやがれ!」
 ローグの叫びは漆黒の空間にただ無為に響き、消え行き……
「……よく、分かったね。あれが幻覚だと」
 余韻が完全に消滅する、一瞬前。闇が、答えた。
「はっ……本当に出てきやがったか」
 さすがに感じた緊張に、背筋をこわばらせ、ゆっくりと後ろを振り返る。目の前は変わらぬ闇で埋め尽くされ、何もないように見えたが、彼はそこにあるものを、目ではなく、気配で捉えていた。すぐ傍に、何かの気配があるような――そんな事をレイナは言っていたが、恐らく彼女は……多分ウィルも、それを周囲の魔力の影響による感覚の混乱だと認識していたのだろう。それは違ったのだ。正確に言えば、半分だけ、違っていたのだ。
「さっきから、魔力の気配にコソコソ隠れながら見ていたのはてめえだな。ケツの穴の小せえストーカーみてえな真似してんじゃねえよ。仮にも遺跡の番人とかいう奴なんだろ?」
「ご明察。……見た目と口調程、頭は悪くないと見える」
 笑みすら混じった声音――それはやはり、闇自体から聞こえてきたように感じられたが、僅かな気配を頼りに、ローグは意識を鋭くした。声を聞いてもこの程度の気配しか感じられないのでは、感覚を撹乱されたら察知する事は出来なかったかもしれない。魔力に対して鈍感な体質が幸いしたという訳だ。まいったか、ウィル。真っ直ぐ前方の気配と対峙しながら、心の隅で呟く。と。
 音もなく、『それ』はローグの持つランタンの明かりの中に入ってきた。まず最初に見えたのは、細い足だった。しなやかな黒い足――前足に続いて、黒い鼻、鋭い目が現れる。
 豹。黒豹だった。森で戦った豹のような異様な爪や牙は生えておらず、見た目には何の変哲もない巨大化した黒猫のように見えた。
「口調はともかく見た目は余計なお世話だ」
 悪態をつくと黒豹は、さすがに笑顔を浮かべる事は出来ないようだったが、その代わりにおかしそうに目を細めてみせた。
「面白い人間だね。君は」
「生憎だが、てめえみてえなバケモンの一匹二匹で怯えてやれるほどの素人じゃねえんでな」
「そのようだね。僕の魔術を見破れたくらいなのだから、かなりの経験を積んだ冒険者とお見受けするよ」
 黒豹の賛辞を、しかしローグは鼻で笑って小馬鹿にする。
「あんなもん、どう考えたっておかしいじゃねえか。何の脈絡もなく出てきてよ。……それ以前にだな、まっとうな人間てのは暗闇の中じゃ姿は見えねえもんなんだよ。覚えといた方がいいぜ」
 レイナもローグと同じように、光を生み出す魔術など使えない。けれども彼女はあの暗闇の中で――ローグが同じ条件でウィルを追いかけ、たかだか二十メートルで断念したあの暗闇で、男の姿を見失うことなく追いかけていった。何故彼女にはそのような事が出来たのかという答えは、先程の鏡の映像の中にあった。どういう仕掛けなのかは分からないが、あの男の姿は黒い画用紙の上にクレヨンで描いた絵のように、闇の中に浮かび上がって見えていたのだ。あれならどうやっても見失うことはない。……が、あんなことが普通ありえるわけがない。
 冷静であればおかしいとすぐに気付くはずである。だというのにローグよりも余程注意深い二人が気付く事が出来なかったということは、相当強い暗示をかけられたのだという事なのだろう。
「やってくれるぜ、獣風情がよ。……あいつらは魔術で捕えて、この俺は御自慢の爪で掻っ捌こうっていう算段か? 料理方法を変える判断基準はよく分かんねえが、俺を甘く見たって理由なら、後悔させてやる事になるぜ」
 刃を抜き放ち、臨戦態勢を取りながら凄むローグに、黒豹はさも心外だという風に目を丸く見開いた。
「誤解しているね。僕はね、君にも同じ術をかけたつもりだったんだ。僕が侵入者を追い返す手段は、あれだけなものでね。相棒みたいに正面から敵と戦う力は、僕は持っていないんだ」
 相棒、というのは先日倒した豹たちのことだろうか。ローグが思い浮かべた内容を察したらしく、黒豹は軽く頭を頷かせた。
「彼らはその子孫たちだけれどね。相棒本人は、間違ってこの遺跡から離れすぎて魔力の供給が受けられなくなって、随分昔に死んでしまった」
 そう言った瞬間、黒豹がほんの少しだけ寂しそうな気配を声に滲ませたことにローグは気付いたが、聞かなかった振りをした。黒豹本人(?)も、自分の今の声に気付いていたのかいなかったのか、続けた言葉は既に平静なものに戻っていた。
「あの子達は見ての通りあんまり頭の良い子じゃないのだけれど、大抵の侵入者はうまく追い返してくれている。君たちのように、彼らの防御を潜り抜けてここまで辿り着いて来るほどの人に限り、僕が魔術でお帰り願うという寸法になっているんだ。……けど、肝心の魔術が、君には効かなかった。もっとも、今までもごく稀にそういう人もいたのだけれどね」
 そう言って、黒豹は肩を竦めるような仕草をして見せた。表情に感情を表すことが出来ない代わりなのか、妙に人間くさい仕草をする獣を見下ろしながら、ローグは眉を寄せた。教会魔術士であるウィルや、防御魔術を得手とするレイナがまんまとかかってしまった術を無効化するような真似が、自分に出来るとは思えなかったのだ。そんなローグの疑問に気がついた様子で、黒豹は顔を上げて、ああ、と呟いた。
「この魔術を無効化するには、魔術能力は関係ないんだよ。関係があるのは、映し出せる幻影の源を持っているかいないか。つまるところ、彼女にとっての……あの人間だね」
 不意に話をレイナの方に向けられて、ローグはしばし失念していた事にはっとして壁面に顔を向けた。レイナはあんな見るからに素人くさい物腰の中年などに倒されるような腕はしていないが、それは相手が普通の人間であるのが前提で成り立つ理論である。魔術で出来た幻影が、見た目通りの能力であるわけはない――はずなのだが、ローグが画面を見たときにはレイナの剣は難なく男の肩を捕らえ、大きな切り傷をそこに穿っていた。
「弱い……?」
 その方が有難い事ではあるのだが意表を突かれた心地で、ローグは呆然と呟いた。
「そうだね。あの人間には戦闘の心得はなかったようだ。あの幻影は、その源を持つ人間が思い描いた通りに再現されるだけだから、まあ、あんなこともある」
「訳がわからねえ」
 映像を眺めながら呑気に答える黒豹に、ローグは抜き放った剣を突きつけて、低い声で問いを投げかけた。
「てめえの意図は何なんだ。侵入者を拒むことなんじゃねえのか? これじゃ、殺すことも追い出すことも出来ねえじゃねえか。……そもそも、幻影の源ってのは一体、何だって言うんだ?」
 獣は怯えた様子もなくゆったりとした動作で振り向いて、笑う様に目を細めた。それを嘲笑と取ったローグは、抜き身の剣を突き出す形で構えて走り出し――
 一閃が、影を裂く。
 ――ように見えた。が、ローグの剣に斬られたのはその残影のみで、黒い獣は敵対者の怒りをあざ笑うかのように、軽々と彼の頭上を跳躍していた。
「っ!」
 背後を取られたことに戦慄して、即座に振り返る。
 が、獣はローグに尾を向けたまま――恐らく着地したそのままの体勢で、そこに佇んでいるのみだった。
「君の言うとおり」
 まるで何事もなかったかのように、呼吸に微塵の乱れすらなく、獣は告げてくる。
「僕の役目は侵入者を追い返すこと。但し、殺すことではない。ここは神殿なのでね。殺生はご法度なんだ。そしてあの幻影は」
 振り返る。ローグをではなく、鏡の奥のレイナを見る為に。
「幻影の主が最も憎んでいる人間を映し出すもの。僕の創造主である魔術士は、人間を最も強く縛り付けるものは、憎しみであると考えた。その考えに基づいて作り上げたのがこの魔術さ。殺しても殺しても足りない、そして実際に死ぬ事のない幻影と、永劫の戦いを続けさせる事によりその精神を捕縛し徐々に破壊する……つまりそういう罠なのだよ、これはね」
「てめっ……とんでもねえ事をさらりと言いくさりやがって……」
 ある意味、ただ殺されるよりも余程残酷な仕打ちである。彼にはそれほど――自分の精神全てを傾けて憎悪するような相手はいなかったが(だからこそ、この黒豹の術中に落ちなかったのであろう)、心底誰かを憎悪するという感情が理解出来ないという訳ではない。果て無い憎悪の炎に身を焦がして。それが、どれだけのエネルギーを使うのか、どれだけの苦痛が伴うのかは――彼女のあの、笑顔とも泣き顔とも言えない顔を見せつけられれば、嫌という程分かる。
「くそったれが。今なら俺もその魔術にかかっちまいそうだぜ。てめえの幻影を出して、な」
「怖い事を言ってくれる」
 くすりと、笑みの気配を洩らして――不意に、黒豹はひょいと顎を上げた。
「おや……これは驚いた」
 自分から意識を逸らされても、好機とこそ思えど気勢を削がれるなどという事はなかったが、さすがに獣がその後に続けた言葉は無視する事が出来ず、ローグは視線を鏡の――レイナが映るのとは反対側の側面に新たに光りだした鏡を振り仰いだ。
「あの少年がこの世で一番憎んでいるのは、あんなに可愛らしい少女だったなんてね」

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