Crusade Other Story いずれ闇夜を超えて

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 いずれ闇夜を超えて



 1

 見つからないさがしもの。
 終わりのないみち。
 枯れ果てた喉から出せる言葉は最早なく。
 理由も見失いかけているのに、ただ、求めて。求めて。求めて。



 嵌り込んでしまった沼の冷たさが感覚という感覚をことごとく奪い去ってゆく。震えるばかりの腕は枯れ木のように力が入らず、けれどもここから脱したい一心が、何の手応えもない泥や空気をかき回すという無為な作業を続けさせる。
 身体を這い上がってくる泥の指先に、彼は張り付いた喉から声ならぬ叫びを上げた。死体のように冷たくて生き物のように蠢く泥が背筋を撫でて、彼の小さな身体を奈落の底へと引きずり込もうとする。
 いやだ――
 少年は泥に爪を立てた。それが徒労でしかなかろうと、彼はそうしなくてはならなかった。
 抵抗は意地であり、望みであり、恐怖だった。
 落ちてはいけない。堕ちてはいけない。
 やわらかく凍る泥に腕を突き立てて、どうにかして逃れようと足掻く。飲み込まれてはいけない。飲み込まれたらきっと戻っては来れない暗い穴。何もかも忘れ、何もかも薄れる安寧の地。堕ちてしまえば昇ろうと足掻く事もなくなるあたたかい褥。
 闇に抱かれる恐怖と等しい、闇の安息への羨望。
 それでも彼は抗う事を止めなかった。認める事は出来なかった。このまま詰めた息を吐き出してしまいたいと願う欲望に鎖をかけて、泥を啜り、這い上がる。
 そうだ。あそこまでいけば。ここから出れば。あのひかりのある場所まで行けば。昇れば。ここから逃げ切れば。
 ――何が、あるというの?
 冷ややかな囁きに全身の力が一挙に奪われる。
 ――何もないよ。
 ――何もなかったでしょう?
 ――知っているのに。
 ――見つからないことは、知っているのに。
 少年は、悲鳴の形に口を開いた。腹が、ぬかるみを滑る。
 いやだ。
 もがけばもがくほど身体は泥の中に沈み行く。もがく事をやめても沈む。
 どうして。どうすればいい。わからない。いやだ。いやだ。沈みたくない。失いたくない。諦めたくない。認めたくない。寒い。たすけて。暗い。誰か。たすけて。僕は。僕は。お願い。もう。ゆるして。
 小さな少年の身体はやがて泥に抱き寄せられつめたい沼の中に沈み、伸ばした腕の先が水面下に――










「…………ッ!」
 少年は、ベッドの上で目を覚ました。
 目に入るのは安普請の天井。昨日の夕暮れを過ぎた頃、現在行動を共にしている冒険者と入った古びた宿屋の一室だった。
 獣のもののような、荒い吐息がすぐ間近で聞こえ、身が強張る。――が、それが自分のものであった事に数秒してから気がついて、彼は口元を歪めた。
 苦笑をしたつもりだった。けれど、それは苦笑ですらないただの筋肉の歪みにしかならなかった。呼吸の乱れは、表情一つまともに作る事すら妨害した。
 呼吸と同じように、心臓の鼓動も苛つくほど耳に煩く、彼はどうにかしてそれを押さえようと寝間着の胸元を鷲掴みにした。と、そこがぐっしょりと湿っていることに気がつく。ひどい寝汗だった。――いや。
(泥水……かもしれない……な……)
 思い付きを胸中で言葉に形にすると、唇の歪みは今度はきちんと苦笑になったようだった。ようやく、許しを得た心持ちで、彼は起き上がる。
 開け放しの窓からひやりとした風が舞い込み、冷え切った身体を更に凍えさせる。それでも、それは今の今迄浸かっていた沼に比べれば生ぬるい湯のようだった。
 ぎしり、と軋むような痛みを全身に感じながら、少年はベッドから足を下ろした。悪夢は、精神ばかりでなく身体も蝕むのだろうか。肘を手のひらでさするがそこには実際には傷などは見当たらない。それは、もう随分と前――この悪夢を見始め、この痛みを感じ始めた頃から幾度も確かめたことだった。
(当たり前じゃないか。夢……なんだから)
 夢なんだから。
 痛む身体を引きずり起こし、少年――ウィル・サードニクスは、部屋に備えてある手水桶に水を張って、顔を洗った。



 2

「目、赤いわよ、ウィル」
 不意に、すっと隣に並んできた軽装鎧の女に囁かれて、少年ははっとしたように顔を上げた。目の前では心配そうに柳眉を寄せた女が、彼の顔を覗き込んでいる。森の中の湖のような緑色の瞳の中に映る自分の姿は、さすがに鏡に映したようにはっきりとは見えなかったが、それでも少年は、彼女の見ているであろう像を脳裏で結んで、その中にある腫れぼったい自分の目にそっと触れた。
「何だぁ? ママのオッパイでも恋しくなって泣いちゃったかぁ?」
 物を思う間もなく、にやにやとした声が前方から投げかけられてくる。二人を先導するように歩いていた、こちらも簡単な作りの鎧を着た男が、やはり声と同様ににやにやさせた目で振り返って来ている。
「ローグ」
 眉を寄せたまま男の名を呼ぶ女戦士を無視して、男はけけけ、という笑い声を少年に投げて寄越す。いつもの事ながら、その言動にいささかむっとして、少年は唇を突き出した。
「昨日ちょっと寝付けなくて寝不足になっちゃっただけだよ! 変なこと言うなよな!」
「ほほーう、ママのことを思い出してたら寝られなくなっちゃったんだ、ウィル君はー」
「あのねーっ!」
「もう、ローグったら」
 殆ど諦めた調子ではあるが重ねて、女がたしなめる。男は、頬を膨らませて駆け寄ってきた少年を片手で軽くあしらいながら、ほら面白い見世物だろと言わんばかりに視線を女の方へと向けた。少年は殴りかかるように腕をじたばたとさせるが体格差がありすぎて、ろくに当たりもしない。これは男が特に大柄ということではなく、少年が単純に可愛らしいサイズであった結果だった。身長も身体の幅も成人男性の平均よりはやや大きめだが戦士としては標準の男の、胸あたりまでしか少年は身長がない。
「だっておもしれえしよー、ガキからかうのは」
「ガキとか言うな! これでももうすぐ十五になるんだぞ!」
「十五!? うっそだろ、十五!? あははは十五!?」
「更に笑うな! 連呼して笑うな! いいだろ僕はあとでまとめて大きくなるタイプなんだ!」
「そうかー頑張れよー応援してるぞー」
「うっわむかつく! レイナー」
「はいはい」
「げっ、結局レイナに泣きつくんじゃねえか、きったねえガキだな!」
 彼らのやり取りをここしばらく見続けて、パターンを完全に把握していた彼女は、少年が言い出すよりも先に男の背後へと回っていた。男のわきの下から腕を差し入れて、少年の要望どおり肩を捕らえる。見た目は細腕の女だが、彼女は格好から分かるとおりに冒険者として活動している戦士で、一旦捕らえられてしまえば、同じく戦士である彼とは言えども簡単に抜け出せるすべはない。
 羽交い絞めにされた男から少年は小走りに数メートル離れてからくるりと向き直り、速度をつけてダッシュ。
「ぐえッ」
 綺麗な飛び蹴りを、男のみぞおちに決めた。皮製の軽装鎧は対刃効果は高いが、鈍器での攻撃にはそれほど強くない。
「どーだ」
「どーだじゃねェだろこんガキ……」
 うずくまる男と、その目の前で腰に手を当てて胸をそらせる少年を眺めながら、女は目を細めた。



 3

 キィン!
 金属がぶつかり合う甲高い音が、ほんの数分前まで少年と男が年甲斐もなくじゃらけ合っていた森に響いた。
 正確に言えばぶつかり合うものは金属同士ではなく、金属である剣と、硬化した蛋白質、素直に言えば動物の爪だった。ナイフのように長い爪と地につかんばかりの牙を持つ異形の豹が五頭。三人の冒険者の前に現れた敵はそれだった。
 飛び掛ってきた一頭の爪を剣ではじき、男――ローグは仲間二人をほんの一瞬だけ振り返り、位置を確認する。レイナも剣を抜き、腰に下げた魔術道具の火石で即座に点けたのであろう松明をもう片方の手に掲げて二頭の猛獣を牽制している。ウィルも、そのすぐ傍にいることを視認して、彼は前の三頭に向き直った。
「成る程。ケダモノにゃ火だよな」
 呟いてから、ローグは剣を身体の前に掲げたまま、剣の鍔にはめ込んである丸い紅玉に左手で触れ、小さく言葉を刻み始めた。古代神聖言語の耳慣れない韻を耳にしても、獣たちは特に恐れた様子は見せなかった。それはそうであろう。凶暴な殺戮者とはいえ所詮ただの動物に、この行為が示す意味などわかるわけがない。その代わり、この人間の男が攻撃の態勢にあるということは本能からか察しているようで、獣は警戒を続けたまま攻撃を仕掛けようとはしてこなかった。
 うまい具合に与えられた時間の中で全ての準備を終え、ローグは勝利を確信してにやりとした。
「中途半端な知能が仇になったなザマーミロ! 火焔玉ッ!」
 男の歓喜の叫びと共に、彼の剣の鍔、左手の位置から、手のひらをいっぱいに広げた程の大きさの火球が続けざまに十個近く射出される。標的にぶちあたり爆裂した火炎の壁の向こう側から、直撃を受けた豹の、断末魔の咆哮が響き渡った。
「はっ! 『魔法剣』ローグ様の実力を思い知った……かっ!?」
 上機嫌で口上を切っていた声が、最後だけ跳ね上がる。
 爆炎と黒煙の中から飛び出してきた大きな影を、彼はすんでの所で地に伏せてかわした。影の主、というより影そのものは、それには気付かずローグの頭上を疾風のように行き過ぎる。
「やっべ、レイナ、一匹やり損なった!」
 地面に四つんばいになった格好のまま叫ぶ男の声に思わず反応し、レイナは瞬時、自分の前に既にいた二匹から意識を逸らした。それが、獣にとっては格好の好機になる。
 女の隙を悟り地を蹴った獣の片方に、レイナは咄嗟に持っていた松明を投げつけた。顔面にその一撃を受けた一匹が大きく吼える。松明の火は油の浮いた獣毛に移り、瞬く間に炎が豹の全身を舐めた。しかし、火だるまになった獣の上から、ローグと相対していた獣が飛び出してもう一頭に並び、数瞬前と同じ状況を形作る。
 発生した巨大なかがり火に、残り二頭も怖気づくのではないかという計算がレイナの中には働いていたのだったが、そううまくはいかなかった。先程のローグの攻撃によって獣の攻撃衝動は彼女が思った以上に昂っていたのである。
 レイナは手に持っていた片手剣の柄尻に、松明を捨てて空になった左手を添え、迫りくる獣に対して構えたが、それは誰が見たところで苦渋の決断以外の何物にも見えなかった。短剣一振りではどれだけの使い手であろうとも二頭の猛獣を捌くことは不可能だろう。そして彼女はローグと違って攻撃魔術を行使することはできなかったし、出来た所で今から唱えても間に合わない。
 獣が跳躍する。一瞬にして距離を詰めた敵に、迷うことなく爪を振り下ろした。鋭い切っ先が彼女の胸を抉る、直前。
 彼女は背後に庇っていた少年を見捨て、横に跳んで逃げを打った――
 ように、観覧者がもしいたとすれば、見えたことだろう。
 が、逃げたレイナの顔にこのとき浮かんでいたのは何の変哲もない事象が想像通りに起きたというそれだけの感情だった。そして、レイナという盾を失ったウィルにも、何ら驚愕の色は浮かんではいなかった。まばたき一つせずに、冷静な――いっそ、冷徹とも言える無表情で迫り来る猛獣を見つめている。
 音もなく、彼は右腕を前に突き出すようにして振り上げた。
「火霊乱舞」
 眼前に迫った獣の爪を平然と見据えながら、少年は古代神聖言語で呟く。
 呼び声に応えて発生した焔の柱は、瞬時にして二頭の猛獣を黒炭に変化させた。



 4

「ないすなーいすさすが俺の仲間」
 拍手代わりに自分の膝をぺちぺちとはたきながら立ち上がり、仲間の方へと歩いてくるローグに、手のひらに付着した土を軽く払いながらレイナは顔を上げた。
「怪我はない?」
「おう。回避能力には自信があるんだ」
 ふふん、と得意げに鼻を鳴らすローグに、ウィルが一言。
「……それって翻訳すると『逃げ足だけは速い』ってことだよね」
「なにをぅこのチビッコ!」
「チビッコ言うなっ!」
 猛獣の死体がごろごろと転がるそんな場所で、先程のじゃらけあいの再開とばかりに騒ぎ始めた二人に、レイナはいつもの事ながら呆れてしまう。
 この三人がチームを組んで――正しくはローグとレイナの二人連れにウィルが加入してから約三ヶ月、冒険者という仕事柄、幾度も戦闘というものを経験してきていた。その中で自然と作られた各自の役割は、今はもう、条件反射のように身についている。ローグが先陣を切り敵の戦列を切り崩し、攻撃魔術は使えない代わりに回復、防御の術の修行を積んでいるレイナが補助をする。と同時に彼女が囮になる形で引き付けた敵は、攻撃魔術においてはローグを上回るウィルが一掃する――個々の得意分野がそれぞれ上手い具合にばらけていた所為もあり、何年も共にチームを組んでいたかのような連係を取る事が出来る。
「惜しいよなぁ。このヤマが終わったらウィルは抜けるんだもんなぁ」
 最初は、子供なんかを連れて冒険するなんてなどと言っていたはずのローグも、この頃はそんな愚痴を漏らすようになったのだが、それについてはレイナも全くの同意見だった。
 公式には教会魔術士という役職を持つウィルは、任務が終了すればチームから抜け、教会に戻る。そしておそらくもう二度と一緒に仕事をする事はもちろん、会う事すらなくなるだろう。基本的に教会魔術士というのは一介の冒険者とは住む世界の違う人間であるし、元々、ローグやレイナは彼に雇われただけの関係なのだからそれはそれで当たり前なのだが、そんな当たり前の事がレイナには実に残念に思えてきている。ウィルが入る前にも魔術専門の冒険者と組んでいた事もあったのだが、あの時はこれ程スムーズな連携を取る事は出来なかった。余程、ウィルとは相性がいいという事なのだろう。しかし戦闘に関しても惜しいのだが、彼女にとっては自分の弟を彷彿とさせる無邪気な少年ともうすぐ会えなくなってしまうという方により寂しさを覚えるのだった。
 ウィルの任務、古代遺跡の調査も残す所この先の一個所のみである。



 5

 ローグは焚火の中に、集めておいた小枝を一本、放り投げた。ぱちんと爆ぜる火で赤く染めた瞳を、毛布に包まり横になる少年に向けた。
「おーい、ウィル」
「もう寝てるわよ」
 答えてきたのは少年ではなく、長年の相棒の方だった。穏やかな寝息を立てる少年のすぐ隣で、レイナは母親のような笑顔でその姿を見下ろしている。――こんな稼業を続けてさえいなければ、この娘もそろそろ母親になってもおかしくはない年齢であることをローグはふと思い出した。とは言え、さすがに十五にもなるような息子がいる年ではないが。
「よっぽど疲れたのね。誰かさんにめいいっぱいいじめられて」
「戦闘じゃなくてそっちかよ、原因は。ってかいじめてねえし」
「戦う相手がいるような場所でそんなことをする人が、原因よ」
 半眼で睨みつけながら切り返されて、ローグは、むーと唸った。何とか反論の余地を捜さんと、次に投げ入れようとして手に取っていた小枝で、空中に円を描いて考える。
「……だって、おもしれぇし」
 出てきた言葉は、考えた割には実のある反論ではなかったが。
 レイナが、やれやれと肩をすくめて見せる。
「全く、いい歳して。もうちょっと手加減してあげなさいよ。あの年齢の子があんなにガキだガキだ言われたら怒るのは当たり前でしょ」
「俺はお前程はあいつをガキ扱いしてねえよ」
 昼間、ウィルがやっていたのの真似をして、唇を尖らせて反論すると、レイナはきょとんと眉をあげた。
「そんなに、してるかしら」
「しすぎ」
「……うーん。だって可愛いんだもん」
 簡単に認めるところを見ると、自覚は少なからずあったらしい。ウィルの寝顔を名残惜しそうに見下ろして、レイナはその場を立ち、ローグの、というより焚火のすぐ傍に腰を下ろした。
「ま、いいんじゃねえの。全然気にしてねえよ、あいつは」
 小枝を手から離し、炎の中に躍らせる。ぱちん。小気味良い音がする。
「……ええ」
 焚火の音にかき消されるほどの小さな声で、囁くようにレイナは答えた。
 あの少年は言葉では不服そうなことを言っているが、その実、レイナの子供扱いに対しても、ローグのからかいに対しても、何一つ不満は持っていないようだった。自分がじゃれつくことで、気楽なお遊びが続行することを、素直に喜んでいるという様子だ。
 それとも端的に、自分が子供らしくしていられること自体を喜んでいる、とでも言うべきか。
「あいつは、子供じゃねえよ」
 胡座を組んだ膝の上で頬杖をつき、炎を眺めながらローグは呟いた。
「もちろん、最初からただの子供だなんて思ってなかったけどよ。あの歳で教会魔術士って言うんだから、並みのガキなはずはねえしな」
 初めてウィルと顔を合わせたその時は、さすがに驚いた。遺跡探索の同行者を教会魔術士が求めている、というのを冒険者ギルドで聞き、依頼人の顔を見てみればほんの子供であったのだから、驚かないわけはない。
 無理に称号通りの威厳を捻り出そうともせずに、だが形式に従い律儀な説明口調で契約を取り交わしたあの時は、さすがに教会魔術士というだけあって「大人っぽい子供」だと思った。
 が、数日旅路を共にしてこちらの性質が分かってくると、彼は存分に「子供らしく」振る舞うようになってきた。その方が、こちらとしても相手にし易い事を察しての配慮であった事は、しばらくしてから気がついた。
 けれども、それはある程度聡い子供であれば、やってのける芸当である。
「目なんだよな」
 唐突にその真理に気がついたように、ぽつりとローグはそれを口にした。
「化け物を目の前にしてもさ、あいつ、これ以上ねえってくらい冷静なんだ。獣の顔が、鼻息がかかるくらいの場所にあっても……奴等の内臓がぶち撒かれる瞬間でも、眉一つ動かしやがらねえ」
 ――いや――
 言葉を紡ぎながら、ローグは自分の考えに、少しずつ修正を加えていく。
 冷静――その単語が少し引っかかった。どんな化け物が目の前に現われようとも、平然と、物怖じもせずにあの少年は敵を見据え、無慈悲に処分を下す。敵に腕を振り上げ魔術を編み上げ……必要以上に強大な、全てを焦がし破壊し尽くす最上級の炎の魔術で、どんな手負いの敵であろうとも容赦なく殲滅する。
 あの目は――冷静な者の目だろうか?
 戦闘中に一瞬しか見せないものでしかないのに、異様に印象に残っているあのダークブラウンの瞳を脳裏に浮かべて、ローグは無意識に、手の中の小枝に力を加えた。
 ……違う。
 加圧に負けてぱきんと小枝が折れるのと同時に、ローグは思い至った。
 知っていた。十年近くもこんな稼業を続けていれば、あんな視線をこの身に受ける経験だってする。
 あれは、おそらく憎悪だ。
 普段は微塵たりとも表に出す事のない……やり場のない悲しみにも似た、静かなる憎しみ。鬱積した憎悪を破壊衝動に変えて、哀れな敵対者に向けて発散しようとしている。
「ローグ?」
 心配そうな声で呼ばれて、彼ははっとして意識を隣の女に移した。柄にもなく険しい顔を浮かべているローグを、彼女はじっと見つめていた。慌てて取り繕うように、彼は普段そうしているように口角に笑みを浮かべて見せる。
「なんでもねえ。……ただ、あいつはああ見えて、底の深い奴だなって思ったんだ。明るく振る舞ってはいるけど、な」
 それは自分の中に潜む物を封じておく為の、護符なんじゃないか……さすがに、そうは言えなかったが。
 レイナは、そうかもしれないわね、と小さく同意してから、休む準備を始めた。もう夜も遅い。ローグも立ち上がって、荷物の中から薄汚れた毛布を引っ張り出す。焚火の炎に燃えさしを適当に突っ込み直してから彼は横になった。食事の為だけのつもりで作った火の残りなので明け方まではもたないだろうが、今の季節なら炎が絶えてしまっても別に構わない。頭の下で腕を組み森の木々に遮られた星空を見上げながら、息を吐く。
 何をそれほど憎んでいるのかなんて、分からない。けれど――
 いくら外界と自分とを笑顔の仮面で隔てても、あいつがあの小さな身体の中に抱える狂気じみた深い闇は、いつか身体の外に飛び出して、あいつ自身をも飲み込んでしまうんじゃないだろうか。



 6

 ウィルが活動を開始したのは、二人が眠りに入ってしばらく経ってからだった。
 戦士は眠りながらも常に周囲を警戒するすべを身につけており、ちょっとした物音ですぐさま覚醒しかねないので、寝具から抜け出す作業一つにも、戦闘時のような緊張を要求された。音をさせないように毛布を脇によけ、柔らかい土の部分を選んで歩き、彼は簡易的な野営地から離れる。
(殆ど、素なんだけどね)
 森の中を静かに歩きつつ、小さく苦笑して、ウィルは胸中で呟いた。確かに、子供っぽい仕草は自分で意図して行っているものだ。が、さほど無理をしてそうしているわけではない。あれが演技であると気付くのはたいしたものだ。意外と、あのローグは鋭い所があるようだった。さすがに人間、三十路が近くなると他人を見る目も育ってくるねと、ローグ当人を目の前にして告げるような気持ちで独白を続けてみる。返ってくる答えは、まだ二十八だ全然近くねえ、とかそういった感じだろう。我ながら的確だと思える想像にウィルは少し楽しくなって、小走りに駆け出した。
 一人抜け出したのは、彼らには見せられない極秘の作業をしなければならないとかいうような、特殊な意図があってのことではない。ただ単純にその辺を散策しようと思い立っただけだ。ウィルの眠りは浅い。それは、戦士たちのように訓練で身につけた浅さではない。長く眠ること、深く眠ることが嫌いだった。眠ることが怖かった。
 一生、眠ることなく過ごせればいいのに。
 夜に身を震わせて眠る必要さえなければ闇に怯えることもなく、目を閉じる必要さえなければ闇そのものを知らずに済むかもしれないと言うのに。
 ぞくりとした寒気を感じて、ウィルはそれを振り払うように首を振った。常に感じている身体の痛みが疼きに変わる。普段は我慢出来る範囲のものが、その限界を超える兆候だった。ウィルは二の腕に爪を立て、別の痛みを自分に与え、それをやり過ごした。

 森の中を、沢の流れの音が聞こえる方へとウィルは歩みを進めていた。しばし進んで月明かりに煌く川面を目の前にし、ふと、ローグの言った言葉を思い出した。
(目……か)
 ウィルは手を膝について流れの緩い水面を覗き込んだ。本来はダークブラウンの自分の瞳が、無彩色の世界の中に漂う。
 どうということはない子供の顔のように、彼自身には思えた。頬も唇もふっくらとしていて女の子のようだし、ローグの指摘した目も、生来の二重瞼と、自分より身長の高い人間を相手にし続けてきたためについた上目遣いの癖の所為でいかにも子供じみてぱっちりとしている。レイナのような聡明な印象のある切れ長な瞳ではないし、ローグのようにそれだけで相手を萎縮させるような眼力もない。ただの、子供の目だ。
 ここに、ローグは恐らく、ウィルの中の『闇』を――ウィル自身、正体を掴み兼ねているあのどす黒い沼を垣間見ている。……つくづく、嫌になるほど鋭い。これを見つけ出されたのは、まだ二人目だ。
「……結構顔に出るたちなのかなぁ……純粋な少年だしね、僕」
 一人で吐き出す笑顔は、嫌でも皮肉なものになる。水に映る自分の顔が見ていられなくて、ウィルは手近な小石を放り投げた。小石は暗い水面に吸い込まれ、そこから発した同心円状の波紋に少年の顔はかき消されていった。

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