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 首都の空気が澱んでいる。
 それを感じ始めたのはいつ頃からだっただろうか。清澄な筈の首都リベルバーグの空気に目に見えない澱のような重苦しいものが混じっていることを、ミナは薄々とながらも感じていた。それは別に第六感とでも言うような根拠のない感覚などでは決してなく、行き交う武装した兵士の顔の険しさや、その足取りのせわしさが如実に感じさせる確かなものだった。まさに戦闘開始前や接敵直前のような嫌な緊張感だ。
「ラムダさん!」
 丁度、息を切らせて街路を早足に歩いていた友人を見かけ、駆け寄ってミナが声を掛けると、ラムダは切羽詰った表情で振り返った。
「……何かあったの?」
 その表情にやはりただならぬものを感じ、眉を寄せて問う。彼女の様子は、首都に充満しているひりついた空気を凝縮したようなものだった。
「ううん……ああ、いや。ミナにも言っておくべきね。……ネツの部隊が本土を攻めてきたわ」
「本土を?」
 言いよどむ様子を見せてから、周囲、特に一般市民に聞かれないよう声を最小に潜めて告げられた事実にミナも顔を曇らせた。中央大陸への足がかりにもならない他国本土は戦略上の価値は薄いが、国の威信の問題として蹂躙されて黙っていていい場所でもない。基本的に民間人の住む街が戦闘に巻き込まれる事は国際法の定めによってまずないが、だからと言ってすぐ枕元で刃物を振り回されるような真似は十分に国民の不安を煽ることになる――つまりはっきりとした挑発行為だ。
「本当に瞬く間の話で、この三日で既に三つの砦が奪取された。今は沿岸に回ってきて、アデムガン半島で交戦中」
「三つって、」
 どうしてそこまでの被害が出るまで放置したのか、とつい反射的に口にしようとしてしまったが、放置したくてしたわけではない筈だと察する。
「……《フォアロータス》に連絡は?」
 ミナはエルソードの最大級の部隊の名前を口にした。敵が部隊単位で乗り込んできているというのならこちらも相応の戦力を用意しないと対応は難しい。ラムダも部隊に所属してはいるが、彼女の部隊は規模が小さく、絶対的に頭数が足りない。大きな作戦行動を行う場合は、他部隊と連携する必要がどうしてもある。
「《ロータス》にもうちの部隊長からずっと話は入れてるの、でも、ホルデイン国からの攻勢に遭って戦術目標攻略に手間取ってて人員は回せないって……トラが、傭兵団の方を当たってもくれてるんだけど、あの連中はヤバいヤマには中々乗ってこないし、どうだか……」
 憔悴しきった表情で爪を噛むラムダを見て、ミナはふと嫌な予感に駆られた。傭兵団が遭遇を回避するような敵――
「……本土を攻めてきてるネツァワルの部隊って、どこなの?」
 声が震えてしまわないように慎重になりながら、静かに問うと、ラムダは悲痛そうに顔を歪めて、一言呻いた。
「……《ベルゼビュート》」
 ――やっぱり――
 覚悟はしていたその名前に、ミナはほんの小さく唇を噛んだ。下を向きそうになってしまった視線を力を入れて前に戻し、ラムダに頷いてみせる。
「分かった。私も準備しておく。野良の兵も召集するんでしょう? 私が行っても物の足しにもならないかもしれないけど、頭数が足りないよりはましだわ」
「で、でもミナ、大丈夫なの……?」
 自分よりも余程狼狽しているように聞こえるラムダの声を聞いたからか、ミナは思ったよりも自分の心が凪いでいる事に気がついた。
「何が?」
 にこりと笑って言うミナに、ラムダはそれ以上は何も言わなかった。

 いくつかの小規模部隊と傭兵団からなる混成部隊は、エルソード固有の国土たるペデスタル大陸最南端、アデムガン半島に進軍した。既に大勢は決したとも言える状況ながらもどうにかまだ制圧されていなかったアデムガン砦に兵士達が結集する。人数も決して多いとは言えず、寄せ集めに近い顔ぶれでもあったが、それで四の五の言う者は端からこの場にはやってきてはいない。
 砦のブリーフィングルームで簡単な打ち合わせと情報の収集が行われた。
「目標妨害の報復だってさ」
「口実があれば何でもいいんだろ」
「何にしろ、アデムガンはもう捨てるっきゃねえ。サーペント辺りまで引いて足止めしている間に《ロータス》がホル共を片付けて帰還すりゃあまだ目はある」
「砦そのものはともかくとして、いまだ交戦中の残存兵の退却のバックアップに当たらないと! このまま黙って見捨てたら嬲り殺しよ!」
 本土の砦などは形骸化した意味しか持たず、そこを護る者の多くは、実戦と称して配備された訓練中の新兵程度の者が多かった。一部隊という寡兵にて攻め込んできた敵軍に対してどうにか防衛線を敷いてはいるが、その旗色は圧倒的に悪く、思うように増援も得られぬまま各地を転戦する間にじりじりとその兵力を減らしてしまっていたようだ。
「ったく、そんなんならいちいち戦わずに揃って戦線離脱しちまえばいいものを」
 と、兵士である事を根本的な所から否定することにもなるタイガの発言に、ラムダがむっとした視線を向ける。「あんた敵前逃亡を恥とは思わないの、一生懸命戦ってる彼らの気持ちを考えられないの」「命あっての物種だろうが」一触即発の空気が流れたが、仲間内で揉めている場合ではないと別の者が嗜める。
「無理はしない、洟垂れのガキ共の撤退を支援する程度、これ以上の仕事は絶対にしねぇぞ。いいな」
 最終的には、ちっと舌を打ちながら言った傭兵団のリーダー格であるタイガに、今回の編成の纏め役となっているラムダの部隊の部隊長が重々しく頷いた。
 喧々諤々と交わされていた会話を部屋の隅にぼうっと立って聞きながらミナは窓の外を見ていた。
 普段ならば打ち合わせなどに呼ばれたりする身分ではないので、話し合いに口を挟むやり方もよく分からないし、意見も求められない。今回彼女が出席しているのは、取りも直さず彼女までもが入室しても差し支えない程に規模の小さい集まりだったからだ。それでも全員が全員、出席しているわけでもないのだが。半数以上は着々と出陣の準備に当たっている。
 自分も何か補給をする必要はあっただろうか、と鞄を開く。各種回復薬も十分に持っているし、武器に魔力を付加するクリスタルジェムも揃っている。そしてこれも――
 ミナは、鞄の底の方に隠すように入れてあった、エメラルドグリーンの液体の入った小瓶をつまみ上げた。

 ネツァワル軍――《ベルゼビュート》が設営した攻撃拠点に、斥候からの状況報告が入ってくる。
「敵増援を確認。部隊《銀糸の竪琴》、《リベルバーグ傭兵団》を中心とする混成部隊の模様。そして……」
 一拍の間を置いて、告げられる。
「『子猫』を発見しました」
「ほう、敗色濃厚な本土戦にも駆けつけるか。感心感心」
 その賞賛は増援部隊に対してか、はたまた『子猫』個人に対してか。齎された報告を聞いて部隊長は赤い唇をニッと上げた。居並ぶ部下達を面白そうな表情で見回し、そのうちの一人で目を留める。口元に薄い笑みを佩いたまま彼女はその部下――クォークを、昂然と胸を逸らして見下ろした。目線の高さの関係で実際は見上げる形になっているのだが、感覚上は明らかに見下ろしている。
「例え恋人、親兄弟であろうとも敵として相まみえれば全力で戦うが乱世の習い、と言いたい所だが。どうしても前線に向かいたくない場合はナイトにでもなって哨戒任務に当たっていても良いぞ。私が許す」
 からかうような発言に、しかし彼は不愉快そうな顔はおろか眉一つ動かさない。何の興味も覚えなかったとでも言うよな無表情で、ふいと視線を逸らした。
「監視を付けますか」
 耳打ちするように後ろから囁いた別の部下に視線も向けず、部隊長は言った。
「構わん。好きにやらせろ」
「――緊急報告! 緊急報告!」
 その時、直接でなく全軍への遠隔通信で届いた報告に、部隊長は唇を引き結び、耳を傾けた。
「敵キマイラ発見! 東崖上を敵一団と共に南下中! キマイラ召喚者は『子猫』である模様!」
「ほう」
 再び、部隊長の口元が興趣の色に染まった。

 多数の味方に囲まれて、キマイラを召喚したミナは進撃を開始した。
 起死回生のファイナルバースト――は難しいだろう。存在感のあるキマイラの姿は中央の戦線からも敵に視認されてしまったかもしれない。ただ、敵側にナイトは現状いないと報告が上がっているので、多少の時間を稼ぐ事は出来る筈である。キマイラの白兵戦能力を以って戦線を支え、逃げ遅れている味方の撤退を支援する。ミナの目的はそれだった。
 案の定、進軍中に敵ナイトによる対応はなく、何の障害もなくミナの操るキマイラと増援の歩兵は最前線に到着した。相対している敵集団が、兵士達の中に隆々と聳えるキマイラの巨体を見て明らかに怯む。
 ミナは獣の咆哮と共に、氷の吐息を撒き散らした。人間の氷ソーサラーの使う最高位の氷魔法、ブリザードカレスに数倍する激甚な吹雪が周囲一帯に広がり、多くの敵兵を一度にして氷結させる。
「かかれっ!」
 タイガが発した怒号を合図にして、反撃が始まった。
 氷、炎、そして雷。
 味方の矢面に立ち、ありとあらゆる力を駆使して、ミナは前線を支援した。果敢に突貫しようとしてくる敵ウォリアーを氷漬けにして炎で焼き払い、遠くから魔法を撃ち放とうとするソーサラーの集団には一帯を貫く電撃の嵐を見舞う。いくら召喚獣とはいえ白兵戦である以上、ミナの戦闘技術自体は心もとないものではあるが、キマイラの能力は人間のそれとは駆け引きの必要すらない程に桁が違う。ミナの存在で、防戦一方であった戦線に攻撃の余地が生まれていた。
 と、その時だった。
 薄皮一枚隔てたようなどこかほんの少しだけ遠い所にあるように感じる皮膚に、ミナは軽い痛みを覚えた。はっと気づいて、殆ど影となっている自分の足元に視線を落とす。
「足元がお留守だぜ、『子猫』ちゃんよぉ!」
 そこにまとわりついていたのは敵の短剣スカウトだった。咄嗟に反撃の爪を振るおうとするが、手から爪が伸びない。短剣技アームブレイク――敵の武装を一時的に封じる技を使われたようだ。
「野郎ッ!」
「ひっ、ひいっ」
 即座に走り寄ったタイガが撃ち放った横薙ぎの一撃を胴に受けてスカウトが情けない悲鳴を上げるが、敵がにわかに勢いづきつつある事を彼は察し、それ以上の追撃は断念する。
 敵軍最前方で精緻な紋様が刻まれた盾を構えていた女ウォリアーが、周囲を鼓舞するように叫んでいた。
「馬鹿者、気を抜くな! だが、よくやった! キマイラは無力化した、一気に突き崩せっ!!」
 号令と共に、敵集団が大きなうねりとなって襲い掛かってくる。新兵達が敵兵の気迫に押され、自軍の隊列が乱れる。熟練兵達は踏みとどまろうと武器を構えていたものの、一旦乱れた戦線を持ち直すのは彼らの力をもってしても難しい事だった。
「くそ、引け!」
 ここは下がるのが最善と判断し、タイガが吼えた。捕食者に追われる草食獣のように、エルソード軍は哀れささえ感じさせる勢いで音を立てて引いていく。敵集団はそれにも色めき立ったが、それよりもまずは無力化されているキマイラを完全に沈黙させる為、巨獣の姿をしたミナを一飲みに飲み込んだ。
 さながら、蜂の群れにたかられる象のようだ。ひとつひとつは致命的ではない攻撃を無数に叩き込まれ、なす術もなく暗い沼の中に徐々に沈んでいく。かりそめとはいえ今は自分の姿である筈のそれを、ミナは俯瞰するような気持ちで眺めていた。もうこの獣は助かりそうにないなあと、ぼんやりと他人事のように認識する。それは即ち自分の死に直結することだと理解は出来ているが、恐怖の感情が追いついてこない。寧ろ軽い満足すら覚えている。
 ――だって、相当な数の味方を助けられた筈だもの。
 キマイラの力とはいえ、普段の自分では有り得ないほどの甚大な戦果を上げた筈だ。潰走するしかない前線を一時的にでも拮抗と言える程度に押し留められたのだから。本来なら助かる筈の無かった兵だって何人も逃げおおせる事が出来ただろう。自分一人の命で何人もが救えたのならそれは満足するべき事だ。彼女が目指した、彼の姿にきっと近い。
 このまま、異世界から召喚された哀れなキマイラと身命を共にするつもりで状況に身を委ねていたミナだったが、緩い思考の中で不意にある事に思い至った。
 この敵集団の中にはもしかしたらクォークがいるかもしれない。
 だったら最後に倒れる姿がキマイラでは、折角手間暇かけてミナに技術を教えてくれた彼は納得できないかもしれない。
 いや――
 何の姿だろうと、この死に方では彼は納得してくれない。
 死を目前にして減速しつつあった意識が急速に時間を取り戻す。キマイラの命が潰える直前、ミナは召喚を解除した。多数の敵前に生身の身体が晒される。
 ミナはすぐさま踵を返し走り出すが、逃げる間もなくその背にウォリアーの強靭な一撃が襲い掛かった。
「!!」
 痛打の衝撃にあえなく吹っ飛ばされたものの意識は辛うじて残っていたので、せめて受身だけは取ろうと身体を反転させて身構える。が、地面の感触が何故か背中に触れない。ふわりとした浮遊感だけが続く。
「……え?」
 不思議に思って振り返れば、深い淵を覗き込んだような遥か遠くに固い地面。
「ミナぁ!!」
「止まるなラムダ、諦めろ!」
 ラムダの絶叫とタイガの冷静な静止が耳に触れ――
 ミナの身体は真っ直ぐに、崖の下に吸い込まれていく。

「『猫』を解除した『子猫』が崖下に落下!」
「ややこしいなこのコードネーム。変更を検討するか」
 キマイラに対して時折使われる隠語と何気に被っていた事に気がついて、軽くぼやくように言ってから、部隊長はざっと周囲の部下達を見回して指示を出した。 
「『子猫』は誰か、一人でいい、追って仕留めろ。人選は任せる。残りは掃討戦にかかる。私に続け」
 言うだけ言って答えも待たずに盾を掲げ、足を進める。
「追います」
 一拍置いて誰へともなく端的に宣言したスカウトの男の肩が唐突に掴まれた。振り向いた男が確認したそれは、部隊長には無反応を通した筈のクォークの手だった。
「俺が行く。俺がやる」
「クォークさん……」
 困惑に、ほんの僅かだけ事情を知る者の同情を含めた視線を向けながらもスカウトは、しかしすぐに厳しい声を返す。
「駄目です。あなた彼女を逃がす気でしょう。いくらクォークさんでも、標的を故意に逃がせば反逆と見做されますよ」
「分かってる」
「分かってない。それとも彼女と一緒にヴィネルにでも逃亡する気ですか。無理ですよ、逃げ切れません。あなたは顔も売れていますしね。うちの組織力を甘く見ない方がいい」
 恐らくは身内への善意であるのだろう厳しい視線と真正面から睨み合い――クォークは眼前の男から目を逸らさずに低く呟いた。
「俺が行くと言った。上官の命令が聞けないのか」
「……こんな時だけ権力振り翳すとか汚いっすね」
 はぁ、と不承不承に溜息をついて、スカウトは道を譲るように身体を退けた。

「うっ……く」
 少しの間意識を失っていたらしい。ミナはじわじわと染み入るような痛みを感じながら薄く目を開けた。
 赤茶けた固い地面に横たわる自分の身体をそっと起こしながら、恐る恐る怪我の程度を確認する。確認はせねばならないが、自分の身体に刻まれた酷い傷など出来れば見たくない。もし足が反対方向に折れ曲がっていたりしたら、回復薬を飲む前にまた失神してしまうかもしれない。しかしそんな恐怖に反してミナは概ね無事だった。背中の傷こそ痛むものの傷口の大きさに比して然程深いものではなく、それ以外には落下時に拵えたらしい擦り傷と打ち身がいくつかあるのみで、動く事は出来そうだった。多分頭も打っていない。見上げてみればどうやっても登れなそうな高さである崖から落ちてよくこんな程度で済んだものだと自分の運の強さに感心する。
「……戻らないと」
 痛む身体をそっと動かして、立ち上がる。運の良い事に今現在この崖下には敵影はないようだった。北東に上手く戻る事が出来たなら戦線に復帰するルートがある筈だ、と胸中で確認して、ミナはよろよろと足を踏み出した。
 その刹那――唐突に上から感じた気配にはっとして、進みかけた身体を咄嗟に引き戻す。
 地面に映る何者かの影。一秒と間を置かず、そこにその実体が降ってくる。
 乾きひび割れた地面の上に、軽やかな足音が刻まれるのと同時に土煙が舞い上がる。目を庇った腕の奥で半ば閉じていたミナの瞼が、その人物に気づいて大きく開かれた。
 薄れ行く土煙の中から現れるウォリアーを、ミナは腕を下ろして視界の中心に据えた。
 ――今度また戦場で相対したら、自分は泣いてしまうんじゃないかとミナは思っていた。彼と敵対しなければならない事に心を押しつぶされて、絶望に暮れてしまうのではないかと思った。
 けれど、違った。
 彼の姿はどんな時でも、ミナに安堵を与える。
 ゆっくりと立ち上がるクォークを真正面から見つめながら、この邂逅を神様に感謝するように杖をぎゅっと握り締めて、ミナは微笑んだ。

 もしかしたら、彼は何かを言うつもりだったのかも知れない。
 しかしミナは彼との間に一言の会話を挟む事もなく、即座にローブを翻して走り出した。自軍拠点側に繋がる東方向への退路を塞がれる形になってしまったので、即断して南へ進路を取る。潅木が点在する乾いた地面を痛みを押して全力で走り、ちょっとした崖を飛び降りながらも南へ。
 追ってくる敵のひやりとした気配を背中に感じて、ミナは一度だけ振り返り、フリージングウェイブの魔法を放った。至近にまで迫っていたウォリアーを吹き飛ばすことに成功する――が、同時に、反射とでも言うタイミングで反撃が叩き込まれる。
「っ!!」
 先程の怪我も回復していない身体を痛烈な痛みが貫くが、ミナはそれを歯を食いしばって堪え、転倒する敵に背を向けて更に逃げた。
 だって、彼が教えたのだ。逃げて間合いを詰めさせないこと。相手の隙だけをつくこと。
「……ミ、」
 ミナの名前を呼ぼうとしたのだろうか。途中で切り取られた音が聞こえてミナは走りながらもつい肩越しに振り返ってしまった。身体にまとわりつく霜もそのままに起き上がろうとするクォークが、明らかに何かを言いかけていたが、奥歯を噛み締めてそれを無表情の仮面の中に押し留めている。
 前を向いて、泣き笑いになってしまった表情を彼から隠す。彼が、言葉を掛けるのを思い留まってくれたのは、寧ろ嬉しかった。ここで名前を呼ばれて、ちゃんと戦える自信なんてない。
 ミナは更に崖を降り、平地に辿り着いた。元は、古い時代にあった民家か城砦の跡だろうか、崩れかけの石壁が周囲にいくつも点在する見通しの悪い場所だった。それらの中央に大クリスタルがぽつんと見える。もしかしたら天然の大クリスタルを中心に作られた集落の遺跡なのかも知れない。風化しつつある壁のうちの一枚の裏に隠れて、一つ息をつき、ずきんとした傷の痛みを感じて、すぐ別の壁へと走り出す。隠れてやり過ごすことは到底無理だろう。少しでも彼からの視線を遮るようにしながら、逃げる。
 もう誰も住む者のない寂しい街並みをミナは息を弾ませながら駆け抜ける。遠くに見えていた大クリスタルが徐々に近づきつつあった。大陸各地にある他の大クリスタルと同様、きらきらと、光の粒子を纏いながら幻想的に輝いている。かつて、このメルファリアが一つの王国であった頃、大陸の至る所に存在するクリスタルの恩恵よって、人々は平和に暮らしていたそうだ。様々なものを生み出し、様々な力を生み出し、人々に繁栄を齎した偉大なクリスタル。このクリスタルはいつしか争いをも齎した。いや、人間が勝手に争いに利用し始めた。クリスタルの強力な魔力は主に戦争に、人を傷つける為に用いられるようになり、人々はクリスタルを軍事的な資源としか見なくなった。こんなにも綺麗なものなのに。
 ――間断なく背後から続いてくる足音に、意識を戻す。
 ミナを見失うことなく追うクォークが、すっと小さく息を吸う音が聞こえた気がした。
 来る。そう思った瞬間、ミナは即座に後ろを振り向いた。
 直感した通りに、再度地を蹴ったクォークは一息で距離を詰めて来た。ミナの目がそれを睨む。フリージングウェイブの間合いには少し遠いが、彼女は杖を横薙ぎに振り払った。杖の先に青い氷塊が生まれ、クォークに向かって一直線に飛ぶ。
 アイスボルト、
 ではない。クォークの表情のなかった顔に僅かながら驚愕が走るのが見て取れて、してやったりと思う。ミナが放った魔法、アイスジャベリンはクォークに命中すると、強力な冷気で以って彼の足を地面に氷結させた。ミナは炎の魔法を使う火ソーサラーで、氷の魔法を扱う能力は低い。高度な氷魔法は全く使えず、中級魔法であるアイスジャベリンについても一応使えはするが修行を途中で終わらせてしまった為、ごく弱い威力でしか使えないという事はクォークも知っていた。だからこそまさかここで使ってくるとは思わなかったのだろう。
 ミナのアイスジャベリンで敵を足止めできる時間はごく一瞬。
 でもその一瞬で十分だ。
 ミナは即座に杖を大きく振りかぶり、渾身の力を込めて振り下ろした。杖の先の宝玉が紅蓮に染まり、灼熱を帯びた光が膨れ上がる。最上級の炎の魔法、ヘルファイア。獲物に飛び掛る獣の如き勢いで噴出した地獄の劫火が、クォークを足止めする氷塊を溶かし、彼の全身を容赦なく――今度こそ、焼き焦がす。
 渦巻く炎の中で彼の口許が苦しげに歪んだ。しかし、ミナを真っ直ぐに見るその瞳には揺らぎはなかった。彼に向かって突き出す杖の先越しに、ミナは、鏡写しのようにこちらに向かって彼の斧が突き出されるのを見た。
 足を絡め取る氷塊が蒸発しきった瞬間、クォークが地面を蹴った。全てを燃やし尽くす劫火を真正面から浴びながら、けれど微塵たりとも怯むことなく敢然と、ミナに向かって一直線に跳躍する。
 カウンターのストライクスマッシュ。
 杖を振り抜いた体勢のまま、ミナは吐息を漏らした。
 炎の中の彼の姿は、傍らのクリスタルよりも、ずっとずっときらきらと輝いて。
 ああ、きれいだなあ……
 うっとりとそれを目に焼き付けてから、瞳を閉じる。
 ――……

 風向きが変わったのか、遠くの主戦場から怒号と剣戟の音が微かに聞こえてくる。
 ミナは、どこか落胆にも近い気持ちと共に瞼を開いた。
「あの。怖いから出来れば目を閉じてる間にとどめを刺して欲しいんだけど」
 ミナが目を開くと眼前に立つ敵ウォリアーは、戦斧を振りかぶった体勢のまま、目に見えない何かとせめぎ合っているかのように腕を震わせていた。その状況に少し困ってミナが請うと、苛立たしいという感情を抑えもしない、吐き捨てるような声で彼は叫んだ。
「もう何回も聞いてる気がするけど、君は死にたいのか!?」
 斧の刃先を地面に叩きつけて下ろし、ミナを睨んだクォークを、負けじとミナも睨み返した。
「私も何度も言ってるけど死にたくはないわよ。今のだって別にわざと負ける気でやったわけじゃない、ちゃんと真剣にやってこうなんだもんしょうがないじゃない。大体、もっと強くなってからクォークと戦う予定だったのにこんな早くっていうのがずるいのよ! 無理に決まってるじゃない!」
 情けない事を堂々と叫んだからか、クォークがほんの少したじろぐような微妙な顔をした。しかしこの所為で却って少し落ち着いたらしく、彼の声のトーンが平静に近い程度にまで落ちる。 
「だったら、あのまま逃げればよかったのに。どうして無意味に手を出してきたんだ。折角足止めに成功したんだから、ヘルを撃たずにそのまま距離を取るべきだった」
 それは嘘だ、と思った。――逃げるべきだった、という指摘そのものは間違ってはいないのだろうが、最早ここは自軍陣地から遥か遠く、そうした所で簡単に逃げおおせられるような位置ではない。彼自身が、ミナの進路を塞ぐ形で立ち、ミナを絶対に逃げ切れない方角に逃走させるように誘導したのだから。追い詰めて、確実に殺す為に。少なくともあの瞬間までは、彼自身、そういうつもりでいた筈だ。
 恐らくその理由は――
「クォークが私を追いかけたのは部隊の人だって知ってるんでしょ? 知り合いだっていうのはばれてるんだから、私を逃がしたら、絶対にわざと逃がしたって思われる」
「……別に、敵兵一人取り逃がすくらいで文句を言われたりはしないよ」
「『子猫』」
 ぽつり、と呟いたその言葉に、クォークがびくりと反応する。
「って言われたよ、さっき《ベルゼ》っぽいスカウトの人に。キマだったからかそれともセクハラか何かかしらとも思ったけど違うよね。これっていう理由はないんだけどそういうんじゃない気がする」
 じっと目の前の彼の顔を見つめたまま言うと、その顔から表情が消えていくのが見えた。氷のように色のない無表情を見てふと思う。彼の無表情は、閾値を超える感情の揺らぎを押し殺す為、彼自身すら気づかないうちに身につけてしまった一種の技術なんじゃないだろうか。
「よくわかんないけど私は《ベルゼ》に目をつけられてて、クォークは立場的に逃がせない。でも他の人に殺されるよりは、って思って一人で追って来た。……違う?」
 徐にクォークは、ミナの視線から目元を隠すように額に手を当てて、口の端を歪めた。色のなかった顔に自嘲という色がつく。
「その妙に鋭い直感が目を付けられる原因だよ。君、軍師の素質があるんじゃないか?」
「無理だよ、そんなの」
 むー、と唇を尖らせると、ようやくほんの少し、クォークの表情が和らいだ。
「確かに、君には抹殺命令が出てる。戦場で会ったら優先的に殺せっていう命令だ。理由は君の裏方のやりっぷりだけど、まあ、俺の所為だな。俺が不用意に近づかなければ、君の存在に気づかれる事もなかった」
 自嘲的な声色には変わりはなかったが。
「そんな命令が出てるんだったら、こんなお喋りしてないで、ちゃんと従わないと……クォークがまずい事になるんじゃないの?」
 眉を寄せてミナが問うとクォークは、ははっと乾いた笑いを吐き出した。
「自分の所為で人が殺される事になって、それを自分で殺しに行くのか。とち狂ってるとしか思えない所業だな。……いや、君の言った通り最初はそうするつもりだったんだ。他の奴に殺されるよりは余程その方がいいって。随分馬鹿な事を考えたもんだ、そんな事、出来る筈がないってちょっと考えれば分かるのに」
「どうして……」
「どうしてだなんて不思議な事を聞くね。俺に君を見捨てるなんて事が出来ないのはこないだこれ以上なく証明したばかりじゃないか。君に何度罵られようと無理だね、何回こんな事が繰り返されたって俺は君を殺す事なんか出来ないし、何度だって君を助ける」
 射抜くような視線で言われて、ミナは思わず後ずさった。何で。何でそんな酷い――酷く優しい事を言うんだろう。
 堪えていた筈の涙が出てくる。
 ――何でだろう。何で私はネツァワルに生まれなかったんだろう。何でクォークと敵なんだろう。
 ガルムの訓練場で、肩を並べられない、と自分で口にした時も限界に近かった。本当は並べたいに決まっている。認めてもらうなら、敵としてではなくすぐ傍で、仲間として、彼の為になることをして認めてもらいたい。
 でもそれが無理だからこんなに悲しいのに。
 クォークの顔を見上げて睨みつける目から大粒の雫を落として、ミナは叫んだ。
「クォークなんか敵の癖に! 好きになっちゃだめなのに、そんな事言わないでよ!!」
 目の前にある彼の顔が、突然訳も分からず引っぱたかれたかのような驚愕に染まった。目を見開いて、息すら止めて、黒い瞳がミナを見ている。
「なん……? 好き……って」
「何でかなんてそんなの分かるわけないじゃないっ! 好きになっちゃってたんだからしょうがないでしょ!?」
 一回零れ始めた涙は次から次へと堰を切ったように溢れ続けて両頬から顎に流れ落ちていく。そのぐちゃぐちゃに汚れた醜い顔を見せたくなくて下を向き、癇癪を起こして叫ぶと、色々なものを堪えていた喉がひくひくと痙攣を始めて呼吸をする事すら辛くなる。
「何で……先に言われちゃうんだろうな」
 だから、ぼそりと言われたその言葉を一瞬、酸素が回って来ない頭が聞かせた幻聴なのだとミナは思い込んだ。
 しゃくり上げているうちに一瞬ではない時間が過ぎて、それでも耳の中に残っていたその声に、顔を上げる。困ったように眉を寄せてミナを見ている目と視線が合った。
「……え?」
「何でそこでいかにも想定外みたいな顔するのかな。俺がさっき言った方こそ殆ど告白みたいなもんだったじゃないか」
 あー今更恥ずかしくなってきた、などと小さくぼやいて、クォークは照れくさがっている事自体が照れくさいように顔を背けた。目元から耳までほんのりと赤くなっている目の前の横顔を呆然と見ながら、ミナは信じられない気持ちで呟いた。
「え、うそ、嘘だよ、だ、だって、私のこと、襲う価値も無いって言ってたじゃない」
「ええ? ……あー? いや、襲う気は無いとは前に言ったような気もしないでもないけど、価値も無いとは一言も……っていうかそれ好きとかそういう話とは別物じゃないか?」
 困惑気味に返されて、ミナは余計混乱した。確かにそこまでは言われていなかったかもしれない。けど。
「私、ずっとクォークには、女の子だとは思われてないって……せいぜいが、変わった子だとでも思われてるんだって思ってた……」
「まあ、変わった子、っていう部分については否定しないが」
「またそうやって酷いこと言うし」
 頬を膨らまして抗議すると、クォークは笑った。悲しげに眉を寄せた、酷く辛そうな笑顔だったが。
「君は事あるごとに俺の事を敵だ敵だと言って壁を立ててきたからな。こっちこそ、変わった敵兵だとしか思われてなくって、この子はどれだけ俺を殺したいんだろうかと悩んだぞ」
「ち、違うよ。……ううん、そういう事は言ったけど、そうじゃなくて……壁に見えたんだったら、それはあなたを寄せ付けない為じゃなくて、私が勝手にそっちに行っちゃわない為の壁だよ。そうじゃないと私、もうどっちに行っていいかも分かんなかったから……」
 闇に包み込まれて方角を見失ってしまったかのように進むべき道が分からなかった。何をどうした所で自分がエルソードの兵士で彼がネツァワルの兵士だなんていう事実は覆しようがないことだっていうのに、ともすれば行ってはいけない方向に迷い込みそうになった。だから、逆にその事実に拘り続けることしか自分を保つ方法なんてなかった。
「……ミナ、俺と逃げないか?」
 不意に、囁くように言われた言葉に驚いて、ミナは彼の顔を見上げる。一種の覚悟を決めたような真剣な眼差しが降ってきていた。
「このまま戦線離脱して、どこか遠くに一緒に逃げないか」
「だ、だめだよ、そんな事したらクォークまで追われる事になる……」
「どの道、君の首を取って帰るなんて選択肢はないんだから同じだよ。自由都市でも、どこかの農村でもいい。あいつらに見つからないような場所に。二人で」
 あまりにも甘美な誘惑に、縋りつきそうになるのを手を握り締めて堪えて首を振る。
「……無理だよ。クォークの顔、私の友達ですら知ってたくらいなんだよ? どこに逃げたって、《ベルゼビュート》が真剣に捜索したら絶対に探し当てられる」
「熊の着ぐるみでも着て暮らすさ。そうしたら顔なんか分からない」
 こんな時に発せられたクォークの冗談に、ミナはついくすりと笑った。少しだけ、肩から力が抜ける。
 目を閉じてその情景を思い浮かべた。鄙びた農村の、木で出来た平屋の粗末な家に彼と二人で住む。家の前には小さな畑。食べる分だけを作って、贅沢もしないで慎ましやかに穏やかに、日々の小さな幸せだけを見つけて笑って暮らす。
 剣で斬られ魔法で焼かれる痛みを覚える事もなく。鉄錆のにおいを嗅ぐこともなく。エルソードだとかネツァワルだとか、国の垣根で苦しむこともなく。
 多分、それはこれ以上なく理想の未来だ。二人で一緒に、平穏に暮らせるなんて何て素敵な夢だろう。国の為だと信じて兵士にはなったけれど、元々、戦うことが好きだという訳でもない。平和に暮らせるならそれに越したことはない。
 でも――
 ぎゅっと眉間に力を入れて、ミナは自らが描いた幸せな情景を打ち壊す覚悟を決めて目を開き、ひたりとクォークを見据える。
「やっぱりだめ。クォークまで巻き添えになる事なんてない。私だって死にたくはないけど、あなたを巻き込むのはもっと嫌だよ」
 そう訴えた所に返ってきたのは何故か、その前の瞬間とは打って変わった酷く剣呑な視線で、ミナは思わず怯んだ。
「逃がすのも駄目、一緒に逃げるのも駄目。君は一体俺にどうしろって言うんだ」
 ゆっくりとした、低く唸るような声に、夜道で唐突に狼にでも出くわしたような寒々しい恐怖を覚えて後退りたくなる。しかしどうにか気力を振り絞り、踏みとどまって言い返す。
「だっ、だから、このまま私を殺せばいいのよ、そしたらどこからも文句は出ないし結果としても一番自然な形じゃない」
「この期に及んでまだそういう事を言うのか。どうしても戦うって選択肢を入れたいなら俺を返り討ちにして自分が生き延びるぐらい言ってみろよ」
「む、無理に決まってるでしょそんなの! 我が侭言わないでよ!」
「我が侭!? 何か我が侭言ったか俺? 寧ろ君の方が我が侭だろ、どうやったらそんな言い分を通せると思うんだ!」
 流石にその言い方は納得できなかったらしくクォークの声が尖ったが、一声叫んだ所で諦めがついたのか息を吐き、やれやれと首を横に振った。
「……あーもういいや我が侭でも何でも。最初からこうすればよかったんだ」
 据わった目つきでざっざっと無造作に足を進めてくるウォリアーにミナは反射的に身体を引く。しかし彼女に向けて伸ばされたのは斧の刃先ではなく、武器を持たない左手だった。有無を言わせずにその手がミナの腕を掴む。
「!?」
「君が何と言おうともう知らない、担いででも連れて行く」
「なっ!? ちょっ、待っ……わ、わああ、人攫いー」
 力ずくで引き寄せられ、本当に担がれてしまいそうになってじたばたと暴れていると、唐突にクォークが顔を横に向けた。
 次の瞬間、その横合いから裂帛の気合の声と共に光の矢が襲い掛かってきた。クォークに突き飛ばされたミナは反射的にステップしようとしたが咄嗟の事で間に合わず、みっともなく尻餅をつく――が、その矢はそもそも彼女を狙った物ではなかったようだった。
「この取り込んでる時に……」
 光条を纏う極太の矢を完璧に回避していたクォークが、苛々と毒づきながら両手斧を構える。ミナは射手を振り返って声を上げた。
「ラ、ラムダさん!?」
 弓を放ったのは、友人のラムダだった。彼女はミナの呼びかけには答えず、弓を背中のホルダーに戻すと、腰に下げた二振りの短剣を抜き放ち、敵ウォリアーを迎え撃つように構えた。それを冷たい視線で睥睨して、クォークが面白くもなさそうに呟く。
「わざわざハイドで近づいといて、ブレイク入れて来ないでピア撃ってきてる時点で純弓なんじゃないの? はったりは止めたら?」
 ぎくっとしたようにラムダは肩を震わせた。ウォリアーとって弓使いのスカウトは餌以外の何者でもない。接近戦に有効な技を持たない弓使いは、一旦ウォリアーに接近されてしまえば短剣スカウトのように特殊な技で一泡吹かせることすら出来ない。
「ま、仮に短だろうと狩るけどな」
「……だ、だめっ! 友達なの」
 ラムダの持つ短剣に何のプレッシャーも感じていない足取りで踏み出したクォークにミナが懇願すると、クォークは足を止めてミナに目を向けた。彼女とラムダを順に見て、戦意を霧散させるように息を吐く。徐に自分のマップを取り出してやや目つきを厳しくしてから軽く目を閉じ、再度ミナの方を視線を戻して静かな声で言った。
「……東の最外周なら、まだぎりぎりで拠点に戻れるルートがある。行け」
「で、でも」
 ここで敵を逃がしたらクォークが、という不安を覚えるが、敵陣の奥深く、決死の覚悟で助けに来てくれたラムダを巻き添えにしてまで残るわけにもいかない。きっとミナが残ると言えば彼女も残ると言うに決まっている。
「俺は大丈夫だ、殺されまではしない。早く行け!」
 切羽詰ったように鋭く囁かれて、ミナは弾かれたようにラムダの腕を掴んで走り出した。
 赤土の乾いた地面を示された方面に駆けながら、一度だけ後ろを振り返る。クォークはその場に立ち尽くしたままミナ達を見ていた。

「ターゲットを追い詰めたものの敵増援が到着した為追撃を断念し撤退しました」
 黙したまま腕を胸の前で組み、冷厳とした眼差しで睨み据えてくる部隊長の正面で、クォークは後ろ手に腕を回して堂々たる態度で弁明した。
 新しく制圧して得たアデムガン砦の中、部隊長を始めとして多くの部隊員に囲まれる格好で審問を受けている彼だが、立ち姿には恐れも怯えも一切ない。一見慇懃ながらも飄々とした態度に周囲で見ている部隊員の方が嫌な汗を流す。
「ほう、あの奥地に増援を送り込まれたか」
 明らかに白々しいその言い分を嬲る部隊長の声音に、それでもクォークは一切表情を変えなかった。
「交戦中に敵スカウトにハイドで接近され対処に失敗しました。自分の失態です。申し訳ありません」
「そして揃ってただで逃がしたか。お前ともあろう者が?」
「不覚にも隙を突かれ最外周に抜けられました。申し訳ありません」
 台詞もアクセントにも何らおかしい所はないのに――普段敬語など一切使いもしない癖に敬語だという点はおかしいと言えばおかしいのだが――何故か反省の色などさらさら感じられない声で重ねて謝罪を述べるクォークに、部隊長の隻眼がすうと細まる。
 次の瞬間、ぱぁん!――と、激しい破裂音のような音が鳴り響いた。
 周囲で見ていた部隊員達が思わず首を竦める程の強烈な平手打ちだった。
「今回はこれで不問とする。だが、同様の失態は二度は許さん。いいな」
「は」
 クォークの簡潔極まる返答を受けると、部隊長は下がれと一言命じた。血の雨を見ずに事態が収束し、周囲の空気がほっと緩む。部隊長に背を向けてその前を辞しながら、舌こそ出さないもののそれに近しい表情を浮かべるクォークに、先程崖上で押し退けた部下のスカウトがやれやれとでも言いたいらしい口調で声を掛けてきた。
「まあ、甘いあなたの事だから、こんなこったろうとは思いましたけどね」
「歯を食いしばれーくらい言ってもいいと思うよな」
「クォークさんはビンタで済んだ事をもうちょい感謝した方がいいと思うっす」
 男は呆れて首を横に振る。
「次は俺も手は貸しませんからね。俺までコレは御免っすよ」
 親指で首をかき切る仕草をしてスカウトの男も立ち去った。
 ――確かに、これは破格過ぎて逆に気持ちが悪い。
 内心で嘆息しながらクォークは打たれた頬を指で軽く掻いた。打ち付けられるのが頬に平手ではなく首の動脈に片手剣であったとしてもあまり不思議ではない気性の荒さを持つあの部隊長の前から、外傷を負わずに立ち去れるとは実は思っていなかった。どんな懲罰でも甘んじて受けるつもりであったのにこれとはいっそ拍子抜けとしか言えない。一度の凡ミスならばこの程度で済ます度量も併せ持っている上官だが、まさかあの強引な言い訳で本当に凡ミス扱いしてくれるとは。何か意図や企みがあるんだろうか。
 ……まあいい。
 考えたって埒が明かない思考は早々に打ち切って、クォークは砦の狭い窓から外に視線を向けた。乾燥したネツァワル本土と違い湿潤なエルソードは空の色も多少違うように思える。今迄、天候を確認する以外で空を眺めた事などなかったからよくは分からないが――多分彼女なら、どうと言った意味もなく、単に綺麗だからとかいう理由でこの空を眺めていたりもするのだろうと目を細める。
「……さて、そろそろ潮時かな。取れた拠点は……ふん、たったの四箇所か。思いの他戦果が上げられなかったのはつまらんが、《フォアロータス》辺りがしゃしゃり出てくる前に撤退するか」
 不意に、視界の外から部隊長の声が朗々と響いてきて、クォークは室内に視線を戻した。あっさりと、今取ったばかりの砦の放棄を宣言した部隊長がその場に居る部下達を見渡す。だったら何故わざわざこんな事をするんだ等と突っ込むような部隊員はいない。部隊長の行動原理の方向性は皆が理解する所だ。――単に面白いから。単純明快な話である。
「ただの『遠足』で痛手を負うなど馬鹿らしい。やるなら中央大陸で、いずれかの最後の一兵が斃れるまで、華々しく死闘を演じて見せようじゃないか」
 高らかに笑って踵を返す部隊長に、彼女の部下達が続いていく。いつものように肩を竦めながらクォークもそれに続き――《ベルゼビュート》はエルソードを後にした。

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