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「……あれ?」
 いつものように参戦要請の報を聞き、エルソード本国から急ぎ駆けつけた戦場の雰囲気が、何故かどこかおかしいような気がして、ミナは喧騒の中、一人ぼんやりと呟きを漏らしていた。
 現在交戦中のセルベーン高地は、エスセティア大陸に於いてはエルソードに程近い北方に位置する。かつて太古の時代に天空より巨大隕石が三つ落ちてきて形作られたと言われる、大きな窪地が三つ横並びに並んでいる雄大な地形が特徴の風光明媚な地ではあるが、地理的に交通の要となる場所であり、それ故に戦略的にも重要な要衝であるのでこれまで幾度も熾烈な戦闘が繰り広げられてきた激戦地帯でもある。ミナ自身も一度ならずここでのネツァワル戦には参加している。
 攻撃拠点では忙しく情報がやり取りされ、砦の正面にある大クリスタルでは多くの兵士がクリスタル鉱石の採掘作業に当たり、前線を支援する為の召喚獣や建築物の準備が進められている。普段の戦場と何ら変わる所のない光景である筈だ。
「……?」
 寧ろ自分の違和感の方を不思議に思って首を傾げる。私は何をおかしいと思ったんだろう……?
「そこ! ぼーっとしてないでクリスタルの採掘を!」
 大クリスタルにいた一人の兵士がぼんやりとしていたミナを叱責した。慌ててそれに従い、採掘業務を手伝う為にクリスタルの間近に駆け寄った。
 そうしながらちらりと横を見て――彼女は漸く気づいたのだった。
 周囲でクリスタル採掘を行う兵士達が、鎧や戦闘服に着ける紋章、それが揃って、赤い斧の形をしている事に。
「…………!?」
 自軍拠点に到着したら何故かいきなりネツァワル国兵士に包囲されていた、というこの事実に目玉が飛び出そうな程ミナは驚いた。叫び声を上げなかったのは奇跡と言えよう。
 が、不思議な事に誰一人、敵であるエルソード国兵士のミナを攻撃しようともしなかった。
(き、気づかれてない?)
 ――そんな訳はない。ミナのローブには、隠しようもなく堂々とエルソード国の紋章、青い稲妻が縫い付けられている。
「あれ、もしかしてミナか?」
 全く以って理解不能な状況に動転している最中、聞こえてきた聞き覚えのある声に、ミナは思わず縋るような気持ちで振り向いていた。
 が、その声の主の顔を見て、ミナはここでもまた目玉が星の彼方にまで飛んで行きそうな程の驚愕を覚えさせられた。
「く、クォーク? 何でここに!?」
「何でここにって、ネツの戦場なんだから俺がいるのはおかしくないだろ。どっちかって言うとそれは俺の台詞だ。ミナがネツの援軍に来るなんて珍しいんじゃないか?」
「援……軍?」
 耳慣れない言葉を聞いたような心持ちで繰り返すと、クォークは少しだけ困った顔をした。
「え。もしや援軍制度まで説明しなきゃ駄目なの?」
「い、いや……せ、制度としては知ってるけ……ど」
 要するに傭兵として他国同士の戦場に参戦する制度の事だ。国の知り合いにも傭兵は何人もいるし、勿論そのくらいは知っている。知っている、が。
 ミナ自身はその制度を使用した事はなかった。このメルファリアで戦争を繰り広げるのは五つの国。伝統的にエルソードとネツァワルはほぼ常時険悪だが、他国との関係は非常に流動的で、一国と常に敵対しているとも限らない。自軍の戦術目標確保の為に一時他国に勝利して貰った方が都合がいい場合もある。
 しかし、だからと言って味方である訳ではないのだ。傭兵として身を立てている者を非難するつもりはないが、明日は自国の敵となり得る兵士達と共に戦うことなどミナには到底理解出来なかった。
 目と口を愕然と開いて固まったまま顔面を蒼白にしているミナを下から覗き込み、クォークが眉を寄せる。
「もしかして、間違えてやって来た?」
「……そう、みたい……」
 自分でも震えていると分かる弱々しい声で、ミナは呟いた。
 どうしよう。
 どうしよう。
 ……どうしようもないけれど。
 自分を落ち着かせる為にぶつぶつと自問自答する。いや別にどうにかしなくちゃいけない状況ではない筈だ。援軍制度を利用して参戦している傭兵などいくらでもいる。国家間の関係からややネツァワルの援軍に来るエルソード兵は少ないとも聞くが、それでも珍しいと言う程でもない筈だ。
 クォークと出会って以降変わりつつあった他国民への感情だったが、やはりこんなにも大勢のネツァワル兵士に囲まれると長年掛けて身体の奥底に染み付いた魔獣の国への恐怖が膝を震わせる。いや、いくらネツァワル兵士だっていきなり噛み付いてきたりなどしない、から大丈夫、大丈夫、な、はず。多分。
 ぽふん、と急に頭の天辺に何かが触れて、ミナは反射的にひゃっと首を竦めた。何、攻撃? 噛み付き? 別に痛くはなかったけれど……
 いまだ頭上に乗っている感覚に、恐る恐る視線を上げてみると、それはクォークの身体から伸びた彼の手だった。
「別にそんな猛獣の檻に飛び込んじゃったみたいな顔しなくたって大丈夫だよ。援軍で来てくれてる以上、別にエルだからどうこうって真似は誰もしないし」
 子供をあやすような感じで腰を屈めてミナと視線を合わせながら、クォークは彼女を宥めるように穏やかに言った。ミナのおどおどとした視線に苦笑しつつ彼女の頭をわしわしと撫でてから、少し考えるようなそぶりをして、徐に独り言にも聞こえる声を発する。
「俺だけど。ちょっと今回だけ別パーティ組むから。……ああ、うん。そう。宜しく」
 それは独り言ではなく、魔法による通信のようだった。恐らくは、同じ部隊の仲間同士で組んでいた筈のパーティメンバーとの。
「君をうちのパーティに入れて行動してもいいんだけど、君人見知りしそうだし、この方がいいよな?」
 ミナを振り返って確認してくる。もしかして、二人でパーティを組んで行動してくれる、という事だろうか。
「い、いいの?」
「別に構わないさ、俺がいようがいまいが勝手にやってる連中だし。そんな不安そうな顔をした子を一人で放って置く訳にもいかないだろ」
 片頬で笑う彼の顔を見て、ふっと気が緩んだ。涙腺も緩みそうだ、と自覚した瞬間、口角がゆるゆる下がってきて子供の泣き顔のようになる。
「あ……ありがとう……」
「え、ええっ!? ちょっ、これってそんな泣く程の事!?」
「泣いてないぃ……」
 みっともなく崩れた顔を手で覆い反論した声は篭った涙声になってしまって、泣いていないつもりなのに多分どう見ても泣いているようにしか見えない状態になる。周囲の注目すら集め始めてにわかにおろおろとし出したクォークの前で、ミナは酷く恥ずかしい思いをする羽目になった。

 気を落ち着かせるのに数分を費やしたその後、まずミナたちは方々を走り回ってオベリスクの設置する作業を開始した。戦場のシンボルと言うべき、自軍の領域を宣言する為に用いる最重要の建築物である。
「B7地点オベリスク、設置します」
 クリスタル鉱石の魔力を用いて建てた三本目のオベリスクで、拠点裏から無駄なく隙間なく端まで領域を確保し終えて、ミナは満足げに汗を拭った。建築は芸術、と誰かが言ったがまさにその通りだと思う。機能的に配置されたオベリスクの幾何学的美しさは混沌たる戦場に於ける数少ない美に数え上げられるとミナは確信している。望む最終地点に的確に建築が行えるよう、何本も前から計算しつくしオベリスクを建てるその趣き深い思索。より早く、より効率的に建築を行う洗練された手際。それらを総合した芸術作品を見事完成せしめた時の感動たるや筆舌に尽くし難い。以前、友人にその戦場の神秘とも言える美について滔々と語ったら、「黙れ裏方千人長」と褒められた。千人長はいいことだ。
 ミナは自分を含めて誰もが認めるへっぽこ兵士だが、裏方業務だけは人並みにこなすことが出来ると自負している。彼女は前線で魔法を振るっているよりも皆が地味だと嫌がる後方支援に喜びを見出す、割と稀な兵士なのだった。
「C6は建てるべき?」
 パーティ間通信で、遠方からクォークが尋ねてくる。彼は普段はあまり裏方業務をやらない方の兵士らしい。他ならぬ彼にアドバイスを求められたのが嬉しくて、イエスノーだけでなく少し詳しく考察を述べる。
「領域的には建てないとまずい場所だけど、どうかな、東内周、さっきから散発的に敵攻めてきてるし。……アロータワー置いてもう少しだけ人回してもらえばいいか。建てて」
 領域確保後は続けて東の戦線にアロータワーの建造を開始した。
 先程から散発的に少数の敵兵が幾度も拠点付近まで攻め上がって来ては、挑発程度の攻撃をして引いていく。全力で攻める気はないようだがこちらのオベリスクも近いという位置なので、無警戒ではいられない。対応策として、敵を認識して矢を自動射出する櫓、アロータワーを三つほど固めて建てる。アロータワーから射出される矢の威力は微々たる物だが、密集して立てればそれなりに防衛線としての役割は果たせる。
 設置し終えたアロータワーの下で、建築に回っていたミナとクォークは合流した。
「建築物はオッケーだね。欲を言えば最外周のB8も建てたいけど、西は相当押してるし、欲張るのは止めた方がいいかな」
 顎に指を当てて考えるミナを、クォークがいやにじっと見るので不思議に思って首を傾げると、彼はいたく感心したような口調で呟いた。
「裏方やってる時の君は何というかこう、輝くんだな。テカテカってくらい」
「その擬態語が凄くヤだけど有難う」
「……だから階級の割にああなのか」
「放っておいて」

 ――というやり取りがあったからと言うわけではないが、建築作業を終えた後、二人は東戦線を攻めてくる敵集団の対応に当たった。
 二人が戦列に加わった昼頃から数えて第何次かの小競り合いが終結したのは、太陽が遠くの山間に落ちようとする頃だった。日没後にも襲撃はあるだろうか、そりゃあ夜の闇に隠れて襲い掛かってくるということは大いにあり得るだろうなあと、ミナはげんなりとしてアロータワーの足元にへたり込んだ。正直、もうへとへとだった。戦争に参戦した経験は決して少なくはないのだが、大体は後方で裏方業務か召喚獣を操っているかしているので慣れない白兵戦の疲労は彼女には非常に堪える。魔法の薬は、刀傷は治せても疲労は回復してくれないようだ。
 深々と溜息を吐くミナの頭上では、クォークが疲労の片鱗すら見せず、アロータワーに登り哨戒任務を続けている。マップを見るだけでも敵の接近は確認出来るのだが、実際に視認しないとどういった構成なのかが分からないから目で見る方が好きなんだ、と言っていた。
「俺の気の所為でないなら、君は滅多に援軍に来ないよな」
 監視の視線を敵本陣側に向けたまま唐突に投げ落とされてきた雑談に、ミナは少しの間戸惑ってから慎重に返した。
「別にネツァワルだけじゃないわ。どこの国にも援軍に行った事なんてない」
「何で? 裏切り行為みたいに思えるから?」
 以前だったら、まさにその通りだと答えていたと思う。正直に言えば他国の兵士が単純に怖かったという部分も大いにあるのだが、エルソードの国民である自分が、悪である筈の敵国の手助けをするなんて間違っていると思っていた。例えその勝利がエルソードにとって有意義であったとしてもだ。敵に手を貸してまで勝利を掴むなど、良い事だとはとても思えなかった。
 でも――
 クォークは、ネツァワルの仲間よりも、エルソード兵のミナを優先してくれた。今は敵ではないと言っても、それは一時的な話なのに。同じ部隊の仲間を手助けした方が、正しい筈なのに。国なんてまるで関係なく、何の躊躇もなく、ごく当たり前のようにミナを助ける方を選んでくれた。
 凄く、嬉しかった。
 嬉し過ぎて、自分の考え方の方がおかしいんじゃないかとすら思えてきて、ミナは慌ててごまかした。
「自分の国の戦争で手一杯なだけよ。何で急にそんな事聞くの?」
「んー」
 突っ込まれて更に言い逃れるのは苦手なので、それ以上追及されないうちに話を軽く逸らすと、クォークは少し考えるような間を置いてから、何気ない口調で言った。
「戦場で俺が君を直接フォローしてやれるんなら、地道な訓練を続けるよりもずっと簡単だろうなあって、ちょっと思っただけ」
「え……」
 それってどういう意味だろう……? 味方として戦えばいつでもこうやって、一緒にパーティを組んで貰えるっていうことだろうか。すぐ傍で、助けて貰えるという事なのだろうか。
 頬に感じ始めた盛大な火照りを、ミナは慌てて打ち消すようにぷるぷると首を振った。
 一体自分は何を考えているのか! そんな有り得ない事――今は味方同士だと言っても、所詮はエルソードとネツァワル、敵対国同士に所属している自分達には起こり得ない事が、心の奥底から魅力的に感じるなんて!
 きっとそんな意味で言ったんじゃない。そうに決まっている。自分の勘違いを恥じて、ミナは俯いたまま上ずった声を上げる。
「わ、私の訓練は簡単じゃなくてごめんなさいねっ」
「……そういう意味で言ったんじゃないんだけど。まあ、もしそうでも訓練をしないわけにもいかないしな。手間が増えちゃうだけかな?」
「むむ〜〜〜〜! 手間呼ばわりー!」 
 笑みを含んだからかいの声に、ミナはぷっくりと頬を膨らませて抗議した。
 一瞬だけクォークが敵陣から目を離して楽しそうにミナを見下ろした。そして、声にまだ微かにほころんだ気配を残しながら、戦場に意識を戻す。
「ミナ、敵だ」
「……っ、え」
 声と内容のギャップに一瞬戸惑いながらも意識を切り替えて、ミナはアロータワーの影から慌てて前方を見やった。たん、と軽い音を立ててかなり高さのある櫓の上から飛び降りてきたクォークに顎で方向を示されて目を凝らすと、僅かな敵影が殆ど日が沈みきった宵闇の中に浮かんでいるのが見えた。巨大な両刃の剣を肩に担いだ大柄な男と、その後方に付き従うようにローブ姿の細身の男。奇しくもこちらと同じウォリアーとソーサラーのコンビだ。
 ふてぶてしいまでに堂々と歩いてくる敵ウォリアーを見て、ミナは思わずあっと叫んだ。その声に、ウォリアーも気づいたようだった。きょとんとした様子で彼女を見てから、おお、と気楽に声を上げる。
「よお、誰かと思えばミナじゃねえか。お前がネツの援軍たぁ、どういった風の吹き回しだ?」
「トラさん!?」
「だー、どいつもこいつも。トラじゃなくてタイガだっつーに」
 その髭面の大柄な男は、同じエルソードの兵士であるトラ……もといタイガだった。ミナの発言に愚痴るように返してから、彼女の傍に立つクォークにちらりと目線をやると、唇の端をにやりと曲げた。
「ははーん、どうも珍しいと思ったが、あれか、惚れた男の為なら何とやらってか。このネンネちゃんが一丁前になったもんじゃねえか」
「な……!? べっ、別にこの人はそういうんじゃないわよ、変な事言わないでよね! あとネンネとか凄くおじさん臭い!」
 タイガの髭面がぴきっと引き攣った。おじさん呼ばわりはそろそろ堪える年頃の男である。しかしミナはそんな傷ついた男心になどは頓着せず、自分の疑問を投げかけた。
「それよりもトラさんこそ何でここに……」
 が、その問いは冷静に考えれば聞くまでもないものだったという事を彼女は言葉半ばで思い出し、語尾を濁した。この戦場でネツァワル国と交戦しているのはカセドリア国だが、傭兵として身を立てる彼がカセドリアの援軍として現れても全く不思議ではない。
 不思議ではない、が――ミナは苦しげに顔を歪めた。あり得る事だとは分かっていても、顔見知りの同国民が敵国の兵士として立ちはだかっているという光景は堪える。
 だが、タイガにとってはこれは実に何という事もない遭遇であるようだった。
「エルソードから出ねえミナとは、そういや敵対した事はねえやな。こんなサプライズもあるから、傭兵稼業はやめられねえんだぜ?」
 寧ろそれこそが醍醐味とばかりに言い放つ豪胆さに、ミナは唖然としてしまう。彼にとっては命のやり取りすらもが娯楽だとでも言うのだろうか。
 理解の範疇を超えた相手を前にして思わず言葉を失ってしまったミナを、男の獰猛な視線から庇うように、広い背中が遮った。
「やめてくれよな、ミナがドン引きしてるじゃないか。他国援軍に行く奴が皆そんな変態嗜好の戦闘狂だと勘違いされたら俺だって困るんだけど」
 いつものように担いだ斧でとんとんと肩を叩きながら気負いのない声で言うクォークに、タイガは猛々しい――渾名の通り、肉食獣を思わせる笑みを浮かべた。
「ん? あんたが相手をしてくれんのかい、《ベルゼビュート》のクォークさんよ。いいぜぇ、ミナを相手にするよかずっと楽しめそうだ」
 一目見ただけで素性を看破された事については、クォークは特に思う所もなかったようだった。彼にとっては差し当たり珍しい事でもないのかもしれない。
「俺はあんたみたいにそういうのを楽しむ趣味はないんだけどね。……トラさんだっけ?」
「タ・イ・ガ・だっ!」
 歯を剥き出して吼え、タイガは大剣を構えた。
 旺盛な闘争心を見せ付けるタイガに対して、しかしクォークはあくまでも冷静だった。真正面の敵を見据えたまま、ミナに囁き声で告げる。
「ミナ、援軍要請出して。時間だけ稼ぎながら下がる」
 弱腰とも思えるその判断を少し意外に思ってミナは彼の顔を見上げた。
「二対二ならいけるんじゃ……?」
 ミナがいくら足手纏い級のソーサラーだって、クォークの実力と合わせれば二人分の戦力には十分なろうというものだ。だが、クォークは首も振らずに唇だけを動かす。
「ハイドが二人いる。左手大回りと右崖際」
「……!?」
 言われて慌ててミナは周辺の気配を探った。隠密行動と妨害を得手とする短剣スカウトは、ソーサラーの天敵だ。息を殺し戦場をうろつく奴らの僅かな気配を探り、対処する事はソーサラーにとって生死を分かつ非常に重要な作業になる。自分がやるべき索敵の作業を怠っていた事に気づかされて動揺してしまう。
「落ち着いて。ここは拠点から近いから平気だ、すぐに援軍は来る。ただ、合図したらこっちは気にしなくていいから全力で逃げろ。いいな」
「ク、クォークは」
 気にしなくていいから、という言い方そのものが気になった。まさか自分が犠牲になる気なんじゃ……と顔を青くすると、クォークが小さく笑う。
「俺だって逃げるよ。ただ君は氷結魔法も持ってないだろ、後ろ気にしたってやることないんだから今はひたすら逃げるのが仕事だってこと」
 告げて、クォークは笑みを収めた。彼の顔から感情が消える。
 戦場に奇妙な静寂が訪れた、まさに一瞬の後。
 クォークが突如、何もない空間目掛けて鋭く斧を振り払った。疾風の如き両手斧の一振りが竜巻状の衝撃波――クランブルストームを巻き起こし、今まさに彼に迫りつつあったスカウトの一人の姿を暴き、弾き飛ばした。崖際ぎりぎりを潜んで来ていたスカウトは、そのまま声もなく崖下に叩き落される。
「ミナ、行けっ!」
 ミナは反射的に身体を反転し、一目散に走り出した。クォークが言ったのはつまり、逆に彼女が足を止めることの方が彼の負担になる、ということだ。走り出せたのは、すぐ後ろをついてくるクォークの気配を感じて安心したからというのもある。彼が自分で言った言葉を反故にしてそれ以上留まるようなら、何も出来なかろうと、やはり立ち止まってしまっていたかも知れない。
 後ろから強烈な殺気とも呼べる気配が叩きつけられた。
「逃がすかよォ!!」
 大地を揺るがすかの如きタイガの咆哮はまさに凶暴な獣のそれで、ミナは走りながら恐怖に首を竦めた。知己であることも忘れる捕食者の恫喝に身体の奥底から震える。あれに追いつかれたら。草食の獣のようにばりばりと貪られて、血を吹き出して、内臓を曝け出して――想像した光景のあまりの惨たらしさに戦慄して足が縺れそうになる。
 その時、力強い大きな手にぐっと肩を支えられた。
 クォーク。
 泣きそうな気持ちになりながら、無言で彼を見上げる。
 彼は無表情のままで、こちらを見てすらいなかったが、鎧や籠手に包まれている筈の腕から、確かな体温が伝わってくるような気がした。
 そのまま、どれだけ逃避行を続けただろうか。既に日は落ち切っていて足元は暗く、不安定でありながらもミナはクォークに支えられ足を止めずに逃げ続ける事が出来ていた。
 ――と、何の前触れもなく。
 不意に、温もりが離れた。
 突然足を止めたクォークを何事かと振り返ると、彼は後方に武器を構えて向き直っていた。
 その後ろ――クォークの真正面から大剣を振り翳したタイガが、夜気を切り裂き巨体に見合わぬ速度で追い縋ってくるのが見えた。ミナもクォークに幾度も叩き込まれた見慣れた突進技、ストライクスマッシュ。まさに獲物に喰らいつかんという勢いで猛然と迫ってきたタイガの着地を狙って、クォークが竜巻を放つ。
「うおおぉ!?」
 野太い悲鳴を上げてタイガの巨躯が、先程のスカウトのように崖から落ちこそしなかったものの、軽々と吹っ飛んだ。
「しつこいな」
 平坦さの中にややうんざりとした色が見える声でクォークが呟く。ミナはマップを開き、ちらと状況を確認する。やはり夜に乗じて作戦を変えたのだろうか、敵は、日中までのような散発的な攻撃は止め、一気にこの戦線を押すつもりらしく、タイガたちの更に後方からもかなりの数の増援を送ってきているようだった。こちらが小競り合いに対応する程度の最少人数しか残していなかった事が裏目に出た。このままではオベリスクまで進撃されてしまいかねない……
 と、次に発せられたクォークの声には珍しくも、明確な焦りが表れていた。
「ミナ、ハイド!」
 声と共にクォークの放った衝撃波が隠蔽中の敵の身体を撃ち、その姿を暴くが、遅かった。
「っ!」
 そのカウンターにと敵スカウトの振るった攻撃を喰らい、ミナは立っていられない程の強烈な脱力感に見舞われた。パワーブレイク――魔法力や精神力からなるあらゆる攻撃の力を奪うという、短剣スカウトの特殊な技術だ。特にソーサラーには効果覿面で、集中力を殺がれ詠唱状態すら解除してしまう、最悪とも言える技である。
 その場に崩れ落ちるのはどうにか堪えたが、そこに更なる追撃が入った。既にふらついていた足に止めを刺すような痛烈な下段回し蹴り。
「ミナ!!」
 咄嗟にストライクスマッシュで斬り込んで来たクォークが続け様に放った掬い上げるような一撃が、標的をクォークに切り替え何らかの短剣技を仕掛けようとしていたスカウトに先んじて決まり、敵の動きを僅かの間、止める。この隙に退避をという願望の込められたクォークの目がミナを瞬時見たが、スカウトに強烈な蹴りを喰らった彼女の下肢は全く言う事を聞かず、のろのろとしか動けない。
「逃げて」
 咄嗟に、ミナは言った。願った、と言ってもいい。恐らく彼一人なら逃げ切れる。留まれば二人とも殺される。自分の所為で彼が殺されるだなんてミナにはとても耐えられなかった。彼は敵だけれど今は違うのだ。
 ――いや。
 きっと、例え敵であったとしても――……
 ミナの懇願を聞いたクォークが、それへの答えとばかりに武器を振るった。
 こちらに急接近してきた敵ソーサラー、恐らくは二人を巻き込みヘルファイアの魔法を放とうとしていた敵に対してソニックブームを撃ち、その詠唱を妨害する。
「…………!!」
 ミナは泣きそうに顔を歪めたが、声にはならなかった。
 魔法を不発に終えたソーサラーを踏み越えるように、タイガの巨体がぬっと姿を現す。満面に獰猛な笑みを貼り付けたまま、クォークを見下ろして巨剣を振りかぶった。二人を巻き込み横薙ぎに切り払うエクステンブレイドでなく、目の前の一人に最大威力を叩き込むヘビースマッシュの構え。使う武器は異なるものの同じ技を習得するクォークが遅れを取る筈は本来ならないが、幾度も連続して戦斧を振るい続けた彼には最早、対応するだけの余力は残されていない。
 クォークの横合いから、敵スカウトの特殊攻撃、ガードブレイクが入る。パワーブレイクと同じく、短剣技でありながら魔法と似た機序による物であろう特殊な力で、敵の護りを一時的に砕く。
 そこに、霞む程の速度でタイガの斬撃が繰り出された。鋭く重い一撃が、クォークの身体を上段から斬りつける。
「っ……」
 大剣は短剣技と相まって酷く深い切創を彼に刻み入れた。クォークの口から小さく絞られた吐息が漏れる。しかし彼の発した声はそれだけで、まともに苦鳴を上げない敵にタイガはほんの少し興醒めしたような顔をしながらも、躊躇なく再度同じ構えを取った。
「いや……」
 引き攣るような音がミナの喉を振るわせる。
「やめてぇ――っ!!」
 その絶叫が引き金になったかのようなタイミングで――
 極太の光条が、後方から戦場に飛来する。
 ミナとクォークに群がっていた敵が全て、左右に断ち割られるように吹き飛んだ。

「クォークさん! 無事ですか!?」
 たった今、後ろから敵達を吹き散らす光の矢を撃ち放ったスカウトが鋭く掛けて来た声に、クォークはちらりと目を向け一言呟いた。
「遅い」
「うわっ、この言い草。これでも連れさんの援軍要請を聞いて飛んで来たんスよ」
 辟易したようにスカウトは言うが、クォークも彼も目元は笑っている。気の置けない仲間同士のいつものやり取りなのだろう。
 彼に続いて戦線に次々と到着する兵士達は皆、部隊《ベルゼビュート》のメンバーのようだ。轟然とそれぞれの武器を掲げ、起き上がりつつあるタイガ達と、更にこちらと同程度の人数で向かい来ようとしている敵後続に真正面からぶつかってゆく。エルソードにすらその悪名の轟く《ベルゼビュート》だが、それだけに歩兵戦に関する実力は本物だった。ほぼ同数対同数の激突ではあるが、この場はきっと押し返すだろう。
 二人を救出した弓スカウトの男も戦列に加わって行ったが、消耗しているクォークとミナはそのままその場に残り回復を優先した。
「……何で逃げなかったの」
 手に持った、オレンジジュースのような色をした体力回復薬をじっと見つめたまま、ミナは隣で同じ色の薬を呷っているクォークに尋ねた。非難じみた色を含む問い掛けに、ミナを横目で見下ろした彼は、薬を飲み終えた口を手の甲で拭ってから改めて顔を向ける。
「君は、死にたかったの?」
 いつぞやと同じ返し方はどう考えてもごまかしだろう。ミナは背の高い彼の顔をキッと見上げた。
「違うけど! あれじゃあ二人共死んでた可能性の方が高かった!」
「そんな事はないよ。増援がすぐそこまで来てたのは分かってたんだ。ちょっと粘れば揃って生還できるかもって思ったからこそ……」
 反論したクォークがごく微かに、しまった、という感じで目を泳がせたのをミナは見逃さなかった。彼が自分のどの失言に対してその表情をしたのかも瞬時に理解する。
「生還できる『かも』? かもで二人して死んじゃってたら元も子もないじゃない!」
 ミナががなり立てるとクォークは、恐らく今一度ごまかす方法を考えているのであろう渋面を作ったが、すぐに観念して、逆に開き直った。
「そりゃああの場面は俺だけでも逃げてた方が確実だっただろうさ。けど、あの状況でもし立場が逆だったとして、君なら俺を見殺しに出来るか? 出来るって言うなら非難も受け入れるよ。でも君にだって無理だね」
「っ! そ、そんなことないもん! 逃げるもん!」
「嘘だね。俺がクランブル撃った時はしっかり立ち止まってたし」
 せせら笑うような声で図星を差されて動揺したミナは、自分でも意識に歯止めを効かせる事が出来ずに、言うべきでない事を口走った。
「あっ、あれは急にびっくりしただけだもん! ちゃんと見殺しにするもん! クォークなんか、敵のネツァワル兵じゃない!!」
 叫んだ瞬間に目に入ったのは、クォークの顔だった。全くの無表情ではないが、きょとんとしたというには感情の色の薄い――何だろう――その感情の正体をミナは無意識に探し当てようとしたが、すぐには思い至らない。
 何も言わない彼と、すうっと戦場に吹いた夜風が、ミナの頭の温度を下げた。
「あ……」
 遅まきながら彼女は自分のあまりにも愚かな発言に気づき、息を呑んだ。どれだけこちらの意図を汲んで貰えなかった結果だとは言え、身体を張って助けてくれた恩人に対して言っていい台詞ではない。
 しかし弁明するよりも先に、クォークは小さく肩を竦めた。
「……ま、それはそうだ」
「あ、あの」
 言葉を続けようとしたが、それを遮って、彼は話題を変えた。
「それで、どうする? 前線に向かう?」
 戦線はもう大分敵軍側に移動しており、剣戟の音も遠い。月明かりの中、戦塵に煙る遠い前線を視線で示して問う彼にミナは頷きかけて――不意に、違和感を覚えた。
 彼に、ではない。
 何かを見落としている気がする。
 単なる直感に過ぎなかったが、ミナは即座に踵を返していた。
「私ちょっと拠点に戻る!」
「どうしたんだ、急に」
 唐突に走り出したミナを追いかけて、クォークが尋ねて来た。彼が前線の方に行かず追ってきた事に少なからず驚きながらミナは、曖昧な想像でしかない事を曖昧に言葉にする。
「何だか嫌な予感がするの。ナイトになってくる」
 ちょっとした高台の上に設営されている攻撃拠点に跳ぶようにして戻り、その前でクリスタルの管理を行っていた兵士にミナは叫び声で依頼した。
「ナイト用クリスタルください、三十個!」
 魔力を含んだ鉱石であるクリスタルは既に潤沢に用意されていて、採掘するまでもなくすぐに準備できるようだったが、その僅かな時間にミナはマップに視線を向けた。
 三つの隕石跡が横に並ぶ地図の、中央の隕石跡の真北にあるのがこの拠点だ。逆に敵拠点は同じ隕石跡を挟んで向こう、やや南東寄りに置かれている。先程までミナたちが戦っていたのは東の隕石跡と中央の隕石跡の間の戦場で、つい先程までこちらの拠点程近くまで押し込まれていた戦線は、今は早くも《ベルゼビュート》部隊員達の猛攻により丁度真逆の状況と言える程、敵拠点に迫る勢いで押し返している。
 流石の戦力だ、と思ったのだが、同時におかしい、とも思った。いかな《ベルゼビュート》相手とはいえほぼ同数の兵力なのだ、少しは膠着してもいい筈なのに、敵軍ときたら激突した瞬間に全力で撤退を始めるような有様だった。一団となって向かい来る敵部隊に怖気づいたという可能性もないではないが、あまりにも及び腰過ぎる。
 ――この状況が示す意味は――
 管理係から手渡されたクリスタルを掲げ、ミナは叫んだ。
「ナイト召喚します!」
 メルファリアに於ける召喚術は、クリスタルの特別な魔力を触媒にして異界から喚び寄せた召喚獣を召喚者に憑依させるという形態を取る。宣言と共に青白く輝く光に包まれたミナの身体は、その光が収束すると巨大な軍馬に跨った鎧騎士の姿に変化していた。そのままミナは拠点から真っ直ぐ東に向けて、駆け出していく。
「ナイト出ます」
 クォークの声が響いたのはミナが出発してほんの数秒の後だった。説明の間すら惜しんだ彼女に黙って倣い、続いてくる。
「で、どう嫌な予感がするって?」
 お礼を言わなくちゃ、いやその前にさっきのお詫びを、と言うべき事が色々ありすぎて迷ったが、しかし今はミナの考えを説明する事が彼にとっても最優先だと気づいて端的に答える。
「東内周、一旦押し込んできた敵だけど、こっちの迎撃が当たるや否や即座に引いて行った。こっちが圧倒的な兵力で押し返したんだとばかり思ったけど、もしそうじゃなくて意図的に引いて……こちらを引き込んでいたのだとしたら、その理由がある筈。……マップの東端、何か映ってない?」
 クォークはマップを確認する。マップの東端――東側の隕石跡の更に東から北を巡る細い道。自軍の支配領域となってマップ上に可視化される範囲のぎりぎりに、青い星の形をした印が穿たれていた。
「敵召喚……」
 クォークの呟きに答えるように、ミナは即座に全軍に向ける魔法通信で通達した。
「緊急報告、敵キマイラ発見! 東外周、B7付近! 全ナイトは至急対応願います。繰り返します、敵キマイラ発見!」
「キマ!?」
 クォークが驚愕して叫ぶ。キマイラとは、元はエルソード王国にて開発され異世界に封印された合成生物で、ソーサラーの魔法を思わせる多彩な攻撃能力によって兵士を蹂躙する強力な召喚獣だ。しかし、その優れた対歩兵戦闘力よりも尚脅威であるのは……
「ファイナルバーストか」
 拠点に対し甚大なダメージを与える自爆技。これが、キマイラの本領とも呼べる能力だった。その威力は百名以上もの兵士を一瞬のうちに消し炭にする程の代物で、これを用いられては圧倒的な優勢も一気に覆ってしまう。何を置いても最優先で対処しなくてはならない攻撃である。
 しかし、マップに映った印だけではその召喚獣の正体までは分からない筈だが――という視線をナイトの兜の奥から向けられたのを感じて、ミナは叫んだ。
「さっきトラさん達が無理に押し込んできたのはキマイラがあっち側から細道に潜入するのを悟らせない為、引いたのはこっちの軍の後方を空けてキマイラを通す為、辻褄が合うしタイミングも合うし中央ルートも見てるけどそっちは敵影なし! だからキマ!」
 全く意思を揺らがせることなく強気に言い放つミナに、クォークは気圧されたように頷く。
 駿馬の足で該当地点に接近し、肉眼で確認出来た敵召喚獣は、果たしてミナの断言した通りにキマイラだった。三つの獣頭を持ち、剥き出しの筋肉で形作られた見るからに奇怪な大型生物が、体液か溶液か、謎の液体を撒き散らしながら四足歩行している姿は通常ならいきなり夜道で出会いたいものではない。
 ミナは確信を持っていたが、クォークは「うわ、本当に……」と呟いた所から半信半疑だったのだろう。ミナはすかさずキマイラの前方に位置取り、長大な馬上槍でその獣の体躯を貫いた。反撃に、キマイラはその口から吹雪の吐息を放ち、ミナの足をその場に縫い止めるが、彼女は怯まない。再度、氷結した彼女をやり過ごして進もうとするそれに果敢に槍を突き出す。
 キマイラは強力な白兵戦能力を持つ召喚獣だが、ナイトはその召喚獣の殲滅にこそ特化した召喚獣である。既に拠点に触れる程に迫っているのならともかく、護衛もなくこの位置で二人ものナイトに囲まれては、いかなキマイラとて生存の余地はなかった。
 クォークと敵を挟み込むように陣取り、槍と炎、氷との応酬を繰り返し、ミナの報告を聞いた別のナイトも駆けつける。数多の槍に貫かれた敵キマイラはやがて断末魔の声を上げ、崩れ落ちた。
 敵本陣制圧――ネツァワル軍勝利の報が全軍に流れたのは、そこから程なくだった。

「やったあ!」
 ナイト召喚を解除したミナは、同じく元の姿に戻ったクォークに思わず飛びついた。戦争を無事に生き残って終了出来るのは、いつでも嬉しい。しかも、敵キマイラのファイナルバーストを未然に防ぎ、戦闘自体も勝利に終わったとなれば喜びもひとしおだ。
 いつもなら同じような歓声が上がり同じように抱きつき返されるのに、それがいつまで経ってもない事に気がついて、ミナははたと我に返った。この人は、いつもそうしている友達とは別人だった。
「わっ、わあっ、ご、ごめん! いつもの癖で!」
 ぱぱっとすぐさま身体をバックステップで離しながら謝罪する。恥ずかしさに顔を紅潮させながらクォークを窺うと、彼の頬もまた、少し赤らんでいるようにも見えた。ミナの視線に気がついたクォークは、口元を隠すように手で覆って横を向き、やがてくっくっと鎧に包まれた肩を揺らし始めた。ミナの顔の温度が更に上昇する。
「君は、いつもこんな事をしてるの? エルソードの風習?」
「風習っ……じゃないけどっ……いいじゃないスキンシップ!」
 開き直って声を荒げると、小刻みに肩を揺らしながらクォークが続ける。
「悪いとは言ってないよ。男として女の子に戦勝祝いのハグをしてもらえるなんて光栄極まりないことだ。普段、この光栄に浴してる奴が羨ましいね」
 言われた言葉にそこはかとない疑問を覚えたが、それを問い質すことはミナには出来なかった。
 その問いがどうこうではなく、次の瞬間突如、夜の闇がより濃くなった事に驚いて。背後から巨体がぬぬっと月明かりを遮る。
「よぉぉぉう、こっちのカワイイキマちゃんをよくもやってくれたなぁぁ、この裏方千人長ぉぉぉぉ」
 地獄の底から響いてくる怨嗟の声のような響きに振り向くよりも先に、ローブの首根っこをむんずと掴まれた。
「裏方千人長……似合う……」
 クォークがぷっと吹く。しかしミナはそれには取り合わず、背後の脅威に対しての悲鳴を上げた。
「わ、わあああああ!! でたああああ!! 人喰いトラ――っ!!」
「誰がトラだあぁ!」
 お決まりの文句で反論してくるタイガの手から、じたばたと暴れて逃れようとしたが足も浮いてしまってどうにもならない。自分を捕らえる後ろの男に文句を言う前に、ミナは真正面から見ていた筈のクォークを問責した。
「クォーク! 何で近寄って来てたの教えてくれないの! スカウトがハイドしてきたわけじゃあるまいし、見えてたでしょ!」
「別に気配も消さずにずんずん歩いて来てたからまさか気づいてないとは思わなくて」
「クォークの人でなし! かじり殺されたら枕元で呪ってやる!」
「戦争状態でもないのに殺んねーし。ましてやかじんねーし」
 ぺ、とミナの襟首を離してタイガはその手を腰に当てた。解放されたミナは、まさかクォークに縋りつくわけにも行かず、この場の三人を結ぶ正三角形の頂点になる辺りにささっと移動した。ある程度の距離を取ってから、反撃開始とばかりに指を突きつける。
「大体、何でまたわざわざこっちの方まで来てるのよ! カセドリアの本陣の方にいたんでしょ!?」
「あん? 傭兵とはいえ捕虜として捕まったりしたら色々厄介だからな、早めにばっくれて来た」
 それと、とでも言うように、タイガがクォークに視線を移す。恐らくこちらが本題だったのだろう。
「さっきは世話んなったなぁ。是非次は、くだらねえ邪魔を入れずにサシで存分にやってみたいもんだぜ」
「大剣使いとサシとか誰が好き好んでやるか」
 にべもなく言い放つクォークに、しかしタイガは満足げににやりとして用は済んだとばかりに踵を返す。
「おら、帰んぞミナ」
「へ? 帰……どこに?」
「首都以外にお前はどこに帰るんだ。ゴブリンフォークにでも帰るのか」
「私ゴブリンじゃないもん!」
 ゴブリンというより毛を逆立てた猫のようにふーふーと鼻息を荒くする。げらげら笑いながら大剣を担いで立ち去っていくタイガを釈然としないながらも追い、数歩進んだ所でミナは立ち止まった。クォークを振り返る。
「……今回は有難う。クォークがいなかったら私、何も出来なかった」
「いや、そんな事はないだろ。俺なんかより、君の方がずっとよく働いてたよ」
 何を謙遜してるんだ、と笑うクォークに、ミナもほんの少し笑顔を浮かべた。
「偶然、っていうかうっかりだったけど、クォークと一緒に戦えて、よかった。そんな事出来るわけないって思ってたのに」
「また、援軍に来てくれればいつでも戦えるよ」
 当たり前のように言われた言葉を聞いて、ミナは何となく夜空を見上げた。……今晩中に近隣の自国の砦に到着して、そこから首都まで帰り着くには明日になっちゃうなあ、とわざと関係ない事を考える。
 ――それが当たり前だったら楽しいだろうなあ。トラさんの所属する傭兵団にでも入れてもらって、ネツァワル援軍にも分け隔てなく行って。クォークに上手く会えたらパーティを組んでもらって一緒に戦って。
 ――ああ、でも。
 ミナはゆるゆると首を横に振った。
「……だめ。私はエルソードの兵士だもん」
 エルソードとネツァワルの、ミナの頭の中では城壁のように高かった筈の境目が、今はもう道端の生垣くらいに低くなっていることを彼女は自覚していた。何度、傭兵の友達に頭が固いと笑われても崩せなかった壁はいつの間にか簡単にこの人に壊されてしまっていて、少しがさがさと掻き分けて乗り越えてしまえば簡単にそちらに行けてしまいそうな程、ささやかなものになってしまっている。
 でも、それじゃだめだと思った。
 その垣根が完全になくなってしまったら、逆に敵として出会った時に絶対戦えないと思う。タイガのように、敵軍にいるから敵なのだとあっさりと割り切って戦うことなど出来そうにない。傭兵にはなれない。ミナにとっては、何かの為に戦っているという大義名分はやはり必要なものだった。
「そうか」
 溜息を吐くような声で呟いて、クォークは頷いた。
 彼はどんな顔をしているんだろう。少し気になったけれど、暗い夜の闇に紛れてしまって、ミナからは彼の表情はよく見えなかった。

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