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 ああ、ようやっと、彼と並んで歩けた。
 闘技場を後にして、ル・ヴェルザの活気のある大通りをクォークと手を繋いで歩きながら、ミナはお腹の底からほっこりと湧き上がって来る暖かな幸せを噛み締めずにはいられなかった。
 この街にやって来て、街中を散策して様々な景色に目を遊ばせていた時も、辛い体験に気持ちを塞がれて部屋に閉じ篭っていた間も、思っていたのは結局、彼と一緒にこのル・ヴェルザをちゃんと歩いて回りたいという事だった。故郷に似た風が吹くこの街を、彼と手を繋いで見て歩けたらどんなに素敵な事だろう。心の中に暖めてきたその望みがやっと今、叶えられた。その事を、ミナはただ、幸せだと思った。
 ミナに合わせた緩やかな歩調で足を進めながら、二人は闘技場前広場から横道へと逸れて、街外れまでやってくる。街を囲む城壁の途切れる、海の見える崖までやって来た時、ミナはクォークの手から指を離して、二、三歩と一人で足を動かし、崖際の柵に手を触れた。
 生きた香りのする潮風がミナの頬を掠め、彼女の栗色の髪を優しくかき混ぜて、蒼穹の空に還ってゆく。
 風に促されて、ミナはゆっくりと後ろを振り返った。クォークは、ミナと手を離した所で立ち止まっていて、そこから少女をまばたきもせずに見ていた。彼の落ち着いた色をした瞳を真っ直ぐに見上げながら、ミナは唇を開いた。
「クォーク……ごめんなさい」
 その謝罪の意味を問うように、ほんの微かに瞼を持ち上げるクォークに、ミナは一切の迷いを吹っ切ったはっきりとした声で続けた。
「言う事を聞かなくて。迷惑を掛けて。心配も掛けて。掛けたくなかったのに、馬鹿な事して余計に掛けて。これからはクォークの忠告はちゃんと聞きます。ごめんなさい」
 クォークと向き合ってその目をじっと見つめて言い終えてから、腰が直角になる程に深く頭を下げて心からの反省の気持ちを伝えると、彼はにわかにそわそわとし出し、居心地悪そうに爪先でくるぶしの辺りを掻いた。更に言えば、頭を垂れるミナの視界には映っていないが、明らかにたじろいだ様子で前髪をかき上げて、落ち着きなく視線を動かしたりもしている。
「あー、まあ。今回は、俺の言い分の方が忠告の域を超えてた部分も大いにあるから。気にしなくていい……ってそんな上から目線で言えた義理じゃないよな、うーんと、何て言うか、ええと、……こっちこそごめん」
 ミナとは対照的に、余程動揺しているのか、途切れ途切れの言葉を無理に繋げて言って、クォークもまたミナに対して深く頭を下げた。
 お互いに頭を下げ合う形になってしまい、困ってしまったミナがそろそろと顔を上げると、遅れてゆっくりと頭を上げたクォークがミナと目を合わせて小さく微笑んだ。微笑を浮かべたまま、彼はまた少し躊躇っていたがやがて意を決したようにミナの傍まで近寄って、彼女の頬に指を添える。
「俺が言う事が常に正しい訳じゃないし、ミナはミナのままでいいよ。君にはずっと、そのままでいて欲しい」
 ――俺の目には眩し過ぎる君のままで。
 ミナに聞かせる意図は本当はなかったのか、最後の一言だけはとても小さな、大切な何かをそっとくるみ込むような声で囁かれる。
 やはり彼は時折、少し理解の難しい事を言うとミナは思う。彼の不思議な言葉は結局彼の口から説明されることは余りなくて、その意味を知る機会を得られる事は少ない。頬に触れる彼の手が離れてしまわない程度に首を傾げるミナを、クォークは時々彼女に向ける、眩しいものを見るかのような眼差しで見つめている。
「ただ、一つだけ約束して」
 囁くように、けれども強い意志を込めた声で彼は言う。
「言い難いネタで脅されていたっていうのは分かる。でも頼むから、今度何か問題が起きたら、それがどういう事であっても俺に言ってくれ。俺を頼ってくれ。絶対に悪いようにはしないから。俺に、君を護らせてくれ」
 その真摯な言葉にミナは目を瞠り、彼の優しさに流されるままに頷きかけてしまうが、少し俯いてふるふると首を振った。
「でも、だって、私……クォークに嫌われたくなくて……」
 弱々しく呟くミナを制してクォークは、分かってる、と頷いて見せる。
「俺は、例えどんな事が起きても君を嫌ったりなんてしない。何があっても君を見捨てたりはしない。万が一、君が俺を裏切るような事になっても。君が俺を殺すと言うなら、俺はそれを受け入れる」
 余りにもあり得ない、縁起でもない言葉に驚いたミナは、顔を強張らせてさっと視線を上げた。けれども彼の返す表情は真剣ではあったがあくまでも穏やかなものだった。超然とした透明な気配で微笑んで、視線でミナの頬――自分の手元を指し示す。
「今更驚く事はないだろ。ウォリアーが利き手を預けるっていう事はそういう事だよ」
 ミナも視線を頬に伸ばされる腕に落とす。彼の手のひらからじんわりと熱が伝わってくる。暖かくて大きな硬い手のひら。
「だから、君は俺を信じて。それが俺の力になる。戦場で一番大事なのは技量だって部隊長は言ったけど……俺自身、ずっとそれが正しいと思っていたし、今でも間違ってはいないとは思うけど、それだけじゃない事に気がついた。確たる心の拠り所を持ってこそ、護るべき人の為に、絶対に負けられないと強く思えるようになってこそ、誰よりも強く斧を振るう事が出来る。君が、それを教えてくれたんだ」
 彼が紡いだ言の葉は、ミナの全身を柔らかく包み込んで、魂の奥にまで染み込んで来る。
「私も」
 自然と――あまりにも当然の事過ぎて、ミナ自身、意識出来なかったくらいに自然と、その一言はミナの口をついて出た。ミナは自分の頬に触れる彼の手に自分の手を重ねた。
「私もクォークを見捨てない。私があなたを護る。絶対に護る」
 それは、ミナ程度の兵士が彼程の熟練兵に向ける言葉としては、本来ならばおこがましいとすら言えるものであるのだろう。けれどもクォークはミナの揺るぎのない眼差しを真っ直ぐに受け止めて、少年のような屈託のない笑顔を浮かべた。
「うん。信じてる」
 ミナの頬に触れていた手を、クォークは少女の髪を掬って頭の後ろに回し、優しく自分の方へと引き寄せる。ル・ヴェルザの片隅で、二人の恋人たちの影が一つに重なった。

 持っていた紙袋をがさごそと開けて、威勢よく立ち上る熱気を少し逃がしてから、ミナは中の物を取り出した。それは、闘技場前の広場に出ていた屋台で買い求めた、熱々のミートパイに、霜降りの肉を串に刺して炙ったレアステーキ、そしてル・ヴェルザ名物であるそうな、アイボ焼きという名前の玉子料理だ。
 本当は、ナハトに連れて行ってもらった海の見えるレストランに案内しようと思ったのだが、クォークにそう告げると「君って根本的な部分では肝が据わってるって言うか、こだわりがない子だね……」と少し呆れられた(感心された?)ので、少々反抗的な気分を起こして屋台で買った食べ物をここで食べることにしたのだった。景色はあのレストランの上等の席と同じくらいいいし、芳しい芳香を漂わせてミナの胃を刺激し続けてきた屋台の食べ物たちにも大いに興味があったので、ミナとしてはこの食事も何ら不服はない。
 折角なので、少々行儀が悪いが、二人並んで柵にもたれて絶景を眺めながら食べることに決め、ミナは白い湯気が立ち上るアイボ焼きにほくほくと頬を染めてかぶりついた。アイボ焼きとは、香ばしく焼き上げられたマフィンに、薄く揚げ焼きにされたベーコンと目玉焼きが乗せられたオープンサンドイッチで、なんと最後の仕上げは魔法を使って行っているという。本来は箱に詰めてから七十二分から九十分の間に食べると最も美味である状態に仕上がっている、という見た目のシンプルさとは裏腹なとても繊細な料理であるらしいのだが、大会が開催されているこの時期だけは客のニーズに応えてすぐに食べられるものが用意されていた。
 見た目は素朴だが、一口頬張ってみたその瞬間、ミナは思わず感嘆の余りに「もぐぅ……」と唸り声を上げた。白身部分はかりっと焼き上げられ、黄身はとろりと半熟の絶妙な目玉焼きに、恐らくバターとレモンをベースにしたのであろう、酸味があり尚且つクリーミーなソースが絡みついて濃厚な旨みを形成している。マフィンとベーコンの香ばしさと玉子のまろやかさが渾然一体となって醸し出される風味は複雑で重層的で、ル・ヴェルザの民がこれを名物と胸を張って言う理由にも全面的に納得が行くという逸品だった。
 クォークも、色よくきつね色に焼けたミートパイをしげしげと眺めてから、ぱくりと大きく口を開けて齧りついた。携帯に向くようにホール型ではなく、パイ生地でフィリングを半円状に包み込む形で作られたミートパイは、さくっと小気味よい音を立てて齧り取られると、ほんわかした湯気に加えて滴るほどの肉汁がじんわりと染み出てきた。それに少し驚いたように彼は目を丸くして、零れ落ちかけるたっぷりとした中身を慌てて口で迎えに行く。その子供のような仕草にミナはくすくすと笑い、クォークもまた照れたように微笑した。

 全ての食べ物を平らげて大満足のおなかを抱えながら、崖から少し引っ込んだ位置にあるベンチに二人で座って休んでいると、クォークがおもむろに腕を頭上高く掲げて背筋を伸ばした。背中と肩の硬くなった筋肉をゆっくりと引っ張り、慎重に身体を解している。
 その動作は、試合直後であるからという理由以上に、もっと何か積もり積もった疲労からの仕草であるように感じられて、ミナは理由を少しの間考えてから思い当たった事を口にした。
「疲れてる? この所、ずっと遅くまで訓練してたものね」
 その問いは的を射ていたようで、クォークはうんと頷いてあくび交じりの声で答えた。
「情報を敢えて与えて勝つなんて大見得を切るからには絶対に負けられなかったからな。部隊長はああ言ったけど、実際の所、別に奴らもそこまで弱いチームじゃなかったし。……まあそれも、奴らの敗因の一つなんだろうけど。それなりに強いからそこらの野良に負ける事はなかっただろうし、そこそこの相手なら今回みたいに事前調査する事で勝利を磐石に出来ていたんだろう。そこで慢心してしないで、《ロータス》内の一軍チームに頭下げてしごいてもらってればもう少しいい線行っただろうにな」
 でもプライド高そうだから無理だろうなぁ、と大して興味もなさそうに呟いてから、思い出したように付け加える。
「それに、多分ないとは思ったけど、もし奴らが功名心よりも実を取って一軍チームとメンバーチェンジしてきてたら、相当きついことになってただろうからな。最後まで、いくら訓練してもし足りないんじゃないかって冷や冷やしてたよ」
「……私の所為ね。……ごめんなさい」
 しゅんとした顔になってまた新たに謝罪し始めたミナを見て、クォークはしょうがない子だな、とでも言わんばかりに苦笑する。背もたれのないベンチの座面に手をついて軽く仰け反り、至って気楽な声を出した。
「違うよ。部隊長も言っただろう、三倍返しって。やられたら相手が泣いてもやり返すってのがウチの方針なだけ。……ほら、謝罪合戦はおしまい。きりがない」
 あんまりにもなんでもない風に流してしまう彼に思わずむーと膨れるミナに、クォークは穏やかに微笑みながら身体を起こして顔を向けてきた。ベンチの上に置かれているミナの左手の甲に、ミナのそれよりもずっと大きな手のひらをやんわりと重ねる。
 彼の手のひらに包み込まれる感触は、彼に抱き締められているかのような錯覚を呼び起こし、ミナはかあっと顔を紅潮させた。いつものように手を繋いでいるだけだというのにこんなにもどきどきしてしまうのは、ついさっきもっと親密な触れ合いをしたばかりで、その余熱が身体に残っているからだろうか。ちらりと前髪越しにクォークを見上げると、彼もまたミナと同じ熱を感じているかのような強い眼差しでミナを見つめていて、ミナは動揺レベルは一気にパニックの値にまで上昇する。嬉しいけど、とても嬉しいけど、どうしたらいいか分からない。
「あ、明日も試合だし、そろそろ宿舎に帰らないとっ!」
 ぎゅっとクォークの手を両手で握り直して力説しながら、ミナは子猫が跳ねるようにぴょこんと立ち上がった。一つの問題が片付いたとはいえ、実際は初戦を突破しただけに過ぎない。そもそもの目的である『バンクェット』の日程はまだ始まったばかりだ。
「ほら、昔の偉い人も言ったそうじゃない、『俺たちの戦いはこれからだ!』って」
「それは古い格言とは違うと思うなぁ」
 調子を戻して冷静な声で突っ込んでくるクォークに、ミナはほっとしたような、でもちょっと残念なような気持ちになったが、照れ笑いで自分をごまかした。代わりに明日再び激戦に赴かねばならない彼の為に自分が手伝える事を急いで考えたミナは、よい案を思いついて彼の顔を見上げた。
「そうだ、お部屋に戻ったらまたマッサージしてあげる! いっぱい気持ちいいことしてあげるからね」
 クォークの手を握る指に力を入れて激励を込めた気持ちを伝えると、クォークは平静に戻りつつあった顔にぽかんとした驚きを乗せて、「え」と呟きを零した。その微妙な反応にミナは眉尻をしょんぼりと下げて彼を見上げる。
「……もしかして、あんまりよくなかった? 私じゃ、クォークを気持ちよくしてあげられなかった?」
 どうやったらもっと彼に気持ちよくなってもらえるだろう。無意識に握り締めた彼の手を、その指先に口付けるように自分の口元に寄せて上目遣いで問いかけると、クォークは更にごふっと咳き込んだ。思いもよらないリアクションをする彼を、ミナはつい目をぱちくりとして見てしまう。
「いや、そうじゃなくて……、あの、ミナ、ええともしかしてそれって誘……」
「?」
 あまり多くの物事に思考を割り振れないミナは、彼の為に何をしようか考えている内に、自然と平常心を取り戻していたのだが、クォークの顔は再び少し赤みが差し始め、彼の手のひらも微かに汗ばんできている。不思議に思って、大好きな彼の言動の真意を今度こそはどうにかして汲み取ろうとミナがじっと彼の瞳の奥を見つめると、酷く責め立てられているかのような、いたたまれなくなったような顔をして彼は目を背けた。
「……ってるなんて訳、ミナに限ってないよな……。ごめん、俺が悪かった、忘れてくれ、何もかも」
「えええ? 何? どういうこと? 今ののどこがごめんなの?」
 責めたつもりなど全くないミナが仰天して聞き返すが、彼はなんでもないと首を振ってはぐらかすのみだった。自分で謝罪合戦は終わりにしようと言ったばかりなのに謝ってくるクォークを不思議に思い、ミナは駄々をこねる子供のような仕草で握った彼の手をぶんぶんと振って問い質す。
「ほんっと、無邪気って怖い……」
 少女の純朴な疑問の声と青年の途方に暮れた呟きが、雲ひとつない港町の青空に、馴染んで解けて、どこまでも拡散していった。

【Fin】

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