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「くそっ……くそっ、くそっ、くそぉっ……!」
 控え室の扉を手荒く叩き閉め、ナハトは軋る歯の隙間から激しく毒づいていた。急き立てられるような早足で地下道のような廊下を歩きながら、男は親指の爪を噛んでいる。爪は深爪をしたように短くなっていて、苛立っている時の癖になっているらしい事が伺える。
 闘技場控え室前の廊下は、重武装の兵士たちが闊歩する場所である為、幅広く作られてはいるが窓がなく、じめついた湿気を帯びていて酷く暗い。分厚く頑丈な石壁は、次の試合が既に始まっているコロセウムに沸く歓声も殆ど届かせず、廊下はまるで地獄へと続く回廊の如く冷え切った静寂のみが支配していた。数百年の昔に図面を引いたであろう設計者の意図は今となっては推し量りようもないが、敗者の立場からしてみれば、嫌がらせにすら近い造りと言えるだろう。
 眉間に深い皺を刻み、長く陰鬱な廊下をかつかつと歩んでいたナハトは、暗路の先で自身を待ち受けていた人影に気付きひたりと足を止めた。顔つきに宿る憎悪の色が増し、温和な文学青年を思わせた本来の面立ちは最早見る影もない。
「預け物を返して貰いに来た」
 ナハトとは対照的に一切の感情の篭らない無色な瞳をした男が、ポケットに手を突っ込んだまま寄り掛かっていた壁からゆらりと背中を離した。
 《ベルゼビュート》のクォーク、と、ナハトは自分の行く手を遮る男の名前を呪詛のように囁いた。
 ウォリアーは武装を解き、鎧の下に着るギャンベゾンのみを纏った恰好だった。武器も傍目には所持していないように見える。ナハトは一瞬ならず息を止め、相手の出方を伺うように睨み据えていたが、やがて瞳に物騒なぎらつきを残したまま唇に笑みを佩いた。
「……おやおや、結局彼女はあなたに泣きついたんですか。それは予想外でした。泣き寝入りすると思ってたんですがねェ……」
 その言葉を受けて、クォークの目が微かに細められた。静けさの中に獰猛さを秘めた、猛禽を思わせる瞳で青年を一瞥する。
「ミナは、泣きはしたけど泣きついてはいないし、お前なんかに屈してもいないよ」
 はっきりとした言葉でそう告げられて、青年は眼鏡の奥の目を怪訝そうに顰めるが、すぐにその意味を察し忌々しげに歪めた。
「成程、あれは彼女ではなく、あなたの手の者だったという訳ですか。僕は騙しているつもりが、まんまとダミーのチーム情報が入ったクリスタルを掴まされた訳か。これは一本取られました」
 乾いた笑いで吐き捨てるナハトの解釈に対して、クォークは心外だとでも言わんばかりに眉を上げた。彼の示した反応はごく微かな物で、ナハトは今度はその意味を察する事が出来ずに不可解そうな視線を向けたが、クォークにそれ以上親切に解説する気はないようだった。何も言わずに軽く肩を竦める。
 そんな淡白な対応が物足りなかったのだろうか。不意に、クォークの後ろから高らかな女の声が二人の男の間に割り込んで来た。
「笑わせるな、貴様ら如き小物相手にわざわざそんな小細工などせんわ。格の違いを見せてやったまでの事よ」
 明瞭な嘲謔の声に、ナハトは意味を理解するよりも先に不快感を孕んだ視線をその発生源に向けた。
 クォークがやれやれといった調子で首を振り、居丈高な靴音を立てて背後から近づいてきた女に場所を譲る。直前まで立っていたウォリアーと比較すれば随分小柄な、けれども異様なまでの威圧感を発する女――《ベルゼビュート》部隊長が軍靴の踵を高らかに響かせて足を止め、顎をしゃくるような恰好で胸を逸らした。
「あれは正真正銘、我々が訓練で使用した撮影クリスタルだ。わざわざこの私自らが届けてやったのだからな、間違いないぞ。我らの手の内を一切合財貴様らに見せてやったのだ、さぞ参考になったことだろう?」
 その参考とした結果がどのようなものであったのか十分に知りながら告げられる嗜虐的な揶揄に、ナハトは瞳をどす黒い炎に染める。
「ふざけたことを。今回のあなたたちの動きは、動画よりも明らかに良かった。クリスタルの情報に誤りがなかったとするならばこれをどう説明するというのです。……そう言えば、うちのチームのメンバーがおかしな事を言っていた。まるで心を読まれているかのようだと。戯けた言い訳と切り捨てましたが、何か裏があったという事ですね。違法な魔術か薬物でも使っていたのですか?」
 非難の色が濃く出たナハトの物言いに、しかし部隊長は失笑を以って応えた。
「たわけが、動画なんぞで見た映像と、実際の戦場での体感とが同じ訳がなかろうが。一つ失念しているようだが、あの動画での対戦相手は、我がチームを二分した内の一つだぞ。実力の伯仲した者同士で戦えば攻め手にも欠かざるを得んし、相応の損害を蒙りもするわ」
 その言葉が示す皮肉に気付いたナハトの目が、正面の女を射殺さんばかりに鋭くなる。が、女の舌鋒はこの程度では止まりはしなかった。
「所詮《ロータス》と言った所で貴様らは、二軍三軍に当たるチームなのだろう。上位の幹部どもは軒並み別チームに配属になっていたようだからな。……大部隊に籍を置いているだけに過ぎん三下風情が付け焼刃程度に傾向と対策を練った程度でこの我々に勝てるとでも思ったか」
 歯に衣着せぬ罵倒。若さゆえか、スカウトの割に激しやすい性質であるらしく、ナハトは呼吸する術すら忘れたように顔を紅潮させて部隊長を睨み返した。そんな青年と相対する女の浮かべる表情はここまで始終相手を嘲る冷笑であったが、ふとそこから嘲笑が消え、鋼の如き強靭さのみが残る。
「裏方やら戦術やら情報力なんぞが物を言うのは力量が拮抗している時のみだ。勝敗を決するのは唯一つ……」言いながら女は己の眼前に、ナハトに手の甲を向けた形で拳を突き出す。体格と同様、細くしなやかなそれが巨岩の力感を持って握り込まれる。
「己が腕、技量に他ならん。肉体の鍛錬も無論必要だが、筋力の多寡のみが兵士としての強さを決定する訳ではない。例を挙げるならばハイドによる隠密行動、その作業に単なる身体能力を問うのは無為と、貴様もスカウトであれば理解する所だろう?」
 問いかけに、ナハトは部隊長を睨め付けたまま返答はしない。ただ、殺意を帯びた視線で相手を射るのみである。しかし部隊長は、敵にではなく己の部下に語りかけるかのような厳粛な声で、言葉を続けた。
「兵士の強さを決するのは単純な腕力ではない。実践を伴わない情報や理論でもない。戦闘に対する習熟、それこそが唯一、限界を超え得る要素となる。頭ではなく肌で掴む境地に至る弛まぬ修練こそが、予測の精度を高め、動作を半秒早め、連携を一個体の如く強化する。くだらん策を弄する暇があるなら武器を取れ。訓練場に篭って鍛錬し、技の一つも磨いて来い、痴れ者が」
 その言葉は既に嘲謔ではなく、ただ淡々とした忠告であった――が、ここまで恥辱を積みに積み重ねられたナハトにとってはその差は余りにも些細であり、彼がその相違に意識を留める事は出来なかった。部隊長は、肩に一房落ちてきた金の巻き毛を煩わしげに背中に追いやると、急速に興味を失ったような顔をしてくるりと踵を返し、最初のクォークのように傍の壁に背を預けた。
 クォークはそんな気分屋な上司に軽く嘆息してから、再びナハトに横目を向けた。
「……種も明かした所で、さっさと返して貰おうか。何で脅したかなんて聞いちゃいないが、大体想像はつく。持っているんだろう?」
 感情の表出が余り見られない淡々としたクォークの言葉を受けた青年は、暫くの間、面に感情を表さずにいたが、ややして異様な変化を見せ始めた。わなわなと肩を震わせ、その状態がしばらく続いたかと思うとやがてかくりと壊れた玩具のように首を俯かせた。男の全身が痙攣するようにわななき、そのまま力なく膝をつくかと思われたが、彼は突如がばっと仰け反ると、気でも違えたかのように哄笑し始めた。
「あはははははははっ! 分かりました、分かりましたよ、お返しします。まァ、あなたが最もお返し願っている一番大切なモノは、あなたのご想像通り最早お返しする事は出来ませんけどねェ!」
 ぴくり――と、これまでさしたる動きを見せなかったクォークのこめかみが動いた事に、ナハトは気づいたようだった。自分を完封しつつある敵に痛撃を与える糸口を見つけたように片目だけを器用に見開き、にたり、と歪んだ笑みを零す。
「それはそれは愛らしかったですよォ、彼女。あなた程の人が夢中になるのも頷けました。清純そうな顔をしてとんだ妖婦だ、男を虜にする術はどこで身に着けたんでしょうねェ?」
 奇妙に裏返った声で青年が言った途端。
 ざっ、と石床を靴が擦る音と、「だれがっ……」という鼻声がかった激昂の声、「ちょっ、ミナさん駄目っ」それを制止する声がほぼ一瞬のうちに一団から少し離れた廊下の角付近に流れて消えた。
 数秒の沈黙を挟んだ後、クォークがやおら敵から視線を外し、背後を振り返った。暗い廊下の片隅で、涙目でぶるぶると肩を怒らせているミナを見、次いでその横で申し訳なさそうな顔をしているサイトにじろりと視線を動かして呟いた。
「ミナを近づけるなと言っただろう」
「す、すんません。クォークさんが試合終わっても帰って来ないのをごまかし切れなくて。どこにいるってひたすら詰め寄られて」
「ミナに詰め寄られて吐くとか諜報担当として駄目だろ……」嘆息するように言ってからミナに視線を移す。
「ミナ、向こうに行ってろ。こっちに来たって面白い事なんてないぞ」
 少女に語りかけるクォークを遮って、ナハトが最早狂喜とすら聞こえる高揚した声でミナを呼ばわった。
「おやぁそんな所にいたんですかミナさん! 水臭いですねェ……ちゃんとお話しましょうよ、僕と喋るのは楽しかったでしょ? あなたの興味をうまく引く為に色々事前調査して話題を考えましたからねェ。彼氏さんよりずっとマメでしょ、僕。……あの時だって、ねェ……!?」
「……黙れ」
 眦が裂けんばかりに目を見開き言葉を重ねるナハトを遮る形で、クォークの低い海鳴りのような声が響く。それに制止させられたと言うよりはミナの顔が蒼白になるさまに満足したように、ナハトは甲高い嗤い声を上げた。先の暴言に耐えかねて思わず廊下の陰から飛び出したミナだったが、粘つくような口調で連ねられる青年の台詞のおぞましさに喉が震え、反論の声がうまく出せない。
「う、嘘よ、私、なにも、さ、されてな……い」
 そんなミナに、ナハトの酷く偏った笑みが向けられる。
「へえェ、あくまでも純潔を装うつもりですか。その涙で今迄何人の男を誑かして来たものやら。凄いですねェ、そうやってついには《ベルゼ》の幹部なんて大物まで釣り上げて。人は見た目に」
 ぺらぺらと間断なく続く言葉を、突如、だんっ、と強い踏み込みの音が遮った。ミナが涙をまばたきで払って前を見ると、クォークの姿が直前の位置から大きく動き、ナハトの目前にあるのが見えた。ミナが視界を滲ませたほんの一瞬の間に、剣の間合いの何倍もの距離を詰めたのだ。先程まで無造作に厚手の上衣のポケットに入れていた筈のクォークの手に、いつの間にか抜き身の短剣が握られていた。その切っ先がナハトの喉元に、皮一枚の間隙を残して突きつけられている。
「その薄汚い口を閉じろ。短剣は専門外だが、貴様の喉首を掻き切るくらいなら造作もないぞ」
 現実的な脅威を添えての恫喝に、しかしナハトは然程怯んだ様子を見せず、はっ、と嘲笑うように息を吐き出して、腰のポーチから取り出したクリスタルを床へと放った。
 クォークは足元に転がったそれを、ナハトに剣尖を向けたまま一歩だけ下がり、爪先で空中に跳ね上げてぱしっと手に取った。手のひらの上で転がして嫌々と中を一瞥し、不快をあらわにして呟く。
「ふん。まあそれっぽくは見えるか。……けど、実際には何もされてないって分かってるのにこんな物をわざわざ奥の手みたいに隠し持たれてもな」
「…………」
 決定的と信じていた物を見せても全く動じる様子を見せないクォークを目の当たりにして、ナハトの口元に半ば自棄であったにせよ漂い続けていた笑みがついに消えた。
 ナハトが、目の前の男に呪詛を込めた眼差しを向ける。それを涼風の如く受け流し、クォークは疑う余地のない真実を告げる平坦な声で言った。
「ミナがされてないって言ってるんだからされてないんだろ。何で彼女を差し置いてお前なんかを信用しなきゃならないんだ?」
 クォークが僅かに顎を上げる。その僅かな挙動を合図にしたかのようなタイミングで、ゆらりと廊下の闇の奥に人影が現れ出でた。いつの間にか――恐らくは最初からだが、通路は前後とも、不吉な亡霊のように無言の威圧を発して立つ《ベルゼビュート》部隊員たちによって封鎖されていた。青年は、瞳だけに枯渇する事のない憎悪を漲らせたまま、顔を紙のように真っ白にしてその場に立ち尽くしている。
 周囲を敵に固められ、全ての切り札を失った無力な策士に対して、クォークの酷薄な声が凄然と響いた。
「まあ何であれ、俺の女に馬鹿げた真似をした事は、万死に値する。――楽に死ねると思うなよ」
 周囲の気温が急激に下がったような錯覚を、恐らくその場にいた誰もが覚えた。直接その宣告の矛先とならなくとも、聞いた者全てを総毛立たせる程の凄まじい殺気。
 まばたき一つの刹那で青年の首が飛ぶ――そんな幻視を見た気がしたのもやはり、青年自身も含めた全員だった事だろう。
 しかしその幻視は現実の物とはならなかった。意外な事にそれを押し止めたのは、常ならば率先して刑の執行を宣言していそうな部隊長だった。
「今ここで殺るのはやめておけ、後が面倒だ。手段を選べばまだ隠蔽のしようもあるが、このヴィネルで準備もなくやらかしてしまっては流石の私も庇いきれん」
 冷静な忠告に、しかしクォークは殺意の欠片を部隊長にすら向けて掠れる声で囁いた。
「構うか、こいつは殺す。こいつの所為でミナがどれだけ傷ついたと思ってるんだ……!」
 クォークの、短剣を握る拳に力が篭る。溢れ出る殺意が実行に移される――その前触れを、誰よりも速く察したのはミナだった。いつもは鈍い彼女が並み居る練達の兵たちの一歩も動じ得ぬ内に、彼の元に駆け寄って、大きな背中に組み付いた。
「だめっ、クォーク! 私は大丈夫だから! あなたが手を汚す必要なんかないっ!」
 瞬間、クォークの背中が叱り付けられた子供のように痙攣するが、すぐに彼は口を開いた。
「俺が大丈夫じゃない。こいつは生かしておいていい奴じゃない。生かしておけばまた同じ事をする、またミナを傷つけに来る。君だってこいつの事は憎いだろう。君の受けた屈辱を代わりに雪ぐだけだ」
 クォークの声は冷静そうに聞こえるが、決して彼が平常心を保っている訳ではない事はミナには手に取るように分かった。滲み出す血のような粘性の憎悪――彼が刃を向ける青年、ナハトのそれに似た怨念じみた憎しみが彼を赤黒い闇に染めている。戦場で敵と相対する時の彼からは感じない感情の彩。沈み込んだらきっと帰って来れない底なし沼の色。クォークは抑揚のない声で、言葉を吐き続ける。
「手を汚すも何も、敵なんか、とっくに数え切れない程殺してる。今更屑野郎の血糊が少しばかり加わった所で何も違わない」
 無表情で囁かれる言葉にミナは彼の背中に顔を押し付けたまま強く首を横に振った。
 違う。確かに彼は戦場では数多くの敵兵を斬ってきた人だ。けれど、とても清廉な刃を振るう人なのだ。かつて敵であったミナに手を差し伸べたように、例え敵でも必要のない人間を手に掛けようとはしない人。
 そんな彼に、ミナの分の憎しみに心を染めて欲しくはない。こんな場所で、こんな相手に対して、ミナの為に自分を危険に晒してまでしてその魂を穢して欲しくはない。
「私だって、憎いよ、憎いけど、憎しみで、人を殺してはだめ」
 この戦乱の続く世界では、本当にちいさな、誰の目にも見えないくらい微かな、意味のない綺麗事に過ぎないのかもしれないけれど。
 少しでも誰かを憎む誰かが生まれなくて済むように。
 彼が傷つく機会がひとつでも少なくなるように。
 クォークとミナとでは膂力に差があり過ぎて、本来ならばミナが彼を抑える事など到底叶わない筈だったが、ミナに強く抱き締められたクォークは、彼女に力ずくで押さえ込まれているかのようにぶるぶると全身を戦慄かせて自分の殺意と葛藤していた。限界を超える瞋恚の焔はミナの願いと彼自身の強い自制心を以ってしても収める事は難しいらしく、忍耐は数十秒にも渡り続いたが、その均衡をぽんと軽やかにクォークの肩を叩く手が崩した。
「まあまあ。ここは愛する恋人の言う通り、堪えてみてはどうだ。見ればまだ二十路にも満たなそうな若造ではないか。エルソード兵とはいえ、ガキ相手に激昂しては大人気なかろう? ん?」
 らしくなく、極めてらしくなく優しい猫撫で声でそんな温和な言葉を発し宥めてくる部隊長に異常さを感じたらしく、クォークは肩に手をかける女の顔に視線を向けた。その瞬間、彼は心中を満たしていた憤激の嵐すら一時忘れたかのようにびくっと頬を引き攣らせた。ミナもまた、子猿のようにクォークの背中に張り付いてぎょっと肩を引く。
 部隊長は、その容姿端麗な顔に、笑みを浮かべていた。それは普段彼女が浮かべているような皮肉気な薄笑いなどではなく、満面の――というべきなのだろうか。擬態語で表せば、にたぁ、という表現が最も似つかわしく思えるその顔は、肉を前にして舌なめずりする獣のような、獲物を壁際まで追い詰めた殺人鬼のような、気の弱い者が夜道で見たらその凶悪さに確実に悲鳴を上げるであろうそんな形相だった。
 クォークの引き気味な視線を受ける目を、部隊長はおもむろにすうと細めた。爬虫類のように生温い冷たさの、けれども凄絶なまでに妖艶な微笑。
「我が部隊のモットーは理解しているか? クォーク」
 うちの部隊にそんな御大層な物があっただろうか。眉根にそんな疑問を乗せ、部隊長の言わんとしている事を探ろうと視線を返すクォークに、彼女は朗々と歌うように告げた。
「目には目を、歯には歯を、性犯罪には性犯罪を、だ。尚、未遂であろうともれなく三倍返し」
「……は?」
 と、彼が呟いた時には部隊長はクォークから視線を外していて、今度はナハトにその底冷えのする笑顔を向けた。その異様な気配はこのエルソード兵すら怯ませ、彼はまさに蛇に睨まれた蛙さながらに、顎先に脂汗を流した。
「大人の責務として、ここは一つ未来ある青少年に教育的指導を施してやろうではないか。人の嫌がる事をするとどうなるか、とくと思い知って貰おう。……ムキムキマッチョの牛ヲリお兄さんは好きか、小僧?」
 問われた言葉の意味を、ナハトは理解する事が出来ないようであったが――周りで見ているミナやクォーク以下《ベルゼビュート》の面々ですら同様なので当然の話だが――、部隊長は聞き手の不理解に気を悪くする様子もなく、寧ろ楽しくて楽しくて仕方ないと言わんばかりに隻眼をいっぱいに見開いた。
「ツヤツヤムッキムキのお兄さんたちに身も心もズボズボ且つヌチョヌチョ且つズタボロになるまで可愛がって貰いその映像をリベルバーグ中にばら撒かれれば、この坊やも自分のやらかしたおいたがいかなるものであったかを理解出来るであろうよ。その様子を仔細漏らさず動画撮影し、裏ルートで売却すれば我が部隊の臨時収入にもなって一石二鳥、BLというジャンルは昨今中々に需要があると聞くからな! つんと取り澄ました小生意気な耽美系知的受を力ずくで押さえ込みひん剥き存分に泣き叫ばせ自我が崩壊するまでじっくりねっとりぬっぷりと弄ぶ様はさぞ画になる事だろう! せいぜいイイ声で啼いてくれよ!? その方が金になるからなァ!! あははははァ――――!!」
 炎熱を撒くドラゴンのように大口を開けて一頻り哄笑した部隊長はぴたりとその笑みを収めた。瞬時にして冷酷な真顔に戻り、頭の横に持ってきた指をぱちんと一つ音高く鳴らす。
「連れて行け」
 途端、部隊長の影からまた新たな人影が現れ出でた。一見、召喚獣にも見える異形のシルエットであったが、それはれっきとした人間だった。雄牛の角を模したごつい鉄仮面を被る大男が二人。オイルでも塗っているのかテカテカと黒光りする分厚く立派な筋肉を纏う男らは、巨体に見合わぬ幻影のような気配のなさでナハトに迅速に接近し、その腕を両脇からがっしと拘束した。
 新手の敵の姿は彼に想定外のインパクトを与えたようで、青年がせわしなく両横の巨漢たちに視線を巡らせる。何やら本能的な危機を感じたらしく青年は力の限り抵抗するものの、軽々と宙に持ち上げられた身体は風にはためく洗濯物の如く無力にのたうつのみだった。
「や、やめろっ、やめっ、やめてくださいっ! ひ、ひいい!? 誰か助けっ……!?」
 甲走った悲鳴を上げながら暴れる青年を、牛鉄仮面は黙々と連れ去っていく。そしてそのまま彼らの姿は暗い廊下の奥に解けるように消えて行った。
「こちらの始末は任せておけ。そっちはそっちで片付けろ。ではな」
 続いて部隊長が、黒い愉悦をはちきれんばかりに詰め込んだ真顔という器用な表情で、こめかみにさっと二本指を当てクォークに告げる。クォークは瞳の中に動揺を残しつつ「あ、ああ」と返し、牛鉄仮面たちと同じ暗がりへと消え行く上司を見送った。
「……ええと」
 ミナも、クォークの腰にしがみついたまま、一連の展開に呆気に取られて唖然としていたが、やがて肩越しに自分を見下ろすクォークの視線に気がついた。そこでようやっとミナは自分の体勢を思い出す。ミナは火がついたように一気に顔を真っ赤にし、あわあわと彼の腰に回していた手を解いた。
 ミナが一人で泡を食っている内に、通路を封鎖していた部隊員たちも「腹減ったなー」「飯食いに行くべ飯」出番の終わった役者のように、不吉な亡霊の気配を休暇中の兵士のそれにけろりと戻し、わらわらと立ち去っていく。
 そして薄暗い廊下に二人だけが残される。
「……俺たちも、飯、食いにいくか」
 直前まで全身に漲らせていた鋭利な殺気を向ける先を丸ごと全部持って行かれ、毒気を抜かれた顔で微苦笑するクォークに、ミナも久しぶりに少しだけ笑顔を浮かべることが出来た。

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