- PREV - INDEX - NEXT -






 早朝、まだ日も明けやらぬ時刻。人目を憚るようにフードを目深に被った小柄な娘が、階下の郵便受けに小さな包みを落とし、足早に立ち去っていった。その姿を窓から悠然と眺め、彼は――ナハト・ネーベルは一人ほくそ笑んだ。
 実に他愛のない仕事だった。全てが終わった暁には今一度あの娘を部屋に呼び付けて、今度こそ最後まで楽しんでやるのも悪くない。今回の成功に加え、かの《ベルゼビュート》の幹部の女を寝取ってやったとなれば、部隊内でも一目置かれるようになるだろう。笑いが止まらないとはまさにこの事だ。
「くっくっく……あははっ、ははははは……っ!」
 ほの暗い部屋で青年は一人、喉を仰け反らせて嗤い続けた。



 その日以降、ミナは部屋に篭りきりになり、街には一度も出る事はなかった。ベッドに膝を立てて座り、太陽が空を東から西へ渡って行くのを窓からぼんやりと眺める事で日々を過ごした。
 クォークとは毎日顔を合わせていたが、一緒に過ごす時間は相変わらず少なかった。彼は朝出掛ける前と夕方帰ってきた時に必ずミナに会いに来たが、夕食後はまた遅くまで自主訓練に出掛けていたようだった。本番が差し迫っている為か、一段と厳しい鍛錬を自らに課しているようだ。その合間の僅かな逢瀬の時間に、彼があの日の件に触れる事は一切なかった。
 ミナだけを置いてけぼりにするかのように時は過ぎていき――大会初日、対《フォアロータス》戦を迎える。

「大丈夫っすか、ミナさん」
 度々後ろを振り返ってミナを気遣いながら人ごみを掻き分けて歩くサイトに、久々に外出したミナは繰り返し頷いてどうにか大丈夫だと合図を送った。
 大会の初日を迎えたル・ヴェルザはまさにお祭り騒ぎというべき賑わいに沸いていた。これまでのル・ヴェルザも十分に活気のある街だとミナは思っていたが、今日の盛況ぶりはその比ではなかった。街路にも、今までこんなにもの人がどこにいたのだと驚く程の人が溢れ、広場に至っては進みたい方向に進む事すら困難で、芋を洗うという表現はまさにこの事だとミナに実感させた。
 ミナ一人だったらまさしく小芋の如く人ごみの中でころころ転がっているだけで、目的地に辿り着く事すら到底出来なかっただろう。しかし今はサイトが露払いの如く先導してくれているのでまだどうにか移動する事が出来ていた。広場を抜けて闘技場の敷地内に入った所でミナは疲労と感嘆が半々に入り混じった声を漏らした。
「凄い、人ね……」
「この街に今来てる観光客の殆どが、一同に集まってる状態っすからねえ」
 サイトも少々辟易とした声で答え、けれどもこなれた調子で雑踏の中を進んでいく。
 二人は一旦闘技場内に入り、重厚な石造りの階段を上って行った。少し人通りも緩やかになる裏の方の通路を通り、普通の建物で言えば三階くらいだろうか、暗い階段室をぐるぐる回ってかなりの高さまで上った所で、サイトは通路に続くと思しき扉を開けた。
 その途端、光と共にぶわっと正面から吹き込んできた強い風がミナの髪を弄んだ。屋外に出たのだろうか。踊る前髪を押さえながらミナは周囲の様子に目を向ける。
「わ……!」
 ミナたちが出た扉は観客席のかなり後方の最も高い通路に面するもので、そこからはコロセウムの全容が一望に見渡す事が出来た。巨大な円柱状の建物の内部はすり鉢状になっていて、天井はなく、青空の下に数万にも及ぶであろう膨大な数の座席がみっしりと設えられている。今はその席の殆ど全てが、色とりどりの服を着、様々な色の髪をした老若男女で埋まっていた。
 数多の観客たちの視線の交点、すり鉢の底部に当たるコロセウムの中央は広い円形のグラウンドになっていた。赤茶色の乾いた砂が敷かれた平面だが、所々に古びて半ば崩壊した城壁のようなものが点在しているのが見える。あれは何なのかとサイトに尋ねると、競技に面白みを持たせる為の障害物なのだと彼は答えた。あれらの城壁と、『バンクェット』の公式ルールで唯一許可されている魔法建築物、スカフォードを地形として戦略的に利用して、戦闘を行う事になるらしい。
「こっちの階段がすいてたんでこっちから上がってきちゃいましたけど、俺らの席はもっとずっと前の方です。これチケット。見方分かります?」
 差し出されたチケットと、それに書いてある番号と、手近な椅子の背もたれにある番号を照らし合わせる形で簡単に説明されてミナは頷いた。このままもっと下の方に降りていけば席は見つかりそうだ。
「俺、ちょっと部隊の控え室の方に顔出して来ますんで、先に行って待ってて下さい。多少遅れるかもしれませんが、下にはウチの部隊員もいますから」
 じゃあまた、と手を上げるサイトに手を振って、ミナも示された方向に歩き出した。

 通路沿いの座席の番号を時折確認しながら、ミナは観客席の石段を少しずつ降りて行った。階段状の通路は行き交う人も多かったが、傾斜のお陰で背の低いミナでもどうにか周囲を見回すことが出来る。
 場内は、荒れ狂ううねりの如き喧騒に満たされていた。数万もの口から発せられる期待と興奮の声は、ただかしましいのみでなく、嵐の前兆を報せる遠雷の轟きのような重厚さとなってコロセウムの円周内に渦を巻いている。
 それもその筈だった。今ここにいる観客たちの誰もが皆、この日この時を心待ちにして、国を超え、メルファリア中からこの絶海の孤島ヴィネルに集結しているのだから。
 大会開催初日、第一試合から絶好のカードが組まれていた事も観客たちの興奮に拍車をかける材料だった。エルソードの古豪《フォアロータス》と、ネツァワルの雄《ベルゼビュート》、国単位でも宿敵とも言える二国のそれぞれ最強との呼び声の高い部隊の激突は、その二国の民であれば勿論、遠く離れたゲブランド帝国の民ですらも期待に手に汗し待ち侘びる注目の対決である。
 周囲を眺めながらミナが一段ずつ階段を下りていると、どこかの国の兵士らしい大柄な男たちが、これから行われる試合について熱く議論を交わしているのが耳に入った。初戦から《ベルゼ》対《ロータス》か、こいつは楽しみだ。《ロータス》相手じゃあさしもの《ベルゼ》も苦戦するだろうぜ。そりゃあ五年前の話だろ、今は《ベルゼ》一強だぜ――
 その会話からはどこの国の兵士であるかは分からなかった。分からないくらいに、その会話には敵としての憎しみは感じられず試合への期待のみに満ち溢れていた。
 空を見上げる。太陽を抱く青い空。ぽつりぽつりと浮かぶ白い雲。クリスタルのように世界は輝いている。
 ずっと、こんな世界であればいいのに。
 兵士たちのたった一時の羽休めが永遠に続けばいいのに。
 人いきれに少しのぼせてしまって、ふうと小さく溜息をついて視線を進路に戻したその時、ミナは石段と直角に交わる通路から上を見上げている人影に気付いた。自分を見ていると思った訳ではなかったが、何となくそちらに視線を向けたミナはそれが誰であるかに気づいて息を呑んだ。
 あのエルソード兵――《フォアロータス》のナハト・ネーベルだ!
 密室で襲われた時の恐怖が蘇り、足が竦んで歩みが止まる。今すぐに引き返して逃げ出してしまいたい衝動に駆られるが、真っ直ぐにこちらを見ている彼は間違いなくミナを認識していて、今逃げた所で無駄だろうという事は分かった。下手に人気の少ない場所で出くわすよりは幾分ましだと覚悟を決めて、ミナは足の震えを隠して再び歩き出した。
 その場で動かずに待ち受けていた青年の目の前を、ミナは視線も向けずに横切ろうとしたが、硬く強張った横顔に「知らん振りしないで下さいよ」と笑いを含んだ声が掛けられる。無視に徹して通り過ぎようかとも考えたが、また一緒について来られても困るので、ミナは数歩進んでからやむなく振り返った。薄ら笑いを口元に漂わせる青年と、観客席中ほどの通路を挟んで対峙する。
 青年の装いは、眼鏡と後ろに撫で付けた銀髪こそ変わらなかったものの、それ以外の部分についてはこれまでとは全く趣が違っていた。今までに見た彼の姿はいずれも戦闘とは無縁そうな普段着だったが、今はスカウト然とした皮革製の黒衣を全身に纏っている。初めは温和そうに見えた笑顔も、この暗殺者じみた恰好で見せられていれば最初から剣呑なものと認識出来た事だろう。
 ミナはそんな青年を睨みつけ、毅然として見えるように胸を張り、可能な限り冷たい声音を作って言い放った。
「何か用? あなたも出場選手なんでしょう。こんな所でのんびりと女の子に声を掛けてる暇があったら、控え室でイメージトレーニングでもしてたら?」
「ははは! 無力に震えるだけのか弱い子猫だとばかり思っていましたが、中々どうして言うじゃないですか」
 ミナのつっけんどんな物言いは青年にとっても予想の埒外だったのか、彼は感嘆したように笑ってから、眼鏡を指で押し上げて、唇の端に皮肉げな笑みを浮かべた。
「お気遣い痛み入りますが、イメージトレーニングは十二分に行いましたのでご心配なく。あなたがご提供下さったクリスタルのお陰で、ね。ありがとうございました。大変参考になりましたよ」
「…………っ!?」
 その発言にミナは目を見開いて青年を見上げた。物言いたげな、けれども何も言えないミナの表情を見下ろして、青年は痛快だと言わんばかりの笑みを浮かべる。
「大丈夫です、僕は誠実な男です。一度交わした約束を破ったりなどしませんよ」
「……あんな事をしておいて誠実だなんて。どれだけ面の皮の厚い人なの」
 青年をキッと睨め付けてやり返すミナに、彼は再度、心底愉快そうに喉をくつくつと鳴らした。彼は満足げにミナを見やってから、彼女に背を向けて、一言、残す。
「彼氏さんが無様に地べたに這い蹲る姿を客席でゆっくり見ていなさい」
 人波の向こうに黒い影が完全に消えるまで、ミナはその場に立ち尽くしたまま後姿をじっと睨みつけていた。

 観客席に腰を下ろしたミナは、今はまだ無人である闘技の舞台を黙したまま見下ろしていた。
 サイトはまだ戻って来ない。が、ナハトというあの男は試合開始直前でもうミナに構っている暇もないだろうし、仮に彼に手下がいたとしても《ベルゼビュート》部隊員たちも多くいるこの場所で、何かを仕掛けてくるという事もないだろう。まだ誰もいない、寂寥とした遺跡のような佇まいを見せる闘場をじっと凝視して、ミナは胸の前で指を組み、密やかに祈る。
 闘技場内に渦巻いていた歓声が、突として、ひときわ高まった。闘技場の東西にそれぞれある門から各チームの選手たちが入場し始めたのだ。
 東――闘技場の慣習としてティファレンツ側と呼ばれる入場口から、《ベルゼビュート》の豪傑たちが。
 西――同じくメルジア側と呼ばれる入場口から、《フォアロータス》の猛者たちが観衆の前に続々とその姿を現す。
 物々しい戦闘装備に身を固め、使い込まれた独特の艶を帯びる武器を携えたいずれも劣らぬつわものたちの勇姿に、観客たちの興奮はいよいよ増していく。割れんばかりの歓声を受けながら、双方の兵士たちは試合開始地点で装備の最終点検や軽いストレッチなどをして試合への集中をそれぞれに高めていく。
 そして、時が来る。
 おもむろに出入り口から闘技場中央に進み出て来た審判員を観客たちは認め、ざわめきに満たされていたコロセウムが少し静まった。完全な静寂には至らず、ささめく期待の声が場内に絶える事なく残る中、主審の声が拡声器によって増幅され、高らかに響き渡る。
「メルファリア統一闘技大会『バンクェット』第一試合、『《ベルゼ》一軍(笑)』チーム対『フォアロータス・レパーデス』チーム戦、試合、開始ッ!!」
 観客の声援が油を注がれた炎のように一気に再燃する。
 戦いの火蓋は切って落とされた。

- PREV - INDEX - NEXT -