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 ――頭が重い。
 ミナは暗闇の中に意識を埋めたまま、頭の中を揺さぶられる感覚を覚えて眉間に皺を寄せた。寝ているすぐ傍をサラマンダーの群れが地響きを立てて行進しているかのような激しさで脳みそが攪拌されている。或いは閉じた瞼の内側でフェアリーが踊り回っているかのような出鱈目さ。
 エルソードにいた頃の友人だった大酒呑みのウォリアーが、よく朝になってもぷんぷんとアルコール臭を漂わせながら頭が重い気持ち悪いと呻いていたものだが、これがかの二日酔いというものなのだろうか。けれどもお酒なんて全く飲んでいない筈……
 元よりぐらぐらとしている頭に更に混乱を来たし、ミナは額に手を当てようとしたが、経験した事がない程の倦怠感に身体ががんじがらめにされていて、腕は一向に持ち上がりそうになかった。
 ここに至ってミナは漸く状況に不審さを覚え、鉛のように重たい瞼をうっそりと開いた。
 目を開けて最初に視界に飛び込んできたのは白いシーツで、頬に感じていた感触が糊の利いたそれであった事をミナに教えた。洗い立てであるらしいが、そのパリッとした肌触りが少し苦手なミナはシーツを洗っても糊をつけないので、この場所に対する違和感が更に増す。苦痛を押して上体を起こそうとしたがやはり身体は持ち主の命令を上手く聞いてくれず、やむなくそのままベッドに倒れ付した体勢で眼球だけを動かした。
 部屋は、宿の客室のようなそっけない作りの一室だった。まだ昼間であるらしいが窓にも厚いカーテンが掛けられていて室内は薄暗い。その為もあっただろう。壁際のライティングテーブルの椅子をこちらに向けて座っている人影が最初からそこにあった事に気づくのが少し遅れた。
 あなた、は……
 ミナは声に出して呟いたつもりだったが、喉がからからに渇いていて呼びかけは掠れた空気の音にしかならなかった。けれどもその声に応じて、椅子に悠然と座っている青年は、眼鏡の奥でにこりと笑顔を浮かべた。
「おはようございます。そんなに強い薬を嗅がせたつもりはなかったんですけど、あなた、寝つきがいいんですね。可愛らしい寝顔でしたよ」
 柔和な青年の声と笑顔がそれまでと一切変わらぬ穏やかさでミナに注がれたが、それはミナを安心させる要素にはならなかった。――薬。温和な声で語られる危険な単語に却って危機感を煽られて、ミナは力の入らない腕をどうにか動かしシーツに突き立て、上半身を起こす。
 記憶を遡り、明確な所から再生する。クォークに謝りたくて、探していたらこの青年に出くわして、その後、案内してもらって突きつけられた言葉に動揺して案内を断って、……
 意識の断絶点が見つかってミナはぞくりと肌を粟立てた。身体を包み込む腕の感触。この男の腕の中で自分は意識を失った。
 青年に視線を戻す。これまでずっと、かっちりとした服装に身を固めていた青年の、シャツのボタンを中程まで広く寛げ、素肌を曝け出した恰好にミナは気づく。
 ミナは浅く早い呼吸を繰り返しながら震える手で自分の服の胸元をきつく鷲づかみにした。クォークが言っていた言葉が頭の中でこだまする。――あのね。君は女の子なんだよ? 小さい子供以上に危険だから言ってるんじゃないか――
 意識がない内に一体何があったのか、恐ろしい想像に怯えおののくミナの様子を喜悦に満ちた表情で眺めた青年が、さも紳士的な風情でミナに優しく囁きかけた。
「安心しなさい、何もしていません。ほら、確認したらいい、着衣だって乱れていないでしょう? 意識の無い娘に手を出すような真似などしません」
 言われてミナは恐る恐る自分の身体を見下ろした。彼の言う通り、ミナの服装は朝から着ていた普段着のままだった。チュニックを留めるベルトも外されてはいないし、靴だけは脱がされているが、スカートの下に履いている薄地のタイツもそのままだ。これを意識のない人間に着脱させるのは骨だろう。
 安心とまでは行かないものの幾ばくかは安堵を覚えてミナが呼吸の調子を少し整えた頃、青年がゆらりと椅子から立ち上がった。にこやかな表情のまま、毛足の長い絨毯敷きの床をゆっくりと歩いてくる。徐々に迫り来る姿にミナは不吉さを覚えて再び全身を緊張させる。
 薄暗い部屋の中、穏やかで理知的な顔つきに濃い陰影を落として男は嗤った。
「そんな勿体無い事する筈ないじゃないですか。最高の絶望に泣く声は、是非とも自分の腕の中で聞きたいじゃないですか……ねェ?」
 言うと同時に青年が膝をついたベッドが軋みを上げ、細長い指がミナの腕を掴んだ。愕然として振り仰ぐミナを、薄ら笑いを浮かべる青年は強引に押し倒し、その上に覆い被さった。
「い、嫌っ……やめて、離して! いやあっ……!!」
 反射的に身体を丸め肩を抱くミナの両腕を青年は無理矢理開かせ、ベッドシーツに押し付けた。細身の青年ではあったが曲がりなりにも男の腕力は、兵士と言えども貧弱なソーサラーであるミナの抗いなど物ともせずに封じ込んでしまう。そのまま青年は、ミナの手首を片手に掴み直すと、空いた手でミナのチュニックを手荒くたくし上げた。
「嫌……っ!!」
 引き攣った声で叫びかけた瞬間、炎の魔法で焼かれたような熱さを頬に感じてミナは息を呑んだ。熱はすぐさまじんじんとした痛みに摩り替わる。容赦のない力で青年がミナの頬を張ったのだった。
「痛い思いをしたくないならもう少し大人しくしなさい」
 薄笑いのまま振るわれる直接的な暴力の恐怖がついにミナの涙腺を決壊させた。熱い液体が目と喉の奥に湧き上がって来る。こんな男の前で泣いては駄目だ、という意識は働くものの堪えようと思えば思う程、涙を止める事は一層難しくなっていく。
 せめて嗚咽だけは漏らすまいと奥歯を噛み締めて必死に堪えるミナを一切省みる事なく、青年は少女に圧し掛かったまま、ふとサイドテーブルに意識を向けた。天板の上にただの置物のように置いてあった、八面体にカットされたクリスタルを手に取ると、それを宙へと放り上げる。通常の物理法則に従えばそのまま放物線を描いて落下だけの筈であったそれは、大人の背丈程の位置でぴたりと停止し、その場に浮かんだままくるくると、魔導具のように自転し始めた。涙にぼやけた瞳で見上げたミナには、何故かそれが他人の窮地を見て見ぬ振りをする無関心な人間の目に見えてしまい、人々に恩恵を与える筈のクリスタルに対して生まれて初めて禍々しさを覚えた。
 クリスタルはその状態で放っておき、青年はミナへの辱めを再開した。薄い下着が心もとなく残るのみのミナの胸や脇腹を、青年の手のひらが緩慢な速度で撫でていく。指は男の物にしてはきめ細やかでミナの肌をすべらかになぞるが、それはミナの感情を逆撫でするだけの行為だった。嫌悪であるのか恐怖であるのか恥辱であるのか、ミナ自身にも最早分からない凄絶な不快感の塊がぞわぞわと背筋を這い上がって来る。嫌だ。嫌だ。逃げ出したい。亡者の群れの棲む穴に投げ捨てられ、纏わりつかれたとてこれ程の悪寒は味わえまい。そう確信出来る程の凄まじい汚辱感。
 ミナの極限まで追い立てられた表情を、青年は極上の美酒を堪能しているかのような表情で鑑賞した。指をじわじわとミナの下半身へと滑らせながら、彼女の頸部にゆっくりと顔を近づける。肌を舐めるように吐きかけられた生ぬるい吐息に更にミナは震え上がり――……
 その時唐突に、空中で音もなく回転していたクリスタルが、突如吊り下げていた糸を切られたかのように床へと落下した。ことん、と絨毯敷きの床に鈍い音を立てて落ちた瞬間、青年は興を殺がれたような顔をして、ミナの上から大儀そうに退いた。そのままベッドから降り床のクリスタルの所まで歩いていって、それを無造作に拾い上げる。男から解放されたミナは即座に起き上がり、はだけた着衣を手早く直して胸の前にきつく抱きかかえた。
 青年は拾い上げたクリスタルを矯めつ眇めつ眺めていたが、暫くすると気が済んだのか、ベッドの隅で小刻みに震えているミナに顔を向けた。
「綺麗に撮れていますよ。あなたも見ます?」
 にっこりとしながらクリスタルを持った手をミナの方へと伸ばしてくる。ミナは男の接近に恐怖して後ずさろうとしたが、背中を壁に阻まれて動く事が出来なかった。代わりに、近づけられた石を間近で見せ付けられる。薄い青色をした透明なクリスタルだと思っていたその中には、何かが入っているようだった。
 と思ったその時、クリスタルがにわかに発光し始めた。志向性のある光が放たれ、横手にある白い壁にやや広がって突き刺さる。自然とそちらに視線をやった瞬間、それがどういうものであるかに気づいてミナはひっと息を呑んだ。
 白い壁に大きく映し出されたのは、半裸の女とそれに覆い被さる男の姿という卑猥な像だった。――直前までの自分とこの男の姿だ。手のひら大のクリスタルの中にある影は小さいがそこから投影される像はとても鮮明で、顔形まではっきりと分かる。
「返してっ!」
「やだなあ、これは最初から僕のですよ?」
 ミナは男の手からクリスタルを奪い取ろうと無我夢中で彼に飛び掛ったが、乱暴に振り払われてベッドの上に無様に転がった。その瞬間運悪くベッドの支柱に頭を打ち付けてしまい、ぐらりと視界が回る。
「これはね、画像撮影用のクリスタルです。映像を紙に印刷することも出来るんですよ」
 脳震盪を起こして起き上がろうにも起き上がれないでいるミナに、男は嬉々として語り出した。
「諜報の世界ではよく用いられる魔法道具です。……自殺なんてされちゃ元も子もないですからね、ここまでで許してあげます。でも、この画像じゃあどこまでしちゃったか、分かんないですよねェ。大好きな彼氏さんの事怒らせたくなかったのに、この体たらくじゃあ……捨てられちゃうかもしれませんねェ?」
 青年はゆっくりとベッドに近づき腰を下ろすと、がたがたと震えながら俯くミナの背をまるで労わるかのように撫で回し始めた。粘りつくような手つきにミナは激しい嫌悪を覚えるが、しかしそれを振り払う気力すら今の彼女にはなかった。男が口にした脅しは、男の行為に対する気色の悪さすらもを吹き散らす程の深い絶望をミナに与えていた。
 余りにも非情な脅迫に打ちのめされて抜け殻のように虚脱するミナの耳朶に口を寄せ、そっと悪魔が耳打ちする。
「なぁに、バレなきゃいいんです。本当は綺麗な身体なんですから、罪悪感を感じる必要もありませんよ。ちゃんと言う通りにしてくれたら、僕も誰にも言いません」
 忌まわしき悪魔の魔法に操られるように、のろのろと顔を上げるミナに青年は笑顔を見せて、サイドテーブルの引き出しから再び同じようなクリスタルを取り出した。先程の物と同じ形状だが、今度の物は少し緑がかった色をしている。
「さっきのは静画用ですが、これは動画撮影用のクリスタルです。大会に出場するようなチームなら、各人の錬度を確認する為にこれで動画を撮りながら訓練しています。……恐らくは、リーダーであるあなたの彼氏さんが保管している筈です。ちょっとこれ、こっそり借りてきてもらえませんかねェ?」
 その一言が含んでいた情報は、ミナの茫漠としていた頭に冷水を浴びせかけるものだった。はっと目に光を戻して青年を見上げたミナに対し、青年は演技じみた仕草で手を胸に当て、優雅に一礼して見せた。
「申し遅れました。僕はエルソード国部隊《フォアロータス》に所属するスカウト、ナハト・ネーベル。『バンクェット』第一回戦で『《ベルゼ》一軍』チームと当たる事になるチーム『フォアロータス・レパーデス』のリーダーを務めています」
「あなた、全部分かってて……最初から、クォークを嵌めるつもりで……っ」
 恐怖を超える怒りにぶるぶると身体を震わせながら唸るミナに、青年はうっすらと笑みを浮かべ、嘯く。
「今回の大会では、是非とも勝ちたいんですよ。《ベルゼビュート》にはね。エルソード最強部隊の名を掲げる我々《フォアロータス》ですが、実際の戦場ではネツァワルの《ベルゼ》に大きく水を開けられている感が拭い難くある。……ここらでちゃんと存在感を示せなければ、エルソード国内での我々の地位にも関わる事になる」
「そんなズルで勝ったって自慢にならないわよ、卑怯者!」
「ズルとは心外ですね。研究熱心だと賞賛されてもいいくらいです」
 しゃあしゃあと言い放つ青年にミナは目の眩みそうな程の憤怒を覚えた。万事おっとりとした性質で激情をやり過ごす術を余り知らないミナが、息を吸うのも困難な程の怒りに肩を震わせていると、冷酷なまでに穏やかな微笑を口辺に佩いた青年が、先程首元に感じた吐息のように生ぬるい声音で囁いた。
「何も戦場での殺し合いで裏切れと言っている訳じゃない。闘技場内の模擬戦に過ぎないんですよ。可愛いものじゃないですか。……これからも彼と仲良くしていたいでしょう?」
 ミナは硬く食いしばった歯の隙間から鋭く息を飲み、――けれども何も言い返すことが出来ずに、全身を戦慄かせたまま力なく項垂れた。



「ミナさんっ!」
 ミナが《ベルゼビュート》の仮宿となっている宿屋の扉をそっと開けた途端、ミナの顔を認めた部隊員たちが数人、驚いた声で彼女の名前を叫んだ。その予想外に大きな反応に、後ろ暗い気持ちを抱えるミナは自然と足を竦ませる。目を見開いて入り口に立ち尽くしてしまうが、しかし部隊員はミナに非難を浴びせるでもなくすぐに宿舎の中に顔を向けると大声で呼びかけた。
「おい、ミナさんが戻ったってクォークさんにっ」
 ――あの男が部隊の人たちに、何かを言ったりした訳ではないようだ。彼の目的にも反する事なので当たり前なのかもしれないが、ミナはまず一つ息をつき、次いでそんな自分に嫌悪を感じて唇を噛んだ。しかし今は頭を振って現実から目を逸らし、気持ちを切り替える。クォークがミナの事を探してでもいたのだろうか。彼の名前を胸中で呟くだけで早鐘を打つ心臓の上に手を置いて、ミナは部隊員に素早く頭を下げた。
「大丈夫です、もう、部屋に戻りますから」
 部隊員の集っていた食堂を兼ねるホールを足早に抜けて、居室のある二階へと続く階段を駆け上がる。最後の段を上がり切った所で、廊下の突き当たりのドアから出て来たクォークと鉢合わせた。
 ミナの姿を一目見たクォークはその一瞬、無表情に近かった顔をほっと綻ばせた。微笑みと言うには弱い、けれど確かな安堵の表情に、ミナは泣きそうになってしまう。けれど、今、泣く訳には行かない。今泣いてしまったら彼はミナの異変を不審に思うに違いない。ぎゅっと頬の奥を引き締めて感情を表に出すのを堪えたミナを見て、クォークは一転、表情を凍らせたが、微かに目を伏せてから再度ミナを見据えたその目には冷静さが戻っていた。
「ミナ」
 ひたりとミナを捉えてクォークが静かな声で呼びかけて来る。昼間のように、彼の瞳の奥に怒りの灯火が見える事はなかったが、酷く憔悴しているのを隠し気丈に振舞おうとしているようにも見える。
「……ごめんなさい、勝手に出かけて」
「いや、それはいいんだ」
 ミナの謝罪をクォークは一言で受け入れた。少しの間、沈黙が落ちる。俯くミナを見下ろしながらクォークも言葉に詰まっていたようだったが、やがて彼が再び声を発した。
「ミナ……、」
「大丈夫。何でもないの」
 彼の言葉を遮る形でミナは咄嗟に口を開く。――この答え方ではおかしい。声に出した瞬間に、ミナはその事に気づいた。クォークはまだ何も尋ねてなどいないのにこの答え方では、何かあったと自分から暴露しているようなものだ。これでは駄目だ思うものの、堰を切ったように弁解を紡ぎ続ける自分の舌をミナは止める事が出来ない。
「……本当なの、何でもない、何もなかったっ……本当だから、信じて……っ……」
「分かってる」
 肩を震わせて懸命にそう言うミナの髪を、クォークは何も聞かずに梳くように撫でた。

 夜の帳が落ち、早朝から訓練を重ねる部隊員たちが皆寝静まった頃、ミナはベッドからそろりと足を下ろした。
 ミナは部隊外の人間であるにも関わらず個室を貰ってしまったのだが、厳密にはその部屋は、寝室が二つに居間が一つという間取りのスイートルームだ。もう一方の寝室をクォークが使っている。居間を幹部級のミーティングルームに開放するという条件で、宿で最上級のスイートルームをもぎ取ったらしい。
 なので、部隊の資料のうちクォークの預かりになっている物は、資料室用に借りている部屋ではなく居間に置かれているという事をミナは知っていた。
 そういった事情のうち、どこまでが調査済みだったのだろう。全て把握した上でミナに白羽の矢を立てたのだとしたら恐るべき調査力だ。それだけの力のある相手に大切な情報を渡してしまえば、きっとクォークたちのチームの戦力は分析しつくされ、弱点も全て洗い出されてしまうだろう。皆、きっと困る事になる……
 ぼんやりとそんな事を考えながらミナは夢遊病者のように居間まで歩き、資料を保管してある棚の前で足を止めた。引き出しの取っ手にそっと手を伸ばし、引くと、抵抗なく引き出しはその口を開けた。中には柔らかい布が敷かれ、見覚えのある青緑色のクリスタルがいくつか無造作に置かれていた。
 ベランダ付きの広い窓から差す淡い月明かりに照らされて、清閑と輝いているクリスタルからは、あの青年の手元にあった時と違って禍々しさを覚えなかった。あたかもそれがクリスタルのあるべき姿だとでも言うように、ただ静かにミナの挙動を見守っている。
 錘をつけられたかのように重たい腕をミナはのろのろと上げ、引き出しの中のクリスタルに手を伸ばす。亀の歩みさながらに鈍重に腕を動かし、指先を徐々に近づけていく。しかし、中指の先がコイン一個分程の距離まで迫った所で、何かに遮られたかのようにミナの手は止まった。
 月の光を受けて壁に映る、引き出しに手を伸ばす少女のシルエットが、切り絵のように静止する。
 それ以上手を伸ばす事も、下ろす事も出来ないまま、ミナは白い指を細かく震えさせた。
 ――部屋にいろというクォークの指示を聞かないで一人で出掛けた挙句に敵に捕まって脅されて、皆に不利益な事をしようだなんて。そんな事が許されるとでも思っているの?
 ――でも、そうしないときっとあの人は、クォークにあの画像を見せてあらぬ事を言うに決まっている。
 ――そんな事をされたら、私は……!
 鬩ぎ合う内なる声に縛られ、身動きの出来ないミナの頬を大粒の涙が伝い、板張りの床に次々と黒い染みを作っていく。
「見るのを躊躇って泣く程の物じゃないよ。見たいなら好きなだけ見ていい」
 不意に響いた涼やかな声が静寂を切り裂いた。頬を涙に濡らすミナが弾かれたように振り返ると、開いた寝室のドアに凭れるようにしてクォークが立っていた。
 硬直したまま動けずにいるミナの方へ、クォークは顔に感情を表さないまま、夜の空気にこつこつと硬い靴音を刻んで近づいてくる。ミナが目前にしている引き出しの前まで来ると、ミナの横からその中に並んでいるクリスタルのひとつに手を伸ばした。青緑色のクリスタルを摘み、確認するように透かし見てから、それをミナへと差し出す。
「あ……」
 思わず怖気づいてよろめく。大切なそれを――手に取ってはいけないそれを無造作に差し出された事に、ミナは頭を巨大な両手槌で殴りつけられたかのような衝撃を受けた。
 クォークはクリスタルを受け取ろうとしないミナの手を自ら取ると、それをそっと握らせて、ミナの指ごと自分の大きな手のひらで包み込んだ。あの青年の物とは違う、硬く角質化した、繊細とは対極にある質感の彼の手のひら。いつも手を繋ぐ時に思うように、クォークの手はまるでお父さんのように大きくて暖かくて――
 ミナは喉の奥で嗚咽して、涙の粒を彼の手の甲に落とした。ぽたりぽたりと二つ三つ落とされていく透明な雫がクリスタルの燐光に似た小さな輝きを撒き散らす。クォークはミナを柔らかく抱き寄せて、子供をあやすようにとんとんと背中を叩いた。
「うっ……あ、……うあぁ……」
 彼に心配をかけてはいけない、などという虚勢はもう張ることが出来なかった。やはり何も聞かずにいてくれる彼の優しさに縋って、小さな身体をより小さく縮めて咽び泣く。
 少女の震える肩を抱き締めながら、クォークが窓の外のル・ヴェルザの街を鋭く静謐な眼差しで睨み据えていた事に、ミナは気づかなかった。

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