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広い部屋に一人残されて、ミナはベッドの上で立てた膝を抱え込んで俯いていた。
――クォーク、凄く怒ってた。
けれど、ミナを消沈させているのは彼に叱られたという事実そのものの方ではなかった。
それ以上に、……凄く悲しんでた。
さしもの鈍感なミナもようやっと理解出来た。もしクォークがあんな風に誰か他の女の人と顔を寄せ合ってお喋りしていたら。それを見てしまったら。自分だって悲しくなってしまうと思う。きっと何か理由があるのだと、疚しいことなんて全くない筈だと考えるとは思うけれど、絶対に一番最初に思うのは、悲しい、という一言だ。
嫌われてしまっただろうか。
その可能性について考えただけで、ミナの心臓は不安で鷲づかみにされている程の痛みを覚える。
昨日の言葉はミナの安全に配慮しての忠告であったのは間違いなかったが――それ以上に、彼は多分不安で、悲しかったのだ。あの男の人とミナが二人で食事をしたと聞いた時のクォークの気持ちもまた、今のミナと同じものだったに違いない。今になって漸くそれが分かった。相手の立場になって物を考えることすら出来ない馬鹿な子など嫌われてしまうのも当然だ。
暗闇が心の中を満たしかけたが、ミナの意識の闇の中に稲妻が閃いて、がばっと顔を上げた。
――謝らないと!
クォークは、ミナの頭が鈍い事もちゃんと知っている。知った上で我慢強く付き合ってくれている。ミナの物分りの悪さにもある程度の覚悟はある筈だ。だからちゃんと反省し、同じような間違いをもう繰り返さないと分かって貰えればきっと彼は許してくれる。その為には今すぐに、彼に謝らないといけない。
彼は宿舎で待っていろと言っていたが、ミナにはそれよりも彼への謝罪の方が優先すべき事項のように思えた。すぐさまベッドから飛び降り、靴を素早く履き直してミナは部屋から飛び出した。
ミナはその足で真っ先に闘技場に併設された訓練場に行ってみたが、部隊の他のメンバーは訓練中であったものの、クォークはまだ戻ってきていないようだった。このまま彼が来るまでここで待っていようかとも考えたが、それでは部屋で待っているのと大差がない気がした。早く彼に謝りたくていても立ってもいられなかったミナは、即座に身を翻すと街の中心部の方へと走り出した。さっきクォークは、パシられている、と言っていた。それが買出しに行かされているという意味であるのなら、商店が多くある地区に彼がいる可能性が高い。
多くの人々が闊歩する街路を人と人の隙間をくぐり抜けるようにして足早に歩いていると、通行人の影になった場所から一人の青年が、ミナに気づいて手を振ってきた。
「こんにちは、ミナさん」
また彼だ。昨日今日とあの静かな崖で出会いはしたが、こんな街中でも出くわすとは思わなかった。この人ごみで背の低いミナを見つけるとは大した偶然だ。
しかしミナは足を止めずにお辞儀だけしてすぐさま青年とすれ違うことにした。別に彼に非がある訳ではないが、今は彼と話したいと思えなかったし、話している時間もない。
ぺこりと頭だけ下げて立ち止まった彼の前を通り過ぎると、青年は急ぎ足のミナと同じ速度で後ろからついてきた。彼はクォーク程ではないもののかなり背が高いので、ミナにとっては結構な速さでも彼にとってはちょっと早足という程度にしかならないようだった。
「急いでいる様子ですね。どうしましたか」
「うん。ちょっと……人を探しているの」
何故だか分からなかったが、何となくクォークの名前を出してはいけないような気がして、ミナがそっけなくそうとだけ言うと、青年はミナが伏せた部分に気づいたのか単なる偶然なのか、ふと思い出したような口調で呟いた。
「そういえばさっきのクォークさん、でしたっけ」
「あの後どこかで見た!?」
反射的に、ミナは後ろを振り返り、掴み掛かるかのような勢いで青年に詰め寄った。無視に近い態度を取ろうとしていたミナの豹変に、青年も少し驚いたらしく眼鏡の奥の目を見開いたが、すぐに柔和な笑顔を作って頷いて見せた。
「ええ、ついさっき、珊瑚通りの方で。まだいるかもしれません。口で説明するのも難しいですから、ご案内しましょうか?」
知性的な微笑を浮かべる青年に、ミナは何故かまた少し躊躇を感じて逡巡する。けれども、今は何をおいてもクォークに謝罪をしなければならない。
「……お願い、します」
胸をちくちくと突き刺す錯覚に蓋をして、ミナはこくりと頷いた。
ミナが部屋を飛び出して訓練場へと向かった頃、クォークはまだ部隊宿舎内にいた。彼と同じくペナルティとして過剰な基礎練の後に資料整理にこき使われていたサイトを呼び止め、「これ以上ペナルティ加算されるの嫌なんですけど」と渋る所を無理矢理隅に引っ張り出す。すぐに確認しなければならない事があった。
「他国の兵士で、ミナが俺の恋人だと知っている可能性ってどのくらい見積もれる?」
もう二、三言、文句を重ねようとしていたらしいサイトの機先を制してクォークが尋ねると、サイトはぴくりと眉を動かした。その質問が内包する不穏さを嗅ぎ取ったらしい。
スカウトは最前線での直接戦闘に於いて自軍を有利に運ぶ様々な武技を習得しているが、本来はその名の通り戦場偵察や情報収集などで間接的に戦争を支援する斥候であり、厳密な戦闘職ではない。特にこのサイトという部下は実の所、直接的な戦闘能力ではなくその方面の知識と実力を買われて部隊に在籍している。情報戦こそが彼の主戦場だ。
サイトは手に持っていた資料を脇に置くと、軽く嘆息して言った。
「……あなた狙いで調べれば一発っすよ。別段隠蔽してる情報じゃないし、女絡みのネタは高値で売れますから」
恋人なら弱みになり得るし、女の好みは間諜を近づけるのに役立つんで、というサイトの説明にクォークは奥歯を強く噛み締めた。予想通りと言っていい回答だったが、実際に言葉にして言われると自分の浅はかさを思い知らされる気分になる。
ぐっと眉間に力を入れて貴重な時間を一瞬だけ反省に費やし、すぐさまクォークは視線を部下へと戻した。
「サイト、仕事だ。今から言う特徴の人物を洗い出してくれ」
サイトは、恐らくは「浮気調査とか嫌っすよ」と言ったような感じであろう反論を口にしようと唇を動かしかけたが、それを言葉にするのは諦めたらしい。
「件の男とやらは他国の兵士だったんですか?」
「その可能性は高いと思う。国家の紋章について指摘したと聞いた時点で兵士だろうとは思っていたが……あの男、俺の顔と名前を直接確認しても眉ひとつ動かさなかった」
初めは半ば、クォークが相手を調査させる為の大義名分をでっち上げて来た事を懸念していたようだったが、先程件の男を直に目にしたクォークがその事を思い出しながら告げると、スカウトの瞳にその職務を負う者としての光が宿った。真剣に話を聞く体勢になってきた部下に、クォークは続ける。
「他所の国の全ての兵士が俺の事を知っているだなんて自惚れてはいないが、この時期に兵士がル・ヴェルザに来ているのなら、百パーセント『バンクェット』が目的だ。参加者なら勿論観戦者にせよ、優勝最有力候補のチームリーダーの名前に全く心当たりを覚えないって事はない筈だ」
「盛大にトトカルチョもやってますもんねぇ」
寧ろ街中、『大会』の話題で持ちきりと言っても過言ではない。凡庸なチームのメンバーならともかく、確かに一番人気の『ベルゼ一軍(笑)』のリーダーであり、戦場でもかなり名の通ったウォリアーである彼を知らないのはもぐりと言っていいし、ル・ヴェルザのルールを知る程の人間であるのなら不自然なくらいだ。
「驚愕を隠したって反応でもなかった。多分、最初から知っていたんだ、ミナの事も含めて。その上で、そ知らぬ振りを装った。これが敵の反応でなくて何だと言うんだ!」
鋭い声音で吐き捨てたクォークを、サイトはやれやれと言った面持ちで手を上げて制する。
「分かりましたよ、んな凄まなくたって調べますよ。で、その男の特徴は?」
「長身痩せ型、年齢はかなり若そうに見えた、十代後半か行っても二十一、二。瞳の色は黒、眼鏡を掛けていて、髪は銀で後ろに撫で付けている。腺病質な感じの色白な男で、一見ソーサラー風だが、スカウトかフェンサーみたいな気配を感じた……そこは勘だけど」
クォークが列挙する特徴を脳内に書き連ねている様子だったサイトが、最後の言葉を聞いて不意に目元に厳しい表情を浮かべた。クォークが視線で問い質すとサイトは「スカウト……」と独り言のように呟いて、唐突に身を翻し、机の上に積み重ねられていた書類の山を手荒く漁り始めた。
「何?」
を探しているのか、という省略し過ぎな上司の問いに慣れた呼吸で部下は答える。
「要注意人物一覧。エルソード分の。青いラベルをつけたファイルっす」
「了解。……これか?」
反対側の書類の山から探し始めたクォークが程なくして見つけ出した該当の物らしき紙束を奪い取るように受け取ると、サイトはやはり焦ったようにページを繰った。その様子に強い不安感を覚えながら待っていたクォークに、彼はあるページでぱっと手を止め一箇所を指で示して突きつけた。
「この男っすか?」
それは『大会』とは無関係に部隊の調査班が調べ上げ、纏めている情報だ。箇条書きに書かれた個別情報に、クリスタルを特殊な精製方法で加工した魔法道具によって撮影される画像が添えられている。
一人の男の顔を正面から映した画像を見て、クォークは迷わずに頷いた。
「間違いない。こいつだ」
「……まずいな。今、ミナさんは?」
「部屋にいる……筈だ。部屋にいろと言っておいた」
「それなら大丈夫か……」
ほっと胸を撫で下ろすサイトだったが、クォークは言い知れない不安を覚えて資料室から走り出た。短い廊下を駆け抜けて階段を二段飛ばしで上がり、部隊幹部の強権を使って彼女に与えた個室のドアを乱暴に殴りつけてミナの名を叫ぶが、しかし室内からの反応がない。即座にノブを回して踊り込んだ室内は、悪い予感が的中して全くの無人だった。
「……くそっ!」
「いないんすかっ?」
遅れてやってきたサイトが、入室を遠慮して入り口から聞いてくる。そちらを振り向いたクォークの顔を見て、サイトはぎょっとした顔をして後ずさった。気心の知れた仲間すら怯むような形相を今自分はしているのだとクォークは自覚はしたがいちいち取り繕う気にもなれず、苛々とした感情を隠さないままサイトへと問うた。
「そのエルソード兵は、どういう男なんだ」
上司の剣幕にスカウトはごくりと喉を鳴らしつつ、部下の義務として即座に回答する。
「奴は……」
ル・ヴェルザでも有数の商店街である珊瑚通りへの道のりを、ミナは人ごみに消え行きそうになる青年の背中を必死に追いかけた。青年の歩みはさほどの早足ではないように見えるのだが、コンパスに差がある為か、或いは人ごみをすり抜ける術に長けている男なのか、ともすれば見失ってしまいそうなくらいに背中は素早く離れていってしまう。ミナも急いでいるので早く歩いてくれるのは有難いのだが、余りの速度に徐々に息が上がり始めて苦しくなってくる。まるで追っても追っても追いつかない悪夢でも見ているかのようだ。
過剰な運動を強いられながら進んでいると、歩みを止めないまま、再び前方の青年が雑談のような声を掛けてきた。
「もしかしてあの方、あなたの彼氏さんでしたか?」
ミナは答えられない。息が上がっている為ばかりではなく、どうしてかまた、それに対して安易に返答してはいけないような気がした。
しかし青年は、ミナの返答がない事を気にする風もなく、前方を向いたまま言葉を続けた。
「でも、あの人はやめた方がいいんじゃないですか?」
「どういう事?」
流石にそれには、ミナは少しむっとした声で問い返した。
「彼、本当にあなたのことが好きなんですかね。失礼と思いましたが少し立ち聞きさせて貰いました。僕に対して酷く嫉妬していたようですけど、あの態度は、あなたの事が好きだからと言うよりは、お気に入りのおもちゃを取られるのを嫌がる子供のように見えました。恋人であるあなたにまで辛辣な当たり方をして……あなたの事を信用していないにも程があるんじゃないですか」
「クォークの事を悪く言わないで!」
思わず足を止め、両手を堅く握って叫ぶと、青年も立ち止まってゆっくりとミナを振り返った。通りの片隅で、二人は対峙する。
「すみません。でも、あれはどう見てもただの癇癪ですよ? 彼の我が侭の言いなりになって交友関係も狭められて。あなたはそれでいいんですか?」
「わ、私はそれで構わないもの。クォークが望むんならもう他の誰とも話さないわ」
「僕にはあなたが、彼の興味を失う事を恐れて盲従しているだけのように見えます。そんなんじゃ、彼の為にもならないと思いますけどね」
冷徹な指摘に、ミナはどきりとして肩を強張らせた。確かに今のミナにとっては、クォークに嫌われる事が他のどんな事よりも怖い。自分は、それを回避する為だけに、己の為だけに、彼の為にならない事をしているのだろうか――?
……否定する材料が見つからない。
顔を蒼褪めさせて俯いたミナに、青年が気遣わしげに手を伸ばそうとしてくる。が、ミナはそれを遮って首を横に振った。
否定する材料はない。ないが……
それでも、他のどんなものを失っても、クォークだけは失いたくない。
「……色々親切にしてくれてありがとう。後は自分で探すわ。さようなら」
硬い声で言い放つと、ミナは正面に立つ青年を横に避け、一歩足を踏み出した。
「奴の名は、ナハト・ネーベル。俺の同業者、エルソード国部隊《フォアロータス》の諜報担当のスカウトっす。……顔に似合わず、かなりえげつない手を平気で使う野郎っす。奴が、俺たちよりも先にミナさんを見つけたら……!」
「大変申し訳ないのですが」
青年は、横を通り抜けようとしたミナの進路を遮って長い腕を伸ばし、ミナの身体を受け止めると即座にそれを縮めて少女を腕の中に絡め取った。
「!?」
唐突な青年の行動にミナは驚いて目を見開いたが、その瞼は数秒と待たずに閉じられる事となった。同時にミナの全身から力が失われ、青年の胸に縋り付くように倒れ込む。
雑踏の一角で、二人の若い男女が抱き締め合っている。その光景は、周囲の目にはそんなありきたりな姿のようにしか映らない。
青年は、通行人の死角になる位置で彼女の口元にあてがったハンカチを優雅にポケットにしまい、意識を失った少女の耳元に、恋人への仕草のように唇を優しく寄せる。そしてその唇を誰の視界にも入らない影でにいと吊り上げた。
「はいさようなら、って訳にはいかないんですよねェ……?」