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 午後の訓練から戻ったクォークは、宿舎の食堂で少し遅めの夕食を取るとすぐさま部屋へと戻り、大きな身体をベッドにどさりと投げ出した。大部隊でパーティリーダーを務める程のウォリアーである彼の、最前線でも滅多にお目に掛かれない程疲労困憊した様子にミナは少し心配になってしまう。彼の後をついて同じ部屋に入ると、ドアを静かに閉めながらおずおずと声を掛けた。
「凄く疲れてるみたいね。大丈夫?」
 ベッドにうつ伏せに伏せている彼は、枕の上で片目だけ薄く開くと搾り出すように呟いた。
「練習で、大剣に持ち替えててさ。……大会の時は大体持ち替えてるんだけど、使い慣れてない物を使うとやっぱり無駄な力が入るのかな。普段の何倍も疲れる」
「クォークでもそんなことがあるのね」
 普段は両手斧を使う彼だが、以前ミナと訓練した時には慣れないと言いながら片手剣を使ったりした事もあったので、どんな武器だろうと楽々と使いこなせてしまう人なのかと思い込んでいた。なので思わずそう言うと、彼は少し考えてから、「まぁ、ウチの部隊員たちとやるのはミナを相手にするのとはわけが違うからねぇ」と地味に酷い事を言って、ミナをぷぅと膨れさせた。その途端、ミナへ向けられる彼の目がにやりと細まったので、わざと意地悪な事を言ったのだとミナは気づく。なんて酷い!と思ったが、楽しそうにミナをからかう眼差しに怒る気持ちを持っていかれて、もうっと一言文句を言うとミナはすぐに機嫌を直した。
「ねえクォーク、マッサージしてあげようか。上手いのよ、私」
 ミナがそう申し出ると、クォークの目が僅かに困惑を含んでしばたかれた。
「え」
「あー、疑ってる? エルソードにいた時はよく友達からもお願いされたくらいなんだから」
 疑うならば実証して見せようと返事を待たずにミナは靴を脱いでクォークが寝そべるベッドへと上がり、そのままよいしょと彼の大きな身体の上に跨った。少し慌てた様子でクォークは、上体を捻って腰の辺りに乗っかる少女を見ようとするが、ミナはそんな彼の肩を無理矢理押してうつ伏せにさせてから、彼の広い背中をゆっくりとさすり始めた。
「これって……男友達にもしてあげてたの?」
 クォークは最初は妙に戸惑う様子だったものの、ミナがちゃんとマッサージ出来る事を確認したからか次第に力を抜いて身を任せてくれるようになった。
「? うん、そうだけど?」
 それが何か? という顔をするミナに、彼は眉間に深い皺を刻んでぼそりと呟いた。 
「……これからは俺以外には禁止な」
「なんで?」
「何でって、……男の背にぺったり腰を下ろして撫で回すというのは少々」
「重い?」
「そういう意味じゃなくて……。何でもない」
 曖昧に言葉を濁したクォークにミナは首を傾げた。彼の主張は時々よく分からない。それ以上彼は何も言おうとしなかったので、まあいいか、と気にしないことにしてマッサージの作業に戻る。
 クォークの体躯はミナから見れば大木のようにがっしりとしていて大きいが、ウォリアーとしては決して極端に大柄な方ではない。余す所なく鍛え上げられた強靭な肉体の持ち主だが、分厚い筋肉というよりは、無駄を極限まで削ぎ落としたという感じの鋭い体つきをしている。余分な脂肪は一切なく、お腹も背中も、素手で殴ったら殴った側の手が痛くなりそうな程に硬い。ぱきっと割れた筋肉の境目というものはミナの身体にはどこを見回しても全く見つからないものなので、それが興味深くてぴったりとしたシャツの上から見える背筋をつうっと指でなぞっていると、クォークの身体がびくんと跳ねた。
「あ、くすぐったかった?」
「……うん、まあ」
「へえぇ。やっぱりくすぐったさって感じるのね。銅像みたいに硬いし立派だから、何だかそんなに繊細な感覚があるような気がしなかったわ」
「そんな訳ないだろ……っう!」
 呆れ声だったクォークの語尾が唐突に跳ね上がったのは、その瞬間、ミナが十本の指を全部使い、触れるか触れないかの強さで彼の首筋から背中を通って脇腹までをくまなく撫でたからだった。その、彼にしては随分と慌てた反応が楽しくてきゃらきゃらと笑うミナを、クォークは恨みがましい視線で肩越しに振り返った。
「……君、今自分がどういう虐待をしてるか全然分かってないでやってるだろ」
「え? そんなに気持ち悪かった? ごめんね、真面目にマッサージしまーす」
 不快だったであろう皮膚感覚をぺちぺちと叩いて追い出してあげて、ミナは体重をかけて肩の筋肉を押した。
 ミナを背中に乗せたまま、何やらもぞもぞと動いたクォークは、やがて諦めたようにはぁと溜息をついて顔を伏せた。
「無邪気って怖い……」

 首から肩、肩甲骨の上と下、背筋から腰の方にかけてを順繰りに、手のひらの付け根に全体重をめいいっぱいかける勢いでぐっと押していく。男性の、特にウォリアーのような立派な体格の人が相手だと、ミナの力ではこのくらいしないとマッサージが効かないらしい。
「どう? 気持ちいい?」
「うん。……なんか君って時折プロ級な特技を持ってるな」
 他の特技とは料理の事だろうか。ミナは兵士にならなかったら食堂を開きたかったと思っていたくらいには料理が好きだ。あと裁縫も結構得意なのだが、兵士の着る服は戦闘での衝撃に耐え得るように特殊な魔法強化を施さねばならないので、彼の前では繕い物程度しかした事がなかったなあと考える。
 クォークは本当に気持ちいいと思ってくれているらしく、今にも眠ってしまいそうな顔つきで目を閉じていたが、少ししてまた思い出したようにぽつりと呟いた。
「ごめんな。わざわざヴィネルにまで連れてきたのに遊びにも連れてってやれなくて。退屈させてるだろ」
 そんな言葉にミナは即座に顔を上げて首を振る。
「ううん、クォークはお仕事で来てるんだもの。私こそ、クォークが訓練で大変なのに一人で遊んでてごめんね」
 そのせめてものお詫びというかお返しとして彼の背中を押す手に力を込める。
「それに、こうやって一緒にいられるだけで私は嬉しいのよ。本当の戦場に出ちゃったら、こうはいかないもの」
 部隊未所属であるミナは《ベルゼビュート》の行軍予定に合わせて、なるべく彼と同じ戦場に同道するようにはしているが、砦に詰めている間はともかくとして、パーティ単位で出撃する際には一緒にいることは中々出来ない。クォークが編入されるパーティは常に孤立無援の僻地戦に赴く精鋭部隊であるからだ。戦場でも最も過酷な環境下で命を懸けた鬩ぎ合いを日常的に行う彼を、後方で裏方召喚に従事しながら待つ事はミナにとっても非常に辛い事なのだが、こればかりは実力の関係上、現状どうしようもない。どうにかしたいので少しでも彼に近づけるように訓練を重ねてはいるが、いつまで経っても全く追いつけそうな気配がない。
 そういった普段の状況と比べ、現状など実に気楽なものだ。実際に戦争で敵対する他国の部隊と戦う事もあるとはいえ、ここで行われるのはきちんとしたルールに則った正当な試合なのだから。ミナは殺し合いは好きではないが、兵士たちが真剣に戦う姿は素直に美しいと思う。競技としての戦いだけを純粋に楽しみにしていられるだなんて何と幸せな事だろう。
「あ、それにね。昼間は街中を見て回ってるから退屈はしてないよ。ル・ヴェルザはお洒落なお店も沢山あるし、景色が綺麗な場所も多いのね。クォークがお休み取れたら私が観光案内してあげる」
「楽しみだな。今日は何をしてたんだ?」
「今日はね、崖の上から海を見て、知らない人とご飯食べたよ」
 日中の出来事を思い出しながらにこにことして告げると、クォークはミナをぽかんとした目で振り返った。
「は?」
「海を眺めてたら、街中で紋章をつけてたら危ないって声を掛けられて。お話して仲良くなって、すぐ近くでいいお店を知ってるからって言われてお昼を一緒に食べたの。高台にある海の見えるレストランでね、お料理も美味しかったし素敵だったわ」
 親切にもあの男性は、風景に見入っていたミナに気を使って、窓際の海のよく見える席をわざわざ取ってくれたのだ。とても気遣いに長けた人だった。
「……それ、男?」
「うん、男の人だったよ。あ、そういえば名前を聞くの忘れちゃった」
 何の屈託もない顔で報告を終えたミナをクォークは唖然とした表情で暫く眺めていたが、やがて困惑気味に眉根を寄せてぼそりと呟いた。
「……そこまで堂々と浮気報告されると流石の俺も何と返せばいいのかすぐには思いつかないんだけど」
「うわき?」
 全く知らない言葉を聞いた気分で首を傾げ、ミナはクォークを見やり――数秒掛けてその単語の翻訳を終えて、彼の背中に腰を落としたまま思わず仰け反った。
「え、えええ!? 浮気? 何でそうなるの!? だってちょっと一緒にご飯食べただけよ? サイトさんともたまにお茶したりするよ? それって浮気だったの?」
 唐突に出てきた自分の部下の名前に反応し、クォークが身体を起こしながらむっと眉をしかめる。
「聞いてないぞそれも。あの野郎、後でシメる」
 クォークはこの宿舎のどこかにいる筈の部下の青年に怒りを向けていたが、その矛先を少しミナの方にも割り振って、ベッドの上に胡坐をかくと向かい合って座り直した少女をじろりと見た。
「サイトは一万歩譲って置いておくとしてもだ、君も君だろう、ミナ。知らない男に誘われて素直について行くのはまずいだろ、どう考えても」
「や、やあね。小さい子供じゃないんだから」
 何を大げさな、と手をぱたぱたと振るミナにクォークは硬い表情を崩さずに言い募る。
「あのね。君は女の子なんだよ? 小さい子供以上に危険だから言ってるんじゃないか」
 声を荒立てはしないものの、明らかに不機嫌な口調になるクォークに、ミナは戸惑い、つい少しむきになって言い返した。
「……そ、それが危険だったら私達が初めて会った時なんてどうなるのよ。そのまんま、知らない男の人についてきちゃった状態だったじゃない」
 唇を尖らせて抗議されたクォークは、今初めてその事実に気付いたかのように目をしばたいた。
 初めて出会った時、彼とミナは対立国の敵兵同士だった。しかも出会ったその場所は戦場で、当然の如く互いに武器を突きつけあったのだが――ミナの兵士としての余りの不出来さに色々心配になったらしいクォークが、彼女をガルムへと誘い出し、訓練をつけてくれる事になったのだった。
 以降様々な出来事があり過ぎて、もう遥か昔の事のようにも思えるその全ての発端をクォークも思い出したらしく、少し気まずそうに視線を逸らし、「……ああそういえば」と呟いた。
「まあそれも置いておくとして」
「あっ、ずるい。論破出来ないからってごまかしたっ」
 勢い込んで身を乗り出して指摘するとクォークは一瞬所在なさげに瞳を揺らすが、すぐさまそれをミナへと戻した。開き直る構えだ。
「君に初めて会った時、俺が悪意を持って君に接していたらどうなっていたか、分からない訳じゃないだろう。君だってそれについて指摘した筈だ。俺が言える立場じゃないが、世の中の人間皆が皆、信じていい奴ばかりじゃないんだよ」
 他人の善意を真っ向から否定する言葉にミナは何となく抵抗を感じて、きゅっと眉を寄せる。
「……でも、優しそうな人だったわ。私の不注意を親切に教えてくれて」
「そりゃあ悪気のある奴が最初から悪気があるように近づいたりはしないだろ」
 言い分は一顧だにされずにばっさりと切り捨てられ、ミナはその余りの冷淡さに思わず口を噤んでしまう。反駁に詰まるミナに気づいた彼は気が咎めたのか、ほんの少しだけ声の調子を和らげて言った。
「君の、無条件に他人を信じる純粋な所は素晴らしいと思うし、君がそういう人でなかったら今の俺はなかったと思う。けど、その優しさは時には本当に危険な物になり得るんだ。……少しは注意してくれ、頼むから」



「それって忠告は建前で本質は独占欲っすよね。恋人が他の男と仲良くしてたのが気に食わなかっただけっすよね。あーやだやだ、マジ男の嫉妬見苦しいわー」
 予告通り、次の日の訓練で部下であり友人である青年、サイトと顔を合わせるや否や、クォークは割と全力でその頭を殴りつけていた。「いって! いきなり何するんすか!?」「うるさい俺の目の届かない所でちゃっかりミナに手ェ出しやがって」「はい!? 手なんて出してねーっすよ!?」云々というやり取りに続いて互いの事情をぼそぼそと交換した後、呆れた半眼でサイトが呟いたのが前述の一言である。
「ナンパにちょっと引っかかったくらいで浮気呼ばわりとか。あんまり束縛きついと嫌われますよ?」
 闘技場前の石段に腰を下ろし、辟易とした様子で口の端を歪めつつ呟くサイトに、クォークは拗ねた子供のような声で呻く。
「……そんな事言ったって。ミナがあんまりにも危なっかしいんだから心配するのはしょうがないじゃないか」
「彼女が悪気なく危うい人だってのは理解出来ますけどね、俺に当たったってしょうがないでしょ。気に食わないなら相手の男を捜して俺の女に近づくなってボコってくればいいでしょう」
「首都ならともかくヴィネルで揉め事なんて起こしたら面倒な事になるだろ」
 首都でならやるんすか……と、冗談のつもりだったサイトがぼそりと突っ込むがクォークは無視する。
「だからって俺殴ったって何にもなんないでしょうが。そんなに恋人が心配なら首輪でも付けて鎖で繋いで部屋に閉じ込めておきゃいいじゃないすか。好きでしょそういうの」
「何でだ。人を変質者みたいに言うな」
 クォークが部下をじろりと睨んだその時、やたらと嬉々とした声が二人の頭上に降って来た。
「いやいや、変質者ではないぞ? ごく正常な嗜好と胸を張って言っていい。男なら誰しもそのような願望を抱くこともあるものだ。女を監禁し身動き一つままならぬように緊縛し続け抵抗の意思を根こそぎ奪い取り然る後に慰み者に」
「……あんたな、仮にも女なんだから少しは自重しろ」
 クォークはこめかみを押さえながら、何の脈絡もなく口を挟んできた女を振り返った。石段に並んで座る男たちを背後から、腕を胸の前で組んだ金髪の美女――部隊長が悠然と見下ろしている。部下の苦言を余裕の体で受け流し、部隊長はにやりと片頬を上げた。
「ところで、大会までもう日もないこの時期に悠長に女の話とは、随分と余裕ではないか。流石一軍様(笑)は格が違うなぁ?」
 嫌味たっぷりに言う女の隻眼に凶暴な光が灯るのを見て男たちは揃ってぎくりとした。一応今は訓練開始時刻前ではあるが、休憩時間というより準備に充てるべき時間である。
「そんなに余裕があるならば恐れる物など何もない筈だな? 丁度いい、一丁今から、二対二で貴様らの実力を見せて貰おうではないか。よもや一軍様(笑)が負けることなど有り得ぬと信じているが、負けたら……分かっているだろうな? 一軍様(笑)?」
「なっ、ちょっと待て、二対二って!」
「クォークさんはともかくっ! 俺は選外組だしそもそも弓っすよ!?」
 捕まえた鼠を嬲る猫の気配を漂わせる部隊長に、二人の男が揃って絶叫を上げる。部隊長は嗜虐的な冷笑を浮かべながら、愛用の片手剣の腹で手のひらをぺたぺたと叩いた。



 ミナは萎れた切花のようにしょんぼりと俯いたままル・ヴェルザの街路を歩いていた。海の街の天気は昨日と同じように気持ちよく晴れているが、その蒼穹の下を散歩してもミナは昨日のようにうきうきとした気分にはなれなかった。昨日と同じ道順で細道を通り抜け、広場を過ぎて闘技場を横目に、舗装されていない道へととぼとぼと入っていく。宿舎からこちら、視線を低く保ったまま周囲を見回すこともなく歩いてきたミナだったが、高い壁に翳った通路を抜けて光り輝く碧海を前にして、漸く少し顔を上げた。大好きな海の空気を胸に吸い込むと、塞いでいた気持ちも少しは晴れるような気がした。
 昨晩、クォークに叱られた理由が分からない――とまでは言わないが、少し納得が行かなかった。心配をかけてしまったのは申し訳ないとは思うものの、いくらなんでもそこまで言われなくてはならない程の分別のない子供ではないつもりだ。クォークとの時だって、ミナなりに色々考えて警戒はしていたのだ。
 それに何より――そう、こっちが重要なのだが、浮気だなんて酷い言い方だと思う。ミナにはそんなつもりはちっともなかったというのに。そもそも、背も小さくて地味な栗毛で体型も子供っぽい、女性らしい魅力など一切ないミナにそういうつもりでわざわざ声をかける男の人なんてそうそういないと思う。クォークだって最初、ミナに声をかけたのは、決してミナに女性的な魅力を感じた訳ではなくて、ひとりぼっちで鳴いていたか弱い捨て猫にかける情みたいなものが湧いたというのが発端だったのだろうし……
 ……何だか自分で考えてて情けなくなってきた。
 悪い癖であるとは自覚している、うじうじとした自己否定の渦に陥りつつある自分に嫌気が差してきて、また頭が俯きがちになってくる。崖の柵にこつんと額をぶつけてそれ以上身体が斜めになるのを防いでいると、昨日と同じこの場所で、今日もまた唐突に声が掛けられた。
「どうしたんですか? 浮かない様子ですけれども」
 落ち着いた響きを持つ、昨日も聞いた若い男の声。顔を横向けると、銀髪の青年がにこりと笑ってミナの方へ近づいて来た。すぐ傍で立ち止まった彼は、ミナの横に並んで柵に手をつき、眼鏡の奥に幼児をあやす様な笑みを浮かべた。
「気持ちが沈んでいるなら気晴らしに、甘い物でも食べに行きませんか。そこの通りの向こうのカフェで出すパフェは中々ですよ。グラスいっぱいのフルーツにアイスクリームを乗せて、濃厚なチョコレートソースを掛けた上に山盛りの生クリームがデコレーションされているんです」
 その、言葉通りにまさに甘美な誘惑に、ミナは思わずぐびりと喉を鳴らした。魚介も好きだが、甘いものも大好きだ。しかも、彼の表現したパフェのなんておいしそうなこと。フルーツにアイスに濃厚なチョコに山盛りの生クリームだなんて。狙い済ましたかのようにミナの好みに合致している。
 つい、ランプの炎に誘われる蛾のようにふらふらと引き寄せられそうになってしまったが、半歩動いた所ではたと我に返ってミナは足を止めた。
「ごめんなさい、あの……知らない人について行っちゃ駄目だって、怒られたから」
 青年の眼鏡の奥の目が一瞬またたき、すぐにおかしそうに細められた。
「へぇ。過保護な保護者さんがいるんですね」
 子供扱いされている事を笑われて、ミナは赤面する。恥ずかしいけれど、クォークとの約束を破るわけには行かない。暫く青年はくすくすと手を口元に当てて笑っていたが、やがて小首を傾げる仕草で代案を示した。
「じゃあ、おやつは次の機会にテイクアウトして持って来ますね。今日はここでお喋りをしましょう。それなら、ついて行ってはいないから構いませんよね?」
 ……どうなんだろう。
 判断がつかずミナは眉を寄せて思案するが、その思考が纏まるよりも先に、男がすっとミナの耳元に顔を近づけてきて小声で囁いてきた。
「僕ね、実はエルソードの兵士なんですよ。だから、この島で同郷の人に会えて嬉しいんです。……あ、僕の国籍の事は秘密にしておいて下さいね?」
「え、わ、私は」
 ミナは動揺して思わずどもってしまう。彼の告白そのものも驚くべき事だったが、何より、一言も言っていない筈の自分の出自を言い当てられた事がミナを狼狽させた。エルソードからの移住者であるという事実は、親しい友人しか知らないミナの秘密なのだ。
 が、青年は平然とした様子で言葉を続ける。
「元エルソード国民でしょう? ごく稀に、国を出て他国に移住する人がいるのは知ってます。別に裏切り者などと責めている訳じゃありませんよ。人には人それぞれの事情があるものです」
 ミナの立場を慮る言葉に少し動揺を収められ、ミナは青年の顔を恐る恐る窺い見るようにして尋ねた。
「……何で分かったの?」
「最初に見た時にね、ネツの紋章をつけていた割にネツっぽい人じゃないなあと思って気になってたんですよ。ほら、その国ごとのお国柄とか国民性とかって実感したことありません? 血液型占い的な、根拠もない話ですけど、結構傾向はあると思うんですよね」
「あ、あー……確かに。あるかもしれない……」
 何となく納得して同意の声を上げると、青年は喜色を示して続けた。
「あとは実際に喋ってみてですね。あなたの言葉のイントネーションはエルソード風であるように感じました。どこの国も言語は大陸共通語のエスセティア語を話しますが、エルソードの、特にリベルバーグ近郊で育った人の発音は、由緒あるメルジア王国の流れを汲んでいるからでしょうか、他に類を見ない程整然としていると思います」
「へぇー、言葉ひとつでそんな事まで分かるのね」
 ミナはすらすらと自説を解説する青年に、素直に感嘆の眼差しを向ける。昨日もそうだったが、この青年は知性的な見た目通りに様々な事を知っていて、興味深い話題に事欠かない。話も上手で、気がつくとつい引き込まれてしまっているのだ。
 と――
「ミナ」
 一言、静かな呼び声が、ミナの意識を青年から引き剥がした。
「クォーク?」
 飼い主を目にしたペットのように、反射的な歓喜をあらわにしてミナは即座に声のした方に顔を向けた。その途端、すぐ傍にあった気配がさりげなく離れた事で、会話相手といつの間にか随分と接近していた事に気づく。意識した瞬間、どきりと強い鼓動が胸を打ったが気づかなかった事にして、ミナはまばらに草の生えた土の地面を踏みしめてやって来るクォークに身体を向けた。
「今日は練習終わるの、早かったのね」
「いや、ちょっとペナルティでパシられてる最中で。すぐ戻らなきゃいけないんだけど」
 冷たくはないが温かみもない、淡白な声で言いながら、彼は真っ直ぐにミナの方へと近づいてくる。が、ミナのすぐ傍にいる青年に対しては、まるでそこにいる事に気づいてすらいないように意識の欠片も向ける様子がない。
 三人の立つ崖に、少し冷えた海風がびゅうと吹き込んでくる。
 それが引き金になったかのように、黙殺された青年が、何故か却って楽しそうな笑みを薄く浮かべてミナに囁きかけた。
「ご友人も来られたようですので、僕はこの辺で。また機会があればお話しましょう」
 言って彼は、ミナに舞踏会で紳士が貴婦人にするような綺麗なお辞儀を、クォークにも整った会釈をしてゆったりと立ち去って行った。
 青年の姿が城壁の陰に隠れる頃になってから、クォークは初めて後ろを振り返り、通路に視線を向けた。先程は一瞥をくれる事もなかった、既に見えなくなってしまった青年を睨み付けるように、無言で壁の向こうを見つめ続けていたクォークだったが、暫くして棒立ちになったままだったミナに視線を戻した。
 彼と目を合わせた瞬間、ミナはまた自分が彼の怒りを買う真似をしていたのだということを自覚した。クォークの、無表情に近い冷淡な瞳の奥に宿る強い怒気に気圧されて、思わずミナは言い訳じみたことを口走っていた。
「す、少し立ち話をしただけよ」
「あんなに顔を近づけて?」
「そ、それは」
 内密の――この街ではタブーであるらしい母国の話をしていたからだ。青年は国籍については秘密にして欲しいと言った。これはミナの問題ではなく、彼の安全に関わる問題なのだ。いくらクォークでも、ネツァワル国民である以上これは喋ってはいけない事だろう。
 どうすればうまく言い逃れられるか思いつかず、結局ミナはただ口を噤んだ。そんな彼女を見下ろすクォークの視線に険が増す。
 昨晩以上に鋭利な激怒の気配。ミナはさっと顔を蒼褪めさせてクォークを見上げるが、彼はミナの弁明など受け入れる気はないとばかりにすぐに視線を逸らしてしまう。
「部屋まで送るよ。そのくらいの時間ならあるから。……戻ったら今日はそのまま宿舎で大人しく待っていてくれないかな」
 抑制された語調ながらも有無を言わせぬ口調でクォークはそう言って、ミナに背を向け来た道を歩き出す。ミナは彼に置いて行かれまいとその後を小走りで追いかけた。

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