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子猫と海と鋼の饗宴




「わあ……!」
 眼下に広がる広大な風景を見渡して、ミナは歓声を上げた。
 船着場につけられた船から舷梯を渡って降り、人の流れに押されるようにして高台にまで上がった所で初めて振り返って見渡した港は、ミナの目にはきらきらと輝く宝石箱のように見えた。
 陸地と海の境目には、真珠のように真っ白な船の帆が群れを成し、誇らしげに蒼穹を突き上げている。その向こう、遥か彼方にまで広がる海は、エメラルドを敷き詰めたかのような紺碧だ。それらが雲間から差す金色を帯びた午後の日差しを浴びて、まばゆく、そしてどこか懐かしく輝いている。
 思わず立ち止まり、人の流れから外れてその絶景を眺めていると、行き交う人波の向こうから彼女の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。
「ミナ」
 顎先までの長さの栗色の髪を陽光に煌かせ、少女が声のした方に顔を振り向かせると、周囲より頭半分は高い位置にある黒髪が、人波の合間を器用に縫って近づいてくるのが目に映る。程なくして現れたよく見知った顔を見て、彼女は綿菓子のような笑顔を浮かべた。
「クォーク!」
 明るい声での呼びかけに、青年が目を細めて応える。黒髪黒目の落ち着いた容貌の青年だが、雑踏の中でも目立つ背丈と引き締まった筋肉質な体躯が、彼が歴戦のウォリアーである事を如実に示している。
「ごめんね、急に勝手に抜け出したりして」
 少女が謝罪すると、彼は問題ないと軽く手を振って見せた。別に彼女を咎めに来た訳ではないようで、クォークもミナの横に並ぶとそのまま手摺に肘をつく。
「まだ向こうは荷降ろししてるから大丈夫。準備が終わったら宿に移動するから、その時に合流しよう」
「うん、分かった」
 船着場を見下ろせば、彼らをネツァワル本国からここまで運んできた船から、雇いの水夫たちが次々と荷を降ろしている様子が見えた。今回は、クォークの所属する部隊《ベルゼビュート》総員での大移動ということで、大型帆船一隻を借り切っての船旅だった。ミナは部隊外の人間なので、そこに好意で便乗させてもらった形になる。
「まるで戦場にでも行くかのような準備だな」
 運び出される膨大な数の木箱を眺めて、やや呆れたようにクォークが呟いた。それらの中身は部隊員たちの使用する武具に加え、食料を初めとする消耗品も数多く積み込まれてきている。戦場と違って自由都市であるここでなら現地調達も可能だろうにと不思議そうに呟く彼に、ミナは事前に聞いていた情報を教えてあげた。商魂逞しいこのヴィネルの民たちのこと、『大会』による需要の増大に乗じて必要物資の値上げを図ってくる可能性もあり、結果的に首都から自前で持ち込んだ方が安上がりになる公算が高いのだそうだ。
「へぇ、そうなんだ。よく知ってるな、そんな事」
 感心した声で言うクォークに、ミナは笑って付け加える。
「この間、部隊長さんとお茶した時に教えてもらった話なんだけどね」
「……何でいつの間にそんなに仲良くなってんの君ら」
 その名前、正確には上司の役職名を聞いた途端、ヴェノモスを噛み潰したような顔になったクォークを見上げながら、ミナは指を顎に当てて少し首を傾げて、この国で出来た友人たちが使う言葉の中で適切そうなものを頭の中で検索する。
「こういう時は何て言うんだっけ、えーと、てへぺろ?」
「……またあんまり訳の分からん言葉を覚えるなよ?」
 クォークは益々微妙な顔をして、ミナのおでこを指先で小突く。そんな彼の仕草にえへへと笑う無邪気な少女に、彼もまた釣られたように苦笑を浮かべ、再度視線を港の方へと戻した。
 潮風薫るヴィネル島西部の港湾都市、ル・ヴェルザ。
 またの名を『ル・ヴェルザ闘技場街』。
 『大会』――メルファリア統一闘技大会『バンクェット』への参加の為、彼らネツァワル国部隊《ベルゼビュート》はこの地を訪れていた。

 話は一ヶ月と少し前に遡る。
「野郎共。『大会』に出場するぞ」
 定例の部隊会議のテーブルで、おもむろにそんな事を言い出した、豪奢な金の巻き毛に眼帯という派手な容貌の女性軍人――《ベルゼビュート》部隊長を、部隊員たちはかっきり三秒程、沈黙のうちに仰ぎ見て、突如堰を切ったようにうおおっと歓声を上げた。
 兵士たちの言う『大会』。これが意味する所は基本的には唯一つだ。
 即ち、『少人数のチームを組み、一定のルールの元で執り行う模擬戦争』。細かいルールにはその都度違いはあれど、兵士たちが己が技量と武勇を示す絶好の機会となる事は変わらない。というのも『大会』ではほぼ全ての場合に於いて、魔法建築物の建造や召喚術の行使など、戦場において俗に裏方と称される煩雑な戦略的要素は排除され、少数精鋭による純然たる白兵戦能力のみが試されるルールが採用される事になるからだ。
 小賢しい戦略を練る必要もなく、力量の劣る自軍の雑兵に足を引っ張られる事もない純粋且つ原始的な闘争。己が腕のみを恃みに生きる戦闘集団《ベルゼビュート》にとってこれはまさに本領を遺憾なく発揮出来る最高の舞台なのであった。
「開催日は来月二十八の日、開催地はヴィネル島、ル・ヴェルザ闘技場街のコロセウム。主催はヴィネル首領ソゼットとなっているが、ま、これは名目上で実際に顔は出さんだろうな」
 ヴィネル島は絶大な権力を誇る強力な支配者によって護られている。ごく僅かな領土しか持たない小国でありながら、メルファリアの覇を競うどの国家にも与せず自治を貫き続けているのは――その上、あまつさえあらゆる国々からの渡航者の入島を分け隔てなく許しつつも領土の治安を堅持し続けているのは、ひとえにその絶対的支配者の手腕のなせる業であるという。各国の王達も一目置いているというその者は、公の場には一切姿を現さず、五大国ではその静止画像一枚にもかなりの額の賞金が密かに掛けられている――というのは余談であるが。
「ともあれその主催者より各国政府を通じ、義勇兵部隊への大会開催告知が先週あった。我が部隊も既に国軍への報告も参加申請も済ませてある。今回のルールは『バンクェット』公式ルール、七人一チームで十キル先取。今回、我が部隊からは三チーム出場する予定となっている。本日より約一ヶ月国内でみっちりと調整を行い、大会二週間前に最終出場メンバーを決定。然る後に部隊員全員でヴィネルに渡る事とする」
 部隊長の告知に部隊員の大多数が色めき立った。このような時に《ベルゼビュート》に於いて幹部と一般部隊員が差別されることはない。実力次第で誰にでも公平にチャンスは与えられる。勿論幹部の上位陣は相当な実力者揃いで、その辺りを覆すことは生半な努力では難しいのだが、今回は三チーム分も枠があるので誰にとっても出場チャンスは多いと言える。
 何か質問は、との部隊長の声に幹部の一人が挙手し、何故選考から漏れたメンバーも渡航するのかと質問した。その問いに、部隊長は怜悧な美貌にたちの悪い笑みを浮かべて言う。
「桧舞台に立つ仲間の姿を横で指を咥えて見つめる羽目になると思えばより鍛錬に気合も入ろう?」
 全く人の悪い話ではあるが、そういった屈辱的なペナルティがある方がこの部隊の面々は奮起する。流石は部隊長、部隊員の扱い方をよく心得ていると言えよう。
 他にも二、三、細かい質疑を受けた後、部隊長は戦意に滾った目をぎらぎらと輝かせる部下たちを満足げに見渡して、朗々たる声で宣言した。
「もう質問はないか? では、これより早速訓練を開始する。我らが《ベルゼビュート》の名をメルファリアにあまねく知らしめよ!」

 その日から部隊《ベルゼビュート》は一ヶ月の間、一切戦争に参戦することなく軍管区の訓練場に日夜入り浸って訓練を続けることになった。このネツァワル国の他の大手部隊もいくつかは、大会に向けて同じように訓練に明け暮れており、国家単位での戦闘力は相応に低下していた事になる筈だが、中央大陸の戦線に動きが見られなかったのは他国も似たような状況であったからかもしれない。それを裏付けるように、この一月は他国との戦闘回数も通常よりずっと少なかったという。
「大会のお陰で事実上の休戦に近い状態になるんだったら、ずっと大会をしてればいいのにね」
 訓練場の隅に放置された木箱に座り、足をぶらぶらさせながらそんな事を呟くミナに、訓練の汗を拭いつつクォークが顔を向ける。
 大会は、訓練用ではない本物の武具を用いて執り行われるが、基本的には命のやり取りは行わない。戦場でならばとどめに至るであろう時点で、審判の判断や降参により打ち合いは中断され、殺害――『キル』と認定されてポイントが付与される。キルされた兵士は一旦後退させられた後(負傷があれば魔法薬による回復後)、開始地点から再参戦する事となる。そしてそのポイント、キル数が先に規定量に到達した方が勝ち、というのが基本的なルールだ。
 勿論武器を振り回しての試合である以上事故の危険はあるが、通常の戦争よりはずっと安全で公正な競技である。
 そう考えているうちに、ミナは更に素晴らしいアイデアを思いついて、胸の前で手をぱんと打ち合わせた。
「そうよ! 普通の戦争だって、大会みたいに審判をつけて安全に配慮して行えばいいんだわ。ルールに則って試合をして、勝った国がその地域の領有権を得られるの。そうしたらどれだけ戦争が続いたって、誰も悲しまなくて済むと思わない?」
 ぱあっと花が咲くような笑顔を言うミナを、クォークは少し驚いたように見つめていたがやがて、あはは、と快活な笑い声を上げた。
「ゲームによる戦争か。それはいいね」
 さも愉快そうに笑う彼を、ミナはむぅっと頬を膨らまして見上げた。何だか馬鹿にされている気がする。
「殺し合いでつけている勝ち負けが、より簡単なものになって凄くいいと思うんだけど」
 ミナが唇を尖らせると、クォークは無垢な子供でも見るかのように愛しげに目を細めた。
「馬鹿にしてる訳じゃないよ。凄いと思ったんだ。……もし世界中の人間が全員ミナだったなら、それはとても簡単な事なんだろうな」
 どこか感慨深げな声で言われるその言葉の意味が、ミナにはよく分からない。
「やっぱり馬鹿にしてない? それ」
「してないって。褒めてるんだよ。……うん、本当に、もしそんな事が現実になるのだとしたら。憎しみではなく、純粋な勝負に対する緊張だけで戦争を成り立たせる事が出来るのだとしたら、このメルファリアはもしかしたら、エスセティア王の創世の時代にも見られなかった程の美しい世界になり得るかもしれないね」
 夢見る少年に似た声音でそんな事を言うクォークをミナが仰ぎ見ると、彼は眩しいものでも見るかのような眼差しでミナを見つめ返した。少し切なそうにも見えるそんな表情からはやはり彼の考えている事がよく分からなくて、ミナはきょとんと首を傾げる。そんな少女のふっくらとした頬を、クォークの戦斧を振るい続けて皮膚の厚くなった大きな手が壊れ物を扱うように撫で、自然な仕草で近づいた唇がそっとそこに口付けられる。
 思いがけない恋人の挙動に、桜のように薄桃色だった少女の頬が、薔薇の花のような真っ赤に色づいた。



 一月に及ぶ地獄の猛特訓の日々が過ぎていき、部隊の誰もが疲弊し身も心も荒み切った頃、当初の予告通りに最終チーム編成が部隊長の口から発表された。そのオーダーには多少の番狂わせもあり、ミーティングルーム内に悲喜こもごもの絶叫が響き渡ったが、上位陣は抜かりなく上位に君臨し、全体的には概ね順当と言える物となっていた。
 実力順で上から割り振られた三チームの登録名称は、大変分かり易い事に、
『《ベルゼ》一軍(笑)』
『《ベルゼ》二軍』
『《ベルゼ》三軍』
 となっていた。
「っておい何で一軍に(笑)とかついてんだよ!」
 発表を聞いた途端、『一軍(笑)』のリーダーを任ぜられたクォークが雷光の如き反応速度で部隊長に食って掛かった。その俊敏さたるや流石は熟練のウォリアー……なのは多分関係ない。
「そもそも何で俺がリーダーなんだ、あんたじゃないのか部隊長」
「部隊長がリーダーをせねばならないという規則はない」
 テーブルに両手をついて身を乗り出して抗議する男に返す部隊長の声音は、やはり至って平然としたものだった。女性にしてはハスキーな声が、聞き分けのない子供を嗜めるように続けられる。
「単体でのネームバリューは私よりもお前の方があるくらいだ、そう不自然な事でもないだろう。恐らく外部には、《ベルゼ》の部隊長はお前だと思ってる者も多いと思うぞ、『ネツのキラーマシーン』?」
「そんな馬鹿な」
 当人の与り知らない所で勝手気儘に付けられている渾名で呼ばれ、苦々しい顔をしてクォークは呻いた。他人の勝手ではあるが、恥ずかしいので余り妙な二つ名を付けないで欲しいと彼自身は思っている。彼は暫く眉間に皺を寄せていたが、仕方なさそうに嘆息すると声のトーンを少し落ち着かせた。
「まあリーダーの方はいいけどさ、普段通りの仕事ではあるし。……そんな事よりこのチーム名は一体何なんだ。リーダーの俺がまるで阿呆みたいじゃないか」
 そちらの抗議もまた部隊長はまともに取り合うつもりはないらしく、せせら笑うような具合で椅子に深く座したまま胸を反らせる。
「それこそどうでもいい事ではないか。チーム名などただの便宜上の記号だろうに。いちいちそんな細かい事を気にするとは、やれやれ、ケツの穴の小さい男だな」
「その単なる便宜上の記号にわざわざ余計な物を付ける必要性の方が俺には分かんないんだが!?」
 と声を荒げて抗議してみた所で部隊長の決定が覆る筈もない。その事は長年の経験によりクォーク自身も理解する所であったので、一頻り吼えた後、彼は渋々ではあったが存外あっさり許容というか諦観し、メンバーとの訓練に戻っていった。

 そんなこんなの、彼らにとってはまあまあ日常的とも言える紆余曲折を経て、時は今――ル・ヴェルザ到着後へと至る。
 移動日の午後こそ、船旅の疲労を癒す為に休息を与えられた部隊員達だったが、翌日は早朝から闘技場の付属施設にて訓練を再開していた。
 クォーク曰く、
「この恥ずかしいチーム名で勝ち上がっても恥だが負けたらもっと恥だ」
 とのことで、チーム発表以降、『一軍(笑)』の面々は殊更訓練に余念がない。
 大会まで残すところあと十日程となり、忙しさを増すクォークと反比例してミナは暇を持て余していた。ミナの立場は恋人であるクォークや部隊の友人たちを応援しに来た単なるおまけで、出場選手でも選考漏れの雑用係でもない。彼女はそもそも《ベルゼビュート》部隊員ですらないし、仮にそうであったとしても実力的に全くの論外なソーサラーだった。
 普段《ベルゼビュート》の訓練風景はかなりオープンで、部外者の見学も比較的容易に許可されるのだが、今回は大詰めに入った訓練を邪魔をしてはいけないと、ミナは見学を辞退していた。
 そんな訳で身の置き所に少々困っていた彼女は、朝から一人、ル・ヴェルザの市街地をぶらついていた。
 ル・ヴェルザは周囲を高い城壁に囲まれた城塞都市で、古びていながらも堅牢な建物がひしめき合うように立ち並んでいるさまは、この街の歴史を知らないミナの想像をも掻き立ててやまない。今は平和なこの地でもかつては戦乱が起きたのだろうか、それとも強力な魔物でも存在していたのだろうか。そんな混乱から島を護っていたのはどういった人々の力であったのだろうか。建物の合間から見え隠れする街外れの丘には、変わった建築様式の大きな城館が、まるで街を見守るかのように建っているのが窺える。あれが噂に聞く、ヴィネル島を治める支配者の館かもしれない。一体どういった人物なのだろうか。
 ミナは威勢のいい声を上げて様々な物を売る商人や刺激的な芳香を放つ食べ物の屋台、そしてそれらの間を行き交う旅行者たちで祭りのような賑わいを見せる目抜き通りから一本逸れ、閑静な裏路地を歩いていた。入り組んだ細い路地を足の赴くままに歩みながらふと頭上を見上げると、左右の建物を空中で繋ぐ渡り廊下が設えられているのが見え、ミナはふわぁと感嘆の吐息を漏らした。建物が所狭しと立ち並び、あたかも迷宮の如くに立体的に入り組む構造はベインワットには見られないものだ。――かつてのベインワットは岩山の中に張り巡らされた廃坑を利用した街だったとクォークに聞いたことがあるが、旧ベインワットもまたこんな複雑な作りをしていたのだろうか。凄く楽しそうだ。
 想像の翼をとりとめなく様々な場所に羽ばたかせながら高い壁に切り取られた空を見上げると、海辺の街らしい澄んだ空がミナの心を更に弾ませる。潮の香りのする風に誘われて路地を歩いていくと、やがて大きな広場に行き着いた。
 格子状に石畳の敷かれた立派な広場は多くの人でごった返していたが、ミナの目はある一点に吸い寄せられていた。広場の最奥でその存在を主張する、円筒形の巨大な建物。見上げると首が痛くなる程の威容を見つめながらミナは広場を横切り、間近で聳え立つそれを見てごくりと息を飲んだ。
 ル・ヴェルザ闘技場――件の大会、『バンクェット』が開催される会場だ。
 首都にある訓練場に似た、けれどもそれよりも尚大きく厳めしい門構えのこの建物、コロセウム内で、各国の兵士たちがその意地と誇りを賭けて剣を交えるのだ。
 きっと各国から選抜された達人たちの戦いは、ミナの想像など及ばない程に激烈なものとなるのだろう。ミナは自分が参加するのではないにも拘らず、その時を思い浮かべてどきどきと胸を高鳴らせた。
 コロセウムそのものは大会の為に一般人の入場は制限されていたので、ミナは唇を尖らせながら見学を断念し、来た道を引き返して街の散策を再開した。広場から闘技場の右手に回ってみると、石畳の舗装が途切れる通路が見えた。興味をそそられて覗き込み、そこが立ち入りを制限されている場所ではなさそうだということを確認してから先へと入っていく。
 高い壁に挟まれた小道を暫く歩いていると、不意に横合いから差し込んできた強い太陽光がミナの目を焼いた。街を囲む城壁から外側へと出たのだという事を認識しながら光に徐々に目を慣らし、やがてその先にあった光景に気づいたミナはその途端、破顔して走り出した。
 そこは先程の広場よりも尚広く開けた場所だった。通路は断崖に面していて、その先は青々とした大海原がどこまでもどこまでも広がっていた。
 ミナは崖際に設えられた柵に身を乗り出すようにしがみ付くと、その先の光景に見入った。広大な水面をきらきらとした光の粒が踊っているのは昨日見た港の風景と一緒だが、ここは切り立った高い崖となっていて船をつけられるような場所もなく、帆船も間近には見られない。港の喧騒はなく、岸壁を打つ波音だけが耳に届く、静かな所だった。高所を抜ける風が海の香りと優しい潮騒を連れてきて、ミナは柵に肘をついて手の甲に顎を預け、ゆったりと瞼を閉じた。
 視覚と聴覚と嗅覚で海を味わって、ミナは胸の中にじんわりとした切ない懐かしさが広がってゆくのを感じた。その郷愁の出所にはミナには思い当たる所があった。ここは、故郷と同じ匂いがする。ミナの生まれ育ったエルソード国首都リベルバーグは、この優美な街にも劣らない美しい港町だった。うみねこの声、風を抱く帆布、西日にきらめく遠浅の海の情景は、訳あって故郷を捨てた今もくっきりとミナの心に焼き付いている。故郷を出た事についてはミナは一切後悔してなどいないが、もう二度と戻り得ぬふるさとを髣髴とさせるその光景は、否応なしにミナの胸をきゅんと締め付けるのだった。
 ――と、そんな時。
 細波の音と同じくらいに穏やかな声が、唐突にミナに掛けられた。
「国家の紋章は、ここでは隠しておいた方がいいですよ、ネツァワルのお嬢さん」
 ぼんやりとしていた所に突然声を掛けられたミナが驚いて振り向くと、彼女が今しがたやってきた通路をゆったりとした歩調で歩いてくる一人の青年の姿が目に入った。
 その男を一目見て、ミナは文学青年という単語を脳裏に思い浮かべた。身長こそ高いものの痩せ気味な男で、後ろに撫で付けた生来のものらしい銀髪とフレームの細い眼鏡がいかにも繊細そうに見える。
 言われた言葉の意味を理解する事が出来ず、ミナが目をぱちくりとしながら相手の方に身体ごと向き直ると、青年はにこりと人の良さそうな笑みを眼鏡の奥に浮かべて、自分の肩口の辺りをとんとんと指でつついて見せた。ミナのローブのその場所には、ネツァワル国軍義勇兵である事を示す、赤い斧の紋章が縫い付けられている。
「もしかして、ル・ヴェルザは初めてですか? ……ヴィネル島の自由都市でも、他とここル・ヴェルザとでは何かと勝手が違います。ここは闘技場の街ゆえに、やってくる渡航者も気性の荒い者が多いんです。こんな所であなたのような可愛いらしい方が不用意に国籍を晒していては、何かとよからぬ考えを起こす者もいます」
 そう丁寧に説明されたミナは、その事実に初めて危機感を覚えてあわあわとうろたえた。ミナは小さくて弱そうだからか、一人で歩いていると自国の首都ですら男の人に絡まれる事がたまにある。クォークが傍にいる時は絶対にそんな事は起きないので、大きくて見るからに強そうな人はいいなあといつも思っている。
 首都でさえそうなのだから、各国の荒くれ者が集うような場所ではミナなど格好の獲物だろう。そういう事ならば確かに紋章はすぐに外した方がいいだろう、と理解したものの、これは服に縫い付けてしまっているので簡単には外せない。どうしたものかと悩んでいると、「失敬」と近づいてきた青年が、懐から取り出した大き目のハンカチを三角に畳んでミナの腕にくるりと回しつけた。紋章がすっかりと隠れる。
「これで大丈夫でしょう。お節介な事をしてすみません」
「い、いえ! 助かりました! 昨日初めて来たばかりで、私何も知らなくて。教えてくれてありがとうございます」
 ミナが深々とお辞儀をして礼を言うと、青年は柔和な笑みを浮かべて見せた。
「そうなんですか。……じゃあまだこの辺りの事も分かりませんよね。そろそろお昼ですし、宜しければ食事をご一緒にどうですか? 近くに魚料理の美味しいレストランがあるんです」
「お魚!」
 青年の一言にミナはぱあっと顔を輝かせた。山岳地帯であるベインワットに引っ越してからというもの、大好物だった魚料理を食べる機会がめっきり減ってしまったミナにとってそれは非常に魅力的な誘いだった。
 ミナは即座ににっこりとして頷きを返し、青年と二人並んで市街地の方へと歩き出した。

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