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逃走×暴走


 首都ベインワットの中央通りにあるカフェで、二人の男女が睦まじげな様子で、背の高い朝顔型のグラスに入った山盛りのパフェをつついている。遠目に見れば微笑ましい若い恋人たちのデート風景だが、その組み合わせは見る者が見れば、「なぬ?」と声を上げざるを得ないものだろう。
 女性の方はミナ。
 男性の方はクォーク――ではなく、サイトである。

「あ、クォークー」
 通りに面したテラス席でサイトとおやつを楽しんでいたミナは、通りの向こう側に自分の恋人の姿を認めて、スプーンを持った手を大きく振った。
 愛する少女の声に気付いたクォークはすぐさま大通りを横断し、二人の近くへとやってくるが、その表情はいやに険しい。黒い双眸が浮かべる険悪な眼差しは明らかに、少女と同席しているサイトを不快な存在として認識している。
 こっええ……。
 戦場で相対した敵を見るような――否、このクォークというウォリアーは敵国兵に対してですらこんな目つきをしない。明確にそれ以上の敵意を孕んだ視線で見据えられ、サイトは内心震え上がった。
「何してるの」
 まずクォークは自分の恋人に顔を向けて問う。
「新作のパフェが出たって聞いたから、サイトさんと食べに来たの」
 ミナは彼の背負うどす黒い気配に気付いていないのか、屈託のない笑顔で答えた。
「何してんだよ」
 と、一オクターブ低い声で内容だけは同じ問いが今度はサイトに向けられる。今自分がここにいる理由は少女が説明した通りなので、それ以上何も言う事が出来ずにサイトは乾いた愛想笑いを浮かべた。――甘いものがそれほど得意ではないクォークの代わりにサイトがミナのお茶に時折付き合っているという事は彼だって承知している筈なのに、その現場を初めて直に目撃したからって何不機嫌になってるんすか、という恐らく万人の賛同を得られるであろう反論が喉元まで出てきていたが怖くて口には出せなかった。
 そんな男同士の間に流れる重苦しい空気には一切気付かぬ様子で、蜜で煮た桜桃をもぐもぐごっくんと咀嚼し飲み込んだミナは、満足げに微笑むとパフェグラスをサイトの方へと押しやった。それと位置を入れ替えるように、サイトの前にあったグラスを自分の手元に動かす。
 その作業を見て、何故かクォークが突如、泡を食ったように声を上げた。
「……!? ちょっと、何でパフェ交換してるの」
「え? ああ、本当はこっちがサイトさんの頼んだ方なの。おいしそうだったから、ちょっと食べさせて貰ったのよ」
「は、はあああ!? な、何だよそれっ、それじゃあ、か……」
 口に出すことすら忌まわしいと言わんばかりに一瞬無音で唇を震えさせ、しかし気力を振り絞るようにして彼は叫んだ。
「間接キスじゃないか!!」
「は、はあああ?」
 先に上司が漏らした驚愕の声と同じような音を、発作的にサイトは発する。そのくらい、その言葉は目の前の男が口にするとは思えない発言だった。
「間接キスって、あ、あんた何言ってるんすか、子供じゃあるまいし……」
「子供も大人も関係ないだろ!? 大人になったらヲリが間接攻撃使えるようになるのかよ!」
「か、関係ねー!」
 同様に発作的に突っ込むが、そんな声など意に関しないようにクォークはわなわなと大柄な身体を震わせ始めていた。
「ミナが好きな甘いものを存分に食べたいのならと涙を呑んで俺以外の男と食卓を共にする事は我慢してたのに……俺の見てない隙に他の男に抵抗せずにキスをさせてるなんて……、酷いじゃないかミナ!」
 あ、あくまでも俺がしてることなんっすね! ミナさんは客体なんっすね!
 今度は声に出して突っ込むことすら出来ずに内心のみでサイトは叫ぶ。
 妙にまだるっこしい言い方だが多分ここで「他の男とキスしてるなんて」と責任の所在が等分な言い回しを使ってしまったら、彼は最早精神崩壊が止められなくなってしまうのだろう。とうっかり冷静に分析してしまったがいやいやいやいやキスしてねーし!
 しかしその非難にはミナも少々カチンと来たようで、むっとした上目遣いでクォークを睨んだ。
「なにその言い方、分け合いっこなんて普通のことでしょう? そんな言い方ってない!」
「皿に取って分け合うくらいならまだ我慢するさ、けど直接同じスプーンを使うのはどう考えたって駄目だろう!? 俺というものがありながら他の男と……他の男と……ッ、俺の……ミナが……他の男に……ッ!」
 あ、言語化機能が崩壊した。クォークは今でこそかなり頭も口も回る方だが元々は非常に口下手で、思考や感情を表現することを苦手としていたのだとサイトは聞いた事があった。その性向はその昔、部隊長に徹底的に弁論術を叩き込まれ矯正されたのだという。サイトが入隊するよりも前の話なので聞いた話以上の事は知らないが、その名残なのか、相当に追い込まれると今でもたまに頭での処理が追いつかなくなって口が回らなくなる事もある。のだが……
 なんか言ってることやばくね? 他の男『に』ってナンノコトデスカ? 今壊れてるのって言語化機能だけじゃなくね? 思考能力自体が変な風に断裂してばらばらになってなくね?
「他の男って、サイトさんじゃない。サイトさんが私に悪い事なんてする訳ないでしょう?」
 クォークの混乱を漸く察したか、ミナが少し穏やかな口調になって彼を宥めにかかる。――が、思いの外彼の動揺は深かったらしい。ミナの発言の一部を掬い上げて、更にぶつぶつと暗澹とした口調で呟き続ける。
「悪い事……悪い事、は、しなくても……、いい事ならする……のか……? ……サイトォォ……」
「はいぃぃ!」
 唐突に、遠雷のようなおどろおどろしい声で呼びかけられ、サイトは反射的にびしぃぃ!と背筋を伸ばす。
 ぎらり、と危うい光を放つ双眸がサイトに向けられた。森の中に潜む獣のそれのような剣呑な眼光が、スカウトを串刺しにするかのように射竦める。
「サイト貴様ぁぁ……ミナとイイ事したって言うのかぁぁッ!!」
「はいぃぃ!?」
 断裂してたナニかがなんかとんでもない方向で繋がったあああああああ!!?
「ちょ、ちょっとタンマ、その発想はどう考えてもおかしいでしょ!? 落ち着いてくださいよ!?」
「俺はいつだって落ち着いてる……」
「落ち着いてねええええええええ」
 クォークはゆらりと視線を視線を動かすと、ある一点に目を留め、墓穴からさ迷い出た亡霊のような歩調でその方向に歩み寄った。一体何をするつもりかと目で追っていると、彼は、店の一角に置いてあったバケツから長柄のモップを抜き出しサイトへと視線を戻した。
「な、なんすか」
 彼が何をしようとしているのか一瞬全く分からなかったが、次の瞬間、電光のようにサイトの背筋をある種の感覚が駆け抜けた。クォークは、モップの柄を両手で握ると緩やかに下段に構えた。肩から余分な力が抜けた、けれども一切の隙のない、模範的なまでに整った、いつもながらに完璧な構えだ。この構えから、彼は多彩かつ凄烈な両手斧技を自在に繰り出し、自分の目の前に立ちはだかるあらゆる敵を薙ぎ払うのだ――
 クォークの足元から、突如、ごぅっ!と黒紫色の炎のようなオーラが凄まじい勢いで噴き上がった。極限まで研ぎ澄まされた攻撃の意志を武器へと注ぎ込み、通常ならば防御に使う精神力をも攻撃力へと転化して剣の威力を増大させる恐るべき武技、アタックレインフォース。
 この人モップでアタレ発動したああああ!!!
 魔法や武技と言ったようなスキルは確かに兵士の精神力により発現されるものだがそれを媒介するのは武器に封じられたクリスタルではないのかとか突っ込みたい部分はあれど、実際に彼を包み込んでいる黒炎の揺らめきを見ればそれが現実問題全く意味を成さない指摘であることは明白である。
「ちょ、あ、や、クォークさん、おち、落ち着いて? 理性を持って? 話し合いましょう?」
「俺はッ、いつだって理性的だぁぁぁぁぁァァッ!!」
 返答は、武器を構えるウォリアーの、撃ち放たれた弾丸の如き強烈な突進の形で返ってきた。
 理性的な人は街中でストスマ撃ちませんんんんんんん!!!
 即座にサイトは身を翻し、椅子を一つ二つ蹴倒してテラス席を走り出た。ミナのものだか他の客のものだか店員のものだかは分からないが、きゃああああ!という絹を裂くような女性の甲高い悲鳴が首都の平穏を無残に破り捨てる。それを申し訳ないと感じるだけの常識はサイトにもあったが、自身の生命の危機と天秤に掛ければそれは捨て置かざるを得ない問題だった。
 三十六計逃げるに如かず! 弓はヲリに近接されたらそこで試合終了ですよ!
 そもそも休暇中なので当然ではあるが弓すら持っていない。一応、短剣程度は持ち歩いてはいたが、スカウトが全員短剣技に精通しているという訳でもない。そもそも短だろうと弓だろうとこのウォリアーからすれば等しく餌である!
 大通りに飛び出るやサイトはずざぁぁと靴底を石畳に擦り付けて急制動、即座に市街地に爪先を向けて脱兎の如く走り出す。逃走方面に市街地を選択したのは市街地ならば攻撃の手も緩むであろうなどという夢見がちな考えではなく、少しでも入り組んだ路地に入り込んだ方が逃げ切れる可能性が高いのではないかと踏んだ為だ。幸いにも職業柄、首都界隈の地の利は彼よりもサイトの方にある。寧ろサイトがクォークを上回っているのはそういった辺りの細々とした知識のみと言える。
 背後から鋭利な殺気を噴出しつつ猛然と追走してくるウォリアーに追い立てられ、サイトは戦場でも出さないような全力を搾り出して疾走した。徐々に距離を狭めつつある死神の鎌に首を竦めながらぎゅんと街路を直角に曲がり隘路に突入するが、追跡者はサイトの突発的な挙動にも僅かたりとも反応を遅らせる事なくそれを追随する。
「く、くそっ」
 ごみごみした路地を走り抜けざまに、サイトは道端に置いてあった大きな壷を蹴り倒して後方に転がした。狭い路地であるのでこの程度でも追跡者の障害になるだろうと期待したのだが、背後のウォリアーは全く走行の速度どころか頭の位置すら変えずにそれを飛び越えて、――逆にそれを契機にすらして、強く地面を蹴り立てた。
 ストライクスマッシュ。
 ごうっ、と空気を切る音を立て迫ってきたウォリアーの刃(モップ)は、逃げるスカウトには辛うじて届かなかった。が、クォークもその一躍では敵への肉薄が敵わない事は当然の如く理解していた。着地と共に武器(モップ)を一閃。鋭く振られた先端のブラシがぶわっと空を裂き、驚くべき事に真空衝撃波を生み出した。周囲に転がるごみくずを跳ね散らかして迫り来るのは貫通攻撃フォースインパクト!
「ぐあぁっ!」
 鋭い真空の槍に肩を穿たれサイトは悲鳴を上げて転倒した。
 まじだー。あの人超まじだー。とっくに分かりきっていた筈の泣き言を呟きつつ、猥雑な細道をごみを蹴散らかしつつごろごろと数度横転したサイトは、その勢いを殺さずにどうにか膝立ちに起き上がると背後に視線を転じる。敵の逃走の阻止を確認したウォリアーは走行の速度を緩め、やや広めの間合いを取った地点で停止した。無論その距離はサイトに対しての温情などではない。きっかりと、寸分の狂いなく、己の最も得意とする間合いを完璧に保ち、敵を全力を以って滅殺する為の距離だ。
 黒いオーラを纏う無表情なウォリアーの圧倒的な威圧感が、地面に力なく膝をつくスカウトに瀑布の如く注ぎ落とされる。その圧力だけで軽く死ねそうである。
 逃走を続けるべきだ、と理性は警告する。が、一旦目にしたその恐怖の体現たる姿からサイトは視線を外す事が出来なくなっていた。視線を外したその瞬間に己の首がすぽーんと飛んでいく幻覚が脳裏を強烈に支配し、サイトの全身を見えない鋼線で縛り上げていた。まさに蛇に睨まれた蛙――
 クォークが手にするモップの先端が霞むのを、サイトは意識の片端で認識した。
 並の技量では、この狭隘な細道では長柄の両手武器を満足に操る事など出来ないが、この男にとって両手武器は自分の手足と何ら変わらない。いかなる状況にあってもその場に於いて最も適切に武器を振るう方法を瞬間的に選択し、針の穴すら射抜く程の精確さで技を行使することなど彼にとっては造作もない芸当である。
 ああ、あのモップが俺の五年近くに及ぶ兵士生命を終わらせるのだ。サイトは寧ろ穏やかな気持ちで最後の時を迎えんとしていた。兵士としての暮らしは長かったとも言えるし短かったと言える。うち八割程を占める《ベルゼビュート》での部隊生活は、辛い事も苦しい事ももういっそ殺してくれと思う事も多かったが――しかし、濃密な時間ではあった。仲間を背中から護る弓兵として、時には最前線よりも尚奥へと潜入する斥候として多少なりとも部隊の役に立ってきたつもりだ。強者揃いの《ベルゼビュート》に於いては決して目覚しい活躍とは行かなかったが、こんな自分でも仲間たちは少しは悼んでくれるだろうか。今迄戦場に散りクリスタルへと還っていった多くの仲間たちのように、酒の席ではあんな奴もいたなあと肴代わりに懐かしんで貰えるだろうか。
 死因:モップによる撲殺。ってゆー世にも希少なスカウトとして。
 ……うん多分その死に方だと向こう五年は美味しくネタにされる。仲間の死は笑って弔う。《ベルゼ》とはそういう部隊だ。
 いやだああああああ。
 硬直したまま走馬灯を眺めていたサイトを漸く生存本能が突き動かした。咄嗟に腰から鞘ごと短剣を抜き放つと、彼は降り注ぎつつある災厄に対して二振りの短剣を渾身の力を込めて振り上げた。
 アームブレイクレベル1(自衛用)!!
 サイトが会得している数少ない短剣技は、クォークが目にも留まらぬ速度で振り下ろしたモップの柄とはっしと噛み合い、しかし勝機のない力比べに移行するよりも早く、それを絶妙な力加減で受け流し絡め落とした。モップの木製の柄が地面にからんと高らかな音を立てる。
 よっしゃ成功ォ――!!
 ぜいぜいと息を切らせばくばくと心臓を鳴らし自身の生を強く確かめながらサイトは血走った目でクォークを見やる。武器を取り落とし、僅かに体勢を崩したそのウォリアーの姿は、戦場であればすぐさま追撃を仕掛けるべき隙を生じているようにも見えたが、そういう訳にも行かない。ここは戦場ではないし相手は一応敵ではなく上司だ。そもそも――
「……上、等、だ……ッ……」
 ――隙だらけに見えた所で実際にこの男に……『ネツのキラーマシーン』に、そんな甘っちょろいものがある訳がない。例え無手であろうとも、敵を制圧する手段に尽きる事などこの戦闘機械には有り得ない!
 まさに何かの魔法機器の駆動音のようにひび割れた無機質な声がサイトの鼓膜を穿つ。もう幾度目とも知れない戦慄を覚え、サイトはぎゅるんと音を立てんばかりの勢いで踵を返し全力疾走を再開した。

 薄汚れた路地を男が二人、颶風の如き速度で疾駆していく。追う方も追われる方も双方怒声や悲鳴一つ発することなく、その静寂が悪夢の中のワンシーンじみた印象を強める――と言っても人通りも少ない裏路地での追走劇を悠々と観覧している者がいる訳でもないのだが。
 十字路を適当な方向に曲がる瞬間、サイトは見るでもなしに――否、無意識に恐怖に駆られて背後に一瞬だけ視線を向ける。そのまばたき一回ほどの時間で、男の手に改めて拾ったらしい長物が握られている事を認識する。
 って今度は鉄パイプうううううううう!!
 モップはまだ冗談っぽく見えるが鉄パイプ、てめーは駄目だ、まじ駄目だ! 真剣にも耐え得る強化済みの戦闘装備を身に着けているならモップだろうと鉄パイプだろうと大差はないが、普段着では一撃必殺は必定である。
「あ、は、は、は、は……」
 これ以上悪化しようもないと思っていた状況がより一層悪化したという現実に笑いがこみ上げてくる。極限まで追い込まれた状況で笑い出しちゃう兵士って確かに時折いるんだけどあー俺もそういうタイプだったんだーと混濁する頭でぼんやりと納得しながら涙のしょっぱさが混じった笑いを垂れ流すサイトであったが、その引き攣りまくった笑みが細道の角を曲がった瞬間、涙をも凍らせる温度で凍結した。
 目の前に、壁。
 必死に逃げ惑う余り、いつの間にか地の利という唯一無二のアドバンテージを放棄していたらしい事に遅まきながら気付く。
 ご丁寧な事にサイトが絶望するしか手立てのない現実を認識するのに十分な数秒の間を置いて、クォークが角からその姿を現す。瞬時にサイトが置かれている状況を把握したクォークは、今度は間合いを計るなどという悠長な真似はせず、速度を落とさぬまま、否、更に上げて目標に突進する。
 跳躍、そして、炸裂。
 轟音が、衝撃が、崩壊が、爆心たるその一点から始まった。
 石畳で舗装された路地が、ただの鉄パイプによる一撃で有り得ないまでに深く円状に抉れ、夥しい量の砂礫が両脇に立つ建物の屋根を超える高さに噴き上がる。爆裂四散した石片は周辺の窓硝子を難なく割り、雨戸すら軽々と割り、壁の煉瓦を削って傍らに積んである木箱に大穴を開ける。
 ドラゴンテイル。
 土砂と共に衝撃波に噴き上げられながら、サイトの脳裏にかつて耳にしたとある逸話が蘇る。
 ――そういえば。そういえば昔、聞いた事がある。戦場にまことしやかに伝えられる、一人の豪傑の伝説。
 エスセティア大陸の東、ロッシ雪原。その地には、街区一つを飲み込む程に大きな、すり鉢状の窪地が存在する。
 それは、古き時代に飛来した巨大隕石によるクレーターだと言われているが、あれは違うのだと。
 かつて、最強の力を誇り戦場に勇名を轟かせた古き英雄が撃ち放ったドラゴンテイルの痕跡なのだと。
 無論、そんな訳はない。恐らく実在したのであろう英雄を讃えんが為に尾鰭のついた、益体もない噂話だ。
 だが――だが、その伝説は真実なのではないかと。
 戦場一つを飲み込み灰燼に帰すだけの力が、極限まで鍛え抜かれたウォリアーにはあるのではないかと――……
 そのドラテの一撃は致命傷すら負いかねない威力だったが、サイトは奇跡的に概ね無傷のまま地面へと落下した。
 唯一、ナイフのように尖った石の欠片が狙ったようにサイトの頬を掠めていた。地面に尻からへたり込む恰好になったサイトの頬の、横一文字にざっくりと切り裂かれた傷から、つう、と鮮血が流れ落ちる。
 敵手がまだ生存していることを認識したクォークが、ゆらりと足を進め来る。昼下がりの路地裏は決して明るくはないが人の表情が認識出来ない程暗くはない……と言うのに、近づきつつある上司の表情が、サイトには何故か見えなかった。ただ煌々と純然たる殺意を灯す眼光のみを認識する。死角で唸りを上げている獣の気配を湛えたまま、最後の幕を引くべくクォークは疾走を開始した、
 瞬間。
「やめなさあぁーいっ!」
 甲高い制止の声が響き渡る。
 同時に、ひらり、と何故か傍らの建物の二階の屋根からスカートの裾をはためかし、少女が飛び降りてくる。どんくさそうな少女であるが意外にも――曲がりなりにも兵士らしく軽やかに着地すると、即座に持っていた杖に気合を込め、自身を中心とする冷気の波動――フリージングウェイブの魔法を解き放った。
 さしものクォークも、全力で技を振るう寸前であった最中、予期せず乱入した第三者の攻撃には対応しきれず、敢え無く吹き飛ばされる。戦場を駆けるナイトにウェイブをぶち当てるような感じでクォークを吹っ飛ばしたミナは、霜を纏って地面に転がる彼の前にずんと仁王立ちで立ち塞がると子供を叱る母親の迫力で一喝した。
「首都で何やってるの! 街中でスキル振っちゃ駄目って教わらなかった!?」
 今のウェイブ……。という突っ込みはするだけ野暮だろう。サイトはあんぐりと口を開きながら、いつもの毛を逆立てる子猫の風情ではなく、田舎の母親を髣髴とさせる堂に入った怒りっぷりを見せる少女の後姿を仰ぎ見た。
「よ、よく場所分かったっすね」
 ただ余りにも都合よく登場してきた事だけは不思議だったのでそう問うと、ミナはサイトの方を振り向いてポケットから手のひら大の石を取り出して示して見せた。
「通信石にパーティ設定してあるから。居場所は分かるんだけどあっちこっちに行くもんだから中々追いつけなかったわ」
「成程……」
 だからと言って二階から飛び降りてくる事もないとは思うがそれについてはサイトは言及しなかった。ごく限られた場合に於いては建物内を追跡経路とした方が効率的である場合もなくはない。それにしても首都でもわざわざパーティを組んでいるとはどれだけ仲が良いのだか。
 とりあえずミナの方はよしとして、サイトはクォークへと恐る恐る視線を戻す。ダウナー系の薬物をキメたジャンキーのような虚ろな目をして座り込んでいるクォークは、長年の付き合いのあるサイトですら近寄り難い雰囲気があったが、ミナは躊躇う事なくとことこと彼に近づき、目の前にちょこんとしゃがみ込んだ。
 物腰から直前までの苛烈さを霧散させた少女は、クォークの頬に手を伸ばすと、これもまたやはり母親を想起させる優しい仕草で撫でた。
「ごめんなさい。また、あなたへの気遣いが足りていなくって。……食べ物を直に分け合うっていうのは私にとっては普通だったから悪い事だという意識はなかったけど、クォークが気にするならもうしないわ」
 そう告げてからミナは、クォークの両頬を小さな手のひらで包み込み、前髪が垂れる彼の額にちゅっと唇を寄せた。
「私がキスしたい人はあなただけよ、クォーク」
 途端――
 俯いていた顔をクォークは上げた。目の前で、自分だけに向けられている少女の微笑みを映した彼の瞳に、見る見るうちに輝かしい生気が戻る。
 彼は投げ出した手にいまだ握っていた無骨な鉄パイプを即座に放り捨て、代わりに目の前の愛する少女の身体をがばっとかき抱いた。
 うっわぁ現金ー……。
 白々としたサイトの視線を気にする様子は全くなく――多分存在すらも脳内から抹消して、クォークは強く抱き留めた少女の身体を一旦離し、彼女の首の後ろに手のひらを回すと、くちづける為に再び自分の方へと引き寄せた。唇が触れ合う直前に辛くもミナが彼の肩を強く突き放すように押さえ、早口で抗議した。
「わ、ま、待って、ここじゃ……、するなら家で」
 ミナの方はサイトの存在を忘れてはいなかったらしい。サイトは座り込んだまま額に手を当てて下を向き、少女に告げた。
「見てませんから。どーぞ」
「あ、は、はい……」
 少女の抵抗の力が緩んだのを確認したのだろう。再度力を込めたらしいクォークの手に引き寄せられ、二人の姿が密着する所までは視界の端に映ってしまったが、それ以降はサイトは瞼を閉じ、恋人たちの触れ合いから慎み深く目を逸らした。
 ……。
 …………。
 ……耳も塞がねばならなかったのを思い出したのは数秒後だったが、今更そこまで必死に外部情報を受け入れない努力をして見せたら、クォークはともかくミナは逆に気になって仕方がないだろう。断続的に聞こえる気がする甘ったるい吐息や水音は気の所為であると思い込みながらサイトは下を向き続けた。
 ……。
 …………。
 長っげぇ……。

「ご、ごめんね、サイトさん。ご迷惑をおかけしました……」
 その後たっぷり三分は費やして愛を確かめ合い、漸く気が済んだのかおずおずと掛けられてきた声に、サイトは熱病に罹ったかのように重たく感じる頭をのろのろと上げた。……別にちゅっちゅぺろぺろしている間律儀に待っている必要もなかったと今更気がついても後の祭りである。
 呼ばれて何気なくミナの顔に視線を向けたサイトだったが、すぐさま不自然にならないようにその目を背けた。
 ――目にした少女の、薔薇色に色づいた頬や、朝露に濡れた花びらのような唇が、普段のあどけない彼女からは全く想像出来ない程に酷く艶かしいものであったので。
 手で顔を覆いながら、あー、と一人身の青年は喉の奥で小さく唸る。納得した。これはクォークさんも落ちるわ。
 勿論、あの男が単なる色香で落ちたとは思わないが、好きな女にあんな顔をされたら男ならたまったものではないだろう。いや寧ろたまる余地もないとでも言うべきか。
 などとついつい部隊長譲りのシモネタを発動しつつ、サイトは尻をぱたぱたとはたいて立ち上がった。たちの悪い背後霊の如く小さな少女に圧し掛かるようにして引っ付いているクォークが、また微妙に剣呑な視線で睨んで来るが、恋人というストッパーが手元にあるからか今は辛うじて理性を保つ事が出来ているようだ。……いやそんな全力でこれは俺のだ俺のだ絶対渡さんオーラ出してしがみ付かなくたって盗りゃしませんって。
 サイトは深く深く嘆息する。ほんと、厄介なのに惚れられたっすね、ご愁傷さまっす……
 これ以上因縁をつけられる前に退散しようと二人の横を通ってその場を辞しがてら、サイトは哀れみの視線をミナに投げかけるが、凶悪な獣に囚われている事に気付いていない当の少女はきょとんとした様子で首を傾げただけだった。

【Fin】

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