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会談


 紫煙にけぶる薄暗い空間を、物慣れた様子で女は歩いている。黒衣を纏い同色のフードを目深に被り、腰には剣を佩いた物騒な風体の女ではあるが、この場所にあっては――ごろつきと紙一重の兵士たちが集い賭博に明け暮れるこのカジノにあっては、それ程目を引く格好とも言えない。寧ろ、そのフードを取り払った素顔の方が人目を引いて止まない美貌である事を、その女の進む先、カジノの様子を一望出来る吹き抜けに面したテーブルで待つ赤毛の女は知っていた。
 燃えるような紅い髪の女は、長い足を組み、腕も胸の前で組んだまま、同席者と一言も会話をすることなく押し黙っている。――女のテーブルの角を挟んだ隣席にはもう一人、男が着席していた。こちらはこの猥雑なカジノ内の酒場には全く不似合いな、小奇麗な身なりをした男だった。年の頃は三十半ば程か、貴族の平服風のコートに身を固め、髪も髭も隙なく整えた、目鼻立ちも涼やかな男である。
「やあ、久しぶりだね。わざわざ遠くまで呼び出して済まなかった」
 男は、テーブルの真横にまで近づいてきていた黒フードに、気さくな調子で声を掛けた。フードの女はテーブルの男女を軽く一瞥してから、外套を取らず、そのまま黙って男の正面に当たる席に腰を下ろした。
 普通なら、すぐさま給仕がオーダーを取りに来る場面であるが、この三人の卓に近づいて来る者はなかった。
 余計な邪魔が入らないように予め手筈をつけた準備のよい男は、自分が取り仕切るのが当然とばかりに、さて、と早速切り出した。
「この度は、うちの部下が君の所に大変な迷惑を掛けたようで、申し訳なかった。あんまり部隊の名を落とすようなこすい真似はしないようにと常々注意してはいるんだが……若い子はどうも野心的でねえ。上昇志向は悪いことじゃあないんだけど、制御が効かないのは困ったもんだね。お恥ずかしい限りだよ」
 政治家の弁舌のような胡散臭いまでの淀みの無さで謝罪する男を、フードを取らぬままにじっと見ていた女は、それまで真一文字に引き結んでいた紅を乗せた口元に、不意ににぃと挑発的な笑みを浮かべた。
「何、侘びには及ばんよ。お陰で我が部隊の臨時収入源となる予定だ。逆に有難いくらいだ、是非また宜しく頼むと伝えておいてくれ」
 直前までの緊迫感とは裏腹な明るさすら感じる口調で告げる相手に、男は少し困ったように――困った演技をする役者のように、微笑んで見せた。
「うん、それなんだけどね、一つ相談があるんだ」
 一拍置いて、続ける。
「例の動画なんだけど、やっぱりね、部下の醜態が世間様の晒し者になるってのは上司として忍びなくてね。こちらに譲ってもらえないかな。言い値で買い取るよ」
 ここに呼び出された時点で用件にある程度の目星は付いていたらしく、驚く様子は見せない黒フードが、しかし嘲りからかう声で応じた。
「随分お優しい事だな? 勇み足で余計な事をやらかした使えない下っ端に対して」
「まあ、君に誠意を見せる意味も含んでいるからね。と言っても、流石に部隊の金を動かすわけには行かないから、僕のポケットマネーになるんで、出来れば僕たちの友情に免じてその辺の所考慮して頂けると有難いんだけれども」
 す、と男の手元からテーブルを滑り、女の前にぴたりと止まったそれは、白紙の小切手だった。
「ふん……」
 鼻から息を吐き出して、黒フードは卓上に既に置かれていたペンでさらさらと、額面の欄に金額を記入する。書き終えると、サインが施されてないそれを今一度、男に返した。
 それを受け取り、男が大仰に目を丸くして見せた。
「わぁお。この額は結構痛いなぁ……ま、こっちが悪いんだししょうがないね」
 諦めたような声音を作りつつ、男は署名欄に達筆な文字でサインを書く。それを、今度は隣席の赤毛の女を通じてフードの女へと返した。
 二人を仲立ちする位置に座る女は義務的にそれを受け取ると、視線を落とし、黒フードが書いたその額に内心感心する。これ以上を吹っかけたら交渉決裂。極力金で事を収めたいが、無理ならそれもまた止むを得ないと考えている男の妥協点の限界を見事につく金額設定だ、と赤毛は思った。
 一応この蜘蛛の糸よりも細いパイプを切る気はないという事か。
 女同士の間で紙切れの受け渡しが終わるのを確認して、男はテーブルの上に肘を突き、組んだ手の上に顎を乗せてしみじみと呟いた。
「本当に、敵に回したくない女性だよ、君は」
 その言葉に、女はフード内の暗がりに微かに覗く、眼帯の隻眼を眇めた。
「何の冗談だ。最初から最後まで敵同士ではないか、我々は」
「はっはっは、そうでした」
 男はひらりと肩の辺りで手を振って、話を終わりにするという意思を示した。約束の品の受け渡しは完了していないが、この男にとって必要なのは別に物自体ではない。その件について水に流すという確約を得られればよく、この相手が取引で嘘をつく程愚かではないという事が分かっているのだから、これで十分なのである。男は振った手で傍らの銀製のワインクーラーを示し、作り物めいた爽やかさを湛える笑顔を浮かべる。
「じゃ、この件はこれで手打ちって事で、乾杯でもしよう。ヴィネルワインの五十年物を開けたんだ」
「遠慮する。貴様なんぞから受けた杯など、何が入っているか分かった物ではない」
「ええ? やだなあ。公正な見届け人殿も見てる前で変な事をする程馬鹿じゃないよ」
 そんな言葉を無視して、黒フードの女は席を立ち、男の言う所の見届け人に目礼した。
「手数を掛けた」
「何、私にとってここは庭だからな。散歩と変わらん」
 そして男には一瞥もくれずに踵を返した黒フードに男は不服そうに唇を尖らせた。
「あーあ、振られちゃったよ。折角美人に囲まれて上物の酒を飲めるいい機会だったのに。……まあ、愛でる花はあなたがいれば十分か」
「用が済んだなら私も戻らせてもらう。貴様のような浮ついた男とサシで飲むくらいならば島の子供たちと遊んでいた方が万倍有意義だ」
「うわ皆してひっどい! いーよもう、一人で飲むから!」
 子供のように拗ねて見せながら、男はワインクーラーからボトルを出し、手酌でワインを注ぐ。と、不意に思い出したように、既に大分離れていた黒フードに対して、人目を全く憚らない大きな声を投げかけた。
「じゃあ、次の機会があればまたね。今度は君の可愛い『身代わり君』も連れて来てよ。迷惑掛けてごめんねって彼にもちゃんと謝っておきたいから」
 こつ、と、女の歩みが止まる。
 黒衣に包まれた女の小さな背が、その質量を何倍にも増したような、そんな錯覚を、椅子から立ち上がった所であった赤毛の女は覚えた。
 ――荒れるなよ。女は胸中で呟く。例えお前と言えども、私の庭で悶着を起こす輩に私は容赦は出来んからな。
 その赤毛の内心の声が聞こえたのかどうかは定かではないが、僅か一呼吸の後には黒フードの女の剣呑な気配は跡形もなく霧散していた。ゆっくりと女がテーブルを振り返る。肩越しに向けられた顔の下半分は、蟲惑的とも言える笑みに彩られている。
「次の機会など金輪際ない事を期待している。貴様の助平中年顔など見ても何の面白みもないからな」
「重ね重ね酷いなあ! こんなダンディなナイスミドルに向かって!」
 ぷんぷんという擬音が似合いそうな膨れ面を浮かべる自称ナイスミドルにはそれ以上視線をくれる事なく、黒衣の女は一陣の風の如く颯爽と歩み去って行った。



 時の流れに取り残されたかのような古ぼけたカウンターバーの片隅で、黒いフードを背に落とした女がちびちびとグラスを傾けていた。揺らめくランプの灯の下に、豪奢な巻き毛を高く結い上げた、眼帯の女の横顔が現れている。
 飴色に艶めいた床に靴音を刻みながら、赤毛の女は眼帯の女が座るカウンターに真っ直ぐに近づいて行く。敵意もない相手に、眼帯に覆われ視野が狭まっている側から接近してゆくという行為には軽い罪悪感を覚えるが、そうせざるを得ない位置に席を取る女が不用意であるとも言える。――別段、己の視野の狭さに一切の不安を感じていないという事なのかもしれない。相手は視野を補って余りある数多くの『目』を持つ女だ。
 隣のスツールに腰を掛け、赤毛の女はカウンター内に視線を向けたまま言った。
「飲み直すのであればワインを馳走になれば良かったものを。心配などせずとも、我が庭で毒を盛らせる等という真似などさせんよ」
「あんな敵に囲まれた場所で飲めるか、酒が不味くなる」隻眼の女が、やはり隣には視線を向けぬまま、少し呆れたような口調で答えた。「店内に奴の配下が何人いたと思う」
「五人までは把握出来たが」
「十二。半分も数え切れていないではないか。一線を退き耄碌したか、女海賊」
 揶揄の言葉に海賊と呼ばれた女は肩を竦めた。確かに、この己の築き上げた金と享楽の楽園は彼女自身にも満足と言う名の堕落を与えていることは否めない。
 声に出して注文せずとも目の前に音もなく置かれた望み通りの酒を赤毛は手に取り、馥郁たる森の香りを舌の上で転がしてから言葉を吐いた。
「お前の手の者もいただろう、一人。カウンターにいた中年の男」
「一人ならば礼儀の範疇だろう」
「後継者はあの男だったのか? 若い男を手塩に掛けて育てていると噂では聞いていたが」
 先日この島で行われた『大会』にて、数々の修羅場を越えてきた女海賊をして瞠目せしむる戦い振りを披露して見せた年若いウォリアー――それこそが、あの優男が『身代わり君』と呼んだ者、この隻眼の女が己の後継者にと見込んでいる男である事は間違いない。そう認識しつつ敢えて愚鈍を演じると、相手はくつくつと喉で笑った。
「流石にあの親父にいつまでも前衛を張れと言う程敬老の念は薄くはないつもりだ。……つまらぬカマ掛けは止せ、今日は本当に連れて来なかった。当事者の一人だが、相当に揉めた一件だからな、いない方が話は早かろう」
 そんなことを嘯く隻眼の女に、赤毛は細めた横目を向けた。人の発言の真意を察し一笑に付しておきながら、自分こそが間違いではないが主旨ではない、無難な返答でやり過ごそうとしている事にこちらもまた気付いているぞと指摘してやると、眼帯の向こうからその視線を察した女は、唇を紅い半月の形に曲げて言い直した。
「今はまだ、駄目だ。今の奴は、あんな食わせ者どもと渡り合うには役者が足りん。……いや、足りなくなったと言うべきか。副隊長に引き上げて、そろそろ政治的な駆け引きという奴も教えてやろうと思っていた矢先であったのに、予定が大いに狂わされた」
 そう言って、女は笑う。それはそれは、楽しそうに。
「この私が六年もの歳月を掛けて取り組んでも半ば程しか攻略出来ず、諦めて降りかけていたゲームが今になって動かされようとは。しかも、ものの数ヶ月、そうと自覚なくしての試行でだ。全く、馬鹿にしているにも程がある話ではないか」
 島内外の様々な情報に通じている女海賊と言えども、全知全能の神ではない。隻眼が愉快そうに語る言葉の意味は、理解の及ばない部分ではあったが、目の前のこの女とて同意を求めている訳ではないのだろう。そのまま、独白に耳を傾ける。
「私は、戦場に於ける裏方とは全く重要事ではないと今迄断じて来ていた。防衛建築など一切行わなくとも、召喚獣など一頭たりとも喚ばなくとも、圧倒的な技量さえあれば敵を制圧する事が出来る。我らの力を以ってすればそれが可能だと、力こそが全てであると、信じて来た。その信念が、ふふ、崩されてしまいそうだよ」
「力がなくば、何も護れん。今のこの島に平和があるのもそれ故にこそだ」
 続いた言葉については女海賊は相反する意見を持っていた。真っ向からの反論に、しかし隻眼は然りとばかりに頷いてみせる。
「無論だとも。私とて、己のこれまでの生き様を否定する気は毛頭ない。ただ、そうだな、接敵には様々な手法があるのだと、この私の裏をかく戦術というものはまだまだこの世にはあるのだと、感嘆したという所か」
 これだから。これだからこの世界は面白い。
 どれだけ走っても辿り着かないゴール。一生を費やしたとしても飽くことのない、飽くことの出来ない果てなき世界。
 気が遠くなる程の生を投げ捨てるドブ川としては、中々どうして上等な物ではないか?
 詠うように言葉を連ね、含み笑いに肩を揺らす隻眼の女の、肘をついて組み合わせた手の中で、グラスの氷が澄んだ悲鳴を上げる。随分と薄まってしまった琥珀色の液体を見下ろし、女はそれを一息に飲み干した。

「――もう十分なのではないか?」

 前触れなく、密やかに掛ける、声。その一言を発した女海賊に、隻眼は僅かに顔を傾けたが、それはまるで意味などない鳥の声でも耳にしたかのような仕草であった。二人の女が並ぶカウンターに、ただ、色褪せた静寂が落ちる。
 永劫続くかとも思われた、意固地な女たちの根競べじみた沈黙に、先に白旗を振ったのは隻眼の方だった。組んだ手に伏せるように俯いて、くくっと喉声を漏らす。
「冗談は止せ。私が笑い上戸である事はお前も知っているだろう」
 額を手に預けたまま、隻眼の女は唇を微かに歪める。常に不敵な笑みを帯び、敵を高らかに嘲り笑って悠然と戦場の真っ只中を歩んで来た女が、今口元に浮かせているのは泡沫のような儚い微笑だった。常に強く在る事を自らに課す女の、旧知ではあっても身内ではないからこそ見る事の出来る、貌。
「少し前までは、いい加減私も笑い疲れたと思っていたのだが」
 しかし、それも一瞬。それはまさしく気泡の如く見る間に解け消えて、女は月夜に咆哮する狼の如く顔を上げた。血のように紅い唇に、魔物の王に相応しい、獰猛な笑みを佩く。
「先程も言った通り、頼りの『身代わり君』がああも色ボケしているようではな。あの優男に倣うのは癪だが、部隊長たるもの部下の面倒を見るのも仕事の内だ。せいぜいもう暫くの間は、獣の群のボスとして頑張っていてやるとするさ」
 ――窓もない世俗から隔離されたかのようなバーに、風が吹いた錯覚を赤毛の女はふと覚える。これは恐らく女海賊が慣れ親しんだ海風ではなく、この隻眼の女の住まう魔の地の血生臭い風。
 女の生きる唯一の証。女の逆鱗に触れた男の一言。
 女の笑う意味。
 眼帯の女は綽然たる仕草で新たなグラスを手に取り、傾ける。赤毛の側からは、女の隻眼が今どこに向けられているかは窺い知る事は出来ない。失われた目と共に、最早見ることの叶わぬ無明の世界を眺めているのかも知れない。そこから聞こえ来る、無音の声に耳を傾けて。

 ――笑え。
 ――笑え、――。
「……ああ、笑うとも」
 隻眼の女が承ける言葉の泡は、隣席の女の耳にも届かずに、遥かなる時の向こうに弾けて消えた。

【Fin】

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