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あの時、あの戦場で、


 冷たい風が肌を刺す深夜、自宅に戻り玄関のドアを開けた途端、図らずしも暖かな光と空気に出迎えられて、俺は目をしばたいた。
 普段ならばいつもミナがこうやって、部屋を暖め夕飯を拵え、俺の帰宅を待っていてくれるのだが、今の時刻はとうに真夜中の十二時を回っている。今日は雑務が長引きそうだから先に寝ていてくれと連絡を入れておいたのに――何故あの部隊は事務屋ではなく戦闘屋の俺にそういう仕事をさせるのだと常々疑問ではあるのだが――、彼女はまだ起きているのだろうか。
 玄関から居間までの短い廊下を歩きつつ、寒い中帰宅する俺を気遣って暖炉に火を残しておいてくれたのかとも考えたが、ランプまで点いているとなると彼女が起きていると考えた方が妥当だろう。
「ミナ?」
 呼び掛けながら居間に足を踏み入れて、俺はすぐに事態を把握した。
 ソファの肘掛に凭れてすうすうと気持ちよさそうに寝息を立てる少女の姿が真っ先に目に飛び込んで来たのだ。
 恐らく、いや、間違いなく、彼女は俺をいつも通りに出迎え労う為に起きていようとしてくれたのだ。眠い目を擦り擦り頑張っていてくれていたものの、容赦なく襲い来る睡魔の前に抵抗空しく屈して今ここに至るという所だろう。
 なんて可愛い人なのだろうか。今すぐその小さな身体に飛びついて少々涎の出ている愛らしい唇に貪りついてやりたい衝動に駆られるが、無垢な赤子のように眠る少女の寝込みを襲うのは憚られた。しかし、いくら暖かい部屋とはいえこんな場所で転寝をさせていては風邪を引かせかねない。折衷案として、普通に声を掛けて起こしてみて起きないようなら抱き上げて寝室に連れて行こう、という至極常識的な辺りに行動計画は決定した。
「ミナ、こんな所で寝てたら風邪引くぞ」
 声を掛けながら、俺は少女の血色のよい頬に指を伸ばす。しかし指先が、とろける程に柔らかいそこに触れる直前、俺は微かな躊躇いを覚えてその手を止めていた。
 何か特別な反応があった訳ではない。ミナは俺の声にも気付かずに夢の世界に耽溺し続けている。そして然程強い強制力が俺を押し止めた訳でもない。あの夜の、撮影用クリスタルを手に取るか否かで悩み抜いた彼女に比べれば、この葛藤は葛藤とも言えない程にささやかな物だった。
 ただ単に、常に俺の意識の片隅に突き刺さっている小さな棘が、たまたまこの時顕在化しただけに過ぎない。
 俺には、彼女に触れる資格があるのだろうか――?
 この疑問……否、反語と言ってもいい、自身の中では既に決着のついている思いは、予てより――彼女に想いを告げてから今に至るまで、一時も消えることなく俺の心中の一角を占めている物だった。
 けれども普段は卑怯にも、自分が彼女を心から望んでやまない事を、そして彼女がそれを許してくれている事を免罪符として黙殺している。しかし今はどうしてか、己が手で彼女を穢す罪悪感の方が勝ってしまい、俺は彼女に触れることなく手を下ろした。それでも彼女の傍にいたい欲求にはどうしても抗うことが出来ず、彼女の横に回ると、ソファを揺らさないように注意してそっと彼女の隣に腰を下ろした。
 視線を彼女のいたいけな寝顔に向ける。その表情は、何の心配もなく安らいでいて無防備だ。彼女を手酷く傷つけたあの事件――エルソードの陰湿な男の酷くつまらない、けれども俺をいまだかつてない程煮えくり返らせた下劣な策略を経ても、彼女の心から清らかさが失われる事がなかった事を、実在するとも思っていない神を今だけ信じて感謝する。
 あれは俺にとって痛恨の一件だった。敵に彼女を俺のウィークポイントとして認識され、危害を加えられる可能性はもっと危惧して然るべきであったのに、むざむざと彼女の喉元にまで毒牙を突きつけられる羽目になったのは、ひとえに俺の失態だ。件の男に科した熾烈な報復が知れ渡り、同じような真似をする馬鹿がもう二度と現れない事を祈るばかりである。――この《ベルゼビュート》の報復や制裁が殊更厳しいのは、単に部隊長の残虐趣味の表れではなく、牙を剥く相手を決して許さない態度を以って不利益を未然に防ぐ意図があっての事だ。
 もう二度と、彼女を危険に晒したくはなかったのに……
 膝に肘を突いて手で顔を覆い、己の罪を悔いる。心中に蘇るのは今回の件ばかりではなく、最も原初にあった出来事だ。

 ――俺は何故、あの時、あの戦場で、彼女に声を掛けてしまったのか。

 彼女と巡り会う事が出来たのは、俺にとっては紛れもなく人生で最大の幸運だった。これを、天の配剤とは言わないだろう。報われるべからざる人間が報われるのは。ただの偶然。けれども、それが俺の全てを変えた。
 ミナというかけがえのない女性を得て、愛し愛される悦びを知って、初めて目の前に広がった、心穏やかで彩りに満ちた日々。彼女と出会う事がなければ、俺はきっと今も自分が満たされていない事にすら気付かずに、ただ無味乾燥に生きていた。
 だが――、彼女にとってはどうだったのだろう。
 限られた選択肢の中から、俺の元に来る事を選んでくれたのは彼女自身の決断ではあったけれど、彼女の無限の可能性があった人生にそんな制限を設けてしまった張本人は俺だ。勿論その事で俺を恨むような彼女ではない。ミナは、目の前にある状況をあるがままに受け入れ、自分に出来る範囲の中で精一杯に最善を尽くそうと努力する、慎ましくいじらしい性根の持ち主だ。
 俺が、彼女と接触さえ持たなければ。
 彼女は命を狙われる事もなく、国も家族も友人も捨てる羽目にならず……いずれ、平穏な世界に生きる普通の男と結ばれて、平凡で何の危険もない、彼女の望む穏やかな幸せを掴む事が出来ただろう。俺などよりも、ずっと彼女を幸せに出来る男はいくらでもいる筈だ。
 けれど。
 俺以外の男の腕の中で幸せそうに微笑む彼女。その姿を想像しただけで、胃液が逆流するような感覚を覚える。――嫌だ。彼女が、ミナが、俺以外の男のものになる事など到底許容出来ない。ミナが俺を裏切ろうと、俺に殺意を抱こうと、俺は全て受け入れると宣言した。その気持ちに偽りはないが――その裏切りだけは駄目だ。きっとその時だけは、俺は彼女の幸せよりも自分の欲望の方を優先してしまう。彼女を他の男に奪われるくらいならば、俺は迷わず彼女を捕らえ、誰の目にも触れない場所に永遠に閉じ込めておく事を選ぶだろう。それはきっと、彼女にとっては死よりも辛い仕打ちに違いない。
 彼女は幸せになる権利のある人だ。なのに。
 俺は、彼女が当然手にするべきであった幸福の芽を摘み取って、踏みにじった。そしてその悪辣な己の所業を自覚しても尚、彼女の未来を侵し奪おうとしている。
 俺はソファの背凭れに手を置いて、ミナを真上からじっと見下ろした。睡眠の深い彼女は、依然変わらずこんこんと眠り続けている。先程は触ることの出来なかった少女の頬に、俺はゆっくりと手を伸ばし、触れた。……離れられない。何もかもが愛おし過ぎて。どれだけ、触れてはならないと自分を戒めた所で無駄なのだ。とうに彼女は俺にとって、それなくしては最早生きられない水や空気……否、分かつことの叶わない自分の半身ですらあるのだから――
 ――何が自分の半身だ。自身の醜悪かつ身勝手な思考を嘲り嗤う。何が、愛おしい、だ。
 これは、こんなものは、愛ではない。ただの妄執だ。今まではたまたま、俺の利己的な欲望と彼女の廉直な愛情の向く先が同じであったからこそ手を取り合って歩んで来られただけで、自分の欲求を満たす為には相手の幸せを踏み台にする事を厭わない唾棄すべき我執が、彼女に満ち満ちる愛という美しい感情と並べ置いてよいものである訳がない。俺の為ならばと歯を食いしばり涙を流して、幾度も決別を覚悟してくれた彼女の深い愛情とは全く次元の違う、浅ましい執着にしか過ぎない。
 けれども、そうと分かっていても……手離せない。俺などが触れてよい人ではないのに。ミナという禁断の果実の味を知ってしまったからにはもう後戻りは出来ない。
 暗い情念に囚われながら、冷たく冷え切った指先で彼女の温かな素肌を穢す。
 それでも尚穏やかな表情で瞼を閉じるミナを暫くの間見つめてから、俺は少女の肩に額を寄せた。項垂れるように――救いようのない罪深き者が、それでも尚救済を求めて聖女の前に拝跪し、見苦しく許しを乞うように。
 俺は、自分でも意識しないまま、言い訳じみた懺悔を紡いでいた。
「……ごめん。あの時、俺が、君と出会いさえしなければ、君は何も失う事はなかったのに。恐ろしい思いをする事も、危険な目に遭う事もなく……俺が幸せになる為の対価を君が払う事だってなかったのに……」
 ミナを傷つける者は許さない。
 閉じた目の裏に、ゆらりと幻影の水面が現れた。その中に映り出る、黒髪黒目の男の顔を見て強く思う。彼女を穢すこの忌まわしい男の喉首を掻き切ってやりたい。そんな衝動に駆られた――その時。
 聞こえる筈のない声が、聞こえた。

「違うよ。なんか、色々違う」

 間近で、極小の音量で囁かれた声に、俺は大きく震えた。弾かれたように、縋り付いていた少女から身体を離す。蒼白になりながら見下ろすと、ミナのつぶらな双眸が、夢うつつの境を彷徨うような曖昧さで俺を見ていた。
 聞かれた。酷く情けない愚痴を聞かれてしまった事に、俺は動揺しながら僅かに唇を開いたが、すぐさま顎を引いてそれを閉ざした。……俺が不注意だったのだ。経験上、熟睡しているミナは頬をつまんですら起きないので、目を覚ます事はないと勝手に思い込んでいたが、人の耳元でぶつぶつと呟いていたのだから。彼女でなければ目を覚まさない方が余程な状況だ。
「……ごめん、起こしちゃって」
 努めて冷静な声音と、照れ隠しのような、少し恥ずかしい事を聞かれただけのような何でもない微苦笑を、もしかしたらまた無表情になっていたかもしれない顔の上に取り繕ってミナに告げると、彼女は俺を見つめるとろんとした瞳にあえかな苦笑を溶かし込んだ。
「起きるよ。クォークが辛い思いをしてるなら、どんなに深い眠りからだって」
 柔らかい――けれども俺の言い繕いを簡単に見透かした視線で、言葉で、俺を射抜く。目を見開く俺に、ソファに半ば寝転がるような恰好のままミナは両手を伸ばし、小さく温かなその手で俺の両頬を挟んだ。
 しっとりと、眠りから覚めやらぬ熱を持つ指先が俺のこめかみを撫で、髪を軽く梳き、彼女の顔により確かな笑顔が浮かぶ。そうしてからミナはまたぽやんと何かを考えるような目をして、呟きを落とした。
「えっと……なんだっけ。ああそう、前に《ベルゼビュート》で私の抹殺命令が出た件だけど、それ、クォークの所為じゃないよ。クォークが何もしなくても、早晩私は命を狙われる事になってたの」
「……え?」
 出し抜けに、かつさらりと言われた内容の重要性がすぐには把握出来ず、俺は思わず呆けた声を出した。そんな俺の困惑を他所に、ミナはあくまでも自分のペースを保ったまま、のんびりと告げる。
「ちょっと前にね、部隊長さんとお茶してる時に聞いてみたの。私の殺害命令、何で出したのって」
 断じてそれは茶飲み話で出すような話題ではない気がする、と、ついいつもの調子で突っ込みそうになってしまったのは、柔らかな彼女の気配に接しているうちに気分が凪いできつつあるからだろうと自覚した。……しかし、突っ込みついでに思うが……そんな自分を殺そうとした首謀者と茶飲み友達になる事自体がやはり一体どうなんだろう。勿論、今現在はあの女がミナに殺意を抱く理由もないし、俺自身は何の心配もしていないが、実際に殺意を向けられた側であるミナは割り切れる物ではないのではないだろうか。それとも、実行役を買って出た俺を許せる程に懐の深いミナにとっては大した事でもないのだろうか?
 いや、しかしそんな事よりも。もっと重要な話の本筋に意識を戻す。俺は関係ない、とはどういう事だろう。俺が接触したが故にミナの危険性が早々に浮き彫りになったというだけで、本質的には俺の所為ではないとでも言いたいのだろうか。心優しいミナならば使いそうな論法だ。
 様々な事に考えを巡らせながらミナを見ていると、彼女はおかしくて仕方がないとでも言うかのようにくすくすと笑った。
「クォークは頭はいいけど真面目さんだからなぁ……やっぱり気付いてなかったのね。あれ、《ベルゼ》の命令としては物凄く変な内容なのよ。当時、私は《ベルゼ》の事も部隊長さんの事も全然知らなかったから、疑問に思う事もなかったけれど、今ならどれだけ不自然な命令だったかがよく分かる」
 不自然、と言われても何がそうなのかがぴんと来ない。要注意人物を優先的に殺害するという命令は《ベルゼビュート》内に於いても別に前例のないものではない。あれは、不愉快ではあったが正式な命令だった。
 不可解な表情を崩さない俺に、ミナは教鞭を模す形で人差し指をちょこんと立てて言葉を続けた。
「だってそれ、『裏方千人長』を殺せっていう命令でしょう? 裏方でしか活躍出来ない兵士なんて、《ベルゼビュート》の邪魔になんて一切ならないじゃない」
「でも、君の存在はネツァワルにとって確かに脅威ではあったし……」
 部隊長は『裏方千人長』がいかにネツァワル軍の作戦遂行の障害になってきたか、わざわざ資料を準備して説明した。それは、その対象がミナでなければ俺とて納得せざるを得ない内容だった。それを思い出して言うと、ミナは一つ頷いてから首を傾けて俺を見上げた。
「うん、ネツァワル軍の邪魔は確かにしたかもしれない。クォークは部隊だけでなく全体的な利益で物事を考える人だから、それでごく当たり前に納得しちゃったのかなとは思ったけど……。でも、私が指摘するのもなんだけど、《ベルゼ》なのよ? 《ベルゼビュート》が、そんな自分たちに直接関係ない軍全体の利益を気にする?」
 何かしら反論を試みようと軽く息を吸い込んで……そこで止まる。
 ……言われてみればそうだ。うちの部隊は、身内さえよければいい、を地で行く部隊だ。わざわざ他の部隊の邪魔をしたりはしないし、余裕があればフォローもしない事もないが、基本的には自分たちで切り開いた我が道をせっせと自分たちだけで行く方針を取る。
 故に、軍全体の勝敗もそこまで気にしない。戦況を優勢に運びながら、不注意でファイナルバーストを食らい本陣に大打撃を受けて敗走に追い込まれる事も稀にはあるが、自分たちにも一定の責任があるにも関わらず、裏方を怠った味方に毒づいた挙句、最終的には戦闘自体は楽しかったしまあいいか、で済ませてしまう、何と言うか控えめに言って屑の集まりである。……かく言う俺も裏方は殆どやらないので同罪ではあるが。
「じゃあ、何で……やっぱり俺に対する面当てだったのか?」
 いかなあの女でも嫌がらせで抹殺命令は下さないと思っていたのだが……。首を捻りながらも最も疑われる可能性について述べると、ミナは眉間に皺を寄せて、自分のこめかみに立てた人差し指を当てた。
「クォークって素で結構酷いよね。部隊長さんの事、一体なんだと思ってるの」
「他人の不幸を蜂蜜代わりにパンケーキに掛けて食う悪魔」
 即答すると、ミナの眉間の皺がより一層深くなった。深く苦悩している様子ではあったが、「……まあトラさんも仲間に酷い事結構言ってたし、兵士の友愛の表現としては普通よね……」と何やら自己完結してから視線を上げた。
「それもないわ。部隊長さんは悪戯好きだけど、決定的に身内を傷つけるような真似はしないもの」
 俺は反射的に唇を開きかけるも、そこから言葉が出てくる事はなかった。ミナが自明の事実のように告げたそれは、素直に肯定したい内容ではないものの、自信を持って反駁に用いる事の出来る材料も瞬時には見つからなかった。
 ソファの肘掛に凭れた格好だったミナは、身体を起こしてスカートを少し調えながら、ゆったりと座り直した。
「ネツァワルの他の部隊でね、あの件の少し前に同じ命令が……『裏方千人長』殺害命令が出されたんだって。部隊長さんは、ファイナルバーストを連続で阻止された逆恨みだろうって言ってたけど、本当の理由は分からない。けど、少なくともクォークは全然関係ないって事だけは確かだわ」
 初めて聞く話に、俺は思わず目を瞠る。そんな事は、部隊長は一言も言っていなかった。
「部隊長さんはその『裏方千人長』が、クォークが構ってるエルソード兵だと知って、どうしようかと考えた末に《ベルゼ》で同じ命令を出す事にしたの。そのエルソード兵は《ベルゼ》の獲物だから手出しは無用だと、他の部隊を牽制する為に。その間にクォークの耳に入れて、クォークが私に警告するなりなんなりの対処を取れるように。……まさかクォークがエルソードに渡ろうとまでするとは部隊長さんも思わなかったそうだけど……」
 ミナは再度口元に手を当てて、くすくすと笑声を漏らす。その綻んだ顔のまま、彼女は少し上目遣いになる形で俺を見た。
「……回りくどいやり方だけど、流石の部隊長さんも、ネツァワル軍の利よりもエルソード兵の利になるような真似をする訳にはいかないから、これが彼女の立場で最大限クォークの為に出来る行動だったんじゃないかな。……クォークの所為じゃないどころか、クォークがたまたま私に手を差し伸べてくれたお陰で私は助かったのよ。部隊長さんが黙ってたから合わせてたけど、もっと早くに言ってればよかったね。ごめんね」
 そんな風に、ミナは小悪魔めいた悪戯っぽい口調で謝罪してから、目元をふんわりと和ませる。柔らかな気配を漂わせる少女は、その雲間から差す光のような淡い笑顔の向こうで、ふと少し迷うような様子を見せた。どうしたのかという問いかけが喉元まで出たが、熟考しているようでもあったので、そのまま彼女の考えが纏まるのを待っていると、やがて彼女はやや睫を伏せ、何か一言一言しっかりと確かめながら言葉を紡ぎ始めた。
「多分……クォークが、自分を酷く罪深いものであるかのように思い込むようになってしまったのには……ずっと根っこの深い所から来る理由があって、とても言葉一つで取り除いてあげられるようなものじゃないとは思うんだけど……、クォーク、あなたは、決して穢れた存在なんかじゃないわ」
 ゆくりなくも俺が何の疑いもなく信じ込んでいる事実を全否定されて、俺は目を見開いた。ミナの小さな手が、俺の手のひらに重ね合わされ、指の間に細い指が滑り込んできて、きゅっと掴む。彼女は二人の手の繋がりに視線を落とし、何故か二、三度もにもにと感触を確かめるように握り直してみてから、満足が行ったように口元を微笑ませ、瞼を上げて俺に視線を戻した。
「あなたが、過去にどんな経験をしてきたのかは分からない。仮にそれを知っても、私じゃあ、本当の意味であなたの苦しみを理解する事は出来ないかも知れない。私は、ごく当たり前のようにお母さんや集落の人たちに大事にされて育ってきた、何の悩みもない子供だったから」
 彼女の家は母子家庭であったと聞く。けれども彼女自身の言う通り、多くの人々に見守られ、愛情を惜しむことなく注がれて、善良な手を差し伸べられて育ってきたのだろう。太陽の光をたくさん浴びて伸び伸びと育った若木のような気性を見れば、それは一目瞭然だ。
 彼女の体温が俺のそれと溶け合うように、じんわりと流れ込んでくる。彼女の清らかさを俺の手が無理矢理に吸い上げているような錯覚を覚えたが――今の俺は、こうして彼女と繋がり合っている事が、何よりも正しい事のように思えた。
 彼女は続ける。
「でもね、これだけは言えるよ。もし、クォークが過去の自分を好きになる事が出来なくても、私は好きになる。それがどんなあなたであったとしたって、私にとっては全部大切なあなただから。今のあなたを、……強くて、優しくて、繊細で、こんなにも暖かな手をしたあなたを形作るかけらであるのなら、私にとって愛すべきものでない訳がないから」
 限りなく透明な、どんな宝石よりも美しい笑顔が迷いなく、俺に向けられる。熟れた果実のような瑞々しい唇が、その一言を囁いた。
「忘れないで、クォーク。部隊長さんも、部隊の皆も……アイラさんも、サイトさんも、勿論、私も。皆、クォークのことが大好きだよ」
 俺は暫く声を出す事も出来ずに、呆然とした体で彼女を見つめていた。すぐに明確に思考を纏める事が出来なかったのは、きっと彼女の告げた事の真相が……彼女がこのネツァワルに来る事になった経緯の真実が余りにも想定外であり過ぎた、それだけに過ぎない……筈だ。そう信じたい。ただ、にこにことして俺を見上げるミナの目に、今自分の顔がどんな風に映っているのかという想像に耐え切れなくなって、俺は今更ながらではあったが、空いた方の片手で顔を覆った。きっと物凄く、間抜けで酷い顔だと思う。
 しばしの間感情の置き所に戸惑ってから、やがてひとまずの落とし所を見つけて、顔を覆っていた手を、額から前髪に滑らせて掻き上げながら呻いた。
「それにしても、もうちょっと穏便なやり方があったと思うけどな……」
 苦々しい、という表情をどうにか眉間に作りながら回想する。今の話が真実であるとするならば――あの命令が下された時の俺の凄絶な葛藤は……俺が、最後の最後でミナを殺す事が出来ずに逃がしてしまうということは、最初から部隊長の予定通りだったという事ではないか。そりゃあ処罰も平手打ち一発で済ます筈だ。あの女の手のひらの上から一歩も出ることなく、くるくると踊り回っていただけだったのだとすれば、あの時のあの女は逆に笑いを堪えるのに必死だったくらいだろう。
 最悪だ。そして最低だ。あの性悪狐め……
 僅かに唇が動いて、部隊長に対する呪いの言葉を紡いでしまう俺を、ミナは口元に手を当てて楽しそうに笑う。そこ。笑う所じゃない。
 むうっと拗ねた顔をしてミナを見やると、彼女は笑いを収める努力を余り結実していないながらも続けつつ、再度俺の髪に手を伸ばした。今度は俺の頭の天辺を、優しくかき混ぜるようにして撫で回す。生まれてこの方そんな事をされた経験がなかったので、一瞬、それがどういう意味合いを持つ仕草なのか分からなかったが――これはあれだ。『なでなで』若しくは『いい子いい子』という奴ではなかろうか。
 こんな時に一体どういう顔をすればいいのか皆目見当が付かず、俺は二、三度ぱくぱくと魚のように口を開閉させてしまってから、困り果てて目を閉じた。耳殻の上の方までが熱を持って、じんじんと痺れているような感じがする。そんな慣れない身体感覚を持て余してされるがままになっていると、瞼の向こうでミナの、先程とは少しトーンを変えた、明るく弾むような声が響く。
「あ、それともう一つ。私、前にも言ったけど、ネツァワルに来たのは自分の意思なのよ?」
 その声に思わず瞼を持ち上げ、目前の少女を見た俺を、彼女の物柔らかな眼差しが真っ直ぐに見つめ返した。どこまでもたおやかな、けれども柳枝のようにしなやかで強い視線が俺を包み込む。
「状況に流されてじゃない。取れる手段なら他にもあった。エルソードを捨てたくなかったら兵士を辞めればよかっただけだもの。……本当の事を言えば、命を狙われていた事すら関係ないの。あなたの所に行ける手段があるって知って、いても立ってもいられなくなって、あなたの迷惑なんてちっとも考えもせずに来ちゃったんだから。……だから、」
 そこで彼女の唇から、言葉が途切れる。その後に続く台詞は、ごめんね、である筈だった事に俺は気付いていた。何故ならば、それは――相手の事情を斟酌せずに、自分の欲望に身を任せて傍にいるのだという罪の意識は、俺の想念と全く同一であったからだ。
 けれども彼女は、俺が声に出さずにはいられなかった罪悪感を口の中に閉じ込めて、自分の力で溶かし切り、俺の耳に甘やかに響く言葉へと昇華させた。

「……だから私は、今、凄く幸せなんだよ」

 ――誰よりも、俺など足元にも及ばぬ程に、強いひと。
 彼女は。エルソードとネツァワルという壁すら越えて来た彼女は、またこうして、俺が越えられなかった壁を超えて、俺の心に致命の一撃を齎す。
 俺には人を幸せにする事なんて出来ない。出来ないと、そう信じていた。この命を投げ打って彼女を護り抜く事が出来るなら、それが彼女の愛情に報いる唯一の方法だとすら思っていた。――けれど彼女は、幸せだと言った。俺が彼女に抱く気持ちは愛ならざる物に違いないのに、俺は人から受けていた温情に気付きもしない愚か者なのに、……彼女に触れる資格なんてない穢れた手を持つモノに過ぎないのに、共にある事それだけで、幸せなのだと言った。
 彼女の華奢な肩に腕を回して、その小さな身体を掻き抱き、頭を垂れる。

 ――耳の奥深くで囁き続ける声が聞こえる。重たい粘性の沼から滲み出る、泥のようにやわらかく、血のようにあたたかな、声。
 部隊に入るよりも昔の、今のどの友人と出会うよりも前の、古い記憶。頭の芯にじくじくと染みる鈍い痛み。皮手袋を嵌めた手で触れるような曖昧な感覚。剣と死体の冷たい生ぬるさ。拭い得ぬ血臭。無表情の『笑顔』。
 ミナと出会う以前の俺がただ一人、剣を捧げた――女。

 ****なさい。
 ****なさい。
 目を閉じて、何も迷わず、何も考えず、ただ私の声だけに耳を傾けて。
 そうすればもう二度と絶望を覚える事はない。もう二度と、過ちを犯す事もない。
 私があなたに居場所をあげる。
 私だけがあなたを愛してあげる。
 だってあなたは大切な、私の****なのだから――……



 ――鼻腔に届いたミナの甘い香りが俺を闇から掬い上げる。
 背筋を這い回る見えざる手から逃れるように、今、目の前にある現実の確かさに縋りつく。
 ミナが心を砕いて癒そうとしてくれる、その想いは本当に嬉しく思うけれど、俺の中に巣食う氷塊はあまりにも巨大であり過ぎて、これ以上彼女を近づけてはならないと耳障りな警鐘を鳴らし続ける。
 それでも――
 暗夜を照らす灯火のように、濃霧をつんざく霧笛のように、俺を正しく導く標。彼女がいれば俺はこの闇からいつか逃れ出ることが出来るのかもしれない。このまま歩み続ければ、彼女のいる光ある世界に、辿り着くことが出来るかもしれない。
 膝を抱えてうずくまり、ただぼんやりと硝子玉の瞳で過去を見つめる事しか出来なかった俺を、彼女が少しずつ、少しずつ変えていく。これまでも、これからも。彼女が無心に与えてくれるその愛情に、応えたい。
 小さな手を取る。彼女が微笑む。その唇にキスをする。
 俺を暗き深淵に引きずり戻そうと執拗に絡みつく、凍れる茨の感触はいまだ消えないけれど、それでも、素直に思えた。

 俺は、今、幸せだ。

 あの時、あの戦場で、
 君に逢えて、よかった。

【 Fin 】

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