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船上にて


「だーれだ」
 と後ろから、忍び笑いの気配を湛えた声がして、胴にぐるりと腕が回された。甲板の手摺に凭れかかる俺の背中にこつんと頭らしき感触が押しつけられたのを感じて、反射的に振り向こうとすると、
「こっち向いちゃだめー。だれだーにならないー」
 くぐもった笑い声で制止される。こっち向いちゃ駄目も何も。俺にわざわざこんな事をしてくる女の子なんて、このメルファリア広しと言えども一人しか知らない。鳩尾の辺りで組まれた小さな手に俺は自分の手を重ね、そこから細い腕をつつつと伝って撫で上げて、後ろ手にむにっと二の腕をつまんだ所で、うん、と頷いた。
「この二の腕の感触はミナだな」
「ぎゃああ!」
 想定以上に凄惨な悲鳴を上げて、俺の身体に巻きついていた腕がぱっと離される。笑いを堪えながら振り向くと、両腕をホールドアップした格好で飛び退っていたミナと目が合った。
「なんてことするの! クォークの痴漢!」
 下ろした腕で胸を隠すように両腕を身体の前で交差させて(ちょっと待て、そこは触ってないぞ)、ぷっくりと頬を膨らませる抗議の顔があまりにも可愛くて、俺は手摺に身を預けながら声を上げて笑った。笑われたミナは不服そうにむーと唸りながら頬に蓄えていた空気を吐き出して唇を尖らせる。唇の隙間からぷすーと息が漏れ、丸い膨らみが引っ込んでいくのが面白い。訓練の行き届いた部隊が号令一つで即座に陣形を変えるような、実にスムーズな形態の変移だ。
 頬の膨らみは引っ込んだとはいえ怒った顔つきには変わりのないミナに、笑ったまま手招きすると、彼女は存外素直にとことこと寄って来た。すぐ傍まで来たミナを捕まえて、手摺の向こうの大海原を見せるように立たせ、さっきとは逆に俺が彼女の後ろに陣取る。彼女の身体の両側から腕を伸ばして手摺に手を置いて、ついでにミナの頭の上に顎を置いた。少し前屈みになる体勢に、高さが誂えたように丁度いい。
「夕日、綺麗ねえ」
 水平線が彼方にまで丸く広がる雄大な海の景色にか、あっさりと機嫌を直した様子で、ミナは頭上の俺の顎を鬱陶しがることもなく感嘆の声を上げた。兵士であれば戦場に行き来する船旅で海など飽きる程に見慣れているし、エルソード育ちのミナならば尚更であろうというのに、それでも彼女の声には心から感じ入っているらしき気配がある。入射角の浅い赤い陽光に、黄金の粒を撒かれて水面を輝かせる夕暮れの海を眺めやり、俺も目を細めた。一人で見る分には別段の価値も感じられない退屈な風景だが、彼女と一緒に見るならば、成程、感銘を覚える絶景かもしれない。
「こんな風景よりも、ずっと君の方が綺麗だよ、ミナ」
「えぇ……?」
 ロマンチックな光景に乗じて女心の斟酌に果敢にチャレンジしてみた俺に、何やら困惑した、微妙な声が返ってくる。
「あれ残念、お気に召さない? ミナはそういう台詞好きかと思ったのに」
「だってお世辞か嫌味に決まってるもの、自分に言われるんだとしたら」
 そう来るか。まあ、謙虚でミナらしいと言えばミナらしい。俺は後ろから、彼女の柔らかい髪をひと房指先で掬い上げて、さらりと指の腹を滑らせた。
「そんな事ない。ミナは綺麗だ」
 顎の下の頭が、少し動揺したようにこちらを向きかけて、思い止まったらしく海に向き直る。
「嘘ばっかり言ってっ」
「嘘じゃないって」
 怒ったような――いや今度は多分照れているだけだが――声を発するミナの頭から顎を上げて、細い肩を掴み、こちらに振り向かせる。栗色の髪に縁取られる彼女の顔が赤いのは、夕日の所為ばかりではあるまい。おとがいに親指でそっと触れると、ミナは怯えたようにきゅっと目を閉じた。その顔がまた、愛らしい。……あまりにも無防備に愛らし過ぎて、嗜虐心に似た危うい感情が身体の奥底から湧いてくる。
 ねえ、ミナ。君は知らないだろうね。決して分からないだろう。こんな俺ですらただひたすらに優しく包み込む、真っ直ぐで正しい愛情しか持たない君には。
 心の底から君を大切にしたいと思っているのに、その反面で君の全てを滅茶苦茶にしてしまいたいとも思っている俺がいる事を。君を暗闇の中に閉じ込めてしまいたい。俺以外の誰もその眼に映さないように。君を鎖で繋いでしまいたい。君がどれだけ嫌がっても、俺の傍から離れられないように。
 俺はミナの肩を強く引き寄せる。ずっとこの腕の中だけに抱き留めておきたい。君の身体が俺以外の何も感じる事のないように。
 何の不安も恐れもなく、母猫を慕う子猫のように俺を信頼しきって背に腕を回しているミナの耳元に、唇を寄せ、そっと囁く。
「ミナ。前に俺が言った事、覚えてる?」
「……言った事?」
 きつく抱き締められた窮屈な体勢で視線だけを持ち上げて、ミナが問い返してくる。
「君を抱きたいって言った事」
「え、う、うん?」
 抱きたいという表現が慣用的に何を意味するのか分からなかったらしいミナに、あの時は大分素っ頓狂な返答をされたが、その勘違いは結局正してはいないので、恐らく今も同じように考えている筈である。つまり、今抱き締めてるじゃない、等という事を。
 あの時はまあいいかと思えたその可愛らしい勘違いが、今の俺には許せなかった。低くひそめた声音で、告げる。
「どう言えば君は分かるのかな。君とセックスしたいって意味なんだけど」
 俺を見上げる瞳が俺の目に釘付けになったまま一瞬呆然として。
 びくっ――と、腕の中の身体が震えた。
「え……、な、」
「何だ、これは分かるんだ。良かった。これですら何それとか言われたらもう実地で教えるしかないかって思ったよ。本当に何か君、語彙偏ってるな」
 ミナが言葉にならない言葉を上げているうちに、俺は笑い声を喉元で噛み殺しながら畳み掛けるように言った。ミナの顔が次第に夕日よりも尚赤く火照って来る。おどおどと視線を彷徨わせながら、慌てた素振りで俺から逃れようと彼女は細腕を突っ張るが、俺は固く彼女を掻き抱いて、それをさせなかった。
 ミナはしばらく俺の腕の中で無言でもがいていたが、やがて力比べで勝機はない事に思い至ったらしく、ふっと力を抜く。
 ――その様子は、狼藉を働く暴漢の前に、ついに抵抗の気力を失った哀れな娘のように思えて、俺の理性を否応なしに呼び戻した。
 ……。
 …………。
 …………一体何をやってるんだ俺は。
 我に返った俺は自分の性犯罪者顔負けの言動にただ絶句する事しか出来なかった。さあっと音を立てるような勢いで、頭から血の気が引いていく――が、多分こういう時の俺は傍目には全くの無表情なんだろう。衝動の赴くままに抱き竦めていたミナの肩から、ごくゆっくり腕を退け、そっと手のひらだけを触れながら恐る恐るその表情を窺う。
 少し俯き加減になっているミナの表情は、前髪に隠れてよく見えない。唯一見える口元も横線を引いたように引き締められていて、そこから何かしらの感情を窺い知る事は出来なかった。
「……ミナ」
 とりあえず声を掛ける。でも何て言えばいいんだ。血迷いましたごめんなさい、か? いやその通りなんだが。
 内心で激しく動揺しながらミナを見下ろしていると、唐突に、ミナががばっと顔を上げた。眉の間に泣き顔寸前のきつい皺を寄せ、上目遣いで見つめてくる様は強く俺を糾弾する物のように見えて、俺は情けなくも怯んだ。
 ミナの唇が開かれ、恐らく痛烈な非難であろう言葉が飛び出す。
「そんなダブルミーニング分かんないわよっ!」
「ダブルミーニングとは違うと思うけど」
 ――何か全然予想していない所を非難された。想定した物とは全く違った言葉なのに即応出来たのは日々の部隊会議での舌戦である程度鍛えられているからだろうか。……いやそんな事はどうでもいいんだが。
「……ミナ、ごめん。脅かすような事を言って。嫌なら何もしない」
 ミナから嫌悪の言葉を突き付けられなかった事に、俺は現金にも安堵して、彼女の頭をそっと抱き寄せた。今度はもう彼女を拘束する事もなく、軽く手を置く程度にそうすると、ミナはぽふんと俺の胸に額を預けてきた。
 ゆっくりと、髪を撫でる。日向で干した布団のようにふわふわとしていていい匂いのするミナの髪。
 と、その後ろ頭が、俺の胸元に顔を伏せたまま、小さくふるふると左右に振られた。
「……、違うの。嫌って意味じゃ……ない……」
 今にも消え入りそうな微かな声でそう囁かれて、俺は息を呑む。ミナの髪を撫でる手が止まった。今度こそ俺の動揺はミナにも伝わってしまったようで、ミナは声の音量はそのままに、つっかえながらも急き込むような早口で喋る。
「私、クォークになら……な、何されたって全然構わない。けど、でもだって、び、びっくりするに決まってるでしょ、そんな事、急に言われたらっ」
 ――それは言うまでもなく、彼女にとっての最後の防衛線を突破させる一言だった。今この瞬間に理性の糸を切ってしまいかねない程の感情の昂りを無理矢理ねじ伏せて、俺は呑み込んでいた息を細く吐いた。
「別に急にじゃないよ。ミナと暮らし始めてからずっと思ってた事だから」
「ず、ずっと?」
 顔を上げたミナから唖然とした声が返ってくる。普通の女の子なら家に誘われた時点で身の危険に気付くであろうものだが、彼女にとっては思いもよらなかった事らしい。
「勿論主目的は純粋に君に住む場所を提供することではあったけどさ。でも好きな子に家に来いって言ったんだから何がしかの期待はしてるに決まってるだろ。いくらなんでもそこまで枯れちゃいないよ」
 部隊長には色々面倒なので否定したが、不埒な期待が全くなかった訳があろう筈もない――目的そのものではなかったとは明言出来るが、全く意識しないで同居を提案したと言えば嘘になるのもまた事実だった。それを今更教えた所で詮無い事だろうとは知りつつもそう言うと、真っ赤な顔で俺を見上げていたミナは、何かを考えるように視線を下げ、恐る恐るといった感じできゅっと俺の服を掴んだ。
「……私の所為? 私が何も分かってない子供だから、今迄何も言えなかった……?」
 ――ああ。
 息が止まる。
 どうして彼女はここまで人の事を、俺の事を、想えるんだろう。
「君ねえ……。何いやらしい事を考えてるんだって、怒ったっていい場面なんだぞ。それを……」
 どうしてこんな事ですら自らを省みようと思えるのか。確かに、彼女のいとけない考え方に合わせていた部分はある。だがそれは、決して彼女が罪悪感を感じなければならないような物ではない。
 いつだってそうだ。彼女にとっては自分よりも他人の方がずっと大切で、それを護る為なら時には命すら投げ出せる。
 触れてはいけない。そう思う。俺などが、触れていい人ではない。
 俺の手で侵してしまうには彼女は余りにも神々しい存在であり過ぎて。
 ――けれど、抗えない。飢え乾いた遭難者のように、俺の全てが彼女を渇望する。
「後悔したんだ。自分の本心と真剣に向き合って来なかった事を。君に指摘されるまで、ちゃんと好きだって言葉すら言ってなかった部分も含めて。……君が『カロン』に乗っ取られたあの時だって、ちゃんとした恋人だったんなら、もっとすぐに呼び戻せたかもしれなかったのに」
 直近で味わった恐怖を言い訳にして、彼女を求める。
 ミナが俺の背に手を回し、あやすように抱き締めてきた。柔らかな、けれども力強く確かな彼女の温もりに、俺はただ、幼子のように縋り付く。
「あれは……もし仮にそういう関係だったとしたって、変わらなかったよ。……ううん、」
 俺の胸に手を置いて、少しだけ身体を離したミナが、俺の顔を見上げてふわりと花開くように微笑んだ。
「クォークだから戻って来れたんだよ。ありがとう、クォーク。私を護ってくれて」
 ミナ。
 唇だけでその名を唱える。何よりも神聖な彼女の名前。俺が俺でいられる為の呪文。
 護られているのは、俺の方だ。ただの無目的なモノでしかなかった俺を、長い時間をかけて人に近い物に戻してくれたのは部隊の奴らではあったけれど、一番大切な最後の欠片をくれたのは、紛れもなく彼女だった。
「護るよ。ずっと」
 ミナの保護者であった男の前で誓ったのと同じ言葉を囁いて柔らかな髪を梳くと、ミナは擽ったそうに瞼を閉じて、僅かに顎を上げた。猫ならごろごろと喉を鳴らしそうなそんな顔に愛おしさが募って、彼女の唇に触れる程度に口づける。
「! も、もう、またこんな公共の場所でっ」
 これだけ親密に抱き合っていればもう軽いキスの一つくらいあってもなくても傍目には一緒ではないだろうかと思うのだが、ミナにとっては違うものであるらしい。顔を真っ赤にしての抗議は、彼女に初めてキスをした時を思い出させる。とはいえ往来の中だったあの時とは違い、今いるここは誰もが自由に歩ける甲板ではあるものの、夕暮れ時で人気も少ない上に隅の方だから別に誰も……
 ふと視線を動かした瞬間、遠くからこっちを見ていた人影と目が合ったが、即座に逸らされた。……たまたま同じ船に乗り合わせていたらしいうちの部隊員だが、まあどうでもいい。でもミナには黙っておこう。
 幸いにしてミナはその余計な事実には気がつかなかったらしく、俺の行為自体に頬を膨らませて憤慨していたが、やがてぎゅうっと俺の胸にしがみついてきた。昏い水底から俺をすくう彼女の腕に包まれて、俺は瞼を閉じる。
 ミナは。彼女だけは。必ず護る。
 彼女を不幸にしたら許さない、と恫喝したあの男にどうしても言えなかった言葉――「幸せにする」というその一言の代わりに、それだけを強く誓う。俺には人を幸せにする事なんて出来ないけれど、この身を盾にして彼女を傷つける剣から庇う事くらいなら出来る筈だから。
 最後まで護り通してみせる。どんな対価を払おうとも。
 ――例え、初めて誰かと共に生きていきたいと思わせてくれた彼女と、共に歩む道を閉ざされる事になろうとも。

【Fin】

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