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酒場にて


「遊技場のルーレットはー、絶対にいかさましてると思うのー」
 暮れなずむガルム遊技場街の大通りをぷりぷりと杖を振り回しながら歩くミナを、後ろから見守るように眺めて歩いていたクォークは、暫くの間は彼女の視界の外でこっそりと腹筋を震えさせていただけだったが、とうとう堪え切れなくなったとばかりに小さく吹き出した。吹き出した後にもくっくっくっと断続的に続く、抑える努力をしているようで全然押さえられていない笑い声に、頬をぷっくりと膨らました少女は、むうっとした横目で振り返る。
「む〜〜〜〜。笑ったぁ〜!」
「スった人は皆そう言うんだよ。……ま、嫌な事は忘れて夕飯でも食おう。この通りの先に、まあまあいける飯屋があるから」
 口の端をいまだ微妙に震えさせながら、子供を宥める口調でそう言ったクォークは、ミナの隣に進み出て、彼女の小さな手を取り指を絡めた。ミナはその手を腹いせのようにぎゅむっと力を込めて握る。けれどもソーサラーの少女の握力でウォリアーの頑丈な手に痛みを与えられる訳もなく、彼から見ればただ可愛いらしいばかりの拗ね方に、クォークの笑みはより一層深くなった。
「大体ね、たかだか三回回した程度で当たる訳がないんだよ。何事も、もっと回数をこなさなきゃ」
「教訓的な言葉のようで全然違うと思うわ、それ」
 諭すような口ぶりに対して唇を尖らせて反論するミナを見て、元より真剣に言い含める気などなかったであろうクォークは今度こそ声を立てて笑った。心底可笑しそうな様子の彼に、ミナはもうっ、と膨れるが、やがて諦めたようにぷーと息を吐いた。
 茜色だった空が徐々に幕が下ろされるように濃紺に染まって行き、その明度を落として行く。それに反比例して、往来の賑わいは幕を開けつつあった。街路灯にソーサラーの役人が順繰りに火を灯して行き、軒を連ねる飲食店の窓からも暖色の光が漏れ始める。夜の気配は涼風を伴って、それを少し肌寒く感じたらしいミナが、そっとクォークの腕に縋った。
 薄い生成りのシャツのみを羽織るミナの細い肩を冷気から庇うように、クォークは自然に手を回す。穏やかに触れた温かい感触に、ミナはまずその自分の肩に視線を向けて、次いで隣の恋人を見上げた。
 ミナが視線を上げたその先では、クォークも彼女をじっと見下ろしていて、視線を合わせた二人は、互いの仕草に安心したように同時に微笑み合い……
「ひゅーひゅー、仲いいじゃねえかお二人さんよぉー。ラブシーンでもおっ始めるかぁー?」
 唐突に横合いから下品な野次を掛けられて。
 ミナは眼前のクォークを、片手ウォリアーのスキル・スラムアタックもかくやという勢いで突き飛ばした。
 …………。
「何かデジャヴが……」
 実際には手を伸ばせば届く程度の距離しか離れていなかったクォークがぼそりと漏らし、冷やかしが掛けられた方に迷惑そうな視線を向ける。どこの酔っ払いだ、という悪態を纏う目が、しかし、その相手を確認するや否や、ややばつの悪さを含んだ驚きに見開かれた。同時に、クォークの陰からそちらを覗き見たミナも、こちらはただ純粋な驚愕に目を丸くする。
 街路灯の支柱に寄りかかり、腕を組んで二人を待ち受けるように立っていたのは、見るからに兵士然とした威圧的な体格をした髭面の男だった。しかしそれだけならばこの界隈では決して珍しい姿ではない。二人が驚いたのは、それが見知った顔であったからだった。
「トラさん!?」
「タイガだっつーのに……。そのネタそんなに楽しいか?」
 お約束のやり取りで呼ばれた男は、お約束通りに厚めの唇をひん曲げて不平顔を作った。


「アップルジュース!」
「酒場で元気にジュース頼むのやめろガキンチョ、恥ずかしい」
「いいじゃない。お酒って美味しくないんだもの」
 旧友に会ったような顔をして二人の背を叩くタイガに押し切られる形で酔客で賑わう猥雑な酒場に入り、なし崩し的に三人は同じテーブルに着いた。タイガは何やら物言いたげな顔をしているクォークに文句を差し挟ませる暇もない手早さで酒と肴を注文し、程なく運ばれてきたジョッキを当り前のようにさっさと手に取って、眼前に掲げた。
「再会を祝して。乾杯」
 髭面ににやにやとした笑みを浮かべて短く音頭を取る声に、ミナは元気良く、クォークは気だるそうに杯を上げて応じた。それぞれがグラスやジョッキを口元に運び、一時沈黙して喉を潤す。
「何が再会を祝してだよ。俺たちを待ち伏せしてたんじゃないのか、あれは」
 唇を湿らせる程度にエールに口を付けてから呟いたクォークをちらりと見て、タイガは一気に半分以上中身を減らしたジョッキを口から離し、手の甲で気持ちよさそうに髭についた泡を拭った。
「人聞きが悪ぃなあ。たまたまカジノで見かけたから、多分こっちの方に飯食いに出るんじゃねえかなと思ってちょいと先回りしただけだぜ」
「それを待ち伏せって言うんだよ、暇人」
 呆れた声で呟いて、クォークは今度は勢いよくジョッキを傾ける。しかしタイガはクォークの辛辣な発言など全く気にした風もなく、けろりと話を切り替えて、ミナに目を向けた。
「で、どうよ。ネツは?」
「楽しいわよ。噂に聞いてたみたいに、怖い獣人も別にうろついてなかったし」
 黄金色のアップルジュースを両手で持ってこくこくと飲みながら答えるミナに、タイガはにやりと肉食獣めいた笑みを浮かべた。
「そりゃあお前、そこいらの獣人よりもおっかねえのが始終付き添ってやがるからだろ」
 と、クォークを目で指す。
「いっぺん薄暗い裏道に一人で足を踏み入れてみ? 迷い込んだ途端、口が耳まで裂けた獣人に頭からがぶう!って……」
 子供を脅すように、手を猛獣の鉤爪の形にして低めた声で言うタイガの前で、脅された子供のように、ひぃとミナは震え上がる。顔面を蒼白にする少女の頭を、クォークが横からぽふぽふとあやすように叩き、タイガにじろりと視線をやった。
「あんたか、そういうデタラメを吹き込んでるのは」
「ガキはオバケで怖がらせとくのが一番だ」
「ベインワットの裏道が、女の子一人で歩かせるわけにはいかない場所だってのは確かだけどさ……」
 やれやれ、と嘆息してクォークはエールのジョッキを傾けた。
 タイガのミナに対する他愛もない――ミナにとっては大層肝を冷やしたり腹立たしかったりする――からかいに、クォークが一言二言冷静にコメントし、食卓の飲み物と料理を平らげては注文する作業が幾度か繰り返された頃、ふとクォークは、細かな泡がしゅわしゅわと沸き立つミナのグラスを見て眉を寄せた。彼女の手からグラスを抜き取り一口口にして、軽いものとはいえ明らかに感じたアルコール分に、寄せた眉をきつく顰める。
「ミナ、これシードルじゃないか。大丈夫なのか?」
「んなもん子供が飲むもんじゃねえか。大丈夫だって」
「あんたには聞いてないしあんたの大丈夫は当てにならない気がする。……ミナ?」
「へいきよう。アップルジュースはこどもののむものだわー」
「全然平気じゃない!」
 そのやりとりを切っ掛けにしたように、へらりと笑ったまま頭を不安定に揺らし始めたミナに、クォークは慌てて手を伸ばし、ミナはその手に仰け反る格好で寄りかかって辛くも椅子からの転落を免れた。その様子を見てタイガがげらげらと笑い出す。
「おーナイスキャッチ。兵士辞めて保父さんで食ってけるんじゃねえかおい? ネツのキラーマシーンよぉ」
「やめてくれその渾名。……ほら、危ないぞミナ」
 タイガには目もくれず、その後もふらふらと海草のように揺れ動くミナをクォークは埒が明かないとばかりにぐいと引き寄せて自分の膝へと倒した。「わふー」と気の抜けた悲鳴を上げてなすがままに膝に縋りつく格好になったミナは、もぞもぞと自分の寝床の心地を確かめると、満足が行ったらしくそのままの体勢で大人しくなり、数秒で寝息を立て始めた。タイガがテーブルを叩いて大笑する。
「お前らいいわ、あー腹いてえ。天下の《ベルゼビュート》副隊長殿も形無しだなぁ……あ、こないだ分隊長から副隊長に正式に昇進したんだってな。おめっとさん」
「……他国部隊の人事なんかをよく知ってるな」
 クォークは目の前の男に訝しんだ視線を向けた。機密という程ではないが、部隊長は別としてそれ以外の幹部の役職名など、他部隊やましてや他国民にわざわざ知らせるものでもない。向けられた不審げな眼差しに、タイガは口の端を上げる。
「ま、商売柄な。……と言いたい所だが、実を言うと私用だ。ここ暫く、特別に調べてたんだ、お前さんの事をな」
 ――途端。
 タイガに向けるクォークの瞳から、すっと感情の色が抜け落ちた。相手に対する疑問すらをも表すのを止めた瞳に、タイガは、へへ、と笑声を漏らした。
「そう睨むなよ。別に過去の女関係についてミナにチクりやしねぇって」
「…………」
 直前までの、面倒な酔っ払いを適当にあしらうような態度とは打って変わり、軽口に乗る様子すら見せなくなったクォークに髭面をにやりと歪ませたタイガは、椅子の背に体重を預け、無造作に懐に手を突っ込んだ。相手の挙動を警戒してクォークの視線が動くが、タイガが取り出したのは武器となる物ではなく、折り畳まれた紙切れだった。かさかさと乾いた音を立ててそれを開く。
「部隊《ベルゼビュート》副隊長、クォーク。二十一歳。ウォリアー。レベル四十。使用武器は両手斧だが、ル・ヴェルザにおける闘技大会で過去数回、大剣に持ち替えての戦闘を確認……大剣使えるなら使えやいいのに。大剣のが勝手はいいだろ」
「……斧が好きなんだよ」
 表情を消したまま、ごく平静な声音で呟いて、クォークはミナを膝に乗せたままタイガに倣うようにして椅子の背もたれに寄りかかった。その一言に、大剣使いのタイガはふんと鼻を鳴らす。
「まあ好き好きだけどよ。……《ベルゼビュート》入隊は十五歳。十七歳で分隊を任される。以降分隊長級の職位につき、幹部として部隊運営に参画。女性遍歴は主に部隊内の隊員と。商売女との関係はなし。……甘酸っぱい思い出の数々も詳しく振り返りてえか?」
「別に甘酸っぱくないし振り返りたくもない」
 やや温度を下げた冷ややかな口調で言うクォークに、タイガは大仰に肩を竦めて見せた。
「別れたからって女に冷てえのは頂けねえなあ? やっぱミナに言っとくか、この男冷めると急に冷酷になるタイプだから気をつけとけって」
「人聞きの悪い事を言うな。……それで? 人の経歴を読み上げて、あんたは一体何が言いたいんだ?」
「まあそう慌てなさんな、これで最後だよ。……十五歳以前、即ち《ベルゼビュート》入隊以前の経歴は一切不明。未確認情報として入隊直前頃、僅かに数回ソロでの参戦の形跡が残るがそれを除き、生年月日、兵士登録年月日、家族構成、出身地に至るまで、あらゆる記録が残存していない……或いは抹消されている」
 しん、とその場からあらゆる音が消失したかのような緊張が、二人の間に流れた。実際には、盛況な酒場には喧噪は絶える事はなく、周囲の客たちは誰一人として、ホールの片隅のテーブルで向かい合っている二人の男が相手にのみ向けている、鋭利な刃物のような気配に気付く事はなかったが。
「……で?」
 殺気も怒気も一切含まない――喜怒哀楽、いかなる心情の片鱗すら見透かす事を許さない硝子玉の如き瞳に見据えられ、タイガは薄ら笑いを浮かべたまま、その目だけを鋭く、興味深げに細めた。少なくとも表面上は双方共に気負いのない様子であるのに、卓上の空気だけがどこまでも冷たく張り詰める。
 限界まで引き絞られた弓弦のような緊張を、まるで堪能しきって満足したようにタイガは鼻息一つであっさりと吹き散らした。
「勘違いしないで欲しいが、別に俺ぁあんたの過去をを詮索する気なんぞねぇ。野郎の思い出なんかにゃ全くもって興味ねぇよ。必要なのは、過去でなく現在。ぶっちゃけ確認したかったのは、あんたにミナを預けて大丈夫なのかどうか。その一点だ」
 ミナ、という名前が話題に上った瞬間、ふっとクォークの眼差しに柔らかい感情の欠片が戻った。
 無意識のように、クォークの指が膝の上のミナの頬を撫でる。ミナは目を閉じたまま、曖昧な微笑を口元にもごもご浮かべて「やぁーん」と擽ったそうに呟き、寝返りを打って反対側を向いた。クォークは彼女が転げ落ちないように軽く引き寄せてから、テーブルを挟んだ向かいでにやにやとした笑みを浮かべている男の顔に視線を戻した。その男――タイガは、くくっと小さく喉を鳴らして手元の紙を折り畳み、懐へと戻す。
「……こっちの事情は別に込み入ったもんじゃねえ。ミナは、俺の古いダチのガキなんだよ。傭兵仲間で、もう随分前にある戦場でおっ死んじまった男なんだが、奴め、その時に、妻と娘を頼むだなんてベタな事を言い遺しやがってよ」
 愚痴るように言うタイガの口調の中には、懐かしさとほんの微かな寂寞が入り混じっていた。それが呼び水となったように、クォークの瞳からも力が抜ける。
「ああ……それで」
「うん?」
 腑に落ちた声で呟いたクォークにタイガが目を向けると、クォークは膝の上のミナの頭をそっと撫でて、眼差しだけに仄かに、愁いを含んだ苦笑を浮かべた。
「ミナが俺の事を、『お父さんみたい』って言うのは……。本当の親父さんがいなかったからなのか」
 その言葉に、タイガは一瞬目を丸くしてから、髭面をくしゃくしゃにして笑ってエールのジョッキを手に取った。
「……それ、最上級の褒め言葉だぜ。ミナは四つかそこいらだったから、今じゃおぼろげにしか覚えてねえみてぇだけど、相当なお父さんっ子だったからな」
 ――お父さん、と笑いながら傭兵の男を追いかける、小さな女の子の姿――。瞬間的に頭を過った、見た事などある筈のない、けれどもきっとかつてあったと確信させるそんな光景に、クォークは懐かしいものを見るかのように目を細め、ジョッキを口に運んだ。麦酒の炭酸で喉の中に溜まる甘くて苦い何かを押し流し、目の前で同じくジョッキを呷っているタイガに、からかいの視線を向ける。
「そんなに昔の約束なのか。あんたも大概面倒見のいい人だな。ミナの母親にでも惚れてるとか?」
「うっせえ。そんなんじゃねえ」
 冗談のつもりで言った言葉にいかつい傭兵の男がちっと舌打ちして目を逸らすのを、クォークは少し面食らって眺める。
「図星かよ。……将来的にあんたと親子になるのは嫌だな。その恋が実らない事を心から祈るよ」
「うっせえっての。てめえが別れろ」
 犬歯を剥き出して唸ったタイガは、乱暴にジョッキを置くと、がたんと立ち上がった。ポケットからぞんざいに畳まれた高額紙幣を無造作に取り出し、テーブルに放る。
「ん、おごり? ラッキー」
「貸しだ、貸し。いずれ戦場で取り立てに行ってやらぁ」
 物騒な事を言い捨てて、タイガは立てかけてあった武具や荷物を悠然と担ぐと、クォークと寝入るミナを一瞥した。
「ま、別れろっつうのは冗談だ。せいぜい仲良くヤるんだな」
 挨拶のように振り上げられたその拳が妙な握り方を――具体的に言えば人差し指と中指の間から親指を出すという下品なジェスチャーを形作っていた事に気がついて、クォークは渋面を作る。
「ミナが知識の割に時々変な言葉を知ってるのもあんたの所為か。ミナの前で下品な言動は止めろよな」
「なんでえ、本当に親父みてえな奴だな」
 辟易した声で言ってからタイガはにっと笑い、その笑顔のまま、不意に瞳だけを獰猛にぎらつかせる。
「そいつを不幸にしやがったら許さねぇぞ。地の果てまで追っていって必ず殺す」
 気の弱い者ならばその眼光に晒されただけで竦み上がる程に凶暴な視線と、低く重い恫喝の声は、しかしクォークを委縮させるには全く至らなかった。
「あんたも十分親父っぽいぞ」
 軽く肩を竦めてクォークはそれを受け流し、視線を膝の上に落とした。そこにある温もりを確かめるようにそっとミナの頬に触れ――離した指先に残る感触を包み込んで、手を固く握る。
「言われなくても。ミナは俺が……」
 そこで、彼は何かを言い淀む。全くの無表情ではない――何らかの感情が湛えられた、けれども余人には感情の読むことの叶わない瞳で少女を見つめるが、それをまばたき一つで胸の奥深くに封じるように消し去る。
「……責任を持って護るよ。誰にも傷つけさせない。あんたらエル民にもな」
「ふん。たりめーだ」
 ミナから視線を外すことなく告げたクォークに、タイガは苦笑するように口元を緩め、踵を返して酒場を後にした。

【Fin】

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