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子猫と魔女と秘密のレシピ




 鋼と鋼が交わる高く冷たい音が、木立の合間に響き渡っている。
 大振りの両手斧が、闇空に奔る雷光のように太刀筋を鋭く閃かせ、緑色の紋章を身に着けた兵士を一刀の下に斬り伏せた。それを成した、鎧に赤い斧の紋章を帯びるウォリアーは、倒れた敵兵には最早目もくれず、次なる敵を目指して地を蹴っている。
 このメルファリアにはありふれた、血生臭い戦場の光景。兵士達は何の感慨もなく、本来静穏に満ちている筈の森に蛮声と剣戟の音と人の命を撒き散らしていく。
「オベリスク横! ハイド!」
 ちらと視線を動かした両手斧のウォリアーが、付近の自軍兵にごく短い声で注意を喚起する。その程度のやり取りでも十分に意思の疎通を図れる程に彼らの錬度は高かった。ウォリアーは続けて、戦場をざっとながらも広範に渡って見渡し、戦況を確認する。
 ――相手も中々やるようだが、このままなら場を収める事は十分可能だろう――と、分隊を率いるリーダーでもある彼は瞬時に判断した。
 その時の事だった。
『クォークさん! 今どちらですか!?』
 唐突に、直接鼓膜を震わすように脳裏に届いた声に、彼――クォークと呼ばれたウォリアーは、戦場に注いでいた意識の一部分だけをそちらに傾けた。拠点で指揮を執る部隊長の下に詰めている通信兵の、特殊なクリスタルを用いた通信魔法だ。
「A7付近、敵軍潜入部隊と交戦中」
 クォークは端的に返答する。通信兵の声が、戦場で今まさに敵兵と刃を交えている彼らよりも余程切迫した様子に聞こえ、少々訝しく感じたが、彼にそれを問う暇はなかった。身の丈を超す長さの大剣を構える敵兵が、その毛筋程の隙を突いて躍り掛かって来る。眼前の戦場に意識を戻し、向かい来る敵と一合、二合と刃を交わす。そのごく僅かな間、通信媒体であるクリスタルは沈黙を続けていたが、再度、今度は重苦しく呻くような声を響かせた。
『部隊長からの命令です、今すぐ拠点に戻って来て下さい』
 敵と切り結びながら、何だって、と呟きそうになるのを辛うじて堪え、クォークはすぐ近くで別の敵を斬り伏せた所であった部下に目配せを送った。アイコンタクトが通じ、割って入ってきた部下に敵を半ば押し付けるように任せてから、彼は一歩退って小声で囁いた。
「戻れと言われても、対応に最低限の人員しか裂いていない。すぐには無理だ」
 自陣深くに潜入してきた敵部隊に、自分の率いる分隊の全員を投入して当たっているが、決死のオベリスク破壊を狙ってきた敵部隊はそれなりに士気も高いようでしぶとく、殲滅にはまだ多少の時間を要する。
 分隊長として当然の判断を下す彼だったが、その後に続いた声は、彼のリーダーとしての自制を粉々に打ち砕くものだった。
『いいから戻って下さい、今すぐに! あなたの恋人が、ミナさんが、――……』



 それ以上の声は聞こえなかった。正直、離脱時に部下達にどういう指示を出してきたかも覚えていない。気づけばクォークはただ一人、遥か後方にある自軍拠点に舞い戻って来ていた。
 石組みの砦の堅固な門をくぐり、城内へと急ぐ。途中、恐らくは部隊長の指示を受けたのであろう兵士に呼び止められ、彼女の居場所を聞かされた。砦の最も奥まった一室――重篤な負傷の処置を集中的に行う為の個室を示され、話も終わらない内に再度走り出す。
 ミナ、と、口の中で愛しい人の名を呼ぶ。
 彼女はソーサラーだった。けれどまだ訓練兵の階級にある彼女は最前線に赴く事は少なく、後方に於いて裏方支援や召喚等に当たる事が常だった。勿論危険は皆無ではないが、最前線に赴くウォリアーである彼よりは、余程安全な筈の立場だった。
 その筈だったのに。
「ミナ……っ!」
 示された一室に飛び込んで、クォークはただそれだけを叫んだ。

 大きく開け放たれた窓には、砦というよりは病室といった趣の、白く清潔なカーテンが掛かり、濃緑の匂いを孕む風に緩やかに揺れていた。そのすぐ傍にはベッドが一つ、ぽつんと設えられている。そこにいるはずの彼女は、眠っているのだろうか――声の一つも聞こえない。部屋はただ真っ白なしじまに満たされていた。
 ベッド脇には軍医や衛生兵の姿はなく、女がただ一人、静かに付き添っていた。クォークの所属する部隊、《ベルゼビュート》を率いる部隊長だった。小柄ながらも歴戦の勇の風格を持つ、眼帯で片目を隠した美女だが、普段であれば部隊員の士気を鼓舞する自信に満ちた表情が今は酷く固い。
「クォークか……」
 息を切らしたまま、静寂に気圧されたかのように呆然と入口で佇んでいたクォークを見て、部隊長は音を立てずに椅子から立ち上がった。そのまま無言で一歩下がり、彼に場所を譲る。殆ど無意識の内にベッドに歩み寄っていたクォークは、すれ違いざまに部隊長の華奢な肩が微かに震えているのを目に入れた。
「……変わり果てた姿になってしまったが、顔を見てやれ」
 一言、感情を押し殺した声で囁くように告げられる。冷厳と響くその声は、しかしクォークの心中に細波すら立てずに通り過ぎていった。一体、何を言っているのか。靄のかかった思考の中では、その言葉を意味あるものとして認識する事は出来なかった。
 けれども彼の身体だけは、緩慢な動作を続けていた。何も考える事が出来ないまま、クォークはベッドのすぐ傍に立ち、操られる木偶のように、目の前に広がっている真っ白なシーツをそっと剥ぐ。
 その中にいたのは――、

 ちんまりとした、茶色い毛玉だった。

「……え?」
 ソーサラーの少女が休んでいる筈のベッドには、少女の姿は見当たらず、その代わりに何故か、手のひら大の、ふわふわとした謎の物体が丸く収まっていた。掛けられていたシーツを除けられるとそれはもぞもぞと動き、ぴょこんと上向きに耳を出した。ぴんと立つ、三角の耳。驚きの余り、声を出すことも息を吸うことも忘れているクォークの前で、それは頭をのろのろと上げ、どこか怯えた風に肩越しに振り向いた。小ぶりな逆三角形のピンク色の鼻。つややかな葡萄のように潤む大きく丸い瞳。いかにもか弱く儚いその毛玉――小さな小さな茶色い獣が、ベッド脇に立ち尽くすウォリアーを見上げた。
 子猫だ。
 どこからどう見ても子猫だ。
 明らかに、まごうことなく、そこにいたのは子猫以外の何物でもなかった。――が、クォークはその子猫に対し、思考を経ずして思い至ったその一言を呟いていた。
「……ミ、……ミナ……か?」
 その瞬間。子猫の表情筋などない筈の顔に浮かんだ、悲痛と安堵がない交ぜになった複雑な感情が、彼にははっきりと分かった。
 子猫の青灰色の瞳にうるっと涙が湧き出し、ゆるゆると口元が歪んでいく。
「……ふええぇん! クォーク、クォークうぅ……」
 子猫の小さな口から人語の泣き言と、
「ぷっ」
 後ろの部隊長の口から人語ではない音が同時に漏れ――
「どうしよう、私……、私っ、猫になっちゃったよぅ……!」
「ははははははは、あははははっ!」
 嗚咽交じりの少女の声に、腹を抱えた部隊長の馬鹿笑いが問答無用に覆い被さった。

「っくははははは、あははははは! 今の顔! いやあ今の顔は良かったぞクォーク! と言うか何で彼女と分かるのだ、それを一目見ただけで! 愛か!? 愛なのか!? っはははははは! 凄いなお前! 不覚にもちょっと感動したぞオイ!」
「笑い事じゃないのにぃ…………」
 ひいひいと苦しそうな呼吸を交えて笑っている部隊長に、小さな子猫はミナの声で、恨めしそうに文句をつけた。もし人間だったらぷうっと頬を膨らませていそうな、まさに彼がよく知るミナらしい物言いをする子猫に、それどころではないと知りつつも、クォークはついその場に崩れ落ちそうな程の深い安堵を覚えた。
 が、緊張の中に生まれた安堵という物は、転じて激しい怒りを呼び覚ます。クォークは子猫から視線を外し、こめかみに青筋を立てんばかりの剣幕で部隊長を振り返った。
「あ……あんたなあ……っ!? 一体何を考えてるんだ!? ミナの身に何かあったって聞いたから必死に戻って来たんだぞ……!? 前線でたったそれだけを聞かされて、ここに戻ってくるまでの間、俺がどんな気持ちでいたかとか、あんた少しは考えたか!?」
 げたげたと腹を捩り続ける部隊長に殺意すら孕む眼光を向けて吼えたクォークに、部隊長は眼帯を掛けていない方の目を手のひらで拭い、絶え絶えになった息を整えつつあっけらかんと答える。
「嘘を伝えさせたつもりはないが? 何かあったという言葉のどこに間違いがあると言うのだ。大ありではないか、っふふ……兵士が突如こんな変わり果てた姿になったまま元に戻れなくなってしまったのだぞ、前代未聞の大ごとだ」
「確かに人間が猫になるだなんて話は聞いた事も見た事もないけどな、あんたは明らかに確信犯だろ!? 普通戦場でああ言われれば最悪のケースを考えるに決まってるじゃないか! いくら何でも言っていい冗談と悪い冗談がある!!」
「それを言うなら故意犯だぞクォーク。確信犯というのは己の正義に従い法的に悪と分かっていても罪を犯す者の事を言う。私は自分に正義があるとは露ほども思っていない、ただ単にお前をおちょくりたかっただけで」
「開き直るのも大概にしろよ……っ!」
 猛獣の唸りのような低い声で言って、両手斧の代わりに使われていない点滴の支柱をがっと掴んだ所で、部隊長は降参の意を示して手を挙げた。
「まあお前が戦線から抜ける事で戦況に多大な影響が出るようなら後でのお楽しみにしておいた所だが、最悪捨てても構わん戦域だったし、残る面子ならばどうにか抑えは効くであろうと思えたのでな。早めにご帰還頂いた次第だ」
「戦況も大事だが、俺の言ってるのは部下の気持ちを弄んで楽しむなって件についてでな……っ」
 収まりきらない怒りを込めて呟くが、途中でクォークは深い吐息と共にその言葉を虚空へと散らした。この部隊長に何を言っても無駄であろうし……何より訳の分からない状況に置かれて誰よりも不安に思っている当のミナにとっては、すぐに彼を呼び戻したこの部隊長の行為は結果的に有難かったに違いない。やり方は絶対に間違っているが。
 これ以上この鬼畜を相手にするのも馬鹿らしくなって、クォークは子猫のいるベッドに視線を戻した。
「……ミナ……なんだよな?」
 直感も、子猫が彼女の声で語り掛けてくるという現実感のない現実も、それで間違いはないという事を如実に告げてはいたものの、やはりにわかには信じがたく、クォークは再度躊躇いがちに問いかけた。
 と、子猫は再びゆるゆると泣き出す寸前のような顔をした。これもまた非常によく見慣れた彼女の表情だった。
 クォークは子猫の身体を両手でそっと掬うように抱き上げて、眼前に翳した。小さく、柔らかい、ミナの髪とよく似た栗色をした、トラ柄の子猫である。目はぱっちりと開いていて乳歯も生え始めているが、まだ母猫の庇護を必要とする月齢に違いない。けれども子猫の大粒な瞳は心細そうに潤みながらも確かな意思を持って、自分を抱き上げるウォリアーを見つめ返していた。
 間違いない。彼女だ。そう確信する。
「ミナ、一体……どうしたんだ。何があった?」
「……わかんない、……全然わかんないの……」
 恐らく人間であったなら、真っ青になって震えている所なのだろう。ミナはきゅうと耳を後ろへ伏せ、恐れおののくように頭を振った。
「キマイラを召喚しようとしたのだ」
 動揺しているミナに代わり、どうにか笑いを飲み込みきったらしい部隊長が後ろから答える。
「東の前線へ駄目を押す為の歩兵キマとして、ごく普通に彼女が志願し、ごく普通にクリスタルを準備し、ごく普通に召喚儀式を行った。その筈だった。だが……召喚の反応光が消えた時、拠点の前にあったのはキマイラの巨体ではなく、そのちっぽけな子猫であった、というのがその場で起きた全てだ」
「……全く訳が分からないんだが」
「だろうな。安心しろ、分かる奴など誰もおらんよ。私もそれなりに長く兵士として生きてきたが、こんな現象には初めて遭遇した」
 何がそんなに面白いのか、再度部隊長の語尾がぴくぴく震え始めたので、クォークは怒りを再燃させる前にミナに視線を戻した。ともすれば混乱の余り散漫になってしまいそうな己の思考を纏める為、声に出して呟く。
「キマイラ……キマイラなのか、これ? 確かに『猫』とは俗称されるけど……。ミナ、体調は大丈夫なのか?」
 キマイラは、酷く不安定な人工生命体で、現世では徐々に身体を構成する組織が崩れ、やがて死んでしまう定めにある。それを心配して、クォークは子猫のくにゃくにゃと柔らかい身体を恐々ひっくり返しながら各所を確認したが、どこにも膿んで体液が漏れ出しているような傷口は見当たらなかった。脚を開いて尻尾の付け根辺りを見た時に、ミナが「ぎゃっ」と鳴いたが別に痛かった訳ではないようだ。……ああ、メスだ。当り前か。と何となく確認。
「召喚を解除する事は出来ないのか?」
「うっうっ。出来たらやってるよぅ……」
 何故か先程よりも更に傷ついたような声で咽ぶミナに、クォークは眉根を寄せた。
「……だよな」
 途方に暮れつつ嘆息する。そんな彼の親指を、子猫の姿をした愛しい少女が、縋りつくように、ぎゅっと前脚で抱き締めた。
 全く要領を得ない事態ではあったものの、指を包む人よりも高い体温に言い様のない安らぎを覚えて、クォークはほっと目を閉じた。

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