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 戦場から撤収し、中央大陸より船旅を経て首都ベインワットに戻りつく頃になっても、ミナは変わらず猫の姿のままだった。通常の召喚術であれば、召喚を行った拠点――厳密には拠点に設置された召喚魔法装置――から一定以上離れれば、召喚状態は継続出来ない筈だが、ミナの変化にはその原則も適用されないようだった。つくづく異例な状態異常である。
 ベインワットまで帰還すれば或いは元に戻るかもしれないという期待も絶たれ、しょんぼりとするミナを、クォークは指先で首の下を撫でて慰めた。
「戦地じゃろくに調べ物も出来なかったけど、首都なら色々出来る事もある筈だ。家に帰ってじっくり腰を据えて、解決方法を考えよう」
「……うん」
 優しく励ましてくれる彼の言葉に、ミナは悄然としながらも、微笑を浮かべて頷いた。

 クォークと共に商業区の外れにある彼のアパートメントに帰り着いてから一夜明け、燦々と朝日の差す居間のテーブルの上にちょこんと乗せられたミナは、さて今日から何をどう調べるべきか、という最重要の議題についてピンク色の肉球を顎に当てて考えた。
「エルソードだったら、魔法の事ならいくらでも調べようがあるんだけど……」
 かつて暮らし、とある事情で出奔したミナの祖国、エルソードでならまだやれる事は思いつく。首都リベルバーグの研究学区にある大図書館には国民なら誰でも自由に出入りする事が出来るし、街には在野の魔法研究者が沢山住んでいる。こんな傍目から見たら面白おかしいばかりの魔法ならば、興味を持って調べたがる研究者はいくらでもいるだろう。エルソードとはそういう国だ。人体実験に供せられると思うとぞっとしないが、文句を言っていられる状況でもない。
 けれどもここはネツァワルだ。獣人王ヒュンケルが治める武人の国ネツァワルではそのお国柄、学問があまり尊ばれておらず、魔法という技術についてもどこか胡散臭いと言うか、卑怯なものだと考えられている節があり、必然的にその道に詳しい者も少ない。魔法の有用性自体は広く認知されているので兵士としてのソーサラーが少ないという訳ではないし、国軍内には専門の研究機関があるのだが、エルソードのように一般市民にまで広く知識の門戸を開かれている訳ではないのだった。
「こういった現象の原因って、ソーサラーのミナでも分からないものなのか?」
 思考の糸口を求めて呟いたクォークに、ミナはこくりと首肯した。
「私はソーサラーではあっても魔法研究者じゃないから、魔法についてそこまで詳しい訳じゃないの。どんな原理が働けばこんな事が起こり得るのかなんて、見当すらつかないわ」
「ソーサラーと魔法研究者ってそんなに違うものなのか?」
 少し意外そうに言う彼に、ミナは再度頭を頷かせる。
「ソーサラーは魔法技術を武力として使う側、魔法研究者はその魔法の仕組みを解明して、改良したり新しいものを作ったりする側だもの。勿論、両方兼ねている人もいるけど……そうね、ウォリアーと鍛冶屋さんの違いと言うのが一番近いかしら」
「成程……。じゃあうちのソーサラー連中も駄目か。どう考えたってただのテロリストか快楽殺人者だしな」
 流石部隊長からしてああである肝の据わった部隊の幹部と言うべきか、身内に対し中々酷い言いようだがそれはとりあえず置いておき、ミナは前脚を胸の前で組――もうとして、ころんとひっくり返った。クォークの手が子猫の身体を助け起こす。
「……国軍に頼るのは、あんまり《ベルゼビュート》としては都合よくはないよね?」
 以前、二人が巻き込まれたある事件によって、彼の部隊《ベルゼビュート》は、ネツァワル国正規軍の、まさに魔法研究に関する部署に恩を売る事が出来た形になっている筈だった。が、折角売りつけた恩を自分の所為で使わせてしまうのは申し訳ない気がして、ミナが慎重な視線でクォークを見上げると、彼は少し皮肉気にも見える笑みを口の端に浮かべた。
「部隊の都合なんか考慮する必要はないさ。そもそもあの件で迷惑を被ったのはミナと俺なんだから、そのカードを使う権利は十分にある。……ただ、国軍の手を借りること自体、なるべく避けたいな。また変な軍事研究に利用されたらたまったものじゃない」
「子猫に変身する魔法を軍事研究に使えるものなら是非見てみたい気もするけど……」
 反射的にそう思ったミナに、クォークは意表を突かれた様子で沈黙してからふっと噴き出した。
「……確かに。却って世界平和に貢献出来るかもな。まあ、他に手段がなければその線を使うって事で」
 それから彼は少しの間、何かを思い出そうとしているかのように視線を天井の方に彷徨わせていたが、不意にその目をミナに戻すと、やや唐突なことを訊いてきた。
「ミナ、確か『魔女』ってのは、魔法について凄く詳しい人なんだよな?」
 それまで頭の片隅にも上らせてもいなかった名詞を急に持ち出されて、ミナはきょとんと目をしばたいたが、すぐに大きく頷いた。
「勿論だわ。人間の魔法技術は、太古の時代、魔女の知識をほんの少し分けて貰った欠片に過ぎないという説もあるくらいよ」
「じゃあ、当たる価値はあるかもしれない。知り合いって訳じゃないけど……今、『流浪の魔女』がベインワットに来ているらしい」
 ミナは三角の耳と茶色い尻尾をぴんと立ててクォークの顔を見上げた。
「『流浪の魔女』……まさか、テオネラ様? テオネラ様がネツァワルにいらっしゃってるの?」
 魔女テオネラとは、かつて魔導具という新しい技術をメルファリアに齎した、偉大な魔法研究者である。現代に生きる賢者の一人として、賢人王の二つ名を有するエルソード国王、ナイアス・エルソードと並び称されている。殆ど伝説上の存在であった『魔女』の名を自ら名乗り、かつそれに恥じないだけの実績を挙げるその人物は、どこか一国に仕えれば莫大な権力が約束されているであろう立場であるにも関わらず、どういう目的があるのか一所に居つく事なく各国を流浪し、その秘術を広く伝え歩いていると聞く。
 それが、運よくもこのベインワットを訪れているとは。魔法の事について、これ以上に適切な相談相手はメルファリア全土を探してもそうはいない。
「簡単に会えるものなのかどうかは分からないけど、行ってみる?」
「うん!」
 一人のソーサラーとしても是非一度会ってみたいと思っていた人物でもあったので、ミナは元気よく答えた。



 その魔女は現在、ベインワットの郊外に居を構えているのだという。
 商業区を西に抜け、首都の水源でもある大河を越えると、程なくして荒涼とした山岳の様相が目に飛び込んでくる。岩がちな地形の中に、僅かばかりの樹木がしがみつくように根を張るさまは、ネツァワルの自然環境の峻烈さを窺わせたが、所々、山肌がこそぎ落とされたように露出している箇所も見え、それはどこか不自然な状態にも思えた。これはベインワット特有の痩せた地質の所為なのだろうか、とミナが何となく疑問を口にすると、クォークは、ああ、と平坦な声で呟いた。
「それもいくらかはあるけど……、この国の主要な産業は知ってる?」
「……ええと、製鉄業だったわよね?」
 ネツァワルは土壌も肥沃ではなく気候も厳しいが、その代わりに鉄鉱資源は豊富で、それを国力の拠り所としていた筈だった。ミナの答えにクォークは一つ頷いて、それから少し気だるそうに肩を竦めた。
「製鉄には燃料として木材を大量に必要とする。いくら鉄を作っても足りないこのご時勢に、そもそも森林資源に乏しいネツァワルで、需要のままに伐り尽くせばああもなるさ。……それでもこの辺はまだましな方だ。旧首都近辺はもっとずっと酷い事になってる」
「旧首都?」
「十……何年前になるのかな、俺がガキの頃は、ベインワットは別の場所にあったんだ。巨大な岩山の中に重層的に張り巡らされた廃坑跡を利用して、上層に王城、下層に街が作られていてね」
「は、廃坑跡?」
 そんな場所に街――しかも一国の首都などが作れるものなのだろうか。びっくりしてミナがクォークを見上げると、彼はごく当たり前の顔をして頷いた。
「そう。当時は他国の兵士に、ネツァワル民は穴倉に暮らす原始人、なんて揶揄もされたって聞くな」
「あ、穴倉……」
 想像が追いつかずぼんやりと呟くミナの思考を補足するように、クォークが続ける。
「岩盤の合間を縫う坑道が、巨大な鉱山の中に縦横無尽に張り巡らされていて、きっと初めて訪れた人がうっかり迷い込んでしまったら、二度と出て来れないんじゃないかって思うような、複雑な作りをした街だった。外壁に近い場所には明かり採りの窓も開けられていたし、昼間でも通りにはランタンが灯されていたけど、それでも薄暗くて、狭くて……。穴倉って馬鹿にされるのも納得行くような街だったけど……俺は嫌いじゃなかったな」
「へぇー!」
 懐かしそうに語られる説明を聞いて、曖昧だった頭の中の映像に輪郭が描かれて行く。剥き出しの岩盤に囲まれ、ぽつぽつと夜空の星のようにささやかに光るランタンに照らされて、暗がりの中、ひっそりと立ち並ぶ街並み……。まるでお伽噺に出てくるドワーフの街のようだ。
「何だかロマンチックね。ちょっと見てみたかったな」
 と、彼の眼裏に映っている物を思い浮かべてうっとりと指を組み合わせ――ることは出来ないので肉球と肉球を合わせながら言うと、クォークは微かに驚いた表情を顔に浮かべてから、少しこそばゆそうに目を細めた。
 そして彼は、現実に意識を戻すように遠目に映る荒れた山野をぐるりと見渡す。
「旧ベインワットでは百年以上の昔から、細々と採掘と製鉄が行われていたそうなんだけど、ここ数十年で戦争が激化して鉄の需要が急速に増えて、ついに山も森も枯渇してしまってね。まだ手を付けていない鉱山のあったこの場所に新しい街を作って、首都ごと移転したんだ。……そしてまた、国はこの土地でも、同じ事を繰り返そうとしている。戦乱の続く現状を考えれば、仕方のない部分はあるんだろうけど」
「……そうなんだ」
 クォークの話す声は淡々とした物だったが、ミナは少ししゅんとした気分になった。ネツァワル国民である自覚はまだまだ薄い彼女だが、故郷を憂う彼の言葉を聞けば、切ない気持ちになる。そんなミナを見て、クォークは逆に彼女を気遣うように、苦笑を交えた軽い声を出した。
「ま、そうは言っても悪い事ばかりじゃないんだ。旧首都は、もうどこもかしこも古くなっていて、市街地でも度々落盤が起きるような有様だったから、それを機に近代的な街に作り替えたって事自体は良い事だったと思うし。……国軍の方針には納得出来ない部分も多いけど、彼らは彼らなりのやり方で、この国をより良いものにしようと必死なんだろうとは思うよ」
 独り言のように言って、彼はふと顎を上げ、砂色がかったくすんだ青空を見上げる。乾いた山を吹く風が、クォークの黒髪とミナの纏う子猫の産毛を涼やかに揺らしていった。

 その後も暫く、とりとめのない雑談をしながら人気のない山地を二人で歩いていくと――と言っても小さなミナはクォークに抱きかかえられていたので、実際に足を動かしているのは彼一人だったのだが――、他よりは少し木々の茂った場所に一戸の家が見えた。木陰にひっそりと佇む赤茶色の煉瓦を積んで作られた家屋は、小屋と言ってもいい程の大きさだったが、粗末な感じはしなかった。窓には薄く透明な硝子が嵌め込まれ、中に薄桃色のカーテンが掛かっているのが見える。屋根には小さな煙突もついていて、可愛らしい家だ、とミナは思った。
「在宅みたいだな」
 白い煙が糸のように立ち上る煙突を見上げ、クォークがぽつりと呟いた。肩によじ登っていたミナを胸に抱え直してから、クォークは小屋の前に立ち、扉をノックした。
 こんこん、という残響が閑静な山野に鳴り止まぬうちに、返答はすぐにあった。
「開いていますよ。どうぞお入りなさい」
 聞こえてきたのは予想外に若い、鈴の音のように澄んだ少女の声音だった。魔女、という固定概念を真っ向から裏切る歳若く儚げな声と、あたかもまるで最初から会う約束を取り付けていた知人に掛けるかのような気安さで招じられた事に二重に驚いて、ミナとクォークは顔を見合わせた。……まさか、別の来客と勘違いしているのだろうか。どうしたものかと困っていると、ドアが急かすようにぎいっと開いた。
「遠慮せずにお入りなさいな。取って食いやしませんから」
 どういう魔法の仕業なのか、開けられたドアの傍には誰もいなかった。しかしどうやら人違いという訳ではないらしい。ここで怖気づいて帰るなどという選択肢はあろう筈もなく、二人はおずおずと中に入った。
「わぁ……!」
 失礼します、と恐縮しながら木製のドアをくぐり、小屋の中の様子を目に入れるや否や、ミナは心中に巣食っていた幾ばくかの恐怖心をあっさり吹き飛ばして息を呑んだ。
 室内は、各国を渡り歩く魔女の一次的な住居にしては、驚く程様々な物で溢れていた。つややかな飴色の棚には色とりどりの薬品が入った硝子瓶が並び、広いテーブルの上にはうずたかく分厚い本が積まれている。それらの本の背表紙には、恐らく古語なのだろう、ミナには意味を理解する事の出来ない言葉が綺麗な飾り文字で書かれ、それ自体が神秘的な魔法の記号のように見えた。古びた本の香りに満ちる室内には、それに混じってごく微かに薬草を煎じたような芳香が漂い、ミナは鼻をひくつかせた。とても心落ち着く香りだ。
「私の家へようこそ、お客人」
 不意に、奥から聞こえてきた声にはっとしてミナが振り向くと、いつの間にか、正面のテーブルに一人の少女が肘をついて座っていた。十をいくらも出ていない年の頃と見える、人形のように愛らしい姿を、いかにも魔女めいた三角の帽子とゆったりとしたローブで包んでいる。少女の隣、頭の少し上あたりには、ゴブリンを模したぬいぐるみがふわりと宙に浮いていた。魔女テオネラが作り出し、世に齎した『魔導具』だ。
 直前まで誰もいなかった筈の場所に、唐突に現れたそんな姿に驚いて声も出せないミナに代わり、クォークが冷静に口を開いた。
「あなたが、魔女テオネラ様ですか?」
「ええ、そうです」
 少女は、ストロベリーブロンドの長い髪をふわりと揺らして頷いた。
「突然の訪問の無礼、お許し下さい。俺はこのネツァワル国の義勇兵、クォークという者です。今日は、魔女テオネラ様に折り入ってお願いがあってやって来ました」
「それは、そこの彼女の事ですか?」
 と、魔女はクォークの胸元にしがみついているミナに視線を向けて言った。彼女は一目見ただけで、それがただの子猫ではない事を看破したようだ。その慧眼にクォークも驚いたようだったが、話が早いとすぐさま頷く。
「はい。彼女はミナ。今はこのような姿ですが、俺と同じくこの国に兵籍を置くソーサラーです」
「そのようですね。……ちょっとこちらに来て頂いても宜しいかしら?」
 椅子に座したまま両手を伸ばしたテオネラに、クォークはゆっくりと歩み寄ってミナを預けた。宙に浮かぶゴブリンのぬいぐるみが、今は二人と一匹である三人の周囲を、眺めるかのようにゆっくりと漂い巡る。
「……珍しい。獣化の魔法ですね。ネツァワルらしいと言えば、実にその通りな魔法ですけれども。ただ、本式の魔法ではないですね、何らかの召喚術式の誤動作かしら……」
 しばらくの間、子猫の身体を持ち上げてしげしげと観察していた魔女は、一通り検分を終えると、そっとテーブルの開いた所にミナを下ろした。ネツァワルらしいという言葉の意味が分からずミナは目をぱちくりして魔女のあどけない顔を見上げたが、テオネラは可愛らしく口元に手を当てて「フフッ、何でもありませんわ」と笑って見せた。魔女というものは謎めいている。
「五日程前の戦場で、キマイラの召喚術を執り行って以降、彼女はその姿を取ったまま、元に戻る事が出来なくなってしまいました。彼女を元に戻す方法をもしご存知でしたら、是非教えて頂きたいのです」
 クォークの無駄のない説明に、魔女テオネラは事情は了解したと頷いて見せた。
「そうですか。恐らく、その召喚術に用いた触媒に、何らかの不具合があったのでしょうね。となると……ふむ」
 ミナを見下ろしつつ少し思案する様子を見せてから、テオネラはクォークに視線を戻し、再度、今度は鷹揚な仕草で頷いた。
「古来より、魔女とは人を助け、導く存在です。人の子よ、あなたが真に望むのであれば、手を貸す事を拒みはしません。但し……」
 クォークをひたと見つめるつぶらな瞳に、一瞬だけ鋭い光が差す。
「但し魔女とは、人に試練を与える存在でもあるのです。請願の成就には、相応の対価を頂く事になりますが、宜しいですか?」
「元より、ただでと言うつもりはありません」
 即答するクォークに、魔女は感情の色彩を悟らせない仄かな微笑を浮かべて、その次に彼が問うであろう言葉を遮るかのように言う。
「対価、と申しましても、金銭ではありません。人間世界の貨幣など、私には無用の物です」
 その意味深長な言葉に、クォークが僅かに眉を動かす。黙したまま魔女の言葉の続きを待つ彼に、魔女は朗々と謡うように告げた。
「あなたに問います。あなたはもし、この対価に己が命を要求されたら、それを支払う事が出来ますか?」
 ぴくり、と一瞬だけ瞼を震わせて、クォークの顔が無表情の形で凍りついた。
 ミナは困惑して二人を交互に見上げたが、魔女のうっすらとした笑みの貼りついた顔からも、魔女に向けられるクォークの温度のない視線からも、一切その心中を推し量る事は出来なかった。クォークは、何秒かの間微動だにせず、感情の色の消えた瞳でじっと魔女を見返してから、薄く唇を開いた。
「もし天秤に掛かっているのが彼女の命なら、俺の命で購えるのなら安い物でしょうが、流石に猫召喚解除と引き換えではちょっと。……何か他の物で代替は効きませんか?」
 その声は至って冷静で、身構えた所は一切感じられなかったが、もし魔女が無理だと言えば、彼は迷わずにこの小屋を後にして別の手段を探すだろうという強堅な意思だけは、ミナにもはっきりと分かった。魔女は不思議な輝きを宿す瞳をすうっと細め、手を口元に当ててくすくすと笑った。
「フフッ。それもそうですわよね。今のは、ちょっとした仮定の質問です。試すような真似をして申し訳ありませんでした」
 三角の帽子を乗せた頭を丁寧に下げ、魔女は先程よりも幾分気配が緩められた、穏やかな微笑みを二人に返した。クォークは、魔女に合わせて気を緩める事はしなかったものの、その魔女の言に対して不快の表情を見せる事もなかった。
 二人の客人に、魔女はゆったりと視線を配り、テーブルの上で手を組み合わせると悠然と言った。
「ご安心なさい。それ程重大な対価を求める気はありません。そもそも、これはあなた方が想像している程には差し迫った事態ではないのです。本物の魔女の呪法であればその解呪は困難を極めますが、これは人の魔法術式の不具合によって引き起こされたごくごく僅かな揺らぎに過ぎません。然るべき儀式を執り行い、揺らぎを中和すれば、簡単に元の姿に戻る事が出来ますよ」
「本当ですかっ?」
 ぱあっと顔を明るくしてミナが身を乗り出すと、テオネラはミナの顎下に指先を伸ばし、ころころと掻き撫でた。
 ああ、気持ちいい、とミナは陶然としそうになったがはっと気を取り直し、そのまま魔女を仰ぎ見た。魔女は、幼い顔立ちの中にあるのに老獪な光を湛える瞳でミナをじっと見ていたが、やがてにこりとして頷いた。
「そうですね……私の見立てでは、『カペラの水』大さじ三杯と『野獣の血』大さじ二杯、それと『真実の愛』をひとつまみ。それだけあれば事足りるでしょう。この材料を、今言った順番の通りにその身に与えなさい。さすれば、あなたは元の姿を取り戻す事が叶うでしょう」
「それだけでいいんですか?」
 たった三つの物を摂るだけでいいなんて、呪いを解く方法としては余りにも簡単過ぎて拍子抜けだとミナは思ったが、確信を持った様子で魔女は請け合った。
「ええ。順番さえ合っていれば、その間隔がどれだけ開いてしまっても大丈夫です。これは一つ一つが魔法的な儀式ですから、仮に成分が消化や排泄されてしまったとしても差し支えありません。……それと、対価ですが」
 一呼吸分の間をおいて、魔女は滑らかに続きを口にした。
「これ以降、私はこの件について一切、質問は受け付けぬこととします」
「え?」
 ふふ、と品よく笑うテオネラをぽかんとミナは見上げたが、そもそも質問のつもりもなかったその声にすら、魔女は微笑むのみで答えない。
 けれども……、とミナは首を捻る。戦場でするように復唱して確認しなかったのは迂闊ではあったが、今言われた事はちゃんと覚えている。『カペラの水』大さじ三杯と『野獣の血』大さじ二杯、それと『真実の愛』をひとつまみ。質問は受け付けないだなんて、たかだかそんな事が対価となり得るのだろうか、とミナは単純に疑問に思ったが、クォークの反応はやや違っていた。魔女の言葉に明らかにぎょっとした様子ですぐに声を上げた。
「ちょっと待った、『真実の愛』って……そんな品物、聞いた事がないんですけど!?」
 ――あ。
 あまりにも何の気なしに言われたので、そして何となくありがちな名称に聞こえたのですぐにはぴんと来なかったが、確かにその『真実の愛』、それだけは、今迄耳にしたことがない名前だったかもしれない。
 けれども魔女は申し渡した通りに最早返答するつもりはないらしく、天使のように愛らしい顔に無邪気とも思える笑顔を貼り付けて、朗らかに言った。
「頑張って、元の姿に戻って下さいね。健闘をお祈りしますわ」



「後で纏めて質問しようと思って黙ってたのが裏目に出た。……いや、違うな。それが分かってたからか、あんな『対価』を持ち出したのは。くそ、やられた」
 魔女の小屋を出てしばらくした所で、彼は珍しく、愚痴っぽい言葉を呟き始めた。ぶつぶつと悔しそうに文句を吐き捨てながら大股で歩くクォークを、彼に胸元に抱えられたままミナは少しびっくりして見上げた。
「やられた、って……相手は偉い魔女様なのよ? そんな意地悪な事をわざわざするかしら」
 かの魔女は、見た目通りの子供では決してないようだった。その言動には、明らかに歳経た賢者の風格があるように思われた。エルソードの賢人王、ナイアスも魔法によって老化を止めていると聞くが、それと同様の秘術を使っているのかもしれない。何の意味も意図もなく、そんな稚気を示すような相手ではないとミナは考えたのだが、クォークは恨みがましい半眼で最早見えない魔女の小屋を振り返りつつ、物凄く嫌そうな感じに口の端を曲げた。
「うちの部隊長と同じ目をしてたんだよ、人を嵌める事に快楽を覚える人間の目だ、あれは」
「そ、そうなの?」
 ミナの目には知性的な眼差しだとしか思えなかったが、彼には何か感じる物があったようだった。
「嫌な予感はしたんだが……俺も頭のどこかで、まさか高名な魔女がって思って油断してたのかもしれない。悪かった。……まあ、命を寄越せなんて言われるのに比べれば、対価とも呼べない対価だって思う事にしよう。何か詐欺のテクニックに引っかかったみたいな気もするけど」
 自分を無理に納得させるかのようにそう呟いて、クォークは口を閉ざした。機嫌の直らない様子でむっつりと歩くクォークに、ミナは少し不安になる。彼はミナに対して怒っている訳ではないが、そもそも迷惑を掛けた張本人はミナなのだ。今、猫の身で彼に対して出来る事など何もないけれども、せめて謝罪の言葉だけでも声にしようと口を開きかけたその時、ミナが言う筈だった「ごめん」という言葉が頭の上から降ってきた。
「ごめん。さっきの……やっぱり冷たかったよな」
「へ? さっきのって?」
 何を言われているのか分からず、戸惑いながらクォークの顔を見上げると、彼は真っ直ぐ前を向いたまま、無表情で続けた。
「魔女の前で、君の為に命を対価としては払えないって言った事」
 ぱちぱちと目をしばたいて、ミナはクォークの顎の辺りを凝視した。
「……や、やだ、そんな事気にしてたの? そんなの当たり前じゃない、クォークの言った通り、割に合わない取引だわ」
「でも、ミナにとっては大変な事なのに、あれはあまりにも気遣いの足りない言い方だった」
 淡々とした、けれども酷く悔やんでいる事が分かる声音に、ミナはクォークを見上げたまま暫く言葉を失っていたが、やがてふつふつと湧いてきた衝動に駆られて小さな爪を彼の手の甲に立てた。ミナが与えた微かな痛みに、クォークの双眸がはっと彼女の方を向く。すぐに爪は引っ込めたが、ミナは少し怒ったままの声を出した。
「リスクを考えないで安易に自己犠牲を口に出す人より、ずっと信用出来る答えだと思ったわ。私みたいな馬鹿とはやっぱり違うって安心した。……私とクォークの立場が逆だったらきっと私は、冷静になれずにそういう事をあっさり言っちゃってたもの。不公平な条件だからって撥ね付けるだけの勇気もないし……」
 情けないことだが、ミナは自分に彼のような理性的な判断が出来るとはとても思えなかった。彼の為ではなく、困っている彼が見るに堪えないという自分本位な理由で、最善の方法を探す努力もせずに、命でも何でもあげますと後先を考えない愚かな約束をきっとしてしまう。そして彼をもっと困らせてしまうのだ。……やっぱり彼はいつだって、一番正しい方法で、ミナを護り導いてくれる。今度は爪が出ないように気を付けながら、自分を抱きかかえる彼の手をきゅうっと握り締め、ミナは小さな子猫の身体一杯に溢れる思いを込めて囁いた。
「クォークがいてくれてよかった」
 それは心の底からの、けれどごく当り前の感謝だった。
 しかしクォークは、これまでの生涯で一度たりとも言われた事のない事を言われたかのような、驚愕に満ちた瞳でミナに見入っていた。そこまで彼を驚かせるような事を言ったつもりはなかったミナは、不思議に思って小首を傾げたが、その途端に身体ごと、ぎゅっと胸に押しつけるようにして抱き締められてしまったので、それ以上は何も見る事が出来なくなってしまう。
「……ありがとう」
 そっと、包み込むように聞こえてきた静かな声に、ミナは顔を上げようとしたが無理だったので、代わりに彼の胸にごろごろと喉を鳴らしながらしがみついた。

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