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 その報が我々の元に入ったのは、両軍入り乱れる混戦の中、自軍ナイトの一団が決死の覚悟で敵の護衛を掻い潜り、敵レイスを墜としたというそんな頃だった。敵の主砲を潰していざ畳み込まんというまさにその時に舞い込んできた凶報は、浮き立ちかけた我々に冷や水を浴びせる痛撃となった。
「《ジェネシス》が撃退されただと?」
『は、敵部隊の猛攻に合い、指揮を取っていた部隊長が負傷、そのまま中央から押し出される形で後退した由に。現在中央窪地は敵陣営に占拠されている模様』
 本陣からの通信によると、開戦直後、中央の窪地を制圧すべく一目散に駆けて行った部隊が、敗走して戻って来たのだという。報告に部隊長は小さく舌を打ち、しかし即座に抑制された声音で「敵の規模と被害状況は」と問う。
『《ジェネシス》隊が遭遇した敵部隊はほぼ当該の部隊と同数、二十名程度であったとの事。《ジェネシス》部隊長コールド殿は処置室で治療中、一命は取り留めた模様、他数名の負傷者を出していますが魔法薬で回復しています。部隊長殿の負傷の程度は重く、即時の戦線復帰は難しい事から、部隊は指揮権限を副隊長のホリック殿に委譲して再出撃の準備中であります』
 最悪ではないが色良い知らせとも言えない返答に部隊長は数秒程黙考した後、指示を出した。
「《ジェネシス》には東側戦線に出撃するように言え。中央は敵部隊の動向の監視を続行。必要に応じて『ブルワーク』を建造し守備に徹しろ」
『了解しました』
 通信が切れると、側近たちの間に沈黙が落ちた。その沈黙を破ったのは、傍に控える幹部の一人の独り言のような呟きだった。
「……《ジェネシス》を同数で退けるとは」
 かの部隊は我々と同様、白兵戦に定評のある部隊である。エルソード軍の主力と目される《フォアロータス》ならば或いはこの結果も叩き出せようが、件の部隊はレイスと同時にこの東の戦線に到着していて我らと熾烈な戦闘を繰り広げている。勿論、エルソードにもまだ有力な部隊は存在するので決して有り得ないという事態ではないが、我々に衝撃を与えるには十分な知らせであった。
 しかし部隊長は、部下のそんな弱腰の発言を鼻先で笑い飛ばした。
「中々やるようだな。だが、《ジェネシス》は我々四天王の中でも最弱。エルソード如きにやられるとは我が国の、」
「面汚しよとかそういう戯言はいらんぞ」
 四天王って残り二つはどこの事だ。ふざけた成句は言葉途中で遮って、代わりに私が幹部たちを振り返る。
「我が軍も順調に敵の勢力を削りつつある。何も問題はない。現状通りに作戦を進行せよ。それと、中央を占拠されたという事であるならば」
 一応、部隊長の指示を仰ぐ為に視線を向ける。その一瞥で、私の進言を察した部隊長は軽い頷きでそれを了承した。
「敵軍は、我が方の本陣への最短ルートを用いて『キマイラ』を召喚して来る可能性もある。ナイトを更に追加召喚し、敵キマイラのファイナルバーストに備えよ」
「はっ」
 指示を受け、幹部たちはそれぞれの配下に指示を与えるべく敏速に散開して行く。その同僚たちの背中越しに戦場を眺めていると、唐突に後頭部をぽふんと軽く叩かれた。
「ありがとな、ロゼ」
 それは何に対する礼なのか――穏やかで静かな、部隊長の感謝の声が私の背中に覆い掛けられる。私が振り向こうとするのと男が私の横を通り過ぎようとするのは全く同時でその顔を見る事は叶わなかったが、私の頭に触れた手をひらひらと振って前線へと歩いていく姿は真っ直ぐで、何の迷いもないように見えた。背筋の伸びた広い背中を、私は少しの間、打たれた場所を手で撫でながら見つめていた。

 それからまた暫くの間、戦場では両軍相譲らぬ攻防が続いた。
 敵レイスを撃墜するに当たり、我が方のナイト部隊にも少なからずの被害が出、召喚解除が相次いだが、本陣では部隊長の指示に従い絶えず後続を補充し続けていた為、殲滅力は衰えず、敵がレイスに続いて出して来た、建築物破壊に特化した召喚獣ジャイアントをも撃沈せしめるに至った。しかしながらその勢いに乗じて出し進めた我が方のジャイアントも、敵軍の防衛線を突破し敵オベリスクにまで手が届き掛けた所で敵方の騎兵部隊の手によって斃された。
 軍団通信にて入る報告によれば同じ頃、西方の戦線でも同様に、激しい戦闘が繰り広げられていた。敵軍がクリスタル付近を占拠しアロータワー群の防衛線を形成するも、我が軍はレイスを始めとした召喚勢力を東に重点的に送り込んでいた敵の隙をつきジャイアントを召喚、敵軍の防衛線を破壊して突破する。しかし、こちら東戦線で敵レイスを撃破すると敵は再召喚したレイスを西戦線へと送り、敵の勢力圏内に突入しつつあった我が方の部隊は後退を余儀なくされた。
 そんな東西の戦線の激動ぶりとは裏腹に、中央では不気味な静寂が続いていた。
 中央を制圧した敵軍の一団は、しかしながらそれ以上我が方への進攻は行わず、領域の維持に専念している。こちら側が送り込む威力偵察部隊は悉く撃滅され、その戦力を正しく評価する事さえ難しかったが、相当の戦闘力を有している事だけは窺い知れた。
 めまぐるしくありながらも形勢としては膠着状態が続くエルギルの戦況は、開戦から数時間が経過した正午過ぎになって少しずつ動き始める。
 我々は、中央にはナイトでの監視のみを残して奪還を断念し、その分東西に全力攻撃を仕掛ける作戦を取った。それが奏功し、特に東の戦線は歩兵戦力の差が如実に現れて徐々に戦線を押し上げ、再度敵の支配地域内に踏み込み始めていた。『オベリスク』による領域確保が、メルファリアに於ける戦の趨勢を決する。中央の窪地は敵に制圧されているが、より広い東の領域を確保し、また既に建造されていた敵オベリスクの破壊に成功した事で、戦況は着実に我々優位に傾きつつあった。

「このままで行ければ、俺らの勝利は確実だな……」
 部隊後方から指揮を執りながら楽観的な予測を呟く部隊長の顔は、しかしどういう訳か酷く険しい物だった。眉の間に皺を寄せ、端麗ながらも精悍な顔を顰めて我が軍の猛攻を見つめている。その切迫した顔つきはどう考えても現況には不似合いで、私はその意図を質すべく視線を向けた。
「この優勢は続かないと考えるか」
「こんなジリ貧の状況のまま、むざむざと俺らが敵本陣を陥落する様を指を咥えて眺めていやがったらエルソードは阿呆だ。絶対に何らかの手に打ってくるに決まっている。中央の部隊、これが気になるな。意味もなく伏せておくには随分と勿体ない戦力だ。……警戒ナイトからの報告は?」
『中央敵部隊、E5地点クリスタルにて採掘を続けたまま、動きは見えないとの事』
 即座に本陣を通じて監視を続けるナイトからの報告が入る。ただ、警戒ナイトの本来の任務は敵本営から出撃する召喚獣、特に形勢を一気に覆し得るキマイラの監視だ。拠点からは距離のある、中央の歩兵の動きまでをも完全に監視しきることは難しい。その上うっかりと歩兵集団に接近し過ぎて、敵の視界を奪うスカウトの武技、ヴォイドダークネスでも食らってしまえば本来の任務にすら支障が生じる。故に遠巻きにならざるを得ない監視の目を掻い潜り、密やかに何らかの作戦を遂行中であったとしてもおかしくはない。
 部隊長はまた少しの間本陣とのやり取りを交わし――内容は主に、両軍のオベリスク展開領域、及び損壊状況から算出した領域魔法の威力評価であった――最終的に、決意の臍を固めたように顎を引いた。
「よし。これより我々は、敵本陣への縦深攻撃を行う。目的は敵オベリスク及び、『ゲートオブハデス』の破壊だ」
 良く通る声での宣言に、ざわりと周囲がどよめいた。ゲートオブハデス。それこそは、レイス召喚の媒体となる冥界と現世へと繋ぐ門、敵の攻撃の要たる魔法建築物であった。それを破壊すれば以降、敵は強力な対歩兵戦力レイスの召喚が不能になり、我々は召喚戦術に於いて絶大な優位性を得る事になる。
 しかしそれだけに、それは最も堅固に護られるべき建築物の一つであった。敵本陣の至近、敵の懐にあるそれを破壊するのは決して容易な事ではない。敵軍は、熾烈な抗戦を展開するであろう。
 当然、部隊長はそれを承知してはいたが、決断は揺るがなかった。
「自軍召喚戦力を全て東へ投入。西は守備に徹するよう指示を出せ。状況次第では後退しても構わない。オベの一本や二本放棄しても、こちらには計算上まだ十分な余裕がある。……現在移動中のレイスが戦線に到着し次第、作戦の実行に入る」

 半刻程して移動中であった自軍レイスが最前線に合流し、我々は件の作戦を決行した。我々は、先陣にウォリアー、そしてレイスを配置し、その左右を固める形でソーサラーを据えた攻撃的な布陣で進撃を開始した。雨霰の如く矢を射放つアロータワー群を一気に抜け、丘を駆け上がり、小川を越え、手始めに敵が資源採掘を行うクリスタルを奪取する。
 密集して突撃を行う我々に対し、魔術の国エルソードはその武力の真骨頂たる範囲攻撃魔法で応戦した。重層的に居並ぶソーサラー部隊から撃ち放たれる激甚な氷雪や雷撃の魔法を我々は武具で防護し、或いはそれを体捌きで回避して攻め上がるも、確実にそれらは我が軍の兵力を削り続けて行く。
 しかし、猛烈な抗戦に多くの兵士たちが倒れ伏しても、我々は怯む事なく前進を続けた。負傷した仲間たちの意思を引き継ぐ決意を込めてその身体を越え、速度を緩めず突き進む我々の姿に、敵の陣形が次第に崩れ出す。ソーサラーを多く配置し、魔法の力を頼みとするエルソードの軍勢は絶大な攻撃力を誇るが、ウォリアーに乱戦に持ち込まれれば、脆さを露呈するのだ。
 怯み、逃げ惑う魔術師の軍団に、狼の群の如く飛びかかり、敵の喉に食らいつく。
 その喉笛を食い破り、敵の懐の内へと飛び込み、
 本陣前に鎮座するクリスタルの清らかな燐光を血煙で塗り替え、
 敵兵の一団が囲んで護る、異界へと続く禍々しき門の形をした建造物を目前とした、その時、――
『報告! 敵部隊が、我が軍の砦に攻撃を開始しました……!』
 このエルギルの地の丁度対角にある我が方の砦から、まさに今我々が立っているこの戦場と同じ事態が、自軍の砦でも起きている旨の報告が入った。

「何だと……っ!?」
「来やがったな」
 我らが拠点の突然の窮地に驚愕の叫びを上げた私の横で、部隊長は至極冷静な、しかし酷く獰猛な声で囁いた。
「中央の部隊が漸く重い腰を上げて動き出したんだろう。こちらへ救援に入って来るかとも思っていたが、ウチの本陣を突くとはな。どこの部隊だか知らんが、随分と好戦的な決断をしてくれるじゃねえか。その指揮官とは気が合いそうだ」
 いっそ嬉々としたとでも言うべき声音で言い、すぐに握った通信石へと向けて指示を飛ばす。
「召喚儀式を一時中断、ウォリアー隊、対処に当たれ」
『ウォリアー部隊、敵部隊と交戦開始! クリスタル補給部隊との連絡途絶、敵の撹乱を受けた模様! 召喚部隊は……ああっ、我が軍のゲートオブハデス、護り切れません!』
 切迫した状況ながらも冷静さを保とうと努力していた通信手の声に、にわかに悲嘆が入り混じる。
「ヴォイドかアムでも食らって無力化されたか? 慌てるな、『門』はしゃーねえ、どうせこっちも折れる、イーブンだ。中々やり手の短剣部隊がいそうだな、無理に殴り合うな。後方にさえ抜かれなければいい」
『砦前の混戦地帯から敵部隊のうち数名の離脱を確認、セスタスとフェンサーの混成部隊の模様っ! 砦を迂回し……後方へと移動を開始しています!!』
「おぉー……」
 終始淡々と指示を出していた部隊長が、この時初めて嘆声じみた声を上げて絶句した。
 セスタスは体内の気の流れを操る事に長けた拳士で、格闘術に精通する傍ら、その技術によって魔法建築物の魔力の流れすらも乱し、建築物破壊も得手とする。身軽で機動力のある剣士、フェンサーはその護衛だろう。――狙いは、後方に林立する我が軍のオベリスクだ。
「今迄のんびりしてやがった癖に、いざ動き出すとやる事がワンテンポずつ早えーな。こりゃあ《ジェネシス》も苦戦する筈だわ。今回は砦詰の要員にもまともに戦える奴しか集めてねえが、この様子じゃちょいと厳しいかも知れんな……」
 天を仰ぎ、瞑目して、数秒。やはり、男の決断は早かった。
「シグルド隊、ロゼ隊、ついて来い! 敵陣を、自軍砦方面に強行突破し中央窪地に降下、窪地を突っ切って、砦を攻撃する敵部隊の背後を突く! 残りの部隊はこのまま敵本陣へ攻撃を続けろ! 敵『門』破壊後は速やかに裏の丘を制圧し、敵の裏オベリスクを根こそぎぶっ壊してやれ! 目には目を歯には歯を、オベ折りにはオベ折りをだ!」
 部隊長の指示に、全てのメンバーが「応!」と短く返答する。最精鋭の一団を引き連れ、部隊長は本隊から外れた。相対する敵も我々の挙動に気付き、作戦内容の詳細には気付かないまでも前進を阻むべく一部の人員を動かそうとしたが、本隊の方角から飛び来た氷雪の渦、我が軍のソーサラーの操るブリザードカレスの魔法がそれを遮った。強烈な冷気に足を取られて、敵部隊がたたらを踏む。
 戦場に僅かな道が開く。その空隙を抜けて、我々は目標方角へと全力疾走し、追走してくる敵を振り切って、砦の最短ルートとなる急斜面を我先にと飛び降りていった。

 追撃部隊は、崖下にまでは追っては来なかった。下手に追えば逆に退路を断たれる形になり、返り討ちに合うのはあちらとなるからだ。敵の指揮官はそれを危惧して即座に追撃の指示を出せなかったのだろう。我が軍の砦へと攻め入った部隊と違い、同じエルソードの部隊でもこちらの指揮官は随分と堅実であるようだ。
 その判断がそれぞれの軍にとって吉と出るか凶と出るかは現状では神のみぞ知る事であったが、ともあれ、我々の行く手を阻むものはこれでなくなった。後は、可及的速やかに砦へと戻り、敵軍に急襲をかける事に専念するのみである。東の広い盆地とは違い、小規模な起伏と岩場の多い中央窪地を一路疾駆して行くと、やがて敵軍が占拠していたという大クリスタルの放つ儚げな光が微かに見えて来た。血で血を洗う戦場には不似合いな美しさを誇る、けれども全ての魔法、全ての武技、全ての力の源となる、これなくしては戦そのものが成り立たないと言える程にメルファリアでの戦争に深く食い込んだ澄み渡る煌めきを、私の目は遠目に映し――
 その瞬間。私をとある感覚が襲った。
 ざわり、とざらついた手で背筋を撫でられるような感覚。
 以前にも――たった一度だけ感じた、異質な気配。
 全身が総毛立つ。発作的に湧き上がって来た、本能から来る恐怖に凍りつく身体をを意思の力で捩じ伏せ、私は身を翻し、叫んだ。
「九時方向! 伏兵だっ!」
「跳べっ!!」
 私の声に重ね合わせるように、部隊長の声が飛ぶ。
 そして更にそれとほぼ同時に、横合いの岩陰から、先程味方のソーサラーが撃ち放ったのと同じ、凍てつく颶風が我々に襲いかかって来た。

 注意喚起の甲斐もあってか、味方は誰一人として氷鎖に絡め取られる事なく回避に成功していた。それぞれが、咄嗟に魔法の着弾点を見極めて四方に散開し、武器を抜き放って攻撃の発生地点に注意を向ける。注意は魔法の使い手がいるであろう岩陰のみではなく、円陣を組んで、周辺にくまなく向ける事も忘れなかった。
 ――否。忘れてなど、最初からいなかった。今の今迄も、全周警戒は怠っていなかったのだ。敵の背後を突こうとしていたのだ、その挙を敵に悟られては元も子もない。どんな物陰に斥候が潜んでいようとも、必ず見つけ出して排除するつもりで全員が目を光らせていた。
 なのに、部隊でも最も武に優れた精鋭である我々の誰一人として伏兵を察知する事が出来なかった。しかもハイドの武技を習得するスカウトではなく、本来隠密行動には向かない筈のソーサラーの伏兵を……
 ――有り得ない。
 私の脳裏に浮かんだ結論は、ただそれだけだった。現実に起きた事象を否定するなど馬鹿げているにも程がある行為だが――有り得ない。そうとしか思えなかった。周辺には、身を潜ませる事の出来る遮蔽物は確かに多かった。だが、数多の視線から完全に逃れきる事など到底不可能。ましてやその身に充満する精神エネルギーを魔法陣として展開して戦うソーサラーの姿など、ヴォイドダークネスの武技ですら隠しおおせるものではないというのに。
 部隊長が、巨岩に向かって一歩進み出る。それを合図としたかのように、岩と岩の合間から、水がしみ出すように黒い影が現れ出でた。
 異教の神官じみた風貌の男であった。首元から爪先まで、所々銀糸で呪紋が施された長衣と裳とでくまなく覆い、頭部もまた衣服と同じ意匠の、高く尖った三角のフードを被っていたが、目元を覆う仮面だけが抜け落ちたように白い。唯一肌を露出している口元には深い皺と髭を蓄え、不吉な風貌とは不釣り合いな温和な笑みが浮かんでいる。
 それに続き、周囲の別の岩からもぽつ、ぽつ、と暗闇に火が灯るように、人影が現れ始める。ソーサラーが多かったが、スカウト、ウォリアー……あらゆる職種の兵が、ハイドを解いたスカウトのように、或いは悪夢のように、忽然とその気配を現し始め――我々を取り囲んでゆく。
 その数、ざっと五十近くか。今の我々に倍する人数である。斥候などという規模ではない。それどころか、当初《ジェネシス》が齎した報告よりも尚多い。我が方の砦も未だ敵の攻撃を受け続けている筈であるのに。
「何故だ。いくらなんでも数が多過ぎる。罠の中に引き込まれたとしか思えねえ」
 部隊長が真っ直ぐに敵に視線を向けたまま、淡々と、微かな声で囁く。隣にいる私にのみ辛うじて届く声量のその声は、自分との対話であるようだった。
「だが……、だが今この時点で、ここまでして俺達を嵌めた所で何になる? 他の戦線に穴が開くだけだ。いくら人数負けしていたとて、ここで時間も稼げない程ウチはヤワじゃねえ。俺達とこいつらが交戦し、この人数をこの場所に縛っている間に、別働の他部隊が敵拠点を陥落して終了、こんな場所でドンパチやらかしてたらキマすら通せねえ。勝てるロジックが存在しない……」
 その独白は、最初に登場した老人の乾いた唇が紡ぐ嗄れた声によって遮られた。
「ようこそ、我らが庭に、『ネツのキラーマシーン』。……いや今は、『魔物の王』と呼ばれる事が多かったのだったかのう……?」
 神話上の魔王からその名を取った我が部隊の部隊長をそのように呼ぶ者もいる。老人は、道でたまたま出くわした知り合いと挨拶を交わすような気楽さで、こちらの素性を知っての攻撃であると告げてきた。思考に没入していた部隊長は、一つ息を吐いて現実の世界に意識を引き戻すと、正面の老人に鋭くもからかうような嘲りを含んだ視線を向けた。
「庭、ねえ。……あれか。もちろん中央で、って奴か? どこの国でも国軍様のお考えになる事は俺たち一兵卒とは一味違いますなぁー? ……今日こそは《ロータス》や《傭兵団》にぎゃふんと言わせてやろうと意気込んでたのによ、空気読めねえ横槍入れやがって」
 極限まで嫌味たらしく聞こえる口調を作り上げて発せられた皮肉に、ソーサラーの老人は口元に笑みを浮かべたまま、密やかに気配を硬化させた。嫌味そのものにではない。その発言の意図する所――即ちこの男もまた、相手の素性に気がついているのだという宣言が、老人にその態度を取らせたのだ。
「……参考までに聞くが、何故我々が、エルソード国正規軍の者であると気付いたのかね?」
 しかし無闇な隠し立てをすることなく、恐らくはただ純粋な興味で老人は尋ね、男は傲岸不遜に顎をしゃくって見せた。
「あん? 使ってる技術がどう考えても一般兵の持ち得るものじゃねえだろうがよ。……熟練者のハイドサーチの目すら欺き、ソーサラーの気配までをも隠蔽する……単なるスキルじゃねえな、手品のタネは装備か? エルソードはおっそろしい物を作るもんだぜ」
 顎を上げたままの視線でソーサラーの老人を射る。老人は口元をやや誇らしげに綻ばせた。
「無論、この技術は通常の戦争に用いるつもりはない。製造コストも量産にはとても向かんし、何より他四国が黙っておるまいて。公開した所で、また一つ国際法の条文に禁止事項が追加されるだけじゃ」
「今回その秘密を晒しても、目的通り殲滅しちまえば、目撃者はいなくなる。だから問題はない、ってか。……はっ!」
 男は侮蔑を込めて、爆ぜるような鋭い吐息を吐き出した。
「俺からも聞くぜ爺さん。お前らの標的は、ハナから俺たちだったな? 開戦当初からここ中央で待ち受けていたのも本当は《ジェネシス》ではなくウチが来ると踏んでいたから……普段だったら中央突貫に出てたのはウチだっただろうからな。だが想定外に俺たちは真面目に召喚戦を続け、本陣にまで攻め上がった。《ジェネシス》をわざわざ兵を伏せたまま同数で追い返し、今この段になってこちらの砦を攻めたのも、この状況を揃えれば俺たちならば中央ルートを通って砦へと帰還すると、そう踏んだからだな」
 老人は微笑みを浮かべたままじっと男を見ている。部隊長は、更に続けた。
「だが、解せねえ。このタイミングで俺たちを嵌めてどうするつもりだった? エルソード軍は、ここからどう勝ちに繋げるつもりだった?」
 これだけの兵を始めから中央に伏せさせていたのだとすれば、東西の戦線を攻めきれないのも道理だ。この人員を初めから東西に割り振っていれば、我が軍とも互角以上に渡り合えたであろうに。それが分からぬような相手ではない筈だ。
 その疑問に、老人は、くっくっくと愉しげに笑って見せた。
「優れた打ち手こそが陥り易い罠じゃよ。賢しき者は常に相手が最善手を打ってくるものとして考える」
「どういうこったい? お褒め頂いて恐縮だが、俺はあんたが言う程頭は良くはないんでね。説明して貰えると有り難いんだが」
「簡単な事じゃ。この目標戦そのものが、初めから、標的を絡め取る為だけの壮大な網だったという事よ。此度の我々の任は目標制圧に非ず。そなたら、ネツァワルの魔物を討ち取る事にあり」
 老ソーサラーの、噛んで含めるかの如きゆっくりとした告白に、部隊長は、慄然として眼を見開いた。この男が表出するものとしては稀有と言える程の驚愕の表情だった。
「……成程な。読みも誤る訳だ。そりゃあ想像が及ぶ筈もねえ」
 呆れと驚嘆が等分に満ちた声で、呻く。
 分かる筈もなかった。前提と固く信じていたそれそのものが間違っていたのだ。
 勝つ為の罠ではなかった。
 私たちを殲滅する、ただそれだけの罠。
「……だがやはり解せねえな。通常の戦場ならいざ知らず、一部隊の掃討なんて戦術目標を棄ててまで狙うこっちゃねえだろうに」
「その、通常の戦場ならばいざ知らず、という発想こそが答えじゃよ。極限までお主に気づかれる可能性を削る為じゃ。途中で看破されては罠にはなるまいて」
 老人の声はやはり愉快そうに弾んでいる。奸智に長けるこの男をまんまと術中に嵌めた事は、この老獪なソーサラーにとっても喜ばしいことであるらしい。だが、そこには油断はない。
 まばたきする間すら惜しんで相手を睨み据えていた部隊長の瞼が一秒、閉じられた。
「目標と引き換えにウチを潰そうたあ、随分とまあ高く買ってくれたもんで。いくらウチが部隊としちゃあ強えぇと言った所で、このメルファリアを包む戦乱の嵐の中じゃほんの一滴の雨粒にしか過ぎねえだろうに」
「絶えず雨粒に打ち付けられれば岩とて砕かれるものよ」
 唯一見える口元だけで笑った老人は、敬意すら込めた声でそう告げると、さて、と話を切り上げた。
「名残惜しい所じゃが、そろそろ遊びの時間は終いじゃ。さあ、武器を構えよ、魔物らよ。それくらいならば待ってやろう」
 老ソーサラーと、長らく沈黙を保っていたその配下たる敵の一団に、にわかに戦闘の意思が宿る。それは武器を握る手に込める力を少し強めた程度の僅かな動きにしか過ぎなかったが、窪地に淀んだ冷たい空気に、あの不吉にして不穏な匂いが撒かれる。
 風の音、鳥の声一つ聞こえない、静寂が落ち――
「高く見積もられつつ、見くびられるってのもおかしな話だな」
 そんな空気を、男の鮮烈なる声の一閃が、断つ。
「舐めるなよ。……逆に喰らい尽くしてやる」
 ――合図もなく。
 このエルギルの中心に集う全ての兵が、一斉に奔り出した。

 獅子奮迅の猛戦とは、この事を言うのだろう。
 数に勝る敵に対応する為に、我々は互いが互いの背を護る形で堅固な陣形を組み、防戦を展開した。具体的な指示などはない。ただ各自が各々の経験則に従い、動く。各個の動きは一見、連携など何もないように見える物ではあったが、その瞬間瞬間での最善の一手を模索することに精通した我々は、徒党を組めば一頭の巨大な獣であるかのように有機的に機能した。互いの挙動を一切阻害することなく、己の身を護るように味方を護り、右手と左手の如き無意識であるのが当然の滑らかさで味方の攻撃に適切な追撃を添える。本来ならば一息に畳み込まれてもおかしくはない程の多勢に無勢でありながら、襲い来る敵をその牙で噛み割き、血煙を吹き上がらせた。
 ――ネツァワルの魔物。魔物の王。
 自らそう名乗り、そう呼ばれる所以が、確かにここにあった。
 徐々に爪を折られ、牙をもがれゆく手負いの獣は、しかし尚も敢然とそこに立ち、奮戦し続ける。

 敵の刃に掠められながらもアームブレイクの技を撒き、追撃を味方に任せて後方にステップした私の背に、不意に人の気配が触れた。敵意のないその気配を、今の私の鋭敏な感覚は、目で確認するのと同じように当り前に味方の物として受け入れる。
「ロゼ」
 混戦の喧噪の中、聞き慣れた声が耳朶を打った。各人の負傷の度合いは、もう既に個別に把握し切れる状況ではないが、この男の声にはまだ張りがあった。そのことに私は深い安堵を覚えた。
 私と背中を合わせる恰好で立つ部隊長は、落ち着いた声で私に指示を出した。
「この混乱に乗じて、ハイドして、抜け出せ。警戒は厳しいが、隙は作る」
「な、何を言っているんだ」
 戦闘中、敵から目を逸らすのは愚行であると熟知しながら、思わず私は驚愕の眼差しを男に振り向けた。だが男の方は私を顧みることなく、淡々と告げる。
「腐っても正規軍だ。この人数差で食い切れる程甘かねえ。お前の隊だけでも今は逃げろ。スカウトのみで構成されているお前の隊が一番の適任だ。そして、逃げ延びた面子で速やかに部隊を立て直し、徹底的に報復しろ。我ら――《ベルゼビュート》の名に於いて。きっちり三倍返しだ。この俺たちに舐めた真似をしたらどうなるかを糞エル民どもに骨の髄まで思い知らせてやれ」
 その冷徹な声音に応えるには全く相応しくない情けない震え声を、私は上げた。
「もうすぐ敵拠点を陥落出来る。そこまで全員で耐え凌げば」
 敵軍が降伏し、休戦状態に移行してからの攻撃は国際法で禁止されている。だが部隊長は首を横に振った。
「目標を棄ててまで一部隊を殲滅しようなんて考える見上げたイカレ野郎共だぜ。国際法なんざ守りゃしねえよ。軍人サマって人種はどこの国でも、目的の為に手段をないがしろにする事が美徳だと思い込んでやがる、風情の欠片もねえ奴らだ」
「攻城部隊の一部から増援を」
「駄目だ。今は呼ぶな。折角の優勢が水の泡になる。呼ぶなら拠点陥落後だ」
「だがっ!」
 裏返った声で叫ぶ私に、男は漸く振り向き、威圧するような強い視線で私を射た。しかしあくまでも冷静な表情のまま、聞き分けのない子供にそうするように忍耐強く言い含める。
「俺たちは何の為に戦っている? 勝つ為だ。てめえの命を惜しんで勝てる勝負をふいにするなんてつまんねえだろうがよ」
 そこは。それだけは。納得出来なかった。そこまでして勝利を掴む事に何の意義がある? 我々の第一義は、勝つ事ではなく楽しむ事ではなかったか? 勝つ事が、ひいては楽しみに繋がるからこそ勝利に向けて邁進するのであって、死んでは元も子もないという考えであった筈だ。この男は、下手なプライドを振り翳して引き際を見誤るような男ではなかった筈だ。
 ――後になって気付いた事だが、この時の私の疑念は正しかった。男は適当な事を言って煙に巻こうとしていただけだったのだ。ただ、私を含めた一握りの部下を確実に逃がす、それだけの為に。
 けれどもこの時は、上官に歯向かい議論を試みるべき時ではなかった。私は吐き出したい血反吐をそのまま丸飲みする胸の痛みを覚えつつ、頷いた。
「時間を。生きたまま、時間を稼いでくれ。勝利の報を受け次第、すぐさま増援を連れて戻って来る。だからそれまで耐え切ってくれ」
「おう。期待してるぜ」
 安心したように、にかっと陽気な笑みに立ち戻って応じながら、男は前に向き直ると、大きな盾を邪魔臭そうに放り捨てた。そして敵のものか味方のものか、地面に穂先を深々と突き刺して墓標のように立っていた両刃の両手斧に足をかけ、それを引き倒して柄を自分の方へと向けて掴み、重量を全く感じさせない仕草で一息にそれを抜き放った。
 分厚い両刃の斧が光の尾を曳いて空を薙ぎ、肩に担ぎ上げられた形でひたりと静止する。男が両手斧を構える所は、私はこの時初めて見た筈だったが、その流れは余りにも自然に様になっていて、一切の違和感を感じず、これがこの男本来の姿であるのだと当然の如く思った。
「実を言うと、片手武器よりこっちの方が得意なんだ」
 冗談を言うような軽い声が誰へともなくそう告げる。続く言葉は、今度は明確に敵に向けられた挑発だった。
「『ネツのキラーマシーン』の実力を味わいたい奴からかかって来いや。たっぷり御馳走してやるぜ?」

「ビンボー籤はロゼに引かせた。シグルドてめえは俺と死ね。もう十分に生きただろ」
「生きてねえよ馬鹿、今が一番脂の乗った時期だぜ俺ゃあ」
「気持ち悪りーだけじゃねえか脂ぎった中年とか。世界の為にくたばれ四十路」
「誰が四十路だまだ三年あるわ、てか全世界の四十路の皆さんに謝れ!」
 下らない。涙が出る程に下らない言い争いを続ける声が剣戟の音と混じり合って聞こえる。不自然にならない形で移動した戦域は岩場が多く、敵の死角になる位置で私と私の部下数名はハイドに成功した。同時に、居残る部隊に属するスカウトたちもハイドを行う。――敵中に潜入して、決死の撹乱技を撒く為だ。
 撹乱役のスカウトたちが動き出した。それに紛れる形で、私たちも少しずつ散ってゆく。一網打尽を避け、運悪く発見されてしまった者はそのまま囮として切り捨てる為に、分散して撤退するのだ。
 敵も、こちらの複数のスカウトが潜伏を開始した事には気付いている筈だ。だがそれだけに、微かな気配でしか悟る事の出来ない隠蔽技を警戒して、より一層の意識を多方面に割り振らねばならなくなる。その隙を――突く。
 それぞれが、各々の判断で最も適切な配置についてゆく。暴風雨の中で綱渡りを行うような絶望に満ちた緊張を、幾度も死線を乗り越えてきた兵士の矜持で押し込める。
「まあ、世界の為に死ぬ気はねえが」
 そんな重く湿った空気の中で一際軽く、部隊長の右腕である男の呟きが、聞こえる。
「お前の愛しのロゼちゃんの為なら、しゃーねえか」
 見開いた私の瞳に涙の幕が張る。ハイド中でよかった。今ならば、きっと誰にも気づかれない。
 馬鹿だなあ。人間観察の杜撰な奴だとは思っていたが、それは観察しきれていないにも程があるだろう。部隊長が愛しく思っているのは、私などではないのだぞ?
 ソーサラーの大魔法が、炸裂した。空を燃やし地を舐める、地獄の炎。視界が紅蓮に染まる。そこに忽然と姿を現したスカウトたちが、紅の光の中に艶めかしいとも言える陰影を作り上げた。光に灼かれた敵の目を、立て続けにスカウトの放つ闇が覆う。
 声もなく、振り返る事もなく、我々は味方に背を向け、散った。

 暫くの間はただ己の身の安全のみを考えてひた走り、集合地点と定めた窪地の出口に辿り着いてから私は周囲に意識を向けた。……敵の追撃がない事は分かっていた。全て、死兵となってその場に残った味方が阻んでくれたのだ。
 私を、ほんの一握りの私たちを、逃がす為に。
 …………今は、考えるな。
 悔やんで足を止めるのは、味方に対する裏切りだ。生きて帰るという任務を帯びたのが我々であるのならば、我々を生かす責任を持つのは残った味方たちだ。考えれば悔やまずにはいられないのなら、今は考えるな。冷静に、この反省を教訓として生かせるだけの冷静さを取り戻してから、考えるべきだ。
 いつまで経っても整わない荒い呼吸はきっと全力疾走によるものだ。開き掛けた唇をぐっと閉じて、私は周囲に集い始めた我が隊のメンバーを確認する。点呼を取ると、全員が揃っていた。
 私は頷き、分隊長として口を開いた。
「よし。このまま、……」
 我々は砦に帰還する。ここから我が軍の砦は目と鼻の先だ。砦近辺にて未だ続行中の戦闘状況を見極め、可能であれば背後から撹乱に入る。巧くすれば敵部隊を壊滅させる事が出来るだろう――
 ……言うべき言葉は最初から決まっていた筈なのに、しかしその台詞は、いくら搾り出そうとしても私の口から出てこようとはしなかった。部下たちが私の顔を不安げに見ている。これではいけない。どのような窮地にあっても部下を勇気づけ、最大限に運用する事こそが指揮官の役目ではないか。その私が部下に不安を与えて何とするのだ。
 だが。私は、
 私は――…………
「……お前たちは砦に帰還し、近辺にて未だ続行中の戦闘状況を見極めて、可能であれば背後から撹乱に入れ。巧くすれば敵部隊を壊滅させる事が出来るだろう。……私は、先程の交戦区域へと戻る」
 私が静かな声音で発した、部隊長の指示にそぐわないように見える命令に、部下たちがどよめいた。
「副長!?」「いけません、部隊長の指示をお忘れですか!?」
 口々に苦言を呈する部下たちを端から眺め回す。この時の私は、決して度を失っていた訳ではなかった。
 それは天啓だった。天啓の如く、私の成すべき事に思い至ったのだ。私は冷静に言葉を続けた。
「忘れてなどいない。部隊長の指示は、生き延びて部隊を再編し、報復を行えという物だ。一兵でも生き残れば我ら《ベルゼビュート》は滅びぬ」
「……副長、」
 次席に当たる部下が諌めるような声を出すが、私はその視線と真っ向から向き合った。
「私は冷静だ。男恋しさに自棄になっている訳ではない。与えられた命令をより高度な水準で完遂する為に、私は私の最善を尽くすだけだ」
 押さえた声音でそう告げると、ぐっと口を引き結んで耐え忍んだ部下は、やがててこでも動かぬ私の決意を察したのか、重々しく頷いた。
「了解しました。お戻り下さい。隊は私が引き受けます」
「頼む」
 経験豊富で信頼の置ける部下に頷き、私は踵を返す。
「ご武運を」
「そちらも」
 短く囁き合って、私は一人、来た道を引き返し始めた。

 私は受信状態に設定した通信石を携え、僅かたりとも本陣からの報告を聞き逃さぬようにしながら走った。交戦区域から集合地点に到着するまでに四半刻、そしてまた、元の場所に戻るまでに四半刻と言った所か。道のりを半ば程戻った所で、我が部下たちは砦に到着し、敵部隊への潜入妨害を決行、これを成功させたと報告が入った。本陣がにわかに活気づく様子が、魔法通信越しにも伝わって来る。敵陣攻撃部隊、そして彼ら砦防衛部隊の奮戦によっては――私の待つその時は、もうそろそろであってもおかしくはない。
 多勢に無勢の中で激戦を繰り広げるには余りにも長い時間ではあったが、それでも、終戦後に部隊を編成し救出に向かうよりは早い。
 ――間に合え、間に合え、間に合え……!
 本陣からの連絡を待ち詫びながらひた走っていくと、やがて私の耳に再び、自然には決して生じぬ人工の音が届き始めた。爆音と、剣戟の音。そして立ち枯れた木々と巨岩が点在する岩場に蠢くいくつかの人影が見え始める。
 戦場に到着した私は、双短剣を抜き放ち、更に走る速度を上げて混戦の渦中へと駆け込んでゆく。
 戦域の最端で、鍔迫り合いに押し負けたのか、体勢を崩した我が部隊の兵士の姿を目に入った。その前には、今まさに切りかからんとしている敵の姿。標的を見定めて高々と剣を振り上げる敵兵の懐に、真横から滑り込んだ私は、そのがら空きの脇腹に短剣を刀身全てが埋まる程に深く突き刺した。
「……っ!?」
 敵兵が苦悶の表情を浮かべるよりも早く、私は短剣を血の糸をたなびかせながら抜き放った。急所を貫かれた敵は唸るような悲鳴を上げながらもんどりうって倒れ、びくびくと痙攣を始める。
 自分の手で成した敵の死の前兆を目の当たりにしても、今の私を不快な吐き気が襲うことはなかった。あたかもアサシンなどと呼ばれていた頃に立ち戻ったかのような無情さで、最早躯と化すのを待つばかりの敵から何の感慨もなく視線を外す。
「ロゼ!? 何故戻ってきた!?」
 敵を切り捨てがてら振り返る、私の姿に気付いた満身創痍の同僚が、怒りすら篭った声で叫んだ。まるで部隊長がしそうな反応だ、とは思ったが、私はそれに答えず、続いて襲い掛かって来た敵兵に剣尖を向ける。
 まだか、まだか、と焦れながら、敵と一合二合と刃を交わし――
 ――その時、回線を開いたままであった通信石から待望の報告が入った。
『報告! 敵陣陥落! 我が軍は敵陣を陥落しました!』
 ――来た!
 恐らくは同様の情報を、敵軍も受けた所であるだろう。だが部隊長の見積もり通り、敵は攻撃の手を緩めようとはしなかった。私は短剣を一旦引き、眼前の敵の刃を避けながら、通信石を探して腰の物入れをまさぐった。今となっては、敵への攻撃よりもそちらの方が重要であった。
 だが、相対する敵を私は少し甘く見過ぎていたようだった。この相手は、片手間で対応出来る程度の相手ではなかった。敵が振りかぶった剣が美しい円弧を描いて私へと降り注いで来る。避け切れない、そう気付くが、この剣筋ならば致命傷には至らない。
 ならば、十分だ。
 最大限に上体を捻り、回避を試みるが、剣先が私の右目を掠め、そのまま振り抜かれてゆく。濡れた音が脳を抉るが、私はそれには構わずに、握り締めた通信石に怒声を叩きつけた。
『通信兵! 全帯域に通信を開け! 最大出力で魔力波を展開!』
ここに戻る道中、私は本陣に一つ指示を出していた。終戦後、私の合図があったその瞬間に、魔法通信を全帯域に――敵味方問わず、このエルギルに集う全ての人間に、この声を届けられるように設定せよと。そして、私は続けてあらん限りの声を張る。
『中央窪地にて戦闘中の両軍、エルソード国正規軍並びにネツァワル国義勇兵部隊《ベルゼビュート》に告ぐ! 直ちに戦闘を停止されたし! 拠点陥落後の攻撃は、国際法の定める禁止事項に該当する! 繰り返す、両軍共に戦闘を停止されたし!』
 その声は、敵所有の通信石からも大音量で響き渡った。ここにいる相手のみではない。このエルギル全域でこの現象は起きている筈だ。
 終戦の知らせにも無反応を通した敵軍が、にわかに動揺の気配を走らせる。エルソード国軍の取ったこの作戦は、我々ネツァワル軍のみならず、味方にも極秘のものであった筈だった。こんな、戦の大前提である戦場での勝利をふいにし、国際法にも抵触する手段を、正規軍の立場として堂々と打つ訳にはいかない。後々、敵方のディスインフォメーションと公表される事にはなるだろうが、今この事実が暴露される事はエルソード正規軍の望む所ではない筈である。
「……なるほどのう。そう来たか」
 嘆息するような声音が、どこからか響いた。視線でその声の主を探して、目を止める。指揮に徹して攻撃には参加していなかったのか、ソーサラーの老人は、自陣営の最後方に立ち、白い仮面の奥から私を見つめていた。やれやれと言わんばかりに首を振り、微かな苦笑と共に言葉を紡ぐ。
「出来る事ならばもう少し、戦力を削っておきたい所じゃったが、お嬢ちゃんの機転に免じてここは引くとしよう。……最大の目標は、達成した事だしの」
 ――な、に……?
 その言葉の意味を問うよりも早く、老人が片腕をさっと上げるや否や、方々で我が部隊と剣を交えていた敵兵が、一斉に後方へと飛び退った。まるで糸で繋がれた物体であるかのような一糸乱れぬ挙動で指揮官の元へ戻った配下を従えて、老ソーサラーは穏やかですらある声を私に投げた。
「よかったのう。間に合ったと言えば、間に合ったぞい。いくら敵とて、最後の言葉を交わす時間をも奪うのは、心苦しいものじゃからのう」
 ざあ――と、老人の語尾をかき消すかのように、砂塵が舞い上がった。敵ウォリアーが発動した、クランブルストームの武技によるものか。
 視界を埋め尽くす砂塵が消えやったその時には、敵部隊の気配は完全に溶け消えていた。

 騒乱から一転して静寂の舞い降りた戦場は、岩と枯れ木と累々たる屍からなる灰褐色の景色と相俟って、まるで冥府の淵にいるかの如き空漠とした空気を湛えた。重くもなく、冷たくもない、ただ希薄なばかりの空気――その弁舌に表し難い雰囲気に呑まれ、生き残った兵たちも、ごく数秒の間ではあったが、虚脱したように立ち尽くし、或いは座り込んだまま、沈黙していた。
 そんな中、私は獣のように荒い息をつきながら、周辺を見回していた。状況の確認よりも他の何よりも、今は確かめなければならない事がある。
 程なく探していた姿が視界の端に移り、私は顔を向けた。
 比較的密集した隊形を取っていた自陣から、やや離れた所に一人立つ、その長身。
 抜けるように明るいアッシュブロンド。
 男は、戦斧を地面に突き立てて、こちらに背を向け、己の足で仁王立ちに立っていた。
 ああ、
「無事、」
 だったか。安堵の内にそう呟こうとした途端。
 男の背が、ぐらりと傾いだ。

 酷くゆっくりと、重力に、若しくは運命じみた何かに抗うかのようにゆっくりと、男の身体が倒れ行く。
 重い物が落ちる音。上がる砂煙。手放されて地面を跳ねる両手斧。
 岩間に響く私の悲鳴。

 前のめりに倒れた男の身体に、至近にいた兵士が即座に近づき自らの負傷を顧みずすぐさま表に返す。その瞬間、歴戦の猛者が顔を歪ませて絶句した。
 すぐさま傍に駆け寄った私も、余りにもむごたらしいさまを目にして声を失った。
 腕が、一本なかった。左腕は二の腕の半ばで断たれ、赤々とした肉と骨の断面を覗かせていた。どれ程の集中攻撃を浴びればここまで凄惨な状況になるものか――高度な防御魔法を施された、この男が自慢にしていた、絢爛豪華な拵えの鎧は無残なまでに破壊しつくされ、最早防具としての用途を成さない鉄くずのようになっていた。特に腹部の損傷が酷い。めり込むように破損した鎧の奥には酷く深い穴が開き、どぷりどぷりと絶え間なく粘性の液体を吐き出している。
「あっ、……ああっ、……」
 私は引き攣った喘ぎを喉奥から漏らした。息苦しい。息を継ぐ方法が思い出せない。
 そんな醜い蛙のような悲鳴が耳障りであったのか、半ば閉じられていた男の瞼が微かに、震えた。
「……ああ、ロゼ……」
 焦点の合わない黒い瞳が私を見上げ、紫色の唇が小さく動いた。その瞬間、男の喉が苦しげにひゅうと鳴る。
 私はその場に膝をつき、男の呼吸を助けようとしたが、……ああ、駄目だ、動かせない、その前に腕、いや腹の傷を処置しなくては。流れ出て行ってしまう。男の血が。男の命が。
「ぬの、布を」
 私の情けない命令とも呼べない命令に、既に周囲の死体から布をかき集め始めていた部下が素早くそれを差し出した。どす黒い、底なしの深い穴にぐっとそれをあてがう。薄汚れた布は瞬く間に真紅に染まったが、尚も血はとめどなく流れ続ける。
 足りない。これでは全く足りない。更に布を探して来ようと立ち上がりかけた私を、何か強い力が引き留めた。
 見下ろすと、部隊長が残った片手で、私の腕を、どこにそんな力が残っているのかという強さで掴んでいた。
「……目、」
 男の唇が動き、掠れた声が紡がれる。目? 一体何を言っているのかと眉をひそめようとした瞬間、脳髄を抉るような痛みを私は思い出した。――抉られたのは脳髄ではなく、眼窩か。奥歯を噛み締めて激痛をやり過ごし、私は男に答える。
「こんなもの、掠り傷だ」
「そ、か」
 私の言葉に男は苦笑した。自分の傷の具合など確かめてもいなかったが、全く目が開く気配もなく痛み以外の感覚すらもない。掠り傷で済むような状態でないのは実際に見ている奴の方がよく分かるだろう。
 私は、本来ならば行わねばならない傷の処置よりも先に、魔法薬を服用させる事にした。背嚢から橙色の回復薬を取り出し、男の頭を少し上げ、虚ろに開く紫色の口に液体を注ぎ入れる。が、男は途端に弱々しく咳き込み、橙色だった液体が真紅に染まって逆流してくる。
「馬鹿っ、吐くな、飲め!」
「――ロゼ、もうやめろ、それ以上は苦しめるだけだ」
 背後から、感情を押し殺した声が聞こえる。だが私は横たわる男を抑えつけたまま、首を横に振った。
 そんな事は分かっていた。魔法の回復薬とて万能ではない。いかなる魔法を用いても、最早救い得ぬ状態というものはある。これまでに何度も。何度も、何度も、死に行く者を見送った。だからこそ分かる。これは最早助からぬと。そんな事は分かっている。
 けれども男の容態が、神の手とて覆し得ぬ不可逆的な段階に入っている事を認めたくはなくて、私は喚き、暴れ、男の口に薬を尚も押し入れようとした。その姿は奴からしてみれば、更なる苦しみを与える地獄の鬼の如きものだっただろう。でもそれでもよかった。憎まれてもよかった。たとえどれ程の苦痛を与えようとも、私は私の為にこの男の命を繋ぎ留めたかった。
 他の部隊員に羽交い絞めにされても尚もがいていた私に、宥めるような声が届く。殆ど音にならない掠れた声が、囁く。
「……笑え、ロゼ。折角……可愛い顔、してるん……だから、よ……」
 ――お前は女の癖に華がなくていけねえ。
 男の声が、記憶の中からはっきりと聞こえて来る男の笑声が、痛みと苦しみに満ちた脳髄にこだまし、潰れた目から涙が溢れ出す。
 笑ったさ。いつだって笑っていたさ。部隊に入る前よりは。お前のほとほと下らない冗談はいつも失笑を禁じ得なかった。
 地味だと言われた服装だって、お前の賭博癖に釣られて何度かルーレットに挑戦して、いくらかの利益を出して流行のものに新調した事もあるのだぞ。お前は気付いていなかっただろう、女たらしの癖をして、そういう所は全く鈍感な男だったから。
 本当に、お前はいつだって自分勝手だ。私と同じように。
 私は、お前を責めるばかりで、逃げるばかりで、結局まだお前に何も言っていない。
「泣くな、ロゼ、……笑っていろ」
 どうしてそんな無茶な事を言うのだ。笑えない。笑える訳がない。お前がいなければ、私は笑えない。
 お前は。愛する女の許へようやっと逝けるお前はそれでいいかもしれないが、残される者に、お前のことを愛している者に、何と残酷な言葉を吐くのだ。
 それでも勝手な男は、ただ、繰り返す。
「笑え、ロゼ……、……俺は、…………」
 戦場に、一陣の風が吹く。
 魂を、血の匂いを、苦痛を。何もかもを攫ってゆく、女神の息吹のように。
 喉が割けんばかりに慟哭しながら、私は天を仰ぐ。
 頭上に垂れ込めた曇天は、どこまでも厚く、どこまでも白く世界を塞ぎ、私の滲み歪んだ視界を空虚な光で閉ざした。

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