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 夜半から降り続いていた雨は夜明けを迎えんという刻限になっても煙雨となって残り、メルファリアの大地を漠然とした仄暗い青灰色に染め上げている。山も森も川も丘も、あらゆる固有の色彩を持つ筈の全てが等しく青くくすんだ闇に塗り固められ、それはいっそ死の平等さにも似ていた。そんな均一化された世界の中、冷たい緞帳が重く垂れ込める山間の街道を、一騎の騎馬が放たれた矢のように疾駆していた。通信石の効力の及ばぬ遠方に配置された、偵察隊からの伝令である。早馬はやがて無骨な城砦に辿り着き、吸い込まれるようにしてその中へと入って行く。
 程なくして、その報は男の元に齎された。
「エルソード軍戦術目標攻撃部隊がカセドリア領ラナス砦を陥落。及び、その陣容を確認、《フォアロータス》と《傭兵団》」
「……ほう」
 首都の部隊本部の執務室にある皮張りの椅子よりはずっと簡素な造りの肘掛け椅子に、長い足を組んで収まってそれを聞いた男は、その知らせに、あたかも長年追い求めていた秘密の宝に辿り着いたかのような押し殺した歓声を上げた。明けやらぬ夜の闇の中で、暗い海の底から湧き立つ泡の如き喜悦が浮かび、そして弾ける。
「日和見的な《傭兵団》はともかくとして、《ロータス》は軍部とはツーカーだからな。当然目標戦ともなりゃ出張って来るだろうとは思っていたが。……ラナスからはこのエルギルはもう目と鼻の先だ。すぐにでも目標攻略に向けて進軍を開始して来るだろう」
 既に我々はこの戦術目標の制圧を概ね完了している。後はここに攻め入らんとするかの攻撃部隊を撃退すれば後から来る国軍に権限を移譲するまでこの地を確保し続ける事が出来るだろう。この一戦を防衛しきれば――。
「今回はこちらも戦力は万全に整えている。前のようには行かねえぜ。今度こそ、決着をつけてやる、エルのクソウジ虫どもめ」
 あくまでも軽やかに、男は下品に悪罵する。胸中に渦巻いているであろう想いを獰猛な笑みで凍らせて。
 《フォアロータス》と《傭兵団》。エルソード国でも最強の実力を持つと名高い――そして男にとって、遠き日の因縁を孕む敵との決戦の幕が上がり始める。

 その後も斥候隊から次々と入って来る状況報告を、既に戦場へ赴く準備を万端に整えた重武装に身を固めた男は、腕を組み瞑目したまま聞き続けていた。私はそれぞれに再び指示を与える作業に追われていたが、その合間に軽く目を閉じ呼気を吐けば、男が瞼の裏に見ているのと同じ幻影が脳裏に映った。蒼き稲妻の旗を掲げたエルソードの軍勢が、粘性の重みを纏った黒波のように、野を越え丘を越え、我々――赤き斧の軍勢が待ち受けるこのエルギルに、粛々と軍を進め来る。それは、エルソード軍が今用意し得る最高の戦力に間違いないだろう。
 だが、恐るるに足らぬ。男は形の良い唇に笑みを帯びて嘯く。数の上ではほぼ同数。実力ではこちらが上回る、と。それは、味方を鼓舞する為の発言ではあったが、強ち大言壮語とは言えなかった。我々もまた、この度の目標戦防衛に際し、我が国の有力な部隊との大連合を組んで臨んでいる。過信ではない事実として、我々の戦力は敵方に全く引けを取るものではなかった。
 ――だのに、何だろう。
 言いようのない不安が、暗雲の如く胸を蝕むのは。
 まるで眠っているかのように瞼を閉じる男の端正な横顔に視線を向けて、細波の如く思考をたゆたわす。この男は、今、何を思っているのだろう。これから始まる戦についてか。かつて恋人を殺した仇についてか。……仇を討つには、またとない絶好の機会だ。ここまでの戦力を揃えて望みの敵を迎え撃つ機会は、今後、数える程もないだろう。
 ぼんやりと、だが、瞳を動かさずに部隊長を凝視していた私に、男が不意に気付いたように目を向けた。
 刹那、視線が絡み合う。睫毛の長い、怜悧な瞳が――かつて恋人を愛でていたのであろう瞳が、私を映す。
 私は即座に、逃げるように顔を背けた。
 ――遠い。
 暗闇に一人取り残されたかのような寂寥感。男に感じていた激怒は、いつの間にか決して触れる事が出来ぬ程に遠くなってしまった距離が感じさせる寂しさに、とうに塗り替えられていた。
 先日の、曖昧な男女関係を匂わす言動に私は怒りを覚えたが、あれはもしかしたら、あの男なりの歩み寄りの努力であったのかもしれない。あの、人を馬鹿にしているとしか思えなかった言い草は、別に私を怒らせるつもりだったのではなく、単にその努力が裏目に出た結果に過ぎなかったのかもしれない。男なりの、優しさであったのかもしれない。
 ……だが、それを認めるには私は余りにも頑なで、臆病であり過ぎた。たとえそうであったとしても、そんな偽りの慰めなど私は欲しくなかった。どの道、真に男が望む私は、有能な副官としての、戦友としての私であって、心癒す恋人ではないと分かり切っているのに、内なる気持ちに目を背け、大人ぶった付き合いで誤魔化し合う事など不器用な私に出来る訳がない。
 笑え。
 笑え、ロゼ。
 深く響く、軽薄な振りをして重みに満ちた声。私を宥める為に囁いたあの声は、その実、私という鏡を通じて自分に言い聞かせた言葉であった。
 笑え。笑い続けろ。何があっても。
 それは、己をこの世に縛り付ける鎖。あのひとの待つ天つ国へと逝く甘えを自分に許さず、苦難の十字架を背負い続けんという誓いの茨。
 それ程までの苛烈な想いを、どうして慰める事が出来よう。
 代わりにすら、なれる訳がない。
 ――もう、これ以上、傷つきたくはなかった。
「ロゼ」
 男の声が事務的な硬さで私を呼ぶ。その声に、私は副官としての仮面を取り戻し、真っ直ぐに視線を戻す。
 傷つかない為に、どうしたらいいか、その問題は解決していない。けれどもいかなる理由があろうとも、今目の前にある成すべき仕事を疎かにする事だけは決してしてはならない。
 職務に対する矜持を体のいい言い訳にして私は問題を棚上げする。
「ロゼ、出撃するぞ。付いて来い」
 椅子を立ち、鎧の上に付けた外套を翻して踵を返す男の斜め後ろに私は影のように付き従い、男の往く道を共に歩き始めた。

 日も既に、雨雲の向こう、東の空に昇った午前七時。ラナスからこの地に入り北進してきたエルソード軍と、北部に陣を張る我々の軍勢は、エルギル高地に漂う白霧に互いの陣容をうっすらと映しつつ向き合っていた。これからここで繰り広げられる戦闘の前触れを察したか、この地を根城とする魔物たちも姿を潜め、重苦しい程の湿り気を帯びた冷たい空気はあらゆる音を吸い込んで、無へと還す。
 双方の丁度中央に広がる平坦な窪地に糸を引いていた薄雲に似た霞が、やがて、峠を越えてきた強い風に攫われて、消えた。
 赤と青。決して相容れる事のない二つの旗印が、対峙する。
 開戦の火蓋を切る誉れを競うかのように、我が方の陣地から黒い鎧の一団が突出して行く。それを合図として、双方の軍がそれぞれに進軍を開始した。

「中央は好きに行かせておけ。いい釣り餌だ。余り深く切り込めば《傭兵団》辺りが出張って来そうだが、突出したのはどうせ《ジェネシス》辺りだろう。応戦出来る筈だ。それよりもちゃっちゃとオベリスクの展開を済ませて東へ向かおうぜ。《ロータス》共は真面目ちゃんだからな、教科書通りに東の平原を制圧して地歩を固めようとするだろう。ウチは東で遊ぶと軍団通信で流しておけ。《フランボワーズ》のおネエちゃん達は俺にいくら気があっても意図汲んで西攻めろよなってちゃんと言っといてくれよ」
「了解した」
 部隊長の指示に端的に応え、私は通信石を操作する。命じられた通りの内容を、不要な文言は削除して魔力の波動に乗せ、全軍へと伝える。ここにきて、部隊長は普段通りの、あらゆる物事を茶化すかのような物言いを復活させていたが、それは意図的に常の自分の姿を作り出しているようにも思えた。無論、私がそれに言及する事はなかったが。
 我々は、前線へと一目散に駆けて行った他部隊の兵士たちを山の中腹に建つ砦から見送りながら、クリスタルの魔力を用いて魔法建築物を建造し、魔法的力場を生成する序盤展開作業を続けていた。普段、そういった俗に裏方と称される作業には我々の部隊は滅多に参加しないのだが――圧倒的な戦闘力さえあれば、裏方など重視する必要はないというのが我々の見解であった――、今回相対する敵は力押しのみで轢き殺せるほど甘い相手ではない。また今回の我が軍には、我々と同様の、歩兵戦力こそが全てであるという考えを持つ部隊が多く参加している為、オベリスク展開や召喚運用に遅滞が発生する事が予想され、そこに生じる僅かな手抜かりが命取りとなる事もあり得ると考えられた。よって、後顧の憂いなく戦闘に専念する為、まずは我々が率先して下準備に取りかかる事としたのであった。
 程なくしてオベリスクの展開は概ね完了し、引き続き召喚運用に当たる部隊員の一部を砦へと残して、戦闘部隊は東側の戦線への進撃を開始した。
 主力である我々の部隊が最序盤戦闘に参加していなかった事で、東の戦線は押されるのではないかとも危惧していたが、通信石での報告によると、うまく拮抗状態を保っているとの事であった。エルソード国側の主力たる《フォアロータス》もまた序盤展開に当たっていて戦闘に参加していなかった為だと部隊長は分析した。
 我々が準備を終えた以上、敵側も似たような状況にある事だろう。主力同士が動き出す、ここからが本番であった。
 砦から出撃し、鋭い山肌を見せて聳え立つ崖を迂回して東に進むと、やがて広大な平原が眼下に広がる丘に出る。エルギル東部の大盆地。我が軍の砦と敵軍が陣を敷く地点の丁度中間に当たるその場所が、両軍の激突の舞台となっていた。本来のそこは自然の遮蔽物の少ない開けた土地であったが、既にそこここに魔法建築物である櫓、アロータワーが建っており、大地に複雑な陰影を形作っている。そしてそこに広く散開した両軍が、林立するアロータワーを防御の要として一進一退の攻防を続けているのが見て取れた。
 互いに射掛け合う雨霰のような矢、暗雲に手伝われ天空から降り注ぐ雷撃の魔法、戦場を紅蓮に染める炎、そして風が運んで来る鉄錆の匂い――戦場の生々しい空気を目前にして、部隊長の口端に待ちきれないと言わんばかりの獰猛な笑みが宿った。片手剣を抜き放った男は、部隊を率いる長でありながら一団の先頭に立ち、戦場へと向けて走る足を尚も速めて、天地を震わせるかのような怒声を振るう。
「全軍、突撃! 真正面からぶち抜いてやれッ!!」
 喊声を上げ、我々は巨大な鏃の如く丘を駆け降り、乱戦の渦中に突入した。
 
 我々の部隊の合流により、戦況は急速に傾き始めた。我が軍の果敢な攻勢に敵軍はひとたまりもなく、後方の敵陣側の丘のふもとまで後退を余儀なくされる。一目散に下がりゆく敵の姿に我々の士気は一層高まり、周囲に潜んでいるやもしれぬ伏兵の気配に気を配りつつも、追撃の手を緩めることなく一気呵成に攻め上げる。
 が、その折角の勢いをへし折る形で、部隊長は追撃の速度を緩める号令を掛けた。
「誘い込まれているか?」
 エルソードの義勇兵軍は、各部隊が有機的に連動した柔軟な軍兵運用を得意とする。優れた指揮統制力を生かし、風になびく柳のように押せば引き、引けば押すような機動を繰り返し、焦れて突出してきた敵軍を各個撃破し徐々に戦力を削る事を狙うのである。それは知力に頼るエルソードの、兵としての根本的な体力のなさから必要に迫られて生み出された戦術であることは否めなかったが、戦力を的確に集中させる指揮官の技量次第では、歩兵戦力を覆し得る強力な戦法であった。
 その罠に、知らずの内に嵌っていたのかと懸念した私に言葉に、部隊長は下がりゆく敵を睨み据えながらすぐに否定した。
「いや。今は単にまだ《ロータス》が出てきてねえだけだ。ロゼ、すぐに西及び中央戦線の状況把握を。……第一分隊から本陣へ。G5地点へ早急にナイトの出動を要請する。最低でも三騎、順次用意せよ」
 後半は本陣へと向けた軍団通信だった。その後半の指示の方をやや怪訝に思いながらも、私は指示通りに西と中央のマップを開き、状況報告の要請と、戦闘状況をマップに取得する足掛かりとなる建築物『スカフォード』の建築要請を手早く行う。
 すぐさま上がってきた報告と、建築されたスカフォードの効果から、西、中央いずれも安定した状態を保っており、すぐさま対処するべき問題は起きてはいない事が把握出来た。全ての作業を終えて、最後に実際に今立っているこの戦線の状況を目視で確認するが、こちらにも敵召喚の姿は見えない。
 そこまで多数のナイトは時期尚早ではないか。その疑問を、私が問うよりも先に察した部隊長は、ごく当然の事を言う口調ですらすらと告げた。
「《ロータス》の序盤展開能力はウチより上だ、同じ仕事をするんならずっと早く作業を完了出来る。その《ロータス》が、ウチよりも前線に繰り出して来るのが遅いんなら、更に何か仕事をしてるってことだ。このタイミングなら具体的には……」
 言いつつ、顎で敵側を指し示すようにして首を逸らす。その仕草に意識を向けてみれば、敵側に再び進攻の気配が生まれつつある事に気付いた。
「……歩兵戦力差を埋める為のレイス」
 部隊長のその言葉を待っていたかのように、エルソード軍が前進を開始する。そして――
 丘を越えたその向こうから、歩兵の群に護られるようにして、濡羽色の大きな影が徐々にその姿を現し始めた。最初に見えたのは闇を塗り固めたような巨大な四枚の翼。それを揺らめく陽炎のように羽ばたかせ、兵士たちの陣形に影を落として浮遊する、襤褸を纏った不吉な骸骨――まさしく死神の姿に他ならぬそれこそが、冥界と繋がれた扉から現れ来たる召喚獣、『レイス』であった。
「総員後方に転進! すぐに味方ナイトが来る! それまでアロータワーの防衛線で維持!」
 部隊長の指示が飛ぶ。我が部隊の部隊員達は、その声に即座に従い、後退を開始した。だが、我々よりも先に戦闘を開始していた一部の部隊が、その指示を聞き逃したか、それとも指先にまで掛かった敵の首を諦め切れなかったのか、無謀な勇猛さで突進してゆく。
「馬っ……!」
 部隊長が罵声を叫びかけた刹那。敵の隊列の中程にいるレイスの剣が無造作に振られた。人の兵士が用いる大剣を遥かに超える大きさのそれを、レイスは病的に細い片腕で軽々と一閃させ……とても人間の剣の間合いには届かない、魔法の射程にすら匹敵する程の長距離から、兵士数人をいとも簡単に薙ぎ払った。舞い散る血飛沫すらも絶つ、人を冥界へと導く冷酷な断罪の剣、ギロチンソード。
「……ちっ」
 部隊長は奥歯を噛み締め、悔しげに舌を打つ。が、その少数の味方を救う為に更なる犠牲を払う愚は犯さなかった。倒れ伏した味方からは目を背け、それ以上の被害は生まぬよう、弓兵隊にピアッシングシュートでの掃射を命じて部隊を速やかに後退させながら、陣形と体勢を整え直す。
 先刻要請した、敵レイスを討伐する為の自軍ナイトはそれからすぐに到着した。それとほぼ時を同じくして、エルソードの側にも、レイスを護衛するべく騎兵の一団が到着する。先の部隊長の複数のナイト要請は、エルソード軍の抜かりない召喚戦略を見越してのものであったのだ。
 歩兵の群を従えて、戦場にこの世のものならぬ異形の陣容が立ち並ぶ。その禍々しくも神々しい巨大な影は雷火に揺らめいて、神話における神々の最終戦争の場面を思わせる絵図を作り上げた。
 それらの威容に一歩も劣らぬ迫力で、暗雲の下でも煌びやかに光る剣と盾を掲げて、部隊長が吼える。
「このままエルはすぐにジャイも揃えて来るぞ。こちらも間断なく召喚を出して行け。たまには、真面目なエルソードちゃんに付き合って召喚大戦争で対決してやろうぜ。てめえの土俵で下されて泣きべそかきやがれ!」
 再度攻勢の準備が整うのを見計らい、部隊長は、敵に対する挑発も織り交ぜた奴一流の激励で味方を奮い立たせる。正面攻撃を退けられて一旦挫けかけた意気も再び上昇し、我々は、再度雄叫びを上げた。



 エルギルの東部、中部、西部、それぞれの戦線で、熾烈な戦華が咲き誇る。
 しかし、まさにその頃、昏く冷たい意思が暗渠の底で蠢き始めていた事に、我々は――否、両軍共に、いまだ気付いてはいなかった。

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