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 部隊本部の一角にある小会議室に、十余名の人間が集っている。いずれも歴戦の勇の風格を持つがっしりとした体躯の男たちで、この部隊を纏める幹部たちである。今は戦闘装備ではなくラフな普段着を着て、部屋の大半を埋め尽くすテーブルを囲み、演壇の報告者を注視している。
「……次の戦術目標であるエルギル高地出兵の足掛かりとする要衝の制圧については、以上のように大きな問題点はありません。ただ、これが唯一最大の懸案事項ですが……エルソード国内に潜伏させているエージェントからの情報によると、どうやらエルソード国の此度の戦術目標が我が方と重複しているようで、エルソード国義勇軍が中央大陸北部沿岸に着々と戦力を集めつつある事が確認されています」
「へぇ、目標被りか。面白いじゃねえか」
 報告者が告げた内容は、多くの修羅場をくぐってきた強兵たちをしてにわかに騒然とさせる内容ではあったが、上座にどっしりと座る部隊長だけは、一切動揺の気配を見せず喜色満面の笑みを浮かべてそれを聞いていた。
「この所、ウチの国との戦闘を回避して、ホルデイン方面ばかりを集中的に攻めているエルソード国軍の方針には、義勇兵部隊からも批判する向きが出ているという。ここでむざむざと戦術目標を落としちまったら、軍部の求心力にも影響するな。特にエルギルは地理的にはやや我が軍有利な位置にあるとはいえ、エルソードが得意とする、集団の押し引きを生かして戦うのに適したなだらかな平原が多い地域。奴らにとっては決して負けられない戦場だ。総力を挙げて陥としに掛かるだろう」
 厳しい戦いになりそうだ。そんな事を、獲物を目前にした肉食獣の表情で嘯く。数名が、ごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。

「お前ら、喧嘩したのか?」
 会議を終えて幹部たちが三々五々に散っていく中、先日、昔話を語ってくれた男が私の傍に寄り、こそっと耳打ちするように囁いてきた。私はゆっくりと書類を片付けながら、自分の頭の高さより大分高い位置にある相手の顔を無表情に見上げる。
「何の事だ」
「今日の会議で一回もじゃれ合わねえからよ」
「……そんな毎回毎回会議中に邪魔をされてはたまったものではない」
 部隊長は、真面目な会議中であっても隙を見てはどうでもいい冗談を挟んで来る男であった。特に、奴にとっては私は丁度いいからかいの対象なので、私の発言中は殊更にその悪さが多い。確かに今日は奴にしては大人しい方ではあったが、毎度必ず茶々を入れて来る訳ではないし、それがなかった所で別に指摘をされる程の事でもない。
「やっぱり、あの時の所為か?」
 子供が見たら泣き出してしまいそうな強面を不安げにひそめてそんな事を言う男を、私は半眼で睥睨し、嘆息した。
「でかい図体をして女々しい事を気にする奴だな。やっぱりも何も、そもそも喧嘩などしていない」
 能天気な子供でもあるまいし、大人になってまで喧嘩などするのは、余程強くいがみ合っているか、喧嘩をしても関係が揺るがない程に心を許し合っているかのどちらかだ。ただの上司と部下でしかない関係で、喧嘩をするもへったくれもないだろうに。
 ――心臓に突き刺さり続けている棘が、また悲鳴を上げ始める。
 あの日、男の過去の恋人の話を聞いた私は、冷たい棘の痛みに苛まれながらとある事実を認識していた。私は部隊長に対し、ただの上司に留まらない思いを抱いていたのだ。――愛していたのだった。
 私にはない強さ、判断力、統率力、包容力……ありとあらゆる能力への尊敬。憧憬。私を助け、導いてくれた恩人への強い思慕。その想いは男と接するうちにいつしか色を違え、敬愛を超えた愛へと変化していた。……いや、自分を欺くのはもうやめよう。最初から、男に手を差し伸べられたあの瞬間から、私の心は常にあの男の元にあったのだ。
 だからこそ、私はどれだけ男の馬鹿げた言動に辟易しても、本心からそれを疎む事はなかった。寧ろ、私に対して特に気を許しているかのような振る舞いに、内心気を良くしていたのだ。
 けれどそれは、私の独り善がりだった。
 思い返せば、あの男は私に対していくつも秘密を作っていた。積極的に秘密にしようと思っていたのかどうかは定かではないが、仮にそうでないとしても、私には言わなくてよい事だと判断したには違いない。この体たらくでよくぞまあ、自分が奴にとっての特別だなどと自惚れる事が出来たものである。所詮は、この私こそが一番の、恋に狂った愚か者であったという事か。笑えない話だ。
 あの日からそれ程日が経っている訳ではないが、あれ以降、奴とは必要最低限の事柄以外言葉を交わしていない。だが、今の状況は、喧嘩などでは断じてない。――ただの上司と部下でしかない関係を思い知らされて傷つき、目を逸らす私に、私の秘めた思いをとうに知っていたあの男は、声を掛けるのを躊躇っているのだ。
 今なら分かる。もう大分前だが、どこぞの砦を制圧した晩の酒宴で、男の不埒な振る舞いに怒る私に奴はふざけた事を言った事があった。
 ――そんなにイライラして。さては生理だな?
 あの時だって、部隊長は、私自身でさえ気付いていなかった苛立ちの正体――つまるところ、あれが嫉妬の念から来る憤懣であった事に、きっと気付いていたのだ。
 気付いていて、私が気付かぬうちに、拒んだ。
 奴は幾度か私に粉をかけるような言動をしてきたが、それらは全て、冗談だった。男女の関係を連想させる内容を、敢えて私が怒り出すような冗談に置き換える事で、反発心の強い私が決して奴に靡かないように誘導していたのだ。業務上最も接する機会の多い女である私と、本当に関係を結んでしまう事を回避する為に。
 そうしたのは仕事に支障を来たさない為にであろうが、裏を返せばそれは、職務の上に限っては私は男にとって失いたくない人材であるという事だ。
 ……それで、いいではないか。男の内面に触れる事が叶わなくとも、仕事上だけであろうとも良きパートナーであるのなら。今は少し距離感を測りあぐねてぎくしゃくとしているが、暫くすればまた、以前と変わらず冗談を言い合えるようになれる。あの男を愛しているのだという自覚を持ったからとて、私はあの男に対する態度を変えるつもりはない。何も変わらない。永遠に変わらない、ぬるま湯のような関係。
 西日の入る、広い窓の並ぶ廊下をのろのろとした足取りで歩きながら、何気なく、私は窓の外に視線を向けた。平屋の住宅が並ぶ市民街と違い、商業区にはこの部隊本部と同じくらいの階数の建物が多いが、起伏の多い首都のやや小高い場所にあるここからは街並みを見下ろす形になる。色褪せたような黄金色に染まる街は、沈みゆく太陽と共に死に逝かんとしているかのような奇妙な静けさに包まれつつあった。日が沈みきれば、息を吹き返すようにまた夜の賑わいを取り戻すのだが。
 いつもは大して気にしない、見慣れた風景をぼんやりと眺めていた私の耳に――
「ロゼ」
 今、聞くとは思っていなかった声が届いた。

 静かに立ち止まり、半身を相手に向ける形で振り返る。黄昏に照らし出された通路を塞ぐように立つ部隊長の姿を認めて、私は口を開いた。
「どうした。作戦内容に何か不備でもあったか?」
「仕事の話じゃねえ」
 かつ、と、男の靴が硬い音を立て、こちらとの距離を一歩ずつ縮めて来る。私は身構えることなく男の接近を待った。どうせ、戻る先は同じ執務室だ。男との距離が手を伸ばせば届く程に狭まったところで、私は前に向き直り歩みを再開した。
「仕事の話ではないのなら、余り聞きたくはないな。お前の雑談はいつも下らないか下品かのどちらかで敵わん」
 上司である部隊長に背を向けたまま、しかし私はその無礼に一切構わずに、言葉だけを投げる。出来得る限りいつも通りの匂いを纏った、戯れ合いめいた言葉を。しかし、それに対して返ってきたのは珍しい程に固く強張った声だった。
「逃げるのは卑怯だ」
 男の言葉は私にとっては思いがけないもので、責められたと感じた私はむっとして、肩越しに睨みやった。
「誰が逃げているだと」
「お前の事じゃねえ、俺がだよ」
 私の後ろを歩いていた男は一歩、大股で歩みを進め、私の横へと並んだ。少し目を丸くしながらも視線を前に戻す私に、同じく私の方を見ていない男が声だけを向けてくる。
「こないだのあれは俺なりに動揺してたんだ。あんな、お前に聞かせるつもりもなかった話を、思いもよらない所でお前に知られる羽目になってな。そんで、それからお前とどう接したらいいかよく分からなくなって……この所、微妙にシカトするような感じになっちまった。すまん」
 幼稚な所の多いこの男にしても妙に子供っぽい言い回しで告げられた、飾らない言葉は、私の気持ちをほんの少しだけ和らげた。
「気にする事はない。私も、何も気にしてなどいない」
 私の返答に、男は何か物言いたげな雰囲気のまま前方を睨んでいたが、しかし何も言わなかった。人気のない静かな廊下にしばし、二人の足音だけが響く。斜陽の注ぐ廊下から角を一つ曲がり、最奥の部隊長室に続く、夕闇に沈む通路に入る。光に馴染んだ目には、この闇は心細くなる程に暗い。慣れた場所ゆえに暗いままでも困る事はないが、もう少ししたら、係の者が蝋燭に火を灯しに来るだろう。
 男は珍しく、黙りこくったままでいる。視線だけを動かして隣の顔を窺い見たが、窓を背にするその顔は、逆光になっていてよく見えない。男から見れば同様に私の表情も判別しにくいのであろうが。何となく空気を持て余したような気分になって、私は途切れた会話を自ら繋げた。
「ただ一つ、立ち入った忠告をするならば、女遊びはもう少し控えた方が良いのではないか? この世に残した恋人が、よりにもよって訳の分からん女から貰った性病なんぞで死にでもしたら、彼女も浮かばれまい」
 言いながら、これは冗談にするにはやや出過ぎた発言かもしれないと気付いて密かに唇を噛んだ。いくら相手がこんな男であるとはいえ、言っていい事と悪い事という物がある。自分の話下手加減にげんなりとしながらも、言ってしまったものは仕方がないと小さく嘆息すると、沈黙を続けていた部隊長の唇が、やおら、動いた。
「……お前が付き合ってくれるなら、やめる」
 低い音で紡がれたその言葉の意味が少しの間理解出来ず、私は二歩ほど歩みを進めてから、目を見開いた。それは、これまでの男との付き合いの中で繰り返されたセクハラ紛いの冗談と同じ意味を持つ言葉であったが、今の声音が湛える重みは、普段のそれとは全く異なっていて、まるで単なるからかいで済まそうという意図のないかのように聞こえた。
 ――どうしてだ。どうして、今、そんな事を言う? 私は混乱した。――お前は、私の恋情に気付きながら、敢えてそれを避けようとしていたのではなかったのか? 私との関係を進める事を、望んでいなかったのではなかったのか? 私は、何か解釈を間違っていたのか?
 致命的な過ちを犯しているのかもしれないという漠然とした予感に、反射的に膝が震え、歩みが止まりそうになる。が、どうにか動揺をそれ以上表に出すことなくやり過ごし――……、
 ……私は、何も気付かなかったかのような声に変えて返すという道を選択した。
「付き合う? 何にだ。禁煙プログラムのような、禁女プログラム的なものをどこかで指導して貰えるのか? しかし付き合うと言っても、私にはそんなものは必要ないぞ」
 しかし男は、私のはぐらかしには付き合わなかった。
「茶化すなよ、そんな意味じゃねえ事くらい分かってるだろう。お前が俺の恋人になってくれるんならやめると言っているんだ」
「お前の女の一人になるなんて真っ平御免な話だ」
「人の話聞いてるか? 女の一人になんかしねーよ。お前と付き合うなら他は全員切る」
 ――その、瞬間。
 元より一切の喧噪の届かない静穏に満ちていた廊下から、空気の流れる音すら消えた。
 丁度辿り着いた部隊長室のドアノブに掛けた手を捻ろうとしていた私は、そこでその動きを止め、すぐ傍に立って真っ直ぐにこちらを見ていた男を静かに振り返った。
 逆光に翳る男の顔が微かに見える。夕暮れの赤みを帯びた影の中で、黒い瞳だけが強く輝いている。その視線はまるで敵前にあるかのような鋭さを湛え、冗談では決してない真実味を帯びているようにも見えたが――
 すうっと、身体の芯から熱が引いて行く。脳天から指先まで、全てが凍りつく程に。私は男が告げた内容の余りの馬鹿馬鹿しさに、ふんと鼻で笑った。人を虚仮にするにも程がある。
「愛人を口先だけで宥める最低男のような台詞だな。本当にそう思っているならば、先の関係をすべて清算してから次の相手を口説くものだ。次の女を捕まえてから前の女と別れるなどと、そんなふざけた予防線を張りながらの告白に心を動かす女がいるとでも思っているのか」
 男に対する軽蔑をあらわにした、辛辣な声での私の指摘に、男は心底動揺したように瞳を揺らした。そんな男に私は背を向ける。この、私に対する侮辱は断じて許すまじきものであり、他の男であれば、最早一切顧みる気にもなれなかったであろうが、この男には僅かだが、同情の余地はある。私は一言だけ、付け加えた。
「どれだけ女と肌を重ねようとも、お前の胸に開いた空虚な穴は埋められない。きっと誰にも埋める事は出来ない。……私にも」
 愕然としているのか、或いは悄然としているのか、男はまばたきすらせずに硬直したまま、もうそれ以上戯言を吐く事はなかった。



 もし、あの時、犯していた過ちに正しく気付き、違う選択肢を選んでいれば。
 今でも、ふとした折に、私はそんな益体もない事を考える時がある。
 勿論――全ての過ちを正していた所で、その後の我々の運命に何かしらの変化はなかったであろう事は疑っていない。あれは、来たるべき未来を変え得る類の選択ではなかった。
 ただ、この茫漠とした念慮とは違う何かを得ていたかもしれないとは思う。
 素直になれなかった部分もあった。言葉が足りなかった部分もあった。
 だが、一番の過ちは、複雑に縺れ絡まった結び目の存在に気付きながらも見て見ぬ振りをして、そのまま放置していた事だろう。
 これを解くのは、今でなくてもいいだろうと後回しにして。今日と変わらぬ明日がいつでもあると、無邪気に思い込んで。

 いつだって、後悔するのは全てが終わってからなのだ。

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