- PREV - INDEX - NEXT -






 私がその男と初めて面識を持ったのは二年程前、最前線のとある砦に詰めていた時の事だった。その地は、当時の我が国にとって絶対に奪取される訳には行かなかった重要な戦術拠点で、他国からの宣戦布告を抑止すべく、かの男が率いる部隊を始めとする数々の大部隊と多くの義勇兵が結集して陣を敷き、近隣各国に対して睨みを利かせていた。
 幾度となく侵略を繰り返してきた積年の仇敵もおいそれと攻め入る事の出来ない大戦力による威嚇は有効に機能し、軍事境界線に接する区域ながらも戦闘が勃発することはなく、その地での任務は実に安穏としたものだった。ジャイアントの砲撃すらも届かない程の遠くに時折偵察であるらしいごく小規模な敵影が見える事はあったが、歩哨に立つ兵士たちがハイド一匹見逃さぬ風情で目を光らせ、それ以上の接近は堅く阻んでいた。
 それは――即ち兵士でありながら戦場らしい戦場に立たずに済む事は、当時の私にとっては実に有難い状況であった。
 何故ならば、当時の私は……

「おう、どうしたお嬢ちゃん。そんな所でたそがれてよ。悩み事があるんなら、お兄さんが聞いてやるぜ?」
 砦の外れ、人気のない空き地の片隅で、ぼんやりと夕暮れの空を眺めていた所に唐突に掛けられた声に、私は最初、ごく当たり前の反応として沈黙を返答とした。
 その呼びかけは悪意のあるものではなく、寧ろ親しみを込めた声音ではあったが、私にとって職務に関係のない場所で聞く知己でない男の声は基本、無視の対象であった。世の中には女と見ると誰彼構わず声を掛ける不埒な輩が蔓延しているようで、そういった者どもの相手をする事は、私にとって群がってくるやぶ蚊を払うが如き実に面倒かつ不快な作業であった。
 だが、この時の私の対応は例外的に無返答ではあっても無視ではなかった。通常なら視線も向けないのだが、その声の主は、直接会話を交わした事こそなかったものの、覚えのある人間のものだったからだ。
 立てた膝に肘をつき、顎を乗せた恰好のまま、視線のみを声の元に向ける。
 赤い夕日を背から受け、男の金糸の髪が燃えるように鮮やかに輝いていた。
 その男は、この国に所属する兵士で知らぬものはない大部隊の部隊長、押しも押されもせぬ有名なウォリアーであった。加えて、一目見たら忘れようにも難しい、やたらと目立つ容姿と来ている。無闇やたらに明るいアッシュブロンド(染髪だというのはその時は知らなかったが)が明度的に否応なしに目立っていたというのも大きな理由ではあったが。
 そんな男が砦の隅で一人蹲っていたしがないスカウトに声を掛けたという事実自体が、驚きとは行かないまでも意外には思わせた。故にこその視線だった。
 男は笑みを浮かべながら泰然とその場に立っていた。その笑みは、にやにやという擬態語が最も相応しく思えるいやに含みのある形をしていたが、不思議と不快感は催させなかった。とはいえ別に好意を覚えたという訳でもなかったので、視線を元の方向に戻しながら、私はつっけんどんに返した。
「ナンパならお断りだ。阿呆と遊んでいたい気分じゃない。目障りだ、消えろ」
 そんな、私としては破格の扱いではあるものの一般的には愛想皆無であろう言葉に、男は呵々と笑って見せた。
「つれないねえ。ツンデレ美少女ってのも案外悪くねえもんだ」
 ……なんだそれは。
「変態か」
「最近お嬢ちゃんが元気にパニしてる姿を見ねえから、外野ながら心配してたんだぜ?」
 男が何気ない口調で返したその言葉に、私は再度男に視線を向ける事を余儀なくされた。この有名人が私のような野良のスカウトなんぞを記憶していたという事実は――しかもここ最近の私の行動の変化すらもが把握されていた事は今度こそ私を驚かせたが、それは表には出さず、声を押し殺して低く呟いた。
「変態の上にストーカーとは恐れ入るな」
「ま、ネツでも名高いアサシン様なんだ、有名税だと思って諦めるんだな」
 くくっと喉声で笑う男は、その瞬間――微かに私の背筋が震えた事に、果たして気付いただろうか。
 ――気づいたのだろう。男の、軽薄な髪色とは対照的な、月のない夜の色合いをした瞳が、私の胸の奥を深々と射て、けれども私の体内をかき乱すことなく一直線に貫いてゆく。あくまでも自然体な、けれども何もかもを易々と見通すかのような眼差しに、瞬刻、気圧されてしまってから納得する。男が部隊長として掲げる大部隊の看板も、ただの張りぼてではないようだ。
 私は詰めていた息を吐いて、瞼を閉じた。
 殆ど面識すらない相手であることもまた私を油断させてしまったのかもしれない。
 本来ならば絶対に他人に語る事などなかった筈の過日の出来事を、私はぽつりぽつりと言葉にし始めていた。

 男が口にした通り、私は、奴自身程ではないものの、ある意味では名の知れた兵士だった。
 アサシン――暗殺者。
 短剣技を得意とするスカウトであった私は、小柄な体躯と俊敏な身体能力を最も生かす方法として、正面きって力と力をぶつけ合う戦闘ではなく、気配を殺して敵兵の隙を窺い急所を確実に狙って殺害する技を選び、その腕を磨いていた。人付き合いの上手くない私は部隊に入ることはなく、表舞台に立つ事は一切なかったが、野良のまま戦歴を重ね、独学で技術を高め、数多くの敵兵を闇に葬り続けているうちに、いつしか先述のように呼ばれる腕前を身に着けていた。――畏怖と、侮蔑を込めて。
 この戦闘スタイルから、私は他の兵士達には蛇蝎の如く忌み嫌われていた。曰く、仲間の陰に隠れてこそこそと動き回る臆病者。正々堂々とした勝負の横から肉を掠め取るハイエナ。仲間との連携を無視し自分勝手な振る舞いをする、兵士の風上にも置けぬ者。……
 謂れなき非難だと言う気はない。一定の仕事はしていると自負するが、ひたすらに好機を窺い美味しい所だけ持って行っているように見えるであろうその仕事ぶりは卑怯だと罵られても反論はし難い。最も反論する気はないものの、こうは言うだろうが。卑怯で何が悪い、これは戦争なのだから、多くを殺した者こそが正義ではないか、と。
 私の場合、正面切って非難するには高過ぎる功績を上げていたので真っ向から文句を言われた事は余りなかったが、陰口はいつもの事だった。元々の陰気な性格と相まって軍内では孤立はしていたが、独りである事に別段苦痛を感じない私は淡々と職務に邁進していた。
 ――あの時までは。

 この時もまた、私は一人の敵兵に狙いを定め、殺害の機を窺っていた。
 ターゲットは、既にいくつかの深刻な傷を負い、弱々しい足取りで戦線から一時離脱しようとしているソーサラーの男だった。このメルファリアに広く普及する魔法の回復薬を用いれば、あれしきの傷ならばごく短時間での治癒が可能ではあるが、瞬時とは行かないので敵前からは一時身を引く必要がある。回復薬を呷っているその瞬間にばっさりとやられたら笑い話の種にもならない。
 ある意味その魔法回復薬の万能さが兵士の死亡率を格段に下げ、国家の致命的な破滅が防がれ、結果、この乱世を永続させているのだとも言えなくはない、というのは個人的な見解ではあるが――
 私は、乱戦が続く戦場から少し離れて荒く呼吸を続けつつ背嚢をまさぐる敵に、音もなく忍び寄った。そこに緊張はなかった。特に何らかの感慨もなかった。私にとってこれは日常の連続。いつもと変わらず、ナイフとフォークを持つように、凍てつく殺意の刃を携え、息を吐けばかかる距離に近づき、
 跳ぶ。
 刃先が、標的の首筋を割り開いて、滑り込む。
 骨に触れることなく、肉のみを深々と抉る、慣れた感触。
 致命傷。
 一体何事が起きたのだろう、というような。首の後ろから無骨な棒切れを生やしたまま、いっそきょとんとしたと言っていい顔で、ソーサラーは背後に――私の方に、顔を動かした。その面差しに私は思わず息を飲む。よく見れば、このソーサラーは、まだ少年の面影を残す年代の男だった。
 彼はどこまで自分の状況を認識し得ただろうか。半ばまで振り返った辺りでその身体は急速に力を失い始め、その場にゆっくりとくず折れてゆく。
「……おかあ、さん、……」
 ごく微かな声で、けれども魂の奥から搾り出すような精一杯の力で最後に呟いて、男は事切れた。

 ぱりん、とささやかな音を立てて、何かが砕ける。
 男の血を浴びた己の手を見下ろした私は、その余りの汚らわしさに胸の奥からせり上がってきた嘔吐感を堪えることが出来ず、その場で胃の中身が空になるまで繰り返し繰り返しえずき続けた。

 ――今思い返してみても、何故これがきっかけであったのかは分からない。私はこれまでも数多くの敵兵を殺めてきた。自分が止めを刺した者の最後の一声を聞いた事だってこれが初めてではなかった筈だ。だが、そのどれもが今は何故か思い出せず、ただこの男のうつろな瞳と声だけが頭の芯に残り、私を苛んだ。
 あの男は国に母親がいたのだ。今わの際に最後の力でそう声に出す程に大切に思う母親が。かの男の母親は未だ知る由も無いだろう。愛する息子が遠き戦場で既に物言わぬ骸に成り果てている事を。知らぬまま、今もきっとその無事を祈っているのだ。近いうちに、変わり果てた姿で家に帰り着くその事実を知らぬまま。
 かの兵士の容貌に殊更私を揺さぶる何かがあった訳ではなかった。空洞のような瞳以外、その顔かたちは何故か全く思い出すことが出来ないが、何か際立った特長があった記憶もない。強いて言えば今まで私が殺めてきた人間の中では特に年若い兵士であった事くらいだがそれがきっかけになる理由が分からない、何故ならば年齢など関係なく誰にだって一人や二人大切な者はいたのだろうから、誰にだって父が母が妻が夫が恋人が娘が息子がいたのだろうから、その全てが大切な相手の身を案じていた、その無事を祈っていた、そしてその祈りは叶わなかった、ひっそりと目の前に帰ってきた物言わぬ冷たい躯を前にして、泣いた、喚いた、絶望した、憎んだ、恨んだ、呪った、――……

 もう、背負えない。
 あのささやかな音を聞いた瞬間に、私の暗殺者としての生命は終わっていた。

 私の話を男は、私の隣……すぐ横ではなく、人一人分程度空けた場所に座って、黙って聞いていた。私が口を閉ざしてからも、男は暫くの間何も言わずに山間に落ち行く赤い太陽を眺め続けていた。反応のない男の横に座っているうちに、私は徐々に、落日と同じ赤さに自分の頬が染まっていくのを感じていた。
 ……私が悩みと称して話した内容の、何と幼稚な事だろう。
 これは、兵士になったその時に、敵の命を初めて奪ったその時に、考え、戸惑い、乗り越えて――或いは折り合いをつけて来なければならなかった、若輩者の葛藤である筈だ。兵士になって数年、何故今更私はこんな事で立ち止まっているのだろう。何がアサシンだ。余りにも惰弱。余りにも無様。男も、呆れているに違いない。
 私はしゃがんだまま膝をぎゅっと抱き、羞恥のあまりに膝頭に顔を強く伏せて弁明するように早口で言葉を繋いだ。
「ま、まあ深く考えるべきではないというのが答えなのだろう。実に今更な悩みだと自分でも思うのだが、た、たまたま多分バイオリズム的な何かの影響でそういう部分に意識が働いてだな。初対面の相手に珍妙な事を聞かせて悪かった」
 呆れた男はどのような反応を返してくるだろう。くだらないと笑い飛ばすだろうか。一部隊の部隊長らしく、新兵に教え諭すように叱咤し発破をかけるだろうか。はたまた色男の属性を発揮して、私の心情に同情し慰めようとするだろうか。男の性格を熟知している訳ではないのでどれで来るか全く想像がつかないが、どれであっても私にとって恥ずべき事であるのには違いはない。他人からどのような評価を得ようとも気にしない私だが、尻の青い半人前だと思われるのは話が別だ。これは恥ずかしい。
 もうここまで言ってしまった以上、取り返しのつくことでもないのだが、直接何か言われるよりは、あの女は粋がっている割に情けない小娘だと陰口を叩かれた方が自分が聞こえない分幾分ましなので早々に立ち去ろうと私は腰を上げた。言うだけ言って逃げ出したのだと笑いたいなら笑うがいい。だが私ばかりが悪い訳ではないぞ、お前が聞いてきたんだからな!
 と、そこで漸く男が、視線を真っ直ぐ夕日に向けたまま、形のよい唇を開いた。
「んで、どうすんのお前。今後」
「…………、」
 その、私が危惧していた内容を全てすっ飛ばした、単に事実を確認するだけの言葉は、私に急速に冷静さを取り戻させた。中腰になったままという半端な恰好で数秒思考し、自嘲の言葉を吐く。
「情けない事だが、……刃物を持つこと自体が無理な訳ではないが、そこに殺意を込めると途端に手が震えてしまうのだ。このざまではもう兵士を続ける事など出来ん。いっそ田舎にでも引っ込んで、畑を耕した方が世の為人の為になろうと言うものだろうな」
 今まで気付いていなかっただけで、多分私には兵士は向いていなかったと言う事なのだろう。逃げるようで実に不愉快だが、この傷に立ち向かえるだけの胆力は、恐らく私にはない。自分の意気地のなさには悲しくなるが……最後に、成り行きとはいえずっとつまらないプライドで覆い隠していた情けない自分を曝け出せた事はいっそ清々しいと思える体験だった。お陰で踏ん切りがつくというものだ。
 ここでの任務を終え首都に戻ったら、兵士登録を抹消しに行こう。人殺しの方法しか学んで来なかった私に一体どんな生計の道があるかは分からないが、女一人食って行く事くらいは出来るだろう。
 私は折り曲げていた腰を伸ばし、ぐっと背筋を反らした。夕暮れの涼風に遊ぶ髪が心地よい。そのまま、暖色に染まる草むらに足を踏み出そうとした私だったが、男の声が再度唐突に投げかけられた。
「だったらよ、俺んとこ来ねーか」
「は?」
 目をぱちくりとしながら、思わず振り向く。その、エスセティア語としてはごく単純な文法が用いられている筈の一文はまるで秘境の言語の如き理解し難い音として私の耳にこだました。俺んとこ……って、俺んとこって、い、一体何を言っているのだ!? そそそそれはどういう意味だ!?
 両目に加えて口までをも間抜けにかっ開いて唖然としていると、全く動揺のない当り前のような声で、男は言葉を続ける。
「俺の部隊に来いよ、お前。兵士辞めんのが一番簡単っちゃ簡単なんだが、お前の腕前は埋もれさすには勿体ねーし」
 そ、そういう意味か……何と紛らわしい! 私はげふんげふんごふんと連続で数発咳払いをして何故か充血してしまった顔から熱を逃がし、口元に握り拳を当てたまま座ったままの男を睨んだ。
「お前……人の話をちゃんと聞いていたか? 聞いているふりをして寝ていたんじゃなかろうな? 兵士を続けられなくなったから辞めるんだと言った筈だが」
 寝ていなかったとするならば、兵士たる事を無様にも諦めた私に、更に醜態を晒せと言っているという事だ。嗜虐趣味なのか?
 だが、この男が提示してきたのは、痛みを堪えて傷に立ち向かう事を勧めるのでもなく、尻をまくって逃げる事を唆すのでもない、私が想像もしなかった第三の道であった。
「だからその、兵士を続けられなくなったって解釈が違うんだって。殺すのが無理になっちまっただけだろ? だったら、殺さなければいい。折角スカウトなんだから、殺さねえやり方で戦争を楽しみゃいいだけの話だ。スカウトの技は、何も暗殺だけじゃねえだろう。まだ一個も詰んじゃいねーぞ、そのゲーム」
「戦争を……楽しむ?」
 しかも、ゲームだと? 戦争が、人殺しが、ゲームだと?
 先程と同様、いや、それ以上に私は呆然として男の顔を凝視した。男は至って真面目な顔をしていて、言葉の真意を窺い知れない。……いや、この真顔こそが真意そのものなのだろうか。
 男は不意に、にいっと唇の両端を歪ませた。傲岸不遜な、恐れるものを知らない、ただただ純粋な歓喜に彩られた、笑み。
「来いよ。楽しみ方を教えてやる」

 そうして、私はこの男の配下に入った。
 スカウトの持ちうる技は暗殺に特化したもののみではない。寧ろスカウトの本領は暗殺よりも、潜入からの妨害活動にあると言っていい。直接手は下さずに、自軍の兵士たちによる殺戮行為が最も効果的に行われるように支援するという、言うなれば殺人幇助の役割だ。私も暗殺を専門にしていたからとて殺しの技のみを習得していた訳ではなかったのだが、仲間と共に戦場を渡る、という事を一切して来なかったが故にそのような役目はすっかりと失念していた。
 そして結論的に、その役割であれば、私は再び戦場に立つことが出来た。
 ……我ながら、妨害であれば平気だったというのは詭弁以外の何物でもないような気がするが。
「ナイスガドだぜ、ロゼ! そうら食え食え野郎ども!」
 男の撃ち放ったシールドバッシュで意識を混濁させた敵に瞬息の間も置かず、ガードブレイクを入れる。敵の防具に掛けられている強化魔法の流れを乱し、防御力を激減させれば、それはそれはおいしい餌の一丁上がりだ。片手とスカウトは雛鳥に餌をやる親鳥の気分が味わえてちょっと微笑ましい気分になれるよな、等とこの男は言っていたか。相変わらず何を言っているのか分からん男だ、と言いたい所だが、それについてはちょっと分からんでもない。
「楽しいなあ! ロゼ!」
 金糸の髪から汗を煌かせながら顎を上げ、さも愉快そうな顔で走る男を、私もまた、敵から見れば悪魔の如く見えるであろう笑顔を浮かべて今日も追随するのだった。

- PREV - INDEX - NEXT -